ストーカーに刺されて死んだ転生令嬢は真のストーカーに気づかない
死ぬ時のことなど、案外覚えていないものだ。
刺された痛みも、倒れた時の衝撃も、流れた血の熱さも、白河美澄の記憶にはひどく曖昧にしか残っていない。
白い街灯。
大学の帰り道。
背後から近づいてくる足音。
警戒はしていた。何度も振り返ったし、人通りのある道を選んだ。最近、誰かに見られている気がしていたからだ。
けれど最後の瞬間、腕を掴まれた時にはもう遅かった。
顔は見えなかった。
それなのに、男は美澄のすべてを知っているような声で囁いた。
「今は付き合えなくても、来世で結婚しようね」
その言葉だけが、死んだあとも消えなかった。
そして次に目を開けた時、美澄はリリアーナ・ベルフォードになっていた。
ベルフォード男爵家の長女。
淡い金色の髪。薄紫の瞳。柔らかな手。鏡に映る少女は、白河美澄とは似ても似つかない。
だから最初は、すべて夢だと思った。
けれど十二歳の誕生日を迎える少し前、リリアーナは前世の全てを思い出した。
叫んだ。
近づく足音が怖かった。男の声が怖かった。自分に向けられる好意が怖かった。
誰かに見られることが怖かった。
父は仕事の合間に何度も部屋へ顔を出した。母は夜眠れないリリアーナの手を握ってくれた。四歳上の兄エリアスは、扉の外から必ず声をかけるようになった。
「リリア、入ってもいいか」
「……大丈夫」
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、三歩だけ近づくぞ」
エリアスは真面目な顔で三歩だけ近づき、椅子を引いて座った。
商売の帳簿を読む時は鋭いのに、人の気持ちになると少し鈍い兄。けれど、その鈍い兄でさえ、リリアーナが何かにひどく怯えていることは分かっていた。
リリアーナは髪を地味に結うようになった。
流行遅れの眼鏡をかけ、飾りの少ない服を選んだ。
綺麗だと思われたくなかった。
目立ちたくなかった。
誰かの欲望に引っかかりたくなかった。
それが、彼女にできる唯一の守り方だった。
ヴィクトル・アルバーンは、そんなリリアーナを見て、明らかに興味を失った。
彼はアルバーン子爵家の嫡男で、リリアーナの婚約者だった。
婚約が決まったのは幼い頃だ。父親同士が友人で、家同士の利もあった。
ベルフォード男爵家は魔道具で財を成した家だった。魔力灯に使う安定石、記録用の感応紙、役所に納める通信板の部品。屋敷の倉庫には、加工前の魔石や半完成の部品がいつも並んでいた。
その魔石を、アルバーン家は破格で卸してくれていた。
だからリリアーナは、ヴィクトルに冷たくされても、すぐには婚約を終わらせようと言えなかった。
魔石がなければ、家の商売に響く。
魔石がなければ、自分の研究も続けにくくなる。
その負い目は、彼女の喉に細い糸のように絡んでいた。
記憶を取り戻して寝込んだ時、ヴィクトルは見舞いに来なかった。
手紙もなかった。
花もなかった。
婚約者を気遣う言葉さえ、なかった。
それでも、リリアーナは黙っていた。
やがて貴族子女が通う学園に入学すると、ヴィクトルの態度はもっと分かりやすくなった。
廊下で顔を合わせても挨拶をしない。
リリアーナが送る手紙には返事を書かない。
誕生日にも何も贈らない。
それどころか、カミラ・ロゼットという令嬢と親しくしているという噂まで流れ始めた。
カミラは華やかな少女だった。
柔らかな巻き髪に、薔薇色の頬。少し甘えるような声。ヴィクトルが隣に置きたがるものを、彼女はよく知っていた。
中庭で、ヴィクトルがカミラの髪飾りを褒めているのを見たことがある。
カミラはリリアーナに気づくと、愛らしく首を傾げた。
「あら、リリアーナ様。ごきげんよう」
ヴィクトルもリリアーナを見た。
だが、挨拶はしなかった。
彼の目に浮かんだのは、気まずさではない。
面倒なものを見た、という苛立ちだった。
リリアーナは何も言わず、その場を離れた。
胸は痛まなかった。
彼に好かれたいとは思っていない。
ただ、疲れた。
ヴィクトルは幼い頃からよく言うことがある。
「婚約者として俺の隣に立つなら、それなりの姿でいてもらわないと困る」
「女は、愛される努力を怠るべきではないだろう」
彼は時々、彼女の向こうに別の誰かを探すような目をした。けれど次の瞬間には、眼鏡と地味な髪型を見て、つまらなそうに視線を逸らす。
その目が怖かった。
前世で聞いたあの声を思い出すほどではない。
けれど、何かが似ていた。
人を人としてではなく、飾り棚の中身として眺めるような目だった。
リリアーナが安らげる場所は、図書室だけだった。
この世界で魔法と呼ばれるものは、杖の先から火花を散らす奇跡ではない。
石に魔力を通し、紙に記録を残し、硝子の箱の中を冷やす。便利ではあるが、万能ではない。だからこそリリアーナは、魔法を考えるのが好きだった。
記録石に、どの程度まで音の揺れを残せるのか。
魔力感応紙は、どれほど古い署名まで読み取れるのか。
通信板の送受信履歴を、もっと小さな部品で再現できないか。
そういうことを考えている間だけ、彼女は自分の身体が少し軽くなる気がした。
図書室の奥、魔道具工学の棚の前で、リリアーナは古い論文集に手を伸ばした。
上から二段目。
指先は届くのに、引き抜くには少し足りない。
「それなら、三巻ではなく四巻の方がいいと思う」
横から声がして、リリアーナの肩が跳ねた。
振り返ると、淡い銀茶の髪をした少年が立っていた。
ノア・レインフォード。
同じ学年の、レインフォード伯爵家の令息だった。
彼は近づかなかった。
手を伸ばして本を取ることもしなかった。
机一つ分ほど離れた場所から、棚の背表紙を示すだけだった。
「三巻は基礎理論だけだ。記録石の魔力振動保存なら、四巻の後半に実験記録が載っている」
「……なぜ、私がそれを調べていると?」
「さっき、感応紙の棚も見ていただろう。組み合わせるなら、記録石だと思って」
リリアーナは少しだけ警戒した。
男の人に親切にされるのは怖い。
優しさの奥に何があるのか、考えてしまうから。
けれどノアは、勉強の話しかしなかった。
私生活を聞かない。婚約者の話もしない。容姿について何も言わない。必要以上に近づかない。
ただ、魔道具の構造についてだけ、正確に指摘した。
「その術式だと、魔力が二重に循環して紙が焦げる」
「感応紙に鉄粉入りインクを使うなら、乾燥時間を半日延ばした方がいい」
「君なら、この構造の方が読みやすいと思う」
いつの間にか、図書室で話すことが増えた。
ノアはいつも、リリアーナの正面には座らない。
斜め向かい。
手を伸ばしても届かないが、声を潜めれば聞こえる距離。
それがありがたかった。
リリアーナは、その距離が偶然だと思っていた。
ノアが彼女の肩が強張らない位置を、一度目から測っていたことには気づかなかった。
ある日の放課後、リリアーナは図書室で息を吐いた。
中庭でまたヴィクトルとカミラを見た。
カミラがヴィクトルの腕に触れ、ヴィクトルがそれを払わなかった。周囲の生徒たちは見て見ぬふりをしながら、こちらを気にしていた。
婚約者がいる男の距離ではなかった。
「珍しいね」
斜め向かいから、ノアが顔を上げた。
「ため息なんか。分からないところでもあった?」
踏み込みすぎない問いだった。
だから、ついこぼれた。
「もう興味も何もないんだけどね、婚約者としてこちらが恥になるようなことは控えてほしいなあと」
言ってから、しまったと思った。
図書室で、同級生の男子に、ため息まじりに話すことではない。
けれどノアは笑わなかった。気の毒そうな顔もしなかった。
読んでいた本に栞を挟み、閉じる。
「婚約契約書は読んだ?」
「……契約書?」
「家に控えがあるはずだよ。贈答の頻度、交流義務、学園内での品位保持。家同士の取引が絡んでいるなら、その辺のことが書かれているはずだ」
あまりに実務的な返事で、リリアーナは瞬きをした。
「そこまですることかしら?」
「君が困っているなら、見るべきだと思うよ」
「困っている、というほどでは」
「婚約者が別の令嬢と人目のある場所で親密にしている。君への手紙には返事をしない。誕生日の贈り物もない。学園内で挨拶もしない。君はそれを恥になると言った」
責める声ではなかった。
怒る声でもなかった。
散らばった紙片を一枚ずつ机に置いていくような声だった。
「それはもう、困っていると言っていいんじゃないかな」
リリアーナは言葉に詰まった。
愛されていないことは、もうどうでもよかった。
問題は、自分が笑われることだった。
ベルフォード家が軽んじられることだった。
彼の不誠実さの横に、自分の名前が並べられることだった。
「でも、アルバーン家との取引があるもの」
「魔石のこと?」
リリアーナは顔を上げた。
「どうして知っているの」
「魔道具市場の資料を読んだだけだよ。ベルフォード家の加工技術と、アルバーン産の魔石は相性がいい」
「なら分かるでしょう。私が少し恥をかくくらいで、家の商売を壊すわけにはいかない」
「少し?」
ノアの目がわずかに細くなった。
「君が自分の尊厳を削られることを、少しと言う必要はないと思う」
胸の奥で、絡まっていた糸が一つ震えた。
強く励まされたわけではない。
それなのに、リリアーナは初めて、自分が我慢していることに気がついた。
「……契約書を読んで、どうするの?」
「破られている条件がないか確認する」
「破られていたら?」
「家に相談できる。感情論じゃなく、契約上の問題として」
「証拠がいるわ」
「いるね」
ノアは少しだけ口元を緩めた。
「君の得意分野じゃない?」
「私の?」
「記録石と魔力感応紙。前に、紙に残った魔力の揺れを読む術式を組んでいただろう」
「あれは研究用で、人の醜聞を拾うためのものじゃない」
「うん」
ノアはすぐに頷いた。
「だから、使うかどうかは君が決めればいい」
その一言が、不思議だった。
命令しない。
アイデアを提案してくれる。
踏み込みすぎないでいてくれる。
それがどれほど楽なのか、リリアーナはその時まで知らなかった。
「……あなたって、変わってるね」
「よく言われる」
「褒めてないんだけど」
「知ってる」
短いやり取りのあと、ノアは閉じた本を開いた。
「契約法の棚なら西側の三列目。貴族婚姻の判例集は上から二段目。君の身長だと届かないかもしれないから、必要なら取るよ」
リリアーナは思わず彼を見た。
「なんで私の身長で届かないって分かるの?」
「さっき、魔法薬学の本を取る時に背伸びしていたから」
「ああ、そう」
納得して、彼女は視線を戻した。
だから気づかなかった。
その背伸びの癖を、ノアは以前から知っていたことに。
それからリリアーナは動き始めた。
まず、家に手紙を書いた。
数日後、父から婚約契約書の写しが届いた。封筒の中には、兄エリアスの短い手紙も入っていた。
『一人で抱えるな。父上も母上も、俺も、お前の味方だ』
その一文を見た時、リリアーナはしばらく紙面から目を離せなかった。
契約書には、定期的な交流、年ごとの贈答、学園内で互いの名誉を損なわないこと、異性関係で醜聞を起こさないことが記されていた。
ヴィクトルは、そのほとんどを守っていなかった。
リリアーナは自分が送った手紙の控えを取り出した。
魔力感応紙に薄い光が走る。
送付時の署名。
配達時の署名。
けれど、返答の記録はない。
贈答記録盤にも、ここ二年、ヴィクトルからの誕生日の贈り物は残っていなかった。
学園での振る舞いについては、証言が集まった。
噂好きな生徒たちは、こちらが聞かなくても色々と話してくれた。カミラとヴィクトルがいつ、どこで、どれほど親しげにしていたか。リリアーナが近くにいても、ヴィクトルが挨拶をしなかったこと。
記録石は万能ではない。
完全な会話を残せるわけではないし、大きな声や魔力の揺れしか拾えない。
それでも、足りない部分を埋めるには十分だった。
リリアーナは何度も手を止めた。
人の醜聞を集めるために、魔道具を学んできたわけではない。
けれど、机の向かいでノアは急かさなかった。
「今日は記録石より、感応紙の整理の方がいい」
「どうして?」
「疲れている時は、細かい魔力調整で失敗しやすいだろう」
「……そんなことまで分かるの?」
「何度か見ていればね」
何度か。
ノアはそう言った。
リリアーナは、よく見てくれているのだと思った。
その何度かが、この世界での数回だけではないことを、彼女は知らない。
ある日の午後、エリアスが学園へ来た。
父の代理として、資料を確認するためだった。
応接室の机に並べられた契約書と記録紙を見て、エリアスはしばらく黙った。
それから、眉間に皺を寄せる。
「これは俺でも分かるぞ。もう駄目だな」
「お兄様でも?」
「そこは強調しなくていい」
少し傷ついた顔をしたあと、エリアスは真面目に資料をめくった。
「リリア。お前が思っているほど、うちはアルバーン家に首根っこを掴まれてはいない」
「でも、魔石が」
「安く買えていたのは事実だ。ありがたいことにうちに有利な取引だったし、父上もアルバーン子爵には感謝している」
エリアスは一枚の書類を差し出した。
別産地の魔石の価格表だった。
「少し高くはなるが、他から買えないわけじゃない。うちの商会が不利になることはないし、お前の研究費も削らせない」
リリアーナは唇を噛んだ。
目の奥が熱くなった。
自分一人が我慢しなければ、家が困る。
そう思っていた。
でも、ベルフォード家は、彼女の尊厳を代金にしなければ立っていられない家ではなかった。
「もっと早く言えばよかった」
リリアーナが呟くと、エリアスは困ったように笑った。
「俺たちがもっと早く気づければよかった。兄のくせに鈍くて悪い」
「ううん」
「ただ、ヴィクトル殿がひどいやつということは俺でも分かっていたぞ」
「そこまで?」
「そこまでだ。見舞いにも来ない婚約者なんて、俺が父上なら玄関で追い返している」
リリアーナは少し笑った。
その様子を、ノアは斜め後ろから見ていた。
エリアスはノアに気づき、軽く頭を下げた。
「妹が世話になっているようだな」
「いえ。リリアーナ嬢が努力された結果です」
「そうか。だが、妹は少し怖がりでな。急に距離を詰められると固まる」
「存じています」
「……存じて?」
エリアスが首を傾げる。
ノアは穏やかに微笑んだ。
「見ていれば、分かりますから」
「そうか。よく見てくれているんだな」
エリアスは納得したように頷いた。
鈍い兄は、ノアを良い人だと思った。
リリアーナにも、そう見えた。
ノアはいつも優しかった。
触れない。急かさない。選択肢を与えてくれる。
だから彼女は気づかなかった。
ノアが触れないのは、触れたい気持ちがないからではない。
彼女が怯えると知っているから、触れないだけなのだと。
正式な話し合いは、ベルフォード男爵邸で行われた。
ベルフォード男爵夫妻、エリアス、リリアーナ。
アルバーン子爵夫妻、ヴィクトル。
学園からは教師が一人、記録係として同席した。
ヴィクトルは最初から不機嫌だった。
机に並べられた資料を一瞥し、鼻で笑う。
「こんなものを集めて、何になる。婚約者同士の些細な行き違いだろう」
リリアーナは指先を握った。
震えは小さかった。
膝の上に置いた手に、母の手が重なる。
それだけで、息がしやすくなった。
「四年間、誕生日の贈答がありません」
「忙しかった」
「手紙への返事もありません」
「必要を感じなかった」
「学園内で挨拶を無視されたことは、複数人が見ています」
「君が地味すぎて気づかなかったんだろう」
エリアスの目が冷えた。
父の口元が固く結ばれる。
アルバーン子爵夫人が青ざめた。
けれどヴィクトルは気づかない。
自分はアルバーン家の嫡男だ。
ベルフォード家は魔石を必要としている。
リリアーナが本気で逆らえるはずがない。
「そもそも、ベルフォード家が我が家との婚約を切れるはずがありません。魔石を失えば困るのはそちらでしょう」
部屋の空気が止まった。
アルバーン子爵が立ち上がる。
「ヴィクトル」
「父上、何か間違っていますか。ベルフォード家の魔道具は、我が家の魔石があってこそ――」
「黙れ」
低い声だった。
ヴィクトルが初めて口を閉ざした。
「お前は、我が家の魔石を婚約者を脅す道具にしたのか」
「脅すなど」
「今、そう言っただろう!」
アルバーン子爵は、深く頭を下げた。
「ベルフォード男爵。申し訳ない。これは我が家の教育の失敗です」
「父上?」
「婚約は破棄としましょう。責は我が家にあります」
ヴィクトルの顔から血の気が引いた。
学園から提出された成績記録も確認された。
ヴィクトルの成績はこの一年で大きく落ちていた。課題の遅れ、授業態度、欠席。どれも言い逃れできるものではない。
一方で、リリアーナの評価は高かった。
魔道具工学、契約魔法学、魔力記録論。
教師は控えめに言った。
「リリアーナ嬢は、学園の研究室でも十分通用する水準です」
ヴィクトルは何も言わなかった。
言えなかった。
話し合いは淡々と進んだ。
婚約破棄。
取引条件の見直し。
今後の損害補填。
アルバーン家には、ヴィクトルの弟がいた。
真面目で、商売にも学業にも堅実な少年だった。
後日、ヴィクトルは後継から外された。
それでもなお自分の非を認めなかったため、やがて家から絶縁され、平民として放逐された。
カミラ・ロゼットは、彼が家名を失ったと知ると、あっさり離れたという。
「わたくし、将来のない方に使う時間はありませんの」
彼女らしい言葉だった。
ヴィクトルは最後まで、自分が何を失ったのか分からない顔をしていた。
リリアーナは婚約者を失った。
けれど、それは喪失ではない。
重い布を肩から下ろしたような気分だった。
その日の夕方、リリアーナは図書室にいた。
もうヴィクトルの目を気にする必要はない。
それでも、いつもの席に座っていた。
しばらくして、ノアが来た。
「終わったんだね」
「うん」
「大丈夫?」
「大丈夫よ。……たぶん」
リリアーナは自分の手元を見つめた。
「ノアがいなかったら、私はずっと我慢していたと思う」
「君が決めたんだよ」
「でも、選択肢をくれたのはあなたでしょう」
ノアは答えなかった。
窓の外では、夕日が図書室の床を淡く染めている。
リリアーナは少し迷ってから、口を開いた。
「ねえ、ノア。どうしてそこまでしてくれたの?」
ノアの指が、本の表紙の上で止まった。
それから彼は、顔を上げた。
いつもの穏やかな目だった。
けれど、その奥に、今まで見たことのない深さがあった。
「美澄」
その名を呼ばれた瞬間、リリアーナは息を止めた。
この世界で、その名前を知っている人間はいない。
父も、母も、兄も、ヴィクトルでさえ知らない。
それは、彼女が一度死ぬ前の名前だった。
「……どうして」
声が震えた。
恐怖ではなかった。
それより先に、懐かしさが胸を突き上げた。
ノアは泣きそうな顔で笑った。
「俺だよ。九条颯太」
リリアーナの視界が滲んだ。
颯太。
前世の幼馴染。親友。
大学は違っても、何かと連絡をくれた人。困った時、いつも少し離れた場所から手を貸してくれた人。
誰かに見られている気がすると相談した時も、彼だけは軽く扱わなかった。
気をつけろと、何度も言ってくれた。
それなのに、美澄は死んだ。
「颯太、なの?」
「うん」
「本当に?」
「本当に」
リリアーナの目から涙が落ちた。
ノアは近づかなかった。
泣いている彼女を抱きしめることもできたはずなのに、そうしなかった。
いつもの距離で、彼女を見ていた。
「ずっと後悔していた」
ノアの声は低かった。
「守れなかった。間に合わなかった。君が死んだあと、俺もすぐに死んだ」
「死んだ……?」
「うん」
ノアはそれ以上言わなかった。
自分で命を絶ったとは言わなかった。
美澄を刺した男の名前を調べていたことも。
内藤晴。
美澄は知らなかった名前。
顔さえ覚えていない、見ず知らずの男。
けれど颯太は知っていた。
彼女の通学路を調べ、交友関係を探り、何度も彼女の後をつけていた男の名前を。
その男に辿り着いた時には、もう遅かったことも。
今世でヴィクトルを見た瞬間、その魂の癖に気づいたことも。
何も言わなかった。
「この世界で君を見つけた時、すぐに分かった」
「見た目も、名前も、声も違うのに?」
「分かるよ」
ノアは少しだけ笑った。
「美澄は、本を読む時、左手の親指でページの端を押さえる。考え込むと、右の眉だけ少し下がる。怖い時は、逃げる方向を先に探す。嬉しい時ほど、先に否定する」
ひとつずつ並べられるたび、リリアーナの胸が熱くなった。
こんなにも覚えていてくれたのだ。
こんなにも、自分を見つけてくれたのだ。
だから彼女は気づかなかった。
覚えている、というには、あまりにも細かすぎることに。
「ずっと好きだった」
ノアは言った。
その声は穏やかだった。
けれど、軽くはなかった。
「前世でも。今世でも。たぶん、君がどんな名前になっても」
リリアーナは泣きながら笑った。
前世の最後に聞いた「来世で結婚しようね」という言葉は、彼女にとって呪いだった。
けれど今、ノアの声は違って聞こえた。
奪おうとしない。
触れようとしない。
選ばせてくれる。
待ってくれる。
彼の愛は、怖くない。
少なくとも、リリアーナにはそう思えた。
「私、まだ怖いものがたくさんある」
「うん」
「急に近づかれるのも、誰かに見られるのも、たぶんずっと苦手」
「うん」
「それでも、あなたなら……ノアなら、大丈夫な気がする」
ノアの瞳が揺れた。
「リリア」
「私も、あなたのことが好き。前世の颯太としても、今のノアとしても」
ノアは一瞬、泣きそうに顔を歪めた。
それでも、手は伸ばさなかった。
「触れてもいい?」
そう聞いた。
リリアーナは涙を拭って、小さく頷いた。
ノアの手が、彼女の指先に触れた。
壊れものに触れるような優しさだった。
リリアーナは、その手を握り返した。
温かかった。
ようやく、自分は前世の恐怖から少しだけ解放されるのかもしれない。
そう思った。
数日後。
ヴィクトル・アルバーンは、王都の片隅にある安宿で一人、薄い寝台に腰を下ろしていた。
子爵家の名はもう使えない。
カミラもいない。
金もない。
学園にも戻れない。
なぜ自分がここまで落ちなければならなかったのか、何度考えても分からなかった。
リリアーナが悪い。
あの地味な女が、自分に恥をかかせた。
ベルフォード家が悪い。
父が悪い。
カミラが悪い。
そう思った時、扉の下から一枚の紙が滑り込んできた。
ヴィクトルは顔を上げた。
紙には、短い言葉だけが書かれていた。
――二度と彼女に近づくな。
署名はない。
けれど紙には、微かな魔力が残っていた。
冷たく、静かで、逃げ道を塞ぐような魔力。
ヴィクトルはなぜか、背筋が凍った。
遠い昔、別の世界で、誰かを追いかけていた気がした。
夜でも明るい道。
白い街灯。
手の中の刃物。
振り返ることもできなかった女。
そして、その向こう側でこちらを見ていた少年の目。
思い出せない。
思い出せないのに、怖かった。
同じ頃、ノア・レインフォードは自室で机の引き出しを閉じていた。
中には数冊の手帳がある。
前世で覚えていた美澄の癖。
今世のリリアーナの好み。
怖がる距離。
安心する声の高さ。
よく使う本棚。
疲れている時の筆跡。
笑う前に一度だけ視線を落とす癖。
そして、ヴィクトル・アルバーンに関する記録。
アルバーン子爵家の内部事情。
弟の評価。
カミラ・ロゼットの家が求めていた縁談条件。
魔石市場の相場。
ベルフォード家が使える代替仕入れ先。
必要な情報は、必要な相手の手に渡った。
リリアーナは自分で選んだ。
少なくとも、彼女はそう思っている。
それでいい。
ノアは窓の外を見た。
殺してしまえば早いと思ったことがある。
けれど、それでは足りなかった。
死は一瞬だ。
美澄が奪われた時間に比べれば、あまりにも短い。
だからノアは、ヴィクトルから順番に奪った。
婚約者を。
家名を。
財産を。
未来を。
最後に、自分が何を失ったのか理解できる程度の知性だけを残して。
リリアーナは、ノアの愛を優しいものだと思っている。
急かさない。
触れない。
選ばせてくれる。
待ってくれる。
だから知らない。
彼が待てるのは、待っている間も彼女を見失わないからだということを。
どこへ行っても、誰と話しても、何を選んでも。
彼はきっと、彼女を見つける。
前世でも。
今世でも。
たとえ次の生があるとしても。
机の上には、リリアーナが今日書いた研究メモの写しがある。
几帳面で、少し右上がりの文字。
彼女が生きている証。
彼女がここにいる証。
ノアは微笑んだ。
「今度こそ、誰にも奪わせない」
その声は、どこまでも優しかった。
そして、どこまでも重かった。




