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悪役令嬢は引退して「おやつ屋さん」を始めます!  作者: 秋月 もみじ


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第2話 森の廃屋と、最初の一皿


 口の中に残っていたクッキーの甘みは、馬車の激しい揺れと共に消え失せていた。


「……着きましたぜ、お嬢さん」


 御者の声は、どこか怯えていた。

 私は強張った体をほぐしながら、馬車を降りる。

 足元には、何年も手入れされていないであろう雑草が膝丈まで生い茂っていた。その奥に、傾きかけた木造の屋敷が、枯れ木の隙間から亡霊のように佇んでいる。

 ここが、私の新しい家。


「本当に、ここでいいんですかい? 魔獣が出ると噂の森ですぜ」


 御者が眉を下げて尋ねてくる。

 私は胃のあたりをさすった。空腹で、少し吐き気がする。


「ええ、構いません。……ここなら、誰にも気兼ねなく火を使えますから」

「はあ……。じゃあ、あっしはこれで。死なないでくだせえよ」


 彼は逃げるように手綱を振るった。

 遠ざかる馬蹄の音だけが、文明社会との最後との繋がりのように聞こえる。

 残されたのは、私とトランク一つ。そして、圧倒的な静寂。


 ギィ、と錆びついた蝶番を鳴らして、屋敷の扉を開ける。

 むっとした湿気と、積もった埃の匂いが鼻を突いた。


「……うわあ」


 思わず声が漏れる。

 床は見えないほどの埃。天井には立派な蜘蛛の巣のシャンデリア。家具は布を被っているが、その布自体がカビ臭い。

 普通なら、まず掃除をするべきだ。

 窓を開け、風を通し、寝床を確保する。それが「生きるため」の正しい手順だとわかっている。


 ぐぅぅぅ。


 腹の虫が、屋敷の静寂を切り裂くように鳴いた。

 私はその場に膝をついた。

 無理だ。今の私に必要なのは清潔なベッドではない。糖分だ。

 思考が鈍る。指先が震える。

 このまま掃除をすれば、私はきっと埃の中で行き倒れるだろう。

 ならば、選ぶべき道は一つしかない。


「……お茶にしましょう」


 私は震える手でトランクを開けた。

 服の間に詰め込んでおいた、私の宝物たち。

 小さな手鍋。魔法瓶に入れた水。そして、ハンカチに包んだ卵と、小瓶に入った砂糖。ミルクがないのが痛恨だが、今は贅沢を言っていられない。


 埃を払ったテーブルの上に、道具を並べる。

 指先を鳴らすと、小さな火種イグニスが灯った。本来なら暖炉に薪をくべるべきだが、そんな体力は残っていない。

 私は手鍋を直接、魔法の火で炙った。


 カチ、カチ、と卵を割る音が、廃屋に響く。

 黄身の鮮やかな橙色が、灰色に沈んだ世界で唯一の彩りだった。

 砂糖を加える。

 そして、私の魔力を注ぎ込む。


(美味しくなあれ、美味しくなあれ……)


 呪文のように心で唱える。

 魔力が血管から指先へ、そして木べらを通じて鍋の中へと流れ込んでいく感覚。

 視界がふらりと揺れた。

 これは私の寿命を削っているのかもしれない。けれど、艶やかなクリーム状になっていく卵液を見ていると、止めることができない。

 鍋の中から、黄金色の光が漏れ出す。

 甘く、濃厚なカスタードの香りが、カビ臭さを塗り替えるように広がっていった。


 コト、と何かが床を叩く音がした。

 顔を上げると、開け放した扉の隙間から、一匹のリスが顔を覗かせている。

 普通のリスではない。毛並みが青白く発光している。


「……あら」

 

 私はスプーンにすくったカスタードを、ふうふうと冷ました。

 とろりとした黄金の雫。

 一口舐める。

 脳髄が痺れるほどの甘みと、卵のコク。すり減った神経の一つ一つに、熱い活力が染み渡っていく。

 生き返る。

 思わずほう、と息を吐くと、視線の端でリスが鼻をひくひくさせていた。

 その後ろから、小鳥や、ウサギのような耳をした何かが次々と現れる。

 みんな、私の鍋を凝視していた。


「……欲しいの?」


 私は残りのカスタードを、欠けた皿の上に落とした。

 警戒していた彼らが、一斉に飛びつく。

 小さな舌がクリームを舐め取るたびに、彼らの体がふわりと輝きを増したような気がした。


『――うめぇ』


 低く、野太い声が聞こえた。

 私はビクリとして周囲を見渡す。誰もいない。

 視線を戻すと、リスが満足そうに口の周りを拭っていた。


「……今、喋った?」


 リスは首をかしげ、クリクリとした目で私を見つめ返すだけだ。

 きっと幻聴だ。空腹と魔力枯渇で、耳がおかしくなっているに違いない。

 けれど。


 食べ終わった動物たちは、帰ろうとしなかった。

 リスが尻尾をブラシのように使って床の埃を掃き始め、小鳥たちが蜘蛛の巣をくちばしで絡め取り始めたのだ。

 まるで、食事代を払うかのように。


「ふふ……ありがとう」


 私は壁にもたれかかり、スプーンを舐めた。

 冷たい床の上だけど、ここには意地悪な王太子も、陰口を叩く令嬢たちもいない。

 いるのは、甘い香りと、不思議で親切な隣人たちだけ。


 傾きかけた廃屋に、温かい夜が満ちていくのを感じながら、私は重くなった瞼を閉じた。

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