第10話 迫りくる「追手」
冒険者たちが残していった「美味かった!」という言葉は、夕暮れの厨房で私の心を温め続けていた。
洗い物を終え、ふうと息をつく。
窓の外では、空が茜色から群青色へとグラデーションを描いている。
平和だ。
ここには理不尽な命令も、冷ややかな視線もない。あるのは、風の音と、シルフィードが紅茶をすする微かな音だけ。
カチャン。
その音が、不自然に大きく響いた。
シルフィードが、ティーカップをソーサーに置いた音だ。
けれど、その手つきはいつもの優雅なものではなく、硬質で、どこか刺々しい。
「……メロディ」
彼が私の名を呼んだ。
その声の低さに、私は濡れた手を拭くのも忘れて振り返る。
翡翠色の瞳が、細められていた。
「客だ。……だが、招かれざる客だな」
「え?」
「蹄の音が二十。鉄の擦れる音が多数。旗印は……金の獅子」
金の獅子。
その単語を聞いた瞬間、私の心臓が早鐘を打った。
それは、この国の王家の紋章。
そして、王太子クロード様の近衛騎士団だけが掲げることを許された印。
「う、そ……」
布巾を取り落とす。
足元から冷たい何かが這い上がってくる感覚。
なぜ? どうして?
私は大人しく追放を受け入れたはずだ。二度と王太子の前には現れないと誓って、こんな森の奥まで逃げてきたのに。
(まだ、許してくれないの?)
脳裏に蘇るのは、舞踏会場でのクロード様の怒号。
『視界から消えろ』という言葉。
消えたはずなのに、わざわざ騎士団を差し向けるなんて。
目的は一つしか思い浮かばない。
――処刑だ。
追放だけでは飽き足らず、私の存在そのものを消しに来たんだ。
ガタガタと膝が震えた。
呼吸が浅くなる。
せっかく手に入れたこの場所も、動物たちとの時間も、すべて終わってしまう。
「……怯えているな」
シルフィードが音もなく立ち上がり、私の前に立った。
彼は窓の外、森の入り口の方角を冷ややかに見下ろしている。
「僕が消してやろうか?」
さらりと言った。
まるで、テーブルの上の埃を払うかのように。
「森に入った不届き者だ。風の刃で切り刻むか、あるいは竜巻で空の彼方へ吹き飛ばすか。お前が望むなら、跡形もなく処理してやる」
「ッ……!」
彼の指先に、圧縮された魔力が集まっていくのが見えた。
それは凄まじい力だ。
騎士団など、彼にとっては虫けら同然なのだろう。
頷けば、助かる。
「お願い」と一言言えば、私の恐怖の対象は消え去る。
でも。
(消すって……殺すってこと?)
私は唇を噛んだ。
鉄の味がした。
騎士団の人たちにも、家族がいる。
以前、訓練場にクッキーを差し入れに行くと、「ありがとう」と笑ってくれた若い兵士たちの顔が浮かぶ。
彼らは命令に従っているだけだ。
それを、私の保身のために殺させるの?
「……だめ」
絞り出した声は、自分でも情けないほど震えていた。
「だめです、シルフィードさん。……殺さないで」
「ほう? 殺されるのはお前かもしれないぞ」
シルフィードが眉を上げる。
理解できない、という顔だ。
「なぜだ。力なき者が生き残るには、力ある者に頼るのが道理だろう。お前は僕という『力』を持っている。なぜ使わない」
彼は正しい。生物としては、彼が絶対に正しい。
でも、私は人間で、ここは私の「お店」だ。
お客様を殺す店主なんて、どこにもいない。
「……ここは、カフェですから」
私は震える足に力を込め、床を踏みしめた。
深呼吸を一つ。
肺いっぱいに、甘い焼き菓子の香りを吸い込む。
この香りが、私を支えてくれる。
「暴力で解決したら、私はあの方たち……私を追放した人たちと同じになってしまいます。私は、私のやり方で戦います」
「……武器も持たずにか」
「いいえ。ありますよ」
私はエプロンの紐をきゅっと結び直した。
そして、カウンターの上に置いてあったバスケットを手に取る。
中には、今朝焼いたばかりのマドレーヌが詰まっている。
「私の武器はこれです。……話し合いましょう。もしかしたら、彼らもお腹が空いて、イライラしているだけかもしれませんから」
シルフィードが、ぽかんと口を開けた。
それから、くっくと喉を鳴らして笑い出した。
「ハハッ! 傑作だ。完全武装の騎士団を前に、『お腹が空いているだけかも』とはな!」
彼は愉快そうに笑い、指先の魔力を霧散させた。
「いいだろう。その蛮勇に免じて、僕も見届けてやる。……ただし、お前が傷つけられそうになったら、その時は問答無用で介入するぞ」
「はい。ありがとうございます」
私はドアノブに手をかけた。
冷たい金属の感触。
その向こうには、蹄の音がすぐそこまで迫っていた。
ガチャリ。
扉を開ける。
夜の闇の中、松明の明かりが無数に揺れていた。
私は逃げない。
ここが私の居場所だと、胸を張って伝えるために。




