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悪役令嬢は引退して「おやつ屋さん」を始めます!  作者: 秋月 もみじ


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第3話 銀色の迷子


 目覚めると、部屋は見違えるほど綺麗になっていた。


 硬い床の感触に背中を軋ませながら起き上がる。

 窓から差し込む朝日が、埃の消えた床板を白く照らしていた。昨晩、カスタードのお礼にと動物たちが磨いてくれたおかげだ。

 私は大きく伸びをする。


「……ふあ。お腹空いた」


 昨日のカスタードは美味しかったけれど、私の魔力を大量に消費したせいで、燃費が悪くなっているらしい。

 朝食はどうしよう。トランクには、あと一枚だけクッキーが残っていたはずだ。

 あれを食べて、今日は井戸の水汲みから始めようか。


 そう計画を立てていた、その時だった。


『――ッ!』


 窓枠に止まっていた小鳥たちが、弾かれたように飛び立った。

 床で丸まっていたリスも、全身の毛を逆立てて震えている。


「どうしたの?」


 私が声をかけるより早く、リスは脱兎のごとく壁の穴へと逃げ込んでしまった。

 ただ事ではない。

 森の生き物がこれほど怯えるなんて、魔獣でも出たのだろうか。


 私はトランクの底から護身用の小さなナイフを取り出し、慎重に窓の外を覗き込んだ。

 荒れ果てた庭。腰まで伸びた雑草の海。

 その中に、異質な「色」が落ちていた。


「……銀色?」


 陽光を反射して煌めくそれは、どう見ても自然物ではない。

 私は喉を鳴らし、ナイフを握り直すと、音を立てないように裏口から外へ出た。


 草をかき分けるたびに、甘いような、それでいてひやりとする冷気が肌を撫でる。

 近づくにつれて、その輪郭がはっきりとしてきた。

 

 人だ。

 うつ伏せに倒れている。


「……あの、もしもし?」


 声をかけても反応はない。

 私は恐る恐る近づき、その肩に触れようとして――息を呑んだ。

 仰向けになったその顔が、あまりにも整っていたからだ。


 長い銀髪は絹のように地面に広がり、睫毛は雪の結晶のように白い。

 人間離れした美貌。けれど、その肌は陶器のように蒼白で、胸の上下動もほとんど感じられない。

 死んでいる? いいえ、まだ微かに温かい。


(……この感じ)


 彼から漂う気配に、既視感を覚える。

 昨晩、私の料理を食べた動物たちが放っていたものと同じ、しかし桁違いに濃密で純粋な気配。

 

 この人は、ただ寝ているわけじゃない。

 枯渇しているのだ。

 魔力も、体力も、すべてが空っぽになって、命の灯火が消える寸前。


 ぐぅ、と私の腹の虫が鳴いた。

 彼を見ていると、なぜか昨日の自分――馬車の中で空腹に震えていた自分を思い出してしまう。


「……はあ。損な性分だわ」


 私はため息をつき、ポケットからハンカチ包みを取り出した。

 最後の一枚。私の大事な朝食。

 バターたっぷりのプレーンクッキー。

 これを失えば、私は昼まで空腹に耐えなければならない。


 けれど、目の前の彼ほど切羽詰まってはいない。


「食べられますか? これ、すごく美味しいんですよ」


 私は彼の冷たい唇に、クッキーを押し当てた。

 反応はない。

 無理やり口をこじ開け、小さく割った欠片を放り込む。

 私の指先から、いつものように淡い光が漏れ出し、クッキーと共に彼の口内へと溶けていく。


 その瞬間だった。


 ドクン。


 世界が脈打ったような音がした。


「え?」


 カッ! と彼の見開かれた瞳が、鮮烈な翡翠ひすい色に輝く。

 次の瞬間、爆発的な突風が巻き起こった。


「きゃあっ!?」


 私は吹き飛ばされそうになる体を、必死に地面に伏せて耐えた。

 周囲の草がなぎ倒され、木々が悲鳴を上げてしなる。

 ただの風ではない。これは魔力の奔流だ。

 彼を中心に、大気が渦を巻いて歓喜の歌を歌っているようだった。


 やがて、暴風が嘘のように静まり返る。

 残ったのは、柔らかな春のようなそよ風だけ。


 恐る恐る顔を上げると、彼が上半身を起こしていた。

 先ほどまでの死相は消え、頬には健康的な赤みが差している。

 翡翠色の瞳が、獲物を狙う猛獣のような鋭さで、私を射抜いた。


「……お前か」


 鈴を転がすような、けれど威厳に満ちた声。

 彼は私の手首を掴んだ。

 強い力。逃げられない。

 殺される、と本能が警鐘を鳴らす。


 しかし、彼の視線は私の顔ではなく、空になった私の手元――クッキーの欠片さえ残っていない掌に釘付けになっていた。


「……もっと」


 彼は切実な声で、私の服の裾をぎゅっと握りしめた。


「あの至高の魔力あじを、もっとよこせ」


 ……どうやら私は、とんでもない迷子を拾ってしまったらしい。

 私の平穏な隠居生活が、音を立てて崩れ去る予感がした。

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