ぽたん、ぽたんと音がするのは、お約束
そうして月が替わると、例のあの日がやってくる。
静まり返っていた。
当たり前だ、多分時刻は、深更ってやつ。
今日に限って、照明の豆球すら消してしまったので、部屋の中は暗い。
さっきまで眠っていてぱちりと開いた目なのだから、暗さには慣れているが、何もかも、ブルーグレイに染まっている状態は、まるで水底にいるかのようだ。
カーテンの隙間から僅かに差し込む光だけが、頼りな、深い……
ところで、何故、目が覚めたのだろう。
考えながら両腕を布団から出して、顔に掌を当てていたら気が付いた。
喉が渇いている。
なるほどと、妙な納得をしながら、立ち上がると、うっすらと見えているのを幸い、電気は付けずに半分手探りでコップと、冷蔵庫の中の水のペットボトルを掴みだす。
冷蔵庫が開いた時だけ、眩しくて目が細くなった。
よく冷えている水は、きぃんと、頭まで突き抜ける。
「うげぇ」
思わず呻いて、それでももう一杯注いでまた飲み干して。
シンクにコップを置いた後、少し考えて、蛇口を捻った。
大した手間じゃない。
洗っておくか。
洗ったコップを伏せると、まだ温みのある筈の布団へと戻る。
思った通り。
ほんのりとあたたかい毛布に、くしゅと顔を埋めた時だった。
ぽたん。
ぽたん。
もしかして、さっき洗った後、きちんと水道閉めなかったかな、とか。
トイレか何かで水漏れか、とか。
そんなに大きなものでもないのに、はっきりと聞こえてくる音に、折角布団に戻ったのにと顔を顰め、とはいえ、水らしいその音を、そのままにする訳にもいかず――だって水道料金が心配になる――立ち上がった時だった。
ゆらりと、人影。
心臓が跳ね上がる音を立てた。
息を飲む。
次いで。
「ひっ!」
あげかけた声は、掌の中に消えた。
自分のものじゃない。
「ふごふが」
「夜半に叫ぶでないわ」
耳元でしたのは、すっと背中に回ったその人の、落ち着き払った声だった。叫びかけた私の口を塞いでいるのは、勿論相手の掌である。
「そっちこそ、夜半に訪問ってどうなのよ」
そんな反論ができたのは、しばらくしてからの事。
ドキドキが酷くて、息切れがしてて、整うまでに時間がかかった。布団にぺたりと座り込んで深呼吸。そんな私を、跪くような形で、面白そうに見下ろしている涼しげな目が、やたらむかつくものの、どうする事も出来ない。
「すまぬな」
絶対悪いなんて思っていない、棒読みに近い口調。
「今しか時間が取れぬ故」
「今しか……? って何時なのよ今」
すっと差し出された腕時計は、蛍光塗料で針が光っている。あ、数字も見えるな、これなら。
「日付が変わってる」
「だな」
しれっと答えるけど、一応こちとら、妙齢の女性なのだ。
幾ら、しばらく同居していたからって、起きていたからまだいいようなものの、寝ていたらどうする気だったんだとか、なんか追求する気も失せてきたな。
針が、かちり、と動いた。
「……今日だったな」
「?」
ぽとりと、降ってきた言葉に、耳を疑い、次いで、ああそうか、と納得する。
おめでとう、とただそれだけ。
でも、約束はそれだった。
「そうだね、今日だよ」
私の誕生日が来た。
水の底のような世界で、薄く差し込んでいる街灯の朧な光を頼りにその顔を見つめる。
相変わらず整った涼しげな容貌。
青褪めているのかと思うような白い色は、元々の白さもあるけど、あたりが暗い所為だろう。
引き結ばれていた薄い唇も、この状態では色彩を失っている。
瞳だけが、きらりと、光を反射していた。
その目を見ると、時間が止まってしまう。
幾らでも見飽きない、まるで宝玉のような。
空気すら止まってしまったかのような、静けさの中で。
ゆらりと気配が動く。
相手の目を見つめたまま、口を開いた。
「行くのね」
疑問形ではない、確定しているものとして。
「ああ」
返ってくるのは、肯定。
近況だのこの先の事だの、何もない。
ただそれだけの会話で。
触れもせず、触れられもせず。
なのに。
歩き去る木崎さんの背が、ブルーグレイの世界の中に沈むように消えて行った後も。
水底の世界の中で、私は一人、幸福感を抱えていた。
「……ありがとう」
(2011/6/3)