第1話 さようなら、甘くない生活
『君との婚約を破棄する!』
シャンデリアが揺れるほど高らかに響いたその声は、私にとって『おやつ解禁』の合図だった。
王宮の舞踏会場。
色とりどりのドレスや宝石が並ぶきらびやかな空間で、私はコルセットの締め付けに耐えながら、ひたすらに「虚無」を演じていた。
目の前に立つのは、この国の王太子クロード様。
整った顔立ちは、今は怒りで真っ赤に染まっている。
「メロディ・シュガー! 君には失望した!」
クロード様の怒号が飛ぶ。
私は反射的に、お腹の虫が鳴かないよう腹筋に力を入れた。
失望。その言葉は、私の頭の中で瞬時に別の意味へと変換される。
――もう、お妃教育をしなくていいのですね?
「……はい、謹んでお受けいたします」
私は深くカーテシーをした。
頭を下げた拍子に、ドレスの隠しポケットに入れたハンカチ包みがガサリと音を立てる。
中身は、厨房からこっそり救出してきた焼き立てのスコーンだ。まだ温かい。バターの芳醇な香りが、鼻腔をくすぐる気がした。
「……は?」
クロード様の動きが止まった。
私の即答が予想外だったらしい。
「弁明はないのか? 君が聖女リリィをいじめたという目撃証言があるのだぞ」
「ございません。殿下がそう判断されたのであれば、それが真実でしょう」
反論する時間が惜しかった。
反論すれば、調査だの謹慎だのと続き、結局はこの堅苦しい城に留め置かれる。
それよりも早く、このスコーンが冷めないうちに齧り付きたい。私の優先順位は、いつだって明確だ。
周囲の貴族たちがざわめき始める。
「認めたぞ」「やはり悪女だったか」「地味な女だと思っていたが……」
彼らの視線が、針のように突き刺さる。
けれど、痛みは感じなかった。
私の心はすでに、ここではないどこか――小麦と砂糖が支配する平和な厨房へと飛んでいたからだ。
「……いいだろう」
クロード様が、苦虫を噛み潰したような顔で私を睨みつけた。
その瞳の奥に、なぜか焦りのような色が滲んでいることに、私は気づかないふりをする。
「君には国外追放……いや、辺境の別荘への蟄居を命じる! 今すぐ、私の視界から消えるがいい!」
「かしこまりました。今までお世話になりました」
私はもう一度、完璧な礼をした。
顔を上げたとき、クロード様が何か言いかけたように口を開いたが、私は踵を返して背を向けた。
出口へと続く赤い絨毯。
一歩踏み出すたびに、足取りが軽くなる。
背中の後ろで「おい、待て!」という声が聞こえた気がしたが、それはきっと、私の退場を惜しむ幻聴だろう。
◇
一時間後。
私は、実家の紋章が入っていない粗末な馬車に揺られていた。
窓の外を流れていく王都の街並み。
実家からは即座に「縁を切る」という手紙が届いた。着の身着のまま、手荷物はトランク一つ。
普通なら、絶望で泣き崩れる場面かもしれない。
けれど。
「……いただきます」
私は、ハンカチの包みを開いた。
現れたのは、少し形が歪なプレーンクッキー。スコーンは待ちきれずに控え室で食べてしまったので、これは二品目だ。
私が魔法でこっそりと「美味しくなるおまじない」をかけた、特製のクッキー。
サクッ。
乾いた音が、狭い車内に響く。
次の瞬間、口の中に爆発的な幸福が広がった。
上質なバターのコク。小麦の香ばしさ。そして、舌の上でほろりと解ける砂糖の甘み。
ただのクッキーではない。
食べた瞬間、指先からじわりと温かい力が湧いてくるのを感じる。強張っていた肩の力が抜け、視界がクリアになる。
(やっぱり、私の魔法は変だわ)
自分の指先が、ほんのりと淡い光を帯びているのをぼんやりと見つめた。
「味覚付与」。
そう名付けた私の魔法は、ただ味を良くするだけのはずなのに、食べると妙に元気が湧いてくる。
まあ、いいか。美味しいは正義だ。
ガタン、と馬車が大きく揺れた。
これから向かうのは、魔獣が出ると噂の深い森にある、荒れ果てた廃屋だという。
けれど、不思議と不安はなかった。
口の中に残る甘い余韻が、私にこう囁いていたからだ。
これからは、誰に気兼ねすることなく、好きなだけお菓子が焼けるのだと。
窓から差し込む月明かりが、私の新しい人生を祝福するように、食べかけのクッキーを照らしていた。




