花冷えの羨望
あの山の上には、魔王が棲んでいる。
その臣下である七人の悪魔は、時々町へ下っては人々に堕落をふりまき、死へと導いているのだという。
魔王自身は山から出ることはなく、その姿を見た者は今までにいないそうだ。
俺は今日、その魔王に会わなければならない。
俺は、俗に言う勇者だ。
生まれた時からそうだった。何か日付がどうとか星がどうとか。そんなよく分からない理由で、俺は勇者になることを運命づけられた。
同じ年のやつらが勉強したり遊んだりしている間、俺は修行に明け暮れた。皆が祭りを楽しんでいる時、俺は勉強した。
今だってそうだ。皆が俺の門出を祝うという名目で春祭りを開いている頃、勇者の俺は春なのに寒い山道を独りで歩いている。
俺が皆の中に入っていたことは、たぶん一度もない。
さすがに雪は残っていないとはいえ、それでも冷える。普通に寒い。
今頃は皆、美味いもん飲んで食って、「これで俺たちの未来は安泰だな」とか言って、わいわい楽しくやってるんだろう。くそっ。
……いや落ち着け。魔王を斃しさえすれば、美味いもんも楽しいことも全部手に入る。豪華な暮らしだってできるに決まってる。だから今は考えるな。考えても空しくなるだけだ。考えるなら、先のことを考えろ。魔王を斃し、皆から感謝と祝福を受けることを。
待てよ。俺は、今日この日までずっと強くなるために修行を重ねてきた。だから俺は強い。それはきっと確かだ。けど、魔王がどれだけ強いのか、俺は知らない。思えば、俺は自分が斃すべき相手のことを、何も想像してこなかった。今は差し迫ってるせいか、考えてしまう。
俺は、魔王より強いのか?
もし、魔王が俺よりもずっと強かったら?
その時は……俺、死ぬのか?
冷たい風が吹く。寒い。死の温度だ。足が止まる。
「ちくしょう……っ!」
駄目だ、止まるな。今止まったら、今まで頑張ってきたことが全部無駄になっちまう。それだけは嫌だ。
大丈夫、俺は強い。だから、先のことは考えるな。歩け。
「何故、目を背ける?」
背後から、声。
振り返ると、変わった軍服のような服装の女が立っていた。嫌な笑みを浮かべるその顔には、鱗が。
「お前っ、いつからそこに……!」
気配なんか感じなかった。
「そんなことはどうでもよかろう。妾が訊きたいのは……」
すっ、と近づいて来る。青紫色の目に睨まれ、動けなくなる。
「何故貴様が本心から目を背けるのか、ということじゃ」
聞いたら駄目だ。本能がそう告げる。
「貴様が本当にやりたいことは、何じゃ?」
俺が、本当にやりたいこと……。
剣を捨て、遊ぶ自分の姿が頭をよぎる。
「……魔王討伐やめて、遊びてぇ」
そしてそれは、勝手に口から零れる。
「そうじゃ」
女の口角が、嬉しそうに釣り上がる。
「貴様は、羨ましいのじゃろう?」
その言葉は、俺の心に深く突き刺さる。
「何の努力もせず遊び呆けておる奴らが、羨ましくて妬ましくて憎くて仕方ないのじゃろう?」
そうだ。その通りだ。俺はずっと、あいつらが羨ましかった。俺は一生懸命努力するだけで何も与えられないのに、あいつらは何にもしなくても何でも与えられる。そんなのずるい。それが妬ましい。憎らしい。
「なら、その鬱憤を向けるべき相手は誰じゃ?」
でもその一生懸命が、努力が、我慢が無駄になるのは、絶対に嫌だ。
「……魔王だ」
そもそも魔王なんていなければ、俺は勇者にならずに済んだんだ。だから俺は魔王を斃し、勇者の存在意義をなくす。
「俺は、魔王を斃す」
相手の爬虫類のような目をしっかり見返して、言う。
女はつまらなさそうに顔をしかめると、すっと俺の横を通り過ぎた。
「……頂上で待っておるぞ」
その背中は、もう見えない。あいつが魔王なのか?
とにかく、もっと登らないといけない。
頂上は不自然に開けていた。なぜか小さな家もある。
そして。
「お前……!」
さっきの女が、少女を人質に取っていた。鋭利な爪を、少女の首元に当てている。少女は恐怖のせいか、虚ろな目をしている。
「遅かったではないか。退屈しのぎに人質を取ってしまったぞ」
「そいつは関係ないだろ! 離せ!」
「近寄るとこいつの首が飛ぶぞ?」
女は愉しそうに爪を横に引く。少女の首に赤い線が浮かび上がる。彼女は声も出せないようだった。
「……卑怯者が!」
拳を握り締める。
「褒めても何も出ぬぞ」
女は嗤う。
人質がいる限り、俺はあいつに手を出せない。まずは、人質を解放しないと。
「おい、とにかくそいつを離せ。俺と戦うのに、そいつは必要ないだろ」
「いいや、必要じゃ」
「俺が怖いからか?」
慣れない俺の挑発を、女は鼻で笑った。
「めでたい頭じゃな。貴様を動かすために決まっておろう」
こんな風にな、と俺を指す。
「こいつを解放してほしければ、今この場で自害しろ。嫉妬と羨望を嫌というほど抱えたままな。出来ぬのなら、代わりにこいつを殺す」
「なっ、何でそんなこと」
「妾と見えておいて、誰も死なずに済むと思うたか? 甘いわ。貴様かこの女、どちらかの死を見るまでは、妾は満足せぬ。どうする? か弱き勇者よ」
また爪を少女の首元に持っていく。赤い線が一筋増える。
どうすりゃいいんだ。俺は魔王を斃すまでは絶対に死ねない。死にたくない。しかも自殺なんて。最悪だ。
じゃあ、代わりにこの少女を死なせるのか? 何の罪もない少女を? 『俺の代わりに彼女を殺してくれ』って言えるのか? 魔王を斃す、自分のために? 魔王を斃せるかどうかだって分からないのに?
……無理だ。もしそれで魔王を斃せたって、俺は喜べない。二度と安らかな気持ちになることはないだろう。
それなら。
「…………分かった。俺が――」
「茶番はもういい」
何の感情も籠もっていない声。少女は首が切れるのも構わずに、俺の方に歩いて来る。
「何じゃ。せっかく面白くなってきたというのに」
女は溜め息をつくと、あっさりと姿を消してしまった。
「彼女は嫉妬の悪魔。魔王と呼ばれているのは、私」
平坦な声で、彼女は言った。この少女が、魔王? いや、さっきの恐怖でまだ混乱しているんだろう。
「こ、怖かったんだよな。傷とか、大丈夫か?」
「もう治った」
「え?」
確かに、もう血は出ていない。傷も塞がっているみたいだ。何でだ? 彼女が、魔王だからか?
「私が、魔王。だから……早く、殺して?」
ぞわっとした。色素の薄い虚ろな目にあるのは恐怖じゃない。悦びだ。
「ちょっ……待ってくれ! お前、ほんとに魔王なのか?」
「そう。斃されるのを待っている、魔王。だから、早く」
殺して、と囁く。この魔王は、死にたがっている。斃されることを、望んでいる。この解釈は、俺の勘違いじゃないみたいだ。
「分かった」
彼女から少し離れ、剣を抜く。構える。狙いをつける。深呼吸する。練習通りにやればいい。
魔王は目を閉じ、薄く微笑んでいる。
「……っらぁっ!」
一息に右上から左下に斬り裂く。血が噴き出し、魔王が倒れる。斃れる。
俺は膝をついた。うつむく。まだ嫌な感触が手に残っている。それでも。
「終わった……」
これで、勇者の役目は終わった。やっと俺は、“皆”の中に入れる。
ふっ、と影が差した。
「私は終われない」
顔を上げると、魔王が立っていた。傷は塞がっていて、表情はひどく澱んでいる。
「お、お前……不死身なのか?」
混乱の中、やっとそれだけ言った。
「“半永久”的に。神から与えられた使命のせいで、私は死ねない。人間の、最後の一人が死ぬまでは」
「じゃあ、俺は……」
最悪の事態を理解する。
「魔王を斃すことは、できないのか?」
「そう。少なくとも、今は」
魔王は淡々と答える。少しだけ無念そうな響きを伴って。
無念なのは、俺だ。俺は、斃せないモノのために一生懸命努力して、我慢してきたんだ。何もかも、最初から無駄だったんだ。ちくしょう、馬鹿らしい。俺の時間を返せ。
「はは……」
でも、何だか解放された気がする。魔王が斃せないなら、結局勇者だって必要ない。そう思えば、俺の目的は達成されたんじゃないか?
俺は立ち上がって、剣を捨てた。もうあそこには戻らない。どこか別の場所に行こう。そこで、今度こそ“皆”の中に入ってみせる。
歩き出した俺の背に、魔王はつぶやいた。
「……あなたは良い。いつでも死ねるのだから」
その言葉には、ここに来るまでに俺が持っていた感情がわずかに含まれていた。ああ、魔王も人間なんだな、と初めて思う。
これからは、今までの分を取り返すくらい楽しく生きてやる。
自分でもびっくりするくらい遅くなってしまいました! 待っていてくださった方がいたら、本当に申し訳ないですm(_ _;)m
今回の診断は『勇者が血が滲むほど手を握り締めて「…卑怯者」と言う春の話をRTされないと思ったらかいてください』でした。まあ血は滲んでませんが。ちなみに、RTはされてません(笑)