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ストーカーに刺されて死んだ転生令嬢は真のストーカーに気づかない

作者: 和泉 穂積
掲載日:2026/05/09

 死ぬ時のことなど、案外覚えていないものだ。

 刺された痛みも、倒れた時の衝撃も、流れた血の熱さも、白河美澄の記憶にはひどく曖昧にしか残っていない。

 白い街灯。

 大学の帰り道。

 背後から近づいてくる足音。

 警戒はしていた。何度も振り返ったし、人通りのある道を選んだ。最近、誰かに見られている気がしていたからだ。

 けれど最後の瞬間、腕を掴まれた時にはもう遅かった。

 顔は見えなかった。

 それなのに、男は美澄のすべてを知っているような声で囁いた。

「今は付き合えなくても、来世で結婚しようね」

 その言葉だけが、死んだあとも消えなかった。

 そして次に目を開けた時、美澄はリリアーナ・ベルフォードになっていた。

 ベルフォード男爵家の長女。

 淡い金色の髪。薄紫の瞳。柔らかな手。鏡に映る少女は、白河美澄とは似ても似つかない。

 だから最初は、すべて夢だと思った。

 けれど十二歳の誕生日を迎える少し前、リリアーナは前世の全てを思い出した。

 叫んだ。

 近づく足音が怖かった。男の声が怖かった。自分に向けられる好意が怖かった。

 誰かに見られることが怖かった。

  父は仕事の合間に何度も部屋へ顔を出した。母は夜眠れないリリアーナの手を握ってくれた。四歳上の兄エリアスは、扉の外から必ず声をかけるようになった。

「リリア、入ってもいいか」

「……大丈夫」

「本当に?」

「うん」

「じゃあ、三歩だけ近づくぞ」

 エリアスは真面目な顔で三歩だけ近づき、椅子を引いて座った。

 商売の帳簿を読む時は鋭いのに、人の気持ちになると少し鈍い兄。けれど、その鈍い兄でさえ、リリアーナが何かにひどく怯えていることは分かっていた。

 リリアーナは髪を地味に結うようになった。

 流行遅れの眼鏡をかけ、飾りの少ない服を選んだ。

 綺麗だと思われたくなかった。

 目立ちたくなかった。

 誰かの欲望に引っかかりたくなかった。

 それが、彼女にできる唯一の守り方だった。

 ヴィクトル・アルバーンは、そんなリリアーナを見て、明らかに興味を失った。

 彼はアルバーン子爵家の嫡男で、リリアーナの婚約者だった。

 婚約が決まったのは幼い頃だ。父親同士が友人で、家同士の利もあった。

 ベルフォード男爵家は魔道具で財を成した家だった。魔力灯に使う安定石、記録用の感応紙、役所に納める通信板の部品。屋敷の倉庫には、加工前の魔石や半完成の部品がいつも並んでいた。

 その魔石を、アルバーン家は破格で卸してくれていた。

 だからリリアーナは、ヴィクトルに冷たくされても、すぐには婚約を終わらせようと言えなかった。

 魔石がなければ、家の商売に響く。

 魔石がなければ、自分の研究も続けにくくなる。

 その負い目は、彼女の喉に細い糸のように絡んでいた。

 記憶を取り戻して寝込んだ時、ヴィクトルは見舞いに来なかった。

 手紙もなかった。

 花もなかった。

 婚約者を気遣う言葉さえ、なかった。

 それでも、リリアーナは黙っていた。

 やがて貴族子女が通う学園に入学すると、ヴィクトルの態度はもっと分かりやすくなった。

 廊下で顔を合わせても挨拶をしない。

 リリアーナが送る手紙には返事を書かない。

 誕生日にも何も贈らない。

 それどころか、カミラ・ロゼットという令嬢と親しくしているという噂まで流れ始めた。

 カミラは華やかな少女だった。

 柔らかな巻き髪に、薔薇色の頬。少し甘えるような声。ヴィクトルが隣に置きたがるものを、彼女はよく知っていた。

 中庭で、ヴィクトルがカミラの髪飾りを褒めているのを見たことがある。

 カミラはリリアーナに気づくと、愛らしく首を傾げた。

「あら、リリアーナ様。ごきげんよう」

 ヴィクトルもリリアーナを見た。

 だが、挨拶はしなかった。

 彼の目に浮かんだのは、気まずさではない。

 面倒なものを見た、という苛立ちだった。

 リリアーナは何も言わず、その場を離れた。

 胸は痛まなかった。

 彼に好かれたいとは思っていない。

 ただ、疲れた。

 ヴィクトルは幼い頃からよく言うことがある。

「婚約者として俺の隣に立つなら、それなりの姿でいてもらわないと困る」

「女は、愛される努力を怠るべきではないだろう」

 彼は時々、彼女の向こうに別の誰かを探すような目をした。けれど次の瞬間には、眼鏡と地味な髪型を見て、つまらなそうに視線を逸らす。

 その目が怖かった。

 前世で聞いたあの声を思い出すほどではない。

 けれど、何かが似ていた。

 人を人としてではなく、飾り棚の中身として眺めるような目だった。

 リリアーナが安らげる場所は、図書室だけだった。

 この世界で魔法と呼ばれるものは、杖の先から火花を散らす奇跡ではない。

 石に魔力を通し、紙に記録を残し、硝子の箱の中を冷やす。便利ではあるが、万能ではない。だからこそリリアーナは、魔法を考えるのが好きだった。

 記録石に、どの程度まで音の揺れを残せるのか。

 魔力感応紙は、どれほど古い署名まで読み取れるのか。

 通信板の送受信履歴を、もっと小さな部品で再現できないか。

 そういうことを考えている間だけ、彼女は自分の身体が少し軽くなる気がした。

 図書室の奥、魔道具工学の棚の前で、リリアーナは古い論文集に手を伸ばした。

 上から二段目。

 指先は届くのに、引き抜くには少し足りない。

「それなら、三巻ではなく四巻の方がいいと思う」

 横から声がして、リリアーナの肩が跳ねた。

 振り返ると、淡い銀茶の髪をした少年が立っていた。

 ノア・レインフォード。

 同じ学年の、レインフォード伯爵家の令息だった。

 彼は近づかなかった。

 手を伸ばして本を取ることもしなかった。

 机一つ分ほど離れた場所から、棚の背表紙を示すだけだった。

「三巻は基礎理論だけだ。記録石の魔力振動保存なら、四巻の後半に実験記録が載っている」

「……なぜ、私がそれを調べていると?」

「さっき、感応紙の棚も見ていただろう。組み合わせるなら、記録石だと思って」

 リリアーナは少しだけ警戒した。

 男の人に親切にされるのは怖い。

 優しさの奥に何があるのか、考えてしまうから。

 けれどノアは、勉強の話しかしなかった。

 私生活を聞かない。婚約者の話もしない。容姿について何も言わない。必要以上に近づかない。

 ただ、魔道具の構造についてだけ、正確に指摘した。

「その術式だと、魔力が二重に循環して紙が焦げる」

「感応紙に鉄粉入りインクを使うなら、乾燥時間を半日延ばした方がいい」

「君なら、この構造の方が読みやすいと思う」

 いつの間にか、図書室で話すことが増えた。

 ノアはいつも、リリアーナの正面には座らない。

 斜め向かい。

 手を伸ばしても届かないが、声を潜めれば聞こえる距離。

 それがありがたかった。

 リリアーナは、その距離が偶然だと思っていた。

 ノアが彼女の肩が強張らない位置を、一度目から測っていたことには気づかなかった。

 ある日の放課後、リリアーナは図書室で息を吐いた。

 中庭でまたヴィクトルとカミラを見た。

 カミラがヴィクトルの腕に触れ、ヴィクトルがそれを払わなかった。周囲の生徒たちは見て見ぬふりをしながら、こちらを気にしていた。

 婚約者がいる男の距離ではなかった。

「珍しいね」

 斜め向かいから、ノアが顔を上げた。

「ため息なんか。分からないところでもあった?」

 踏み込みすぎない問いだった。

 だから、ついこぼれた。

「もう興味も何もないんだけどね、婚約者としてこちらが恥になるようなことは控えてほしいなあと」

 言ってから、しまったと思った。

 図書室で、同級生の男子に、ため息まじりに話すことではない。

 けれどノアは笑わなかった。気の毒そうな顔もしなかった。

 読んでいた本に栞を挟み、閉じる。

「婚約契約書は読んだ?」

「……契約書?」

「家に控えがあるはずだよ。贈答の頻度、交流義務、学園内での品位保持。家同士の取引が絡んでいるなら、その辺のことが書かれているはずだ」

 あまりに実務的な返事で、リリアーナは瞬きをした。

「そこまですることかしら?」

「君が困っているなら、見るべきだと思うよ」

「困っている、というほどでは」

「婚約者が別の令嬢と人目のある場所で親密にしている。君への手紙には返事をしない。誕生日の贈り物もない。学園内で挨拶もしない。君はそれを恥になると言った」

 責める声ではなかった。

 怒る声でもなかった。

 散らばった紙片を一枚ずつ机に置いていくような声だった。

「それはもう、困っていると言っていいんじゃないかな」

 リリアーナは言葉に詰まった。

 愛されていないことは、もうどうでもよかった。

 問題は、自分が笑われることだった。

 ベルフォード家が軽んじられることだった。

 彼の不誠実さの横に、自分の名前が並べられることだった。

「でも、アルバーン家との取引があるもの」

「魔石のこと?」

 リリアーナは顔を上げた。

「どうして知っているの」

「魔道具市場の資料を読んだだけだよ。ベルフォード家の加工技術と、アルバーン産の魔石は相性がいい」

「なら分かるでしょう。私が少し恥をかくくらいで、家の商売を壊すわけにはいかない」

「少し?」

 ノアの目がわずかに細くなった。

「君が自分の尊厳を削られることを、少しと言う必要はないと思う」

 胸の奥で、絡まっていた糸が一つ震えた。

 強く励まされたわけではない。

 それなのに、リリアーナは初めて、自分が我慢していることに気がついた。

「……契約書を読んで、どうするの?」

「破られている条件がないか確認する」

「破られていたら?」

「家に相談できる。感情論じゃなく、契約上の問題として」

「証拠がいるわ」

「いるね」

 ノアは少しだけ口元を緩めた。

「君の得意分野じゃない?」

「私の?」

「記録石と魔力感応紙。前に、紙に残った魔力の揺れを読む術式を組んでいただろう」

「あれは研究用で、人の醜聞を拾うためのものじゃない」

「うん」

 ノアはすぐに頷いた。

「だから、使うかどうかは君が決めればいい」

 その一言が、不思議だった。

 命令しない。

 アイデアを提案してくれる。

 踏み込みすぎないでいてくれる。

 それがどれほど楽なのか、リリアーナはその時まで知らなかった。

「……あなたって、変わってるね」

「よく言われる」

「褒めてないんだけど」

「知ってる」

 短いやり取りのあと、ノアは閉じた本を開いた。

「契約法の棚なら西側の三列目。貴族婚姻の判例集は上から二段目。君の身長だと届かないかもしれないから、必要なら取るよ」

 リリアーナは思わず彼を見た。

「なんで私の身長で届かないって分かるの?」

「さっき、魔法薬学の本を取る時に背伸びしていたから」

「ああ、そう」

 納得して、彼女は視線を戻した。

 だから気づかなかった。

 その背伸びの癖を、ノアは以前から知っていたことに。

 それからリリアーナは動き始めた。

 まず、家に手紙を書いた。

 数日後、父から婚約契約書の写しが届いた。封筒の中には、兄エリアスの短い手紙も入っていた。

『一人で抱えるな。父上も母上も、俺も、お前の味方だ』

 その一文を見た時、リリアーナはしばらく紙面から目を離せなかった。

 契約書には、定期的な交流、年ごとの贈答、学園内で互いの名誉を損なわないこと、異性関係で醜聞を起こさないことが記されていた。

 ヴィクトルは、そのほとんどを守っていなかった。

 リリアーナは自分が送った手紙の控えを取り出した。

 魔力感応紙に薄い光が走る。

 送付時の署名。

 配達時の署名。

 けれど、返答の記録はない。

 贈答記録盤にも、ここ二年、ヴィクトルからの誕生日の贈り物は残っていなかった。

 学園での振る舞いについては、証言が集まった。

 噂好きな生徒たちは、こちらが聞かなくても色々と話してくれた。カミラとヴィクトルがいつ、どこで、どれほど親しげにしていたか。リリアーナが近くにいても、ヴィクトルが挨拶をしなかったこと。

 記録石は万能ではない。

 完全な会話を残せるわけではないし、大きな声や魔力の揺れしか拾えない。

 それでも、足りない部分を埋めるには十分だった。

 リリアーナは何度も手を止めた。

 人の醜聞を集めるために、魔道具を学んできたわけではない。

 けれど、机の向かいでノアは急かさなかった。

「今日は記録石より、感応紙の整理の方がいい」

「どうして?」

「疲れている時は、細かい魔力調整で失敗しやすいだろう」

「……そんなことまで分かるの?」

「何度か見ていればね」

 何度か。

 ノアはそう言った。

 リリアーナは、よく見てくれているのだと思った。

 その何度かが、この世界での数回だけではないことを、彼女は知らない。

 ある日の午後、エリアスが学園へ来た。

 父の代理として、資料を確認するためだった。

 応接室の机に並べられた契約書と記録紙を見て、エリアスはしばらく黙った。

 それから、眉間に皺を寄せる。

「これは俺でも分かるぞ。もう駄目だな」

「お兄様でも?」

「そこは強調しなくていい」

 少し傷ついた顔をしたあと、エリアスは真面目に資料をめくった。

「リリア。お前が思っているほど、うちはアルバーン家に首根っこを掴まれてはいない」

「でも、魔石が」

「安く買えていたのは事実だ。ありがたいことにうちに有利な取引だったし、父上もアルバーン子爵には感謝している」

 エリアスは一枚の書類を差し出した。

 別産地の魔石の価格表だった。

「少し高くはなるが、他から買えないわけじゃない。うちの商会が不利になることはないし、お前の研究費も削らせない」

 リリアーナは唇を噛んだ。

 目の奥が熱くなった。

 自分一人が我慢しなければ、家が困る。

 そう思っていた。

 でも、ベルフォード家は、彼女の尊厳を代金にしなければ立っていられない家ではなかった。

「もっと早く言えばよかった」

 リリアーナが呟くと、エリアスは困ったように笑った。

「俺たちがもっと早く気づければよかった。兄のくせに鈍くて悪い」

「ううん」

「ただ、ヴィクトル殿がひどいやつということは俺でも分かっていたぞ」

「そこまで?」

「そこまでだ。見舞いにも来ない婚約者なんて、俺が父上なら玄関で追い返している」

 リリアーナは少し笑った。

 その様子を、ノアは斜め後ろから見ていた。

 エリアスはノアに気づき、軽く頭を下げた。

「妹が世話になっているようだな」

「いえ。リリアーナ嬢が努力された結果です」

「そうか。だが、妹は少し怖がりでな。急に距離を詰められると固まる」

「存じています」

「……存じて?」

 エリアスが首を傾げる。

 ノアは穏やかに微笑んだ。

「見ていれば、分かりますから」

「そうか。よく見てくれているんだな」

 エリアスは納得したように頷いた。

 鈍い兄は、ノアを良い人だと思った。

 リリアーナにも、そう見えた。

 ノアはいつも優しかった。

 触れない。急かさない。選択肢を与えてくれる。

 だから彼女は気づかなかった。

 ノアが触れないのは、触れたい気持ちがないからではない。

 彼女が怯えると知っているから、触れないだけなのだと。

 正式な話し合いは、ベルフォード男爵邸で行われた。

 ベルフォード男爵夫妻、エリアス、リリアーナ。

 アルバーン子爵夫妻、ヴィクトル。

 学園からは教師が一人、記録係として同席した。

 ヴィクトルは最初から不機嫌だった。

 机に並べられた資料を一瞥し、鼻で笑う。

「こんなものを集めて、何になる。婚約者同士の些細な行き違いだろう」

 リリアーナは指先を握った。

 震えは小さかった。

 膝の上に置いた手に、母の手が重なる。

 それだけで、息がしやすくなった。

「四年間、誕生日の贈答がありません」

「忙しかった」

「手紙への返事もありません」

「必要を感じなかった」

「学園内で挨拶を無視されたことは、複数人が見ています」

「君が地味すぎて気づかなかったんだろう」

 エリアスの目が冷えた。

 父の口元が固く結ばれる。

 アルバーン子爵夫人が青ざめた。

 けれどヴィクトルは気づかない。

 自分はアルバーン家の嫡男だ。

 ベルフォード家は魔石を必要としている。

 リリアーナが本気で逆らえるはずがない。

「そもそも、ベルフォード家が我が家との婚約を切れるはずがありません。魔石を失えば困るのはそちらでしょう」

 部屋の空気が止まった。

 アルバーン子爵が立ち上がる。

「ヴィクトル」

「父上、何か間違っていますか。ベルフォード家の魔道具は、我が家の魔石があってこそ――」

「黙れ」

 低い声だった。

 ヴィクトルが初めて口を閉ざした。

「お前は、我が家の魔石を婚約者を脅す道具にしたのか」

「脅すなど」

「今、そう言っただろう!」

 アルバーン子爵は、深く頭を下げた。

「ベルフォード男爵。申し訳ない。これは我が家の教育の失敗です」

「父上?」

「婚約は破棄としましょう。責は我が家にあります」

 ヴィクトルの顔から血の気が引いた。

 学園から提出された成績記録も確認された。

 ヴィクトルの成績はこの一年で大きく落ちていた。課題の遅れ、授業態度、欠席。どれも言い逃れできるものではない。

 一方で、リリアーナの評価は高かった。

 魔道具工学、契約魔法学、魔力記録論。

 教師は控えめに言った。

「リリアーナ嬢は、学園の研究室でも十分通用する水準です」

 ヴィクトルは何も言わなかった。

 言えなかった。

 話し合いは淡々と進んだ。

 婚約破棄。

 取引条件の見直し。

 今後の損害補填。

 アルバーン家には、ヴィクトルの弟がいた。

 真面目で、商売にも学業にも堅実な少年だった。

 後日、ヴィクトルは後継から外された。

 それでもなお自分の非を認めなかったため、やがて家から絶縁され、平民として放逐された。

 カミラ・ロゼットは、彼が家名を失ったと知ると、あっさり離れたという。

「わたくし、将来のない方に使う時間はありませんの」

 彼女らしい言葉だった。

 ヴィクトルは最後まで、自分が何を失ったのか分からない顔をしていた。

 リリアーナは婚約者を失った。

 けれど、それは喪失ではない。

 重い布を肩から下ろしたような気分だった。

 その日の夕方、リリアーナは図書室にいた。

 もうヴィクトルの目を気にする必要はない。

 それでも、いつもの席に座っていた。

 しばらくして、ノアが来た。

「終わったんだね」

「うん」

「大丈夫?」

「大丈夫よ。……たぶん」

 リリアーナは自分の手元を見つめた。

「ノアがいなかったら、私はずっと我慢していたと思う」

「君が決めたんだよ」

「でも、選択肢をくれたのはあなたでしょう」

 ノアは答えなかった。

 窓の外では、夕日が図書室の床を淡く染めている。

 リリアーナは少し迷ってから、口を開いた。

「ねえ、ノア。どうしてそこまでしてくれたの?」

 ノアの指が、本の表紙の上で止まった。

 それから彼は、顔を上げた。

 いつもの穏やかな目だった。

 けれど、その奥に、今まで見たことのない深さがあった。

「美澄」

 その名を呼ばれた瞬間、リリアーナは息を止めた。

 この世界で、その名前を知っている人間はいない。

 父も、母も、兄も、ヴィクトルでさえ知らない。

 それは、彼女が一度死ぬ前の名前だった。

「……どうして」

 声が震えた。

 恐怖ではなかった。

 それより先に、懐かしさが胸を突き上げた。

 ノアは泣きそうな顔で笑った。

「俺だよ。九条颯太」

 リリアーナの視界が滲んだ。

 颯太。

 前世の幼馴染。親友。

 大学は違っても、何かと連絡をくれた人。困った時、いつも少し離れた場所から手を貸してくれた人。

 誰かに見られている気がすると相談した時も、彼だけは軽く扱わなかった。

 気をつけろと、何度も言ってくれた。

 それなのに、美澄は死んだ。

「颯太、なの?」

「うん」

「本当に?」

「本当に」

 リリアーナの目から涙が落ちた。

 ノアは近づかなかった。

 泣いている彼女を抱きしめることもできたはずなのに、そうしなかった。

 いつもの距離で、彼女を見ていた。

「ずっと後悔していた」

 ノアの声は低かった。

「守れなかった。間に合わなかった。君が死んだあと、俺もすぐに死んだ」

「死んだ……?」

「うん」

 ノアはそれ以上言わなかった。

 自分で命を絶ったとは言わなかった。

 美澄を刺した男の名前を調べていたことも。

 内藤晴。

 美澄は知らなかった名前。

 顔さえ覚えていない、見ず知らずの男。

 けれど颯太は知っていた。

 彼女の通学路を調べ、交友関係を探り、何度も彼女の後をつけていた男の名前を。

 その男に辿り着いた時には、もう遅かったことも。

 今世でヴィクトルを見た瞬間、その魂の癖に気づいたことも。

 何も言わなかった。

「この世界で君を見つけた時、すぐに分かった」

「見た目も、名前も、声も違うのに?」

「分かるよ」

 ノアは少しだけ笑った。

「美澄は、本を読む時、左手の親指でページの端を押さえる。考え込むと、右の眉だけ少し下がる。怖い時は、逃げる方向を先に探す。嬉しい時ほど、先に否定する」

 ひとつずつ並べられるたび、リリアーナの胸が熱くなった。

 こんなにも覚えていてくれたのだ。

 こんなにも、自分を見つけてくれたのだ。

 だから彼女は気づかなかった。

 覚えている、というには、あまりにも細かすぎることに。

「ずっと好きだった」

 ノアは言った。

 その声は穏やかだった。

 けれど、軽くはなかった。

「前世でも。今世でも。たぶん、君がどんな名前になっても」

 リリアーナは泣きながら笑った。

 前世の最後に聞いた「来世で結婚しようね」という言葉は、彼女にとって呪いだった。

 けれど今、ノアの声は違って聞こえた。

 奪おうとしない。

 触れようとしない。

 選ばせてくれる。

 待ってくれる。

 彼の愛は、怖くない。

 少なくとも、リリアーナにはそう思えた。

「私、まだ怖いものがたくさんある」

「うん」

「急に近づかれるのも、誰かに見られるのも、たぶんずっと苦手」

「うん」

「それでも、あなたなら……ノアなら、大丈夫な気がする」

 ノアの瞳が揺れた。

「リリア」

「私も、あなたのことが好き。前世の颯太としても、今のノアとしても」

 ノアは一瞬、泣きそうに顔を歪めた。

 それでも、手は伸ばさなかった。

「触れてもいい?」

 そう聞いた。

 リリアーナは涙を拭って、小さく頷いた。

 ノアの手が、彼女の指先に触れた。

 壊れものに触れるような優しさだった。

 リリアーナは、その手を握り返した。

 温かかった。

 ようやく、自分は前世の恐怖から少しだけ解放されるのかもしれない。

 そう思った。

 数日後。

 ヴィクトル・アルバーンは、王都の片隅にある安宿で一人、薄い寝台に腰を下ろしていた。

 子爵家の名はもう使えない。

 カミラもいない。

 金もない。

 学園にも戻れない。

 なぜ自分がここまで落ちなければならなかったのか、何度考えても分からなかった。

 リリアーナが悪い。

 あの地味な女が、自分に恥をかかせた。

 ベルフォード家が悪い。

 父が悪い。

 カミラが悪い。

 そう思った時、扉の下から一枚の紙が滑り込んできた。

 ヴィクトルは顔を上げた。

 紙には、短い言葉だけが書かれていた。

 ――二度と彼女に近づくな。

 署名はない。

 けれど紙には、微かな魔力が残っていた。

 冷たく、静かで、逃げ道を塞ぐような魔力。

 ヴィクトルはなぜか、背筋が凍った。

 遠い昔、別の世界で、誰かを追いかけていた気がした。

 夜でも明るい道。

 白い街灯。

 手の中の刃物。

 振り返ることもできなかった女。

 そして、その向こう側でこちらを見ていた少年の目。

 思い出せない。

 思い出せないのに、怖かった。

 同じ頃、ノア・レインフォードは自室で机の引き出しを閉じていた。

 中には数冊の手帳がある。

 前世で覚えていた美澄の癖。

 今世のリリアーナの好み。

 怖がる距離。

 安心する声の高さ。

 よく使う本棚。

 疲れている時の筆跡。

 笑う前に一度だけ視線を落とす癖。

 そして、ヴィクトル・アルバーンに関する記録。

 アルバーン子爵家の内部事情。

 弟の評価。

 カミラ・ロゼットの家が求めていた縁談条件。

 魔石市場の相場。

 ベルフォード家が使える代替仕入れ先。

 必要な情報は、必要な相手の手に渡った。

 リリアーナは自分で選んだ。

 少なくとも、彼女はそう思っている。

 それでいい。

 ノアは窓の外を見た。

 殺してしまえば早いと思ったことがある。

 けれど、それでは足りなかった。

 死は一瞬だ。

 美澄が奪われた時間に比べれば、あまりにも短い。

 だからノアは、ヴィクトルから順番に奪った。

 婚約者を。

 家名を。

 財産を。

 未来を。

 最後に、自分が何を失ったのか理解できる程度の知性だけを残して。

 リリアーナは、ノアの愛を優しいものだと思っている。

 急かさない。

 触れない。

 選ばせてくれる。

 待ってくれる。

 だから知らない。

 彼が待てるのは、待っている間も彼女を見失わないからだということを。

 どこへ行っても、誰と話しても、何を選んでも。

 彼はきっと、彼女を見つける。

 前世でも。

 今世でも。

 たとえ次の生があるとしても。

 机の上には、リリアーナが今日書いた研究メモの写しがある。

 几帳面で、少し右上がりの文字。

 彼女が生きている証。

 彼女がここにいる証。

 ノアは微笑んだ。

「今度こそ、誰にも奪わせない」

 その声は、どこまでも優しかった。

 そして、どこまでも重かった。

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― 新着の感想 ―
え?前世にストーカー2人いたってこと?タイトルからしてノアがストーカー男かと思いましたが。 ヴィクトルは前世の執着を忘れましたが、そういう意味ではノアの方が真のストーカーだからタイトル回収?
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