第4話 押しかけ従業員は精霊王?
服の裾を握りしめるその手は、白く美しいのに、万力のように強かった。
「……あの、離していただけますか?」
私は引きつった笑顔で頼んでみる。
銀髪の青年は、翡翠色の瞳をすがめるように細め、私の顔と空っぽの手のひらを交互に見ていた。
「断る」
「えっ」
「お前の魔力……いや、あの菓子だ。あれがないと体が保たん」
彼は当然の権利のように言い放つと、ふらりと立ち上がった。
背が高い。
見上げると首が痛くなるほどの長身だ。威圧感に、私は無意識に半歩下がった。
逃げよう。そう判断して踵を返しかけた瞬間、彼が呆れたように鼻を鳴らす。
「待て。タダで食わせろとは言っていない」
彼は視線を巡らせた。
雑草だらけの庭、崩れかけた外壁、そして蜘蛛の巣だらけの廃屋。
その眉間に深い皺が刻まれる。
「……なんだこのゴミ溜めは。人間というのは、こんな豚小屋で暮らすのが趣味なのか?」
「失礼ですね! ここは私の城です。まだ掃除が終わっていないだけです!」
カチンときて言い返してしまった。
口に出してから、相手が暴風を起こせる危険人物だったと思い出し、背筋が凍る。
しかし、彼は怒るどころか、面白がるように口角を上げた。
「掃除、か。……いいだろう。僕が片付けてやる」
「は?」
「その代わり、死ぬほど食わせろ。契約成立だ」
彼が右手を掲げる。
長い指先が、指揮者のタクトのように虚空を弾いた。
ヒュオッ。
風が巻いた。
先ほどの破壊的な暴風ではない。もっと緻密で、意思を持ったような風の刃。
それが無数に発生し、廃屋へと殺到する。
「ちょ、家が壊れ――!」
悲鳴は喉の奥で止まった。
風は屋敷を壊すのではなく、撫でていた。
風が通り過ぎるたびに、屋根の苔が削ぎ落とされ、曇った窓ガラスが磨き上げられ、剥がれかけた塗装が鮮やかに塗り直されていく。
庭の雑草は根こそぎ刈り取られ、瞬く間に美しい芝生へと変わった。
まるで、時間を巻き戻しているかのような光景。
「……嘘」
私は瞬きを忘れた。
数秒前までお化け屋敷だった建物が、新築同然の可愛らしいコテージに変わっていた。
壁はクリーム色、屋根は赤茶色のレンガ。
あんなに不気味だった場所が、絵本に出てくるお菓子屋さんのようだ。
「どうだ」
彼は腕を組み、ドヤ顔で私を見下ろしている。
私は恐る恐る、真新しい壁に触れた。
ツルツルしている。幻覚じゃない。
「あ、あなた……何者なんですか?」
「シルフィード。風を統べる者だ」
彼は短く名乗ると、私の反応を楽しむように目を細めた。
風を統べる。つまり、風の精霊。
お伽話に出てくる存在が、まさかこんな森の奥で、しかも行き倒れていたなんて。
(でも……)
私は計算する。
この規模の修繕を業者に頼んだら、金貨何枚かかるだろうか。
それを彼は、指先一つでやってのけた。
しかも要求は「お菓子」だけ。
私の思考回路の中で、天秤が激しく揺れ動く。
『正体不明の危険人物と同居するリスク』対『最高に快適な住環境と労働力』。
カタリ、と天秤が傾いた。
欲望の方へ。
「……わかりました。シルフィードさん」
私は彼に向き直り、スカートをつまんで礼をした。
貴族としてではなく、この屋敷の主として。
「貴方を雇用します。報酬は一日三食とおやつ。ただし、働かない日は抜きです」
「ほう? 僕に条件をつける人間は初めてだ」
シルフィードは喉の奥で笑った。
それは猛獣が獲物を値踏みするような笑いだったけれど、私は不思議と怖くなかった。
だって、今の私は「最強の大家さん」なのだから。
「さあ、入ってください。まずはキッチンを確認します。素晴らしいオーブンが入っていることを期待していますよ?」
私は彼を先導して、ピカピカのドアを開けた。
中から漂うのは、新しい木の香りと、これから始まる美味しい生活の予感。
シルフィードが肩をすくめて、私の後ろについてくる気配がした。
こうして、私の隠居生活は、想定外の同居人と共に幕を開けたのだった。




