01
ありふれた平穏な日常を彼女はこれといった不満もなく楽しんでいた。
試験前日に頭に詰め込んだ内容を回答欄に移しきれず終わったことも、返却された答案に友人たちと騒ぐことも、憂さ晴らしと称して遊び歩き親に小言を貰うことも彼女には当たり前で、そして大切な日常だった。
そんな一日を満喫し、心地よい疲労に横たえた身が感じた愛用の寝具の温かさは一瞬で消え去り、代わりに彼女を包んだのは硬く冷たい湿った石の感触だった。
その変化はあまりにも突然で、彼女にとっては絶望的なまでに馴染みのない、彼女の愛する日常からかけ離れたひどく現実味の薄い異変だった。
違和感に目を覚ませばそこは見慣れた自室ではなく、底冷えのする洞窟のような部屋だった。四隅に篝火が焚かれて尚薄暗い室内には幾つか人影があった。男か女か、歳の頃も彼女にはわからない。薄ぼんやりと浮かぶ影は皆、どこかのっぺりした衣で頭から爪先までを包んでいたからだ。
足りない灯りに照らされた壁や天井は均された床と違い自然のままで、氷柱のような天井部から時折落ちる水滴が彼女の頬を濡らす。その冷たさが、そして何よりこの場に渦巻く威圧的ともとれるどこか張りつめた空気と彼女には理解できない言語や細かな音たちが、ひどく現実味の薄いこの状況が夢ではないと教えていた。意図せず彼女の歯がカチカチと断続的に触れ合う。最初は肌寒さから、そして徐々に押し寄せてくるこの異常が現実として彼女の身に起きているという、得体の知れない恐怖から。
無意識に震える肩に己で触れたとき、彼女にほど近い位置で佇んでいた人影が動いた。かすかに衣擦れの音を立てながら近づいてくる影に怯え、彼女は逆に影から遠ざかろうと後ずさる。影が近づくにつれて確実に他から向けられた視線の緊張が高まるのを感じる。心臓がかつてないほど大きくせわしなく脈を刻んだ。何がどうなっているのか、なぜ自室で寝ていたはずの己がこんなところにいるのか。当然のごとく浮かんだ疑念は、けれど一定の間隔で近づいてくる影への恐怖に追いやられて消える。
そらした瞬間に襲いかかられはしまいか。恐怖し影から目を離せないまま、力の入らない足にさえ気づかず腕だけでもがいて必死に後ずさった。と、ついた手が縁から落ちて体もバランスを崩す。妙にゆっくりと移動する視界に石造りの台座が映った。今まで座っていたらしいその向こう側から、一気に距離を詰めて伸べられた腕が触れた瞬間、彼女は喉が裂けんばかりに絶叫した。
自分の身に何が起きたのか。ここはどこなのか。自分はなぜここにいるのか。
そのどれにも答えは与えられなかった。与えられたのは紙のように衣服を破られた衝撃と、乱暴に何度も身を貫かれる耐え難い痛みだけだった。
彼女の愛する日常には決して訪れることのなかった暴力に、けれど容易く意識を失えなかったことでより深く植えつけられた絶望だけだった。
厚いカーテンが引かれた室内は日中であっても陽が差さない。それでも元々陽の当たらない地下や夜とは違い、布地越しに入り込むやわらかな温かさがあった。そのぬくもりすら拒絶した少女は何かを恐れるように、本来は貴人が入り込むことはしない衣裳部屋へ潜り込んでは侍女を困らせた。多くも少なくもない衣装が揃えられたその部屋の隅で、一枚布にくるまって膝を抱える少女が何を恐れているのか、侍女には理解できなかった。なぜなら少女の元へは、二日と空けることなく侍女の主であり国主である男が通ってきているからだ。
前国主の代まであった後宮は現国主によって国費の無駄と断ぜられ解体された。重税に喘いでいた国民は軽減された税に喜び、善政を布く国主を慕った。平民であった侍女が王宮に勤められるのも国主の改革ゆえだ。学を得て職を得て、希望を得た彼女はそれを与えてくれた国主を他と同様に慕い敬った。しかしそれゆえに侍女は国主を頑なに拒否する少女を疎んだ。唯一少女についている侍女は国主がどれほど少女を気にかけているかを知っていた。何の地位ももたない、国主にとって得など一つもないだろう少女に豪華な部屋を与え、高価な装飾品やそれらがより美しく見せるきらきらしい衣装を数えるのも一苦労なほど贈られている。にもかかわらず、国主が訪なうたびに絶叫し激しく拒絶の意を示す。時には国主の麗々しいかんばせに傷さえ作ることもある。そのたびに侍女は感情のままに少女を虐げたくなる衝動を抑えることが大変だった。
着替えや食事を促せど拒否されれば拒否させたまま、宮内の医師に診せ衰えすぎない程度を保つだけの侍女の怠慢はけれど誰にとがめられることもなかった。それを暗黙の内に己の振る舞いを了承するものと信じて疑わなかった侍女の行いは次第に節度を失っていった。
少女を死なせないようには務めていた侍女は、医師が少女にその告知を下した数日の後、抑えていた衝動を開放することを己に許した。
「それで、その人はどうなったんですか?」
「人間、知らない方が務めやすいこともあるのよ」
宮内の特に頻繁に使う通路や部屋の説明を受けていたはずが、いつの間に脱線したのか最近はやっているという噂話を聞かされていたミオは、歯切れの悪い終わり方に少々不満を抱いた。けれど確かに彼女の言うとおり、国主に横恋慕した末に凶行に走った侍女の話など、これから宮勤めを始めようとする自分には幸先の良い話にはどう転んでもならないだろう。
気を取り直して再開された各所の説明を注意深く聞きながら、やがて受け持ちの最後の場所へとやってきた。
「この辺りは国賓の方しかご案内しない部屋だから、特に主人の在不在は気にしなくていいわ。でもどなたか滞在されるってときには一層注意してね。何か失礼でもあったら文字通り首が飛ぶから」
場合によってはそれでも済まないこともあるしね、などとにっこり笑いながら告げる彼女に生真面目に頷くと、たまらずと言った風に笑われる。それで初めてからかわれたのだと気づいたミオは形だけ怒って見せたものの、けれど気のよさそうな同僚に出会えたことで自然と緊張していた体から力が抜けた。
その後細々とした注意事項を受けながら初日の職務をこなしたミオは、翌日から本格的に勤務するための備品整理や教えられた注意事項を覚えなおしたりして午後を過ごした。物忘れが激しいと自覚のあるミオは、頭に叩き込んで刻みこむつもりで自筆のメモをめくる。順に読み込んではぶつぶつ唱えもしているうちに、先ほど盛大にからかわれた注意事項にたどりついてふと考え込んだ。ミオの受け持ちの区画には、普段は使われない部屋が多い。その分気が緩みがちになって粗相をしてしまうこともあるだろうと考えると、先ほどの文句はあながち嘘とは言えない。働く場所が場所だけに己のミスが家族にまで伝播する恐れがあると思えば、明日からの務めにも緊張感をもってあたれるだろう。
注意事項の確認を終え、支給された仕事用具の確認をしておこうと、ミオは使用人棟へ向かった。ミオのいる建物の蔭からなら中庭を抜け本宮を横断すれば使用人棟はすぐではあるが、時間にゆとりもあることだしと外庭を通っていくことにする。貴人やその他の人の行き来が少ないと教えてもらったからこそできる贅沢に、本当にここに勤められてよかったと己の幸運をかみしめる。
しかしふと、推薦が必要なこの職になぜ自分などが付けたのかと疑問が浮かんだ。人並みの学はあれど、これといった伝手など自分もその周りの人間も持っていなかったはずだ。それともミオが知らないだけで近しい誰かがこの職への伝手を持っていたのだろうか。その誰かはなぜミオへこの名誉ともいえる職を回してくれたのだろう。
考えに没頭するうち、次第に周囲の音が遠のいていく。けれど集中は不意に感じた視線に途切れる。感じたままに顔を上げれば、美しく整えられた植え込みの向こうに一人の青年がこちらを見て佇んでいた。
青年の整った面差しはしっかりとミオに向けられている。首から上だけでなく、端正な彼の姿にミオは頬に熱を感じた。一度でも会えば、きっと自分は彼を忘れない。けれど、どこかで見知った人のような気がするのはどうしてだろう。見つめあうことしばし、突然頭にかかった圧力に、ミオは慌てて転びそうな態勢をどうにか踏ん張って耐えた。
「バカ!あんた何オリア様にガン飛ばしてるのよ!」
小声で怒鳴りつけてくる器用な同僚の言葉に驚き、一層深く頭を下げると遠ざかる足音が聞こえた。それが十分遠のいてから二人は漸く痛み出した腰を元に戻した。と、同時に今度は小声ではないが大きくもない怒鳴り声で彼女が怒り出した。
「もう、この馬鹿ミオ!お偉いさんにかちあったら即座に頭を下げろって言っておいたでしょう?温厚なオリア様だったからよかったものの、もしあれが宰相のイグル様だったりしたらお手打ちにされてたわよきっと。いい、初日でやめさせられたくなかったら、貴人の服装と礼儀だけでも叩き込みなさい」
しゅんとして反省してみせると、彼女は厳しい表情を和らげて「あの顔を鑑賞したくなるのはわからなくもないけど、見るならとお―――――くからこっそりね」とふざけて見せてどん底まで沈みかけるミオを呼び戻してくれた。
オリアという彼に見覚えがある気がしたのは、きっと貴職についているらしい彼をどこかで見かけたことがあったからなのだろう。ただでさえ普段からおぼろげな記憶力しかない自覚があるのだから、それを無理に追ってどんな経緯であれ得られたこの職を失うことは避けたい。
早めの夕食に誘われて腹のうずきに気付いたミオは、食後に新たに増えた己の課題を手伝ってくれるよう頼み込みながら、今度は立ち止まることなく使用人棟へ向かった。
その後ろ姿をじっと見つめている影があったことに、ミオも、ミオをいなす同僚も気づくことはなかった。




