第5話 開店準備はトラブル続き
ピカピカに磨き上げられた大理石の調理台を撫でながら、私は絶望の淵に立っていた。
目の前には、最新式の魔導オーブン。
壁には使いやすそうなフック収納。
蛇口をひねれば、清らかな水が出るシンク。
シルフィードの風魔法によるリフォームは完璧だった。王宮の厨房だって、これほど機能的ではないだろう。
ただ一つ、致命的な欠陥を除いては。
「……ない」
私は空っぽの食料庫の前で膝をついた。
乾いた笑いが漏れる。
そうだ。ここは人里離れた森の廃屋。
近所のスーパーなんてあるわけがない。持ってきた卵と砂糖は、昨夜のカスタードで使い切ってしまった。
つまり、調理器具はあるのに、焼くべきものが何もないのだ。
「おい、いつまで床と睨めっこをしている?」
背後から、不機嫌そうな声が降ってきた。
振り返ると、シルフィードが腕組みをして仁王立ちしている。
銀髪がサラサラと揺れ、その美貌は絵画のようだが、言っていることはただの腹ペコ魔王だ。
「契約を忘れたか? 昼食の時間だ。僕の腹は限界だぞ」
「……材料がないんです」
「は?」
彼は片眉を上げた。
私は力なく立ち上がり、空っぽの棚を指差す。
「見ての通りです。小麦粉も、お肉も、野菜もありません。あるのは水だけ。お水飲みます?」
「ふざけるな。水で魔力が回復するか」
シルフィードは鼻を鳴らすと、苛ただしげに窓の外へ視線をやった。
その翡翠色の瞳が、森の奥を鋭く射抜く。
「……チッ。仕方ない」
彼は短く舌打ちをすると、私に向き直った。
「鍋の湯を沸かして待っていろ」
「え? どこへ行くんですか?」
「食材調達だ。……そこらをうろついている『肉』を獲ってくる」
言い捨てると同時に、彼の姿がブレた。
次の瞬間、風と共に彼は消えていた。
残された私は、ぽかんと口を開けるしかない。
◇
十分後。
ドサァァァン!!
という地響きと共に、庭に巨大な塊が降ってきた。
「……嘘でしょ」
窓から顔を出した私は、絶句した。
そこに転がっていたのは、牛ほどもある巨大な猪だった。
ただの猪ではない。牙が四本あり、全身からドス黒い紫色の煙――瘴気を漂わせている。
間違いなく、高ランクの魔獣「キラーボア」だ。
「獲ってきたぞ」
涼しい顔で着地したシルフィードが、埃を払う仕草をした。
衣服には返り血一つついていない。
「さあ、料理しろ」
「い、いやいや!」
私は慌てて外に飛び出し、手を振って否定した。
巨大な死骸から漂う腐臭に、鼻が曲がりそうだ。
「これ、魔獣ですよね!? 食べられませんよ! 臭いし硬いし、お腹を壊します!」
「なんだ、できないのか?」
シルフィードが見下ろしてくる。
その瞳にあるのは、侮蔑ではない。純粋な疑問だった。
『お前ならできると思っていたのに』という、無邪気な期待。
カチン、と私の職人魂のスイッチが入る音がした。
「……誰に言っているんですか」
私はスカートの裾をまくり上げ、エプロンの紐をきつく締め直した。
ナイフを握る手に、魔力を込める。
確かに魔獣肉は一般的には食用不可だ。瘴気が強く、アンモニア臭が酷い。
でも、私には「美味しくなる魔法」がある。
毒だってスパイスに変えてみせる。
「いいでしょう。最高のご馳走にしてやりますから、後で吠え面かかないでくださいね!」
私は巨大な猪の前に立ちはだかった。
まずは解体だ。
ナイフを突き立てる。硬い皮も、魔力を纏わせればバターのように切れる。
ブシュッ、と黒い血が飛ぶが、構わず肉を切り出した。
ドス黒い赤身肉。鼻を突く悪臭。
(美味しくなあれ、清くなあれ……!)
私は肉の塊を両手で挟み、全神経を集中させた。
イメージするのは、清流で洗われる果実。あるいは、太陽をたっぷり浴びた熟成肉。
掌から溢れた光が、肉を包み込む。
ジジジ……と音を立てて、紫色の瘴気が蒸発していく。
「……ほう」
近くで見ていたシルフィードが、感心したように息を漏らした。
私の手の中で、ドス黒かった肉塊が、鮮やかなルビー色へと変貌を遂げていく。
悪臭は消え、代わりにナッツのような芳醇な脂の香りが漂い始めた。
◇
三十分後。
ダイニングテーブルには、湯気を立てる二つの皿が並んでいた。
キラーボアの特製ハンバーグ。
つなぎのパン粉がないので、肉の挽き具合を調整して結着させた、肉汁溢れる一品だ。ソースは森で採ったベリーを煮詰めた甘酸っぱいもの。
「……食えるのか、本当に」
席についたシルフィードが、フォークを持ったまま固まっている。
さっきまでの威勢はどこへやら、彼は皿の中身を「爆発物」を見るような目で見つめていた。
精霊にとって、瘴気を含んだ魔獣は穢れそのものなのだろう。
「どうぞ。毒見は私がしましたから」
私は自分の分を切り分け、パクりと口に入れた。
じゅわり。
噛んだ瞬間、濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。臭みなんて微塵もない。むしろ、普通の豚肉より味が濃くて力強い。
「ん〜っ! 美味しい!」
私が頬を押さえて身悶えすると、シルフィードがゴクリと喉を鳴らした。
恐る恐る、彼が小さな欠片を口に運ぶ。
咀嚼。
一回、二回。
カッ!
まただ。彼の瞳が翡翠色に発光した。
部屋の中を、心地よい風が吹き抜ける。
「……なんだ、これは」
彼は呆然と呟いた。
「力が……澱んでいた魔力が、清流のように巡っていく。ただの肉じゃない。これはまるで、高純度の魔石を食べているようだ」
「でしょう? 私の『下処理』は完璧なんです」
私は胸を張った。
彼は私をまじまじと見つめ、それからフッと笑った。
今までの尊大な態度とは違う、子供のような無防備な笑顔だった。
「認めてやる。お前はただの人間じゃない。……僕の専属シェフにふさわしい」
「はいはい。冷めないうちに召し上がれ」
ガツガツと、上品ながらも猛烈な勢いでハンバーグを平らげていく精霊王様。
その向かいで、私もナイフを動かす。
食材はないけれど、ここには豊かな森がある。
そして、文句を言いながらも頼りになる相棒(?)もできた。
窓の外では、おこぼれを狙うリスたちが、窓枠に並んでこちらを覗いている。
お腹がいっぱいになる頃には、私の不安もどこかへ消え失せていた。




