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日常シリーズ

耳が探す音

作者: 釜瑪秋摩

 私の名前は樋口圭子ひぐちけいこ。三十二歳。

 とある企業の営業職についている。


 今日は遅いお昼に職場近くの喫茶店へやってきた。

 このお店のランチは午後三時までやっていて、忙しくて休憩を取るのが遅くなったときに重宝しているのだけれど、それだけではなく、雰囲気もとてもいい。


 流行りのお洒落なカフェじゃなく、古い昔ながらの喫茶店。

 あちこちに所狭しと置かれた観葉植物、ガラス細工の小物、木の実で作られた壁掛け、すっかり見ることのなくなった振り子の柱時計……。


 ランチでお腹が満たされたあとにコーヒーを飲みながら、店内に流れるジャズを聴いているのが至福の時間に感じられる。

 疲れているときは殊更に。


 店内に入り、いつも座る窓際の席をみると、空席になっている。

 ホッとしながら腰をおろして、店員さんにいつものメニューを頼んだ。

 仕事は好きだけれど、しばし離れる瞬間には、別のことばかり考えている。


 ふと気づくと、今日はいつもと違ってピアノの曲が流れている。

 どれも一度は聞いたことがある曲だけれど、私には曲名まではわからなかった。


 駅のストリートピアノでジムノペディを聞くようになってから、耳が探すのか、ピアノの曲があちこちで流れていることに気づく。

 これまでも同じように流れていたんだろうけれど、興味が向かなくて、認識できなかったんだろう。


 つたの茂る窓の外を眺めながら、しばらくのあいだ、ピアノの音色に聞き入っていた。

 葉が揺れているのは風のせいかと思ったら、ポツポツと振り出した雨粒が揺らしていた。


「やだ、雨だ」


 本降りになる前に会計を済ませ、店を飛び出した。

 今日は新しい取引先と、打ち合わせの予定が入っているから、濡れたら大変なことになってしまう。

 幸い、濡れたのはほんの少しで、私はトイレで髪と化粧を直して、自席に戻った。


 しばらくすると、受付から内線が掛かってきた。


『樋口さん、T社のかたがおみえです。今、打ち合わせブースの一番奥に案内しています』


「わかりました。ありがとうございます」


 資料を持ち、エレベーターで打ち合わせブースのある一階へ向かった。

 玄関脇のガラス壁に沿って、パーティションに区切られた打ち合わせ用のブースが五つほどあり、その一番奥で足を止める。


「お待たせして申し訳ありません。J社の樋口です。本日はよろしくお願いいたします」


 背の高い男性が二人、立ちあがるとそれぞれに挨拶を交わし、名刺を交換した。

 年配の男性は部長、私と同じ歳くらいの男性は課長の肩書がある。

 平社員の私が対応するのは申し訳ないような気持になる。


 先方は柔らかな口調であれこれと説明をしてくれた。

 こちらからの質問にも、真摯に答えてくれる。

 小一時間ほどやり取りをして、後日、また改めて発注や契約に関する打ち合わせを行うことになった。


「本日はお時間をいただき、ありがとうございました」


「こちらこそ、ご足労いただき、ありがとうございました」


 いつの間にか外は本降りになっている。傘を広げて玄関を出ていく二人は、再度、私のほうを向いて頭をさげた。

 私も同じように、それに応える。

 遠ざかっていくうしろ姿に、見覚えがあるような気がしたけれど、心当たりがない。


 自席に戻り、たった今、貰ったばかりの資料をまとめ、急いで今日の仕事を仕上げた。

 帰社時間になっても雨は止まず、私は会社を出ると、駅へと急いだ。


 エレベーターの途中から、今日もピアノの音色が響いてくる。

 急ぎ足でピアノのそばへ行き、その後姿を見てハッとした。

 いつもはこうして、うしろ側から見ているけれど、今日は思いきって横に回って男性の顔を確認した。


 ピアノを弾いていたのは、今日、打ち合わせをしたT社の課長さんだった。

 名前は……確か……。


 曲が終わり、彼の視線がこちらへ向いた。

 目が合い、照れくさそうな、バツが悪そうな、そんな顔をみせた彼に頭をさげ、その場をあとにした。


 うしろ姿に見覚えがあるような気がしたのは、これまで何度も見ていたからだ。

 次の雨のときから、私はピアノの音色だけでなく、弾く姿をみていたいがために、横へ立つようになった。

 同じように立ち止まって聞いている人に紛れて、ひっそりと。



-完-


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