第7話 王都の異変
目の前に並べられた最高級の仔羊のローストは、俺の目には焼き焦げた泥の塊にしか見えなかった。
「……殿下、お加減が優れないのですか?」
給仕の声に、俺は苛立ちを隠せずにナプキンを投げ捨てた。
カトラリーが皿に当たり、神経に障る高い音を立てる。
「下・げ・ろと言っているんだ! こんなパサパサした肉が食えるか!」
「も、申し訳ございません! すぐに作り直させます!」
給仕たちが青ざめて皿を撤去していく。
俺はこめかみを押さえて、深く長いため息をついた。
ここ数日、何を食べても味がしない。
舌の上で食材が砂のように崩れ、飲み込むのさえ苦痛だ。胃の腑はずっと鉛を飲み込んだように重いのに、身体は乾いたスポンジのように何かを欲している。
執務室に戻る足取りも重かった。
廊下ですれ違う侍女たちが、俺の顔色の悪さにギョッとして頭を下げるのが視界の端に見える。
ガチャリ、と重厚な扉を開ける。
中には、近衛騎士団長のガイルが、今にも切腹しそうな悲痛な面持ちで立っていた。
「……またか」
俺は椅子にドカッと座り込んだ。
革の感触すら、今日は不快だ。
「報告しろ。今日は何人が医務室送りになった?」
「はっ……。本日の模擬戦にて、骨折者が三名、打撲による気絶者が五名であります」
ガイルの声が震えている。
精強を誇る我が国の近衛騎士団が、ここ一週間でボロボロになっていた。
敵襲ではない。ただの訓練だ。
以前なら笑って済ませていた程度の転倒で骨を折り、剣を数回振っただけで息を切らして倒れる者が続出しているのだ。
「たるんでいるのではないか? 食事はしっかり摂らせているのか」
「それが……兵士たちも食欲不振を訴えておりまして」
ガイルが気まずそうに視線を泳がせた。
「皆、『いつものクッキーがないと力が出ない』と……」
ピクリ、と俺の眉が跳ねた。
クッキー。
その単語を聞いた瞬間、俺の胃袋がキュゥゥゥと悲鳴を上げた。
脳裏に浮かんだのは、地味で目立たない、常に厨房の匂いをさせていた元婚約者の姿。
「……メロディのことか」
「はっ。メロディ様が追放される前は、毎日大量の焼き菓子を訓練場に差し入れてくださいました。あれを食べると、どんな激しい訓練でも疲れ知らずだったと、兵士たちが」
俺は肘掛けを強く握りしめた。
指の関節が白くなる。
馬鹿な。あんな女の作る、形も不揃いな菓子ごときに。
たかが小麦と砂糖の塊だろう?
俺は引き出しを開けた。
一番奥に、彼女が最後に置いていった小さな包みが残っていたはずだ。
あった。
包み紙を開くと、乾いてひび割れたクッキーの欠片が出てきた。
迷うことなく、俺はその欠片を口に放り込んだ。
ドクン。
心臓が跳ねた。
ひび割れていても、風味が落ちていても、その欠片が舌に触れた瞬間、爆発的な「熱」が喉を駆け下りた。
砂漠に水が染み込むように、枯渇していた俺の細胞が歓喜の声を上げる。
視界の靄が晴れ、指先の痺れが消えていく。
「……あ」
口の中に残る、微かな甘み。
それを名残惜しく舌で転がしながら、俺は戦慄していた。
これはただの菓子ではない。
魔力だ。それも、極めて純度の高い治癒と身体強化の魔法が、この小さな欠片に圧縮されていたのだ。
俺たちは、彼女の魔法を「おやつ」として貪り食い、それによって強さを維持していたに過ぎない。
その供給源を、俺は自ら追放したのか?
「……ガイル」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、そして焦りに満ちていた。
「は、はい!」
「捜索隊を出せ。今すぐにだ!」
俺は立ち上がった。
全身に力がみなぎっている。いや、これは残滓だ。この欠片の効果が切れれば、俺はまたあの泥のような倦怠感に襲われる。
そんなことは耐えられない。
「メロディ・シュガーを見つけ出せ! 彼女を連れ戻さない限り、この国は……いや、俺の胃袋は終わりだ!」
窓の外、王都の空はどんよりと曇っていた。
あの日、彼女を追い出した時に晴れやかだった自分の愚かさを、俺は今になって噛み締めていた。
まだ口の中に残る、優しい甘さと共に。




