第9話 初めての「人間の」常連客
銀貨三枚の重みと、飲み干されたスープ皿の記憶が、私の背中を少しだけ押してくれていた。
数日が過ぎた昼下がり。
私はカウンターで、木の実の殻を剥いていた。
隣ではシルフィードが、私が試作した「魔力マシマシ・キャラメルポップコーン」を、リスのような速度で消費している。
「……来たぞ」
彼の手が止まった。
翡翠色の瞳が、入り口の方角を鋭く見据える。
「前回の男だ。だが、今回は一人じゃない。……五人いる」
その言葉に、私の指先がビクリと跳ねた。
剥きかけの殻が床に落ちる。
五人。集団だ。
王宮での夜会。私を取り囲み、嘲笑していた貴族たちの顔がフラッシュバックする。
呼吸が浅くなる。
逃げたい。奥の部屋に鍵をかけて閉じこもりたい。
『おーい! 店主さん、やってるか!?』
扉が勢いよく開かれた。
先頭に立っていたのは、先日スープを飲ませた大柄な冒険者、ガンツさんだった。
彼の後ろから、剣士や弓使いとおぼしき男たち、そしてローブを纏った女性がぞろぞろと入ってくる。
狭い店内が、一気に革と鉄の匂いで満たされた。
「……い、いらっしゃいませ」
声が裏返る。
カウンターの下で、私はエプロンの端をきつく握りしめた。
怖い。
彼らの腰にある剣が、背中の杖が、私を傷つけるための道具に見えてしまう。
「ここが噂の店か? 随分と可愛らしい内装じゃないか」
「おいガンツ、本当にこんなカフェの飯で傷が治るのかよ?」
男たちが値踏みするように店内を見回す。
その視線に晒されるたび、肌が粟立つ。
けれど、最後に入ってきたローブの女性――魔導士らしき人が、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「馬鹿馬鹿しい。そんな都合のいい話があるわけないでしょ」
彼女は杖を床に突き、私を睨みつけた。
目の下に濃い隈がある。肌は荒れ、全身からピリピリとした苛立ちが滲み出ていた。
「おい店主。アンタ、どんな妖術を使ったの? 回復魔法でもないのに傷が塞がるなんて、魔法理論に反するわ」
「え、あ、その……」
問い詰められ、言葉に詰まる。
妖術なんて使っていない。ただ、美味しくなあれと念じただけだ。
私の沈黙をどう受け取ったのか、彼女は「フン」と息を吐いて席についた。
「ま、いいわ。どうせインチキでしょうけど、お腹は空いてるの。……一番早くできるものを頂戴」
敵意。あるいは、諦めに似た軽蔑。
それを向けられた瞬間、不思議と私の震えは止まった。
ああ、なんだ。
彼女も、あの日傷ついて倒れ込んでいたガンツさんと同じ目をしている。
飢えているのだ。
お腹だけじゃない。心も、身体も、何かに削り取られて疲弊している。
(……なら、私の仕事は一つだわ)
私は深呼吸をして、厨房に向き直った。
一番早くできて、疲れた体に染み渡るもの。
フライパンを火にかける。
たっぷりのバターを溶かし、刻んだ野菜とベーコン、そして冷やご飯を投入。
手早く炒める。塩コショウで味を整え、隠し味にトマトソースを少し。
そして、別のフライパンで卵を焼く。半熟のとろとろに。
(軽くなあれ。明るくなあれ)
魔力を注ぐ。
黄金色の卵が、ふわりと膨らむ。
チキンライスの上に、その卵を滑らせるように乗せた。
とろとろオムライスの完成だ。
◇
「お待たせしました」
五人分の皿をテーブルに運ぶ。
湯気と共に立ち昇る、バターと卵の甘い香り。
魔導士の女性が、スプーンを持ったまま固まった。
「……何よ、これ」
彼女は怪訝そうに呟いたが、抗えない誘惑に負けたように、スプーンを黄色い山に突き刺した。
卵と赤いライスを掬い上げ、口に運ぶ。
パクり。
彼女の動きが停止した。
咀嚼する音が、静かな店内に響く。
そして。
ヒュゥゥゥ……。
彼女の肩のあたりから、黒い靄のようなものが霧散していくのが見えた。
それは、魔導士特有の魔力酔いか、あるいは古い呪いの残滓か。
見ていた私も驚くほどの勢いで、彼女の顔色が白から桜色へと変わっていく。
「う……そ……」
彼女が目を見開いた。
隈の浮いていた目元が緩み、強張っていた口角が自然と上がる。
「頭が……痛くない。ずっと鉛が入っていたみたいだった肩が、軽い」
彼女だけではない。
ガツガツと食べていた他の男たちも、一様に驚いた顔で自分の体を見下ろしていた。
古傷の痛みが消えたのか、あるいは視界が晴れたのか。
そこにあるのは、純粋な驚きと、幸福感。
「あんた……これ、魔法薬何本分だ?」
ガンツさんが震える声で聞いた。
私は首を振る。
「ただのオムライスです。卵は新鮮なものを使いましたけど」
「ただの料理で、俺たちの『穢れ』が落ちるわけねぇだろ!」
男の一人が叫び、それから慌てて口を閉ざした。
そして、五人が一斉に席を立ち――私に向かって深く頭を下げた。
「疑って悪かった! こんなに美味くて、こんなにすげぇ飯、食ったことねぇ!」
「ごめんなさい……私、失礼なことを」
魔導士の女性が、涙目で私を見つめる。
その瞳には、もう軽蔑の色はなかった。
私はエプロンで手を拭い、小さく微笑んだ。
怖かったはずの武装集団が、今はただの「お腹を空かせた常連さん」に見える。
「いいんです。……おかわり、ありますよ?」
その言葉に、彼らが顔を輝かせた瞬間。
私は確信した。
ここには、私を傷つける人はいない。
「美味しい」という言葉の前では、人間も動物も、みんな等しく愛おしいのだと。
カウンターの隅で、シルフィードが満足げにポップコーンを放り投げて口でキャッチしたのが見えた。




