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悪役令嬢は引退して「おやつ屋さん」を始めます!  作者: 秋月 もみじ


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第8話 噂の「魔女の店」


 王都を追放されたあの日、馬車の中で食べたクッキーの味を、私は一生忘れないだろう。

 あれは自由の味だった。そして今、私の前には自由な森と、甘い香りが満ちている。


 カラン、コロン。

 ドアに取り付けたベルが、風もないのに鳴った。

 動物たちが遊びに来た音ではない。もっと重く、引きずるような音だ。


「……誰?」


 私は泡立て器を止め、カウンター越しに入り口を見た。

 テラス席で優雅に紅茶を飲んでいたシルフィードが、素早く立ち上がり、私の前に立ちはだかる。

 彼の背中から、ビリビリとした冷気が放たれていた。


「人間だ。……血の匂いがする」

「えっ」


 扉が、血塗れの手で押し開けられた。

 倒れ込むように入ってきたのは、革鎧を着た大柄な男だった。

 肩口が赤く染まり、顔色は土気色。冒険者だろうか。森の魔獣にやられたに違いない。


「……水……くれ……」


 男はうわ言のように呟き、床に突っ伏した。

 シルフィードが冷酷な目で見下ろす。


「捨ててこようか? こいつらは森を荒らす害虫だ」

「ダメです!」


 私はシルフィードの袖を引っ張り、厨房から飛び出した。

 怖い。確かに人間は怖い。

 また「役立たず」と罵られるかもしれない。ここを通報されるかもしれない。

 でも、目の前で人が死にそうなのを放っておけるほど、私は器用じゃなかった。

 それに何より――彼は、お腹が空いている顔をしていた。


「大丈夫ですか!? しっかりしてください!」


 男の体を抱え起こす。重い。

 呼吸が浅い。出血も酷いけれど、それ以上に極度の脱水と疲労が見て取れた。


「シルフィードさん、彼を椅子へ! 私は何か作ります!」

「……チッ。お前の頼みじゃ断れん」


 シルフィードは不承不承といった様子で指を弾いた。

 風が男の体をふわりと浮かせ、一番近くの椅子へと運ぶ。


 私は鍋に向かった。

 固形物は喉を通らないだろう。

 作り置きしていたポタージュを温め直す。

 カボチャとミルク、そして少しの塩。

 魔力を練り込む。


(痛いの飛んでけ、元気になあれ……)


 幼い頃、母がしてくれたおまじないを心の中で唱えながら、私は黄金色のスープを器に注いだ。


 ◇


「……飲めますか?」


 男の口元にスプーンを運ぶ。

 男は虚ろな目で私を見た。


「……幻覚か。魔女の……毒、か……」

「失礼な。特製ポタージュです」


 私は無理やり彼の口にスープを流し込んだ。

 男がむせそうになり、次の瞬間、カッと目を見開いた。


 ごくり。


 喉が鳴る。

 一杯目を飲み込むと、彼は震える手で私の手首を掴み、スプーンを求めた。


「……うまい」


 掠れた声。

 二口、三口。

 スープが胃袋に落ちるたびに、彼の顔色が劇的に変わっていく。

 土気色だった肌に赤みが差し、荒かった呼吸が整う。


 そして。

 シューッという微かな音と共に、肩口の切り傷から白い蒸気が立ち上った。


「な……?」


 男が自分の肩を見た。

 深手だったはずの傷口が、見る見るうちに塞がっていく。

 かさぶたすら残らない。ただ、つるりとした新しい皮膚がそこに生まれていた。


「馬鹿な……ハイ・ポーションでも、こんなに早くは……」


 男は呆然と呟き、それから私を凝視した。

 そこにあるのは、先ほどまでの警戒心ではない。

 畏怖と、感謝と、そして何より「もっと食べたい」という切実な欲求だった。


「あんた……いや、貴女様は、一体……?」

「ただのカフェの店主です。お代は銀貨一枚になりますけど、払えます?」


 私は努めて事務的に言った。

 ここで「聖女です」なんて勘違いされたら面倒だ。あくまで商売として成立させたい。

 男は震える手で懐を探り、銀貨を三枚、テーブルに叩きつけた。


「払う! これだけあれば、おかわりも頼めるか!?」

「ええ、もちろん。パンもお付けしますね」


 男は涙目でスープ皿を舐めるように飲み干した。

 その必死な姿を見ていると、私の胸の中にあった「人間への恐怖」という塊が、少しだけ溶けていく気がした。


 シルフィードが、後ろで腕を組んで鼻を鳴らす。

「やれやれ。人間も、餌付けしてしまえば大人しいものだな」

「シーッ! 聞こえますよ」


 私は空になった皿を受け取り、厨房へと戻る。

 背中にかかる「ありがとう」という小さな声が、なぜだか今までのどんな賛辞よりも温かく感じられた。


 こうして、私の店に初めての「人間の常連客」が誕生したのだった。

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