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王太子殿下の花嫁探しに選抜されまして!?【別名義にて電子書籍化】

「わ、わたしが王子様と結婚⁉」


 まもなく夏も終わろうかという日の昼下がり、院長室に若い娘の素っ頓狂な声が響いた。


「アンナ、人の話はよく聞きなさい。結婚ではありません。あなたが我が国の王太子であるエドウィン様のお妃候補に選ばれたのです」


「候補? ってことはわたしがお妃様に選ばれるかもしれないってことですか⁉」

「詳しいことはこちらの騎士様がお話くださります」


 院長が呆れ声をだしつつ隣へ視線を向けた。

 この小さな聖堂では、院長室が実質的な応接間も兼ねている。そういえば呼ばれて入室したこの部屋には、初めて見る三十手前と思しき騎士がいたのだったとアンナは思い至る。


 アンナは、そういえば見慣れない騎士が同席していることを思い出した。


 こんな辺鄙な場所に似合わない立派な身なりの騎士に当初警戒心を抱いていたのだが、院長から発せられた突拍子もない話に驚きすぎて忘れていた。


 だって、田舎も田舎な町の聖堂付きの聖女たるアンナがある日突然王子様のお妃様(候補)だなんて、信じられないにもほどがある。それを目の前に座る院長ときたら至極真面目な顔つきで言うのだから余計だ。


「では、私から説明させていただきます」


 前置きのあと騎士が語ったところによれば、このたびエドウィン王子の結婚相手として聖女を迎え入れようということになったとのこと。


 王国には数多の聖女が存在する。ここは一つ公平を期するために王国中に散らばる聖堂から一人ずつ候補を選び、王都中央大聖堂に集めて、エドウィン王子のお妃選びをしようという話になったそうだ。


 ちなみに諸々の都合上、中央大聖堂からは五人が選抜されたとのこと。中央といえば貴族に連なる家に生まれた聖女が多く在籍している。その中から候補者一人だけなんて色んな意味で血を見る羽目になりそうだなあと、田舎者のアンナにも想像ができた。だからこその五人枠であろう。


「な、なるほど……。それでこの聖堂から選ばれたのがわたし? ということでしょうか?」


「左様です。エドウィン殿下は現在二十歳。殿下との年齢のつり合いを兼ねてお妃候補となる聖女は十五歳から二十歳までと制限を設けることとなりました」

「だとしたらこの聖堂だとわたししか候補はいないですね!」


 そりゃあアンナが呼ばれるわけである。アンナが暮らす、この片田舎の聖堂に所属している聖女は六歳、九歳、十二歳、そして十七歳のアンナで計四人。


 花も恥じらうお年頃のアンナではあるが、金の髪は風に吹かれてやや色あせているし、下働きだけでは聖堂の生活は回らず、妹聖女たちと一緒に炊事洗濯にも精を出しているため滑らかな手とは程遠い。


「話が早くて助かります。ではよろしく頼みましたよ、アンナ」

 院長が立ち上がる。そしてアンナにさっさと荷支度をしろと言わんばかりにせっつく。


「え、今日出発するとか言わないですよね?」

「いいえ。本日中に出立を希望されています。王都までは日数がかかりますからね」


 院長の声に合わせて騎士が頷いている。

 話が始まって十分足らずでアンナは王子様の花嫁候補として出立することになった。


 * *


 まさか王国の片田舎の聖女が王子様の花嫁候補に選ばれるとは。

 立派な馬車に載せられたアンナは怒涛の展開にやや遠い目をしていた。


 あれから必要なものを鞄に詰めて旅支度を行った。その際中妹聖女たちがまとわりつき「大きな街に行くんでしょう? お土産よろしくね」とか「王子様のお顔を絵に描いてきてね」とか「お土産はお菓子がいいなあ。うんと甘いやつ」などと好き勝手な要望を告げていった。


 持っていく荷物はそう多くもなかった。

 それに必要なものは支給されるのだと騎士も伝えてきた。太っ腹すぎて三度ほど尋ね返した。律儀に三回も返事に付き合ってくれた騎士によると、召集される聖女たちには支度金が支給されるのだという。


 王都では中央大聖堂に身を寄せ、そこで花嫁選びに参加することになるのだが、必要なものは揃えられているのだそうだ。


 鞄一つ持ったアンナを前に院長は「このような稀有な経験も神のお導きでしょう。様々なことを吸収し持ち帰り、妹聖女たちへの教育へ役立てなさい」と神妙な顔付きで告げてきた。


 真顔で頷くと「わたしもあなたが描いた王子様の絵姿を楽しみにしていますよ」とも言った。田舎では王族の絵姿が出回ることはほぼない。よかった。院長もちゃんとミーハー心を持ち合わせていた。そのことにホッとしたアンナであった。


(わたしみたいな田舎者がお妃様に選ばれることなんて絶対にあり得ないし、これってタダで王都観光できるまたとない機会なんじゃないかな? 支度金は大事に取っておいて皆へのお土産代にしよう)


 ガタゴトと回る車輪の音を聞きながらアンナは出発前に腰のあたりにまとわりついて、寂しいと泣き出す年下の聖女たちを思い起こす。


 聖女たちは力が発現すれば親元から離され、集団生活を送ることになる。

 主な役割は瘴気の浄化と豊穣への祈りである。


 この世界を創造した神は魔との戦いを繰り広げた。今も異界で戦いは続いているのだという。

 魔は戦いのさなかであってもこちら側への干渉を試みる。それが瘴気だ。


 神は人々に瘴気を浄化する力を与えることにした。人間の女性のみに発現する浄化の力は、二十を過ぎる前にその力を失う。一生を神の助けに費やすことがないようにという配慮か、もしくは聖なる力を宿し続けるには人の器が脆弱なのか。どちらかだろうと言われている。


 一定の割合で浄化の力を有して生まれてくる娘たちを、人々は聖女と呼び聖堂に集められ集団で瘴気の浄化に務める。


(たまたま条件にあう適齢期の娘が、よりにもよって一番力のないわたしで本当にごめんなさいだわ……)


 与えられた浄化能力には個人差が生じる。神も公平に力を分配するほどの余裕はないのだろう。

 アンナが有する浄化能力は本当に微々たるものだ。こんな戦力外な自分のため聖堂では率先して下の子たちの面倒を見ていた。まだ小さな同輩聖女たちにとってアンナは母とも姉ともいえる存在だった。


 この日は太陽が地平線の向こう側へ姿を隠して一時間ほどが経過した頃目当ての街へ入った。夕食はお腹いっぱい食べることができたし宿であてがわれたのは一人部屋だしで、さっそくの好待遇にアンナはびっくりした。


 その二日後、この地方で一番大きな聖堂へ到着し、他の候補者たちと集まり王都を目指すことになった。


 同じ立場の娘たちが複数集まればあっという間に姦しくなる。

 みんな程度の差はあれアンナと同じく田舎の聖堂で生活を送っていたのだ。王子様との結婚など本気で夢見ている者など一人もいない。


「きっと、大勢の候補者の中から選ばれたわたしってば、すごい存在なのよ! っていう本命さんの箔付のために呼ばれたのよ」


 と誰かが言っていて、なるほどと思ったアンナであった。


「そうよね。王都の聖女ってお貴族様の娘なんでしょう。そっちが本命に決まっているもの」

「わたしたちみたいな田舎娘、王子様が見初めるわけがないじゃない」

「お妃様になるってことは、上流階級の人たちみたいな作法を一から覚えないといけないのよ」


 みんな大変現実的である。

 アンナも彼女たちの意見には大賛成だった。自分に当てはめて考えてみるもお妃様など雲の上すぎてピンとこない。


 作法については王都へ向かう宿泊先が講義の場になった。お妃候補である選抜メンバーはこれから先、地位ある人々との食卓を囲むことになる。

 庶民の食卓ではナイフもフォークもたくさん使わないが、上流階級ではそうではなく複数並べられたカトラリーから皿に合ったものを選び取らなければならない。


 物見遊山気分であったアンナだったが、せっかくの機会だからと講義を真剣に聞き、実践も真面目に取り組んだ。

 これを妹聖女たちに教えてあげれば将来の役に立つと考えたのだ。


 同じ年頃の娘たちとのおしゃべりは楽しいし、美味しい食事に感激し、最低限のマナー講座は役に立ち、と王都への旅路はあっという間に過ぎた。


 気付けば王都に到着である。


「ここが王都……すごいわ! 建物も人もたくさん!」

「そりゃあ、畑と森と野原に囲まれているわたしたちの地元とは違うわよ~」


 感嘆するアンナに誰かが突っ込みを入れたのだが、それも右から左へ素通りした。

 背の高い白壁の建物が延々連なる風景は壮観で、馬車から見かけた大きな広場の中央にはアンナを十人縦に並べて届くくらいの大きな彫刻が鎮座していた。


 行き交う馬車の数も多ければ、道を歩く人々の数も田舎とは比べ物にならない。

 ぽかんと開けた口が塞がらず声も出ない。さらに息を呑むほど圧巻だったのは、今日からしばらくの間滞在することになる中央大聖堂の建物群。


 正面の入口には、巨大な大理石の屋根を支えるための太い列柱が何本も建てられており、精緻な彫刻が施されている。市民たちに開放されている聖堂の祭壇の豪華さに目を見張った。


 目にするもの何もかもが片田舎の小さな聖堂とは違いすぎる。

 もちろん今日からしばらくの間お世話になる住居スペースも同じで。候補者たちにあてがわれた寝室は、相部屋ながらも寝台などの調度品はどれも立派であった。


「あーあ。個室じゃないなんて」と、同室になったサリーという少女が零していたけれど、今回の花嫁選抜者は全部で四十八人。全員に個室を与えるほどの空き部屋はないのだと説明がされていた。


 アンナたちのグループの到着を以て、選抜者全員が中央大聖堂入りを果たし、この日の晩に全員が食堂に集められた。

 それぞれの部屋に用意されていた選抜者のための揃いのドレスを皆が着ているため、アンナの目にはどこか異様に映る。そもそもこれまでの人生で同じ年頃の娘たちがこれほどの人数集まることがなかった。

 食事の前に伝達事項があるのだという。


 細長いテーブル席が三つ並んだ食堂の正面に青年が二人進み出る。金髪と茶髪の彼らは、宮殿から遣わされた王太子の近侍だと名乗った。


「皆様方におかれては、長旅ご苦労であった」

「ちょっと待って。エドウィン殿下は本日はお越しではないの?」


 金髪青年の挨拶を遮るように、居丈高な声が発せられた。

 吸い寄せられるようにアンナが目を向けると、青みがかった銀色の髪の娘がすっくと立ちあがっているのが見てとれた。どうやら彼女が声の持ち主らしい。


「殿下は公務のため本日はおいでになりません」

「まあ。未来の花嫁たるわたくしとの対面よりも大事なことがあるというの?」


 娘の声が不機嫌色に染まった。


「殿下はお忙しいのですわ。バーバラは相変わらず我儘でいらっしゃるのね」

 青年が次の句を言う前に娘の正面に座る別の娘が「ふっ」と挑発的な息を吐き出しながら言った。


「一人だけ物わかりのいい振りをするって腹積もりね、ケイシー」

「静粛に!」


 金髪青年が声を張った。

 二人の娘が唇を引き結んだことへちらりと視線を向けた彼が再び口を開く。


「此度は、エドウィン殿下の将来の伴侶たる者を選定する場。明日以降、殿下は四十八人の候補者一人ずつと昼食の席を共にされることになる。尚、殿下は多忙ゆえ、詳細な日程と面会の順番については追って連絡をすることとする」

「でしたら――」

「尚、今この場で余計な口を利こうとすれば、順番は最後に致す」

「……」


 先ほどバーバラと呼ばれた娘が金髪青年の説明を遮ろうとした時、彼はことさら強い口調で制した。さすがに王太子との面会を最後にされては敵わないと考えたのか、バーバラは不服そうにしつつも、これ以降進行を妨げることはしなかった。


(な……んか、すごい場所に来ちゃったかも……)


 王都見物気分でやって来たアンナとは違い、本気で王子様の隣を狙っている娘だっているのだ。

 ただし自分にはまったく関係のないことのため、すぐに頭の隅に追いやった。


 * *


「うわぁ~、ここからだと王都の街並みがよく見えるわ~」


 田舎育ちの娘にとって木登りとは嗜みのようなもの。

 石壁沿いに生えたちょうどいい木を見つけ、人気がないことを確認してアンナはするすると木を登り石壁の上に移動した。


 午後の自由時間である。皆それぞれ思い思いに過ごしている。


「ふふふ。王都の景色を描いてみんなに見せてあげよう」


 アンナは木板の上に紙を乗せ、筆記具でさっそくあたりを取り始めた。

 棒状の黒鉛に少々太めの糸を巻きつけた筆記具を用いてアンナはしょっちゅう絵を描いている。


「紙をくださいって頼んでみたらたくさんくれるんだもん。王都ってすごい。太っ腹!」


 田舎の聖堂では当然のことながら紙は貴重品で、いつも木の板に絵を描いていたものだ。王都はすごいなあと感嘆しつつ、アンナは目に映る建物群を正確に模写していく。


 昔から絵を描くことが好きだった。物心ついた頃には木の棒を使い地面に何かを描いていた。

 最初のきっかけはなんだったか。もう思い出せないけれど今では自分を構成する大切な一部だ。


 アンナは紙を手に持ち、眼前に広がる景色と見比べる。建物が多いため細部の描き込みに時間をかけたい。


「こんなにもたくさんの建物を描く機会なんて今までなかったもんね」

「そこで何をしている!」

「うわっ!」


 ふいに届いた声に驚きアンナの手の中から紙がするりと抜け落ちた。


「わーっ! お願い、地面に落ちる前にキャッチして!」


 誰かも分からぬ相手に向かって叫びつつ、アンナも下に降りるために石壁に沿い生える木の枝に飛び移る。

 気が急いたのか、もう少しで着地というところで足を滑らせる。


「きゃっ」


 落ちる、と身構えたのに土の匂いも痛みも感じなかった。その代わりこれまで嗅いだことのない清涼な匂いが鼻の奥をくすぐる。


 ぱっと顔を上げたアンナは口をぽかりと開けて固まった。

 無理もない。アンナは見知らぬ青年に抱き留められていたのだから。


 切れ長の瞳は薄い灰色。黒髪は光を反射して青にも見える。切れ長の双眸に高すぎず低すぎもしない鼻梁。濃い色の詰襟の衣服は田舎育ちのアンナの目にも上等の部類だとすぐ分かるほどで、当然のことながらほつれの一つもない。


 滅多にお目にかかれない美青年であった。肌艶もいい。年の頃はアンナよりも少し年上だろうか。

 たっぷり十数秒は見つめたのち、アンナは我に返った。


「紙! わたしが描いた絵は無事ですか?」

「あ、ああ。これのことか?」

 青年が腕を持ち上げ、アンナの描き途中の絵に視線を向ける。


「安心しろ。土などはついていない」

「よかったぁ」


 紙を受け取ったアンナは体中から空気をかき集めたかのように深く息を吐き出した。


「絵を描くのが好きなんだな。だが、石壁の上に登っていては危ないだろう。きみは王太子の花嫁候補の一人と見受けるが」

「危なくはないですよ。あんなの田舎育ちのわたしにしてみたら児戯にも等しいです」


「げんに落ちかけていただろう」

「描きかけの絵が汚れちゃわないか気になって仕方なかったので。今回はあなたが受け止めてくれたから無事でした」

「その言い方だと無事ではなかった過去もあるように聞こえるのだが」

「えへ」


 アンナはにこっと笑ったのち明後日の方を向いた。


「えへ、じゃない」

 何か言いたそうな青年の視線が妙に痛い。いや、痛いどころかめちゃくちゃ睨みつけられている。


「ええと……、九歳頃かなあ。うっかり足を滑らせて地面に激突したら打ちどころが悪かったらしくて一カ月くらいの出来事をまるっと忘れちゃったんですよねえ~」


 謎の圧力に屈したアンナは仕方なく黒歴史を披露する。


「無事だったのか⁉ 他にどこか異常はなかったのか? ていうか忘れた記憶があるってことなのか?」


 遠い過去の出来事を青年はまるでアンナが昨日木から落っこちたかのように言うから目をぱちくりとさせた。


「え、ええ……。なんか、木から落ちる二週間くらい前に領主様の訪れがあったそうで、一緒に来た少年と遊んだらしいんですけれど。ぜーんぶ忘れちゃったんですよね」

「…………そ、そうなのか」


 青年の声から張りがなくなった気がしてアンナはこてんと首を横に倒した。先ほどから妙な男である。そういえば、とアンナは今更ながらに気がついた。


「あなたは一体誰なんですか?」

「俺は……」

 青年が言いよどむ。


「あ、もしかして王子様にお仕えしている騎士様ですか」

「そんなところだ。ウィルという」

「わたしはアンナです。アンナ・オルカー。一応? 聖女です」

「どうして一応? と語尾が上がるんだ」


「いやあ、わたしったら聖女の割にすごーく力が弱くって。わたしのことはどうでもいいんです。王子様の騎士様ってことは、王子様には会ったことがあるんですよね?」


「まあな。しょっちゅう会っている。……気になるのか?」

「ん~、どうだろう」

「なんだよ」


 青年もといウィルが拗ねたように唇を曲げる。お仕えしている主に興味を向けない聖女に対して物申したいのだろうか。そういえば自分も花嫁候補だったのだと思い出す。

 よし、ここは一つ王子様に興味があるふりをしよう。


「ええと、王子様はどうして四十八人も候補者を集めたんですかね?」

「…………しがらみというやつだ」


 身も蓋もない返事であった。まあ、色々あるのだろう。小さな町だって人間関係はそれなりに複雑だった。王子様ともなればもっとややこしい事情があるのかもしれない。


「この国の王族は昔から元聖女を伴侶に迎え入れることが多々あった。今の王の妃は隣国の姫君だが、王の弟は公爵家に生まれた元聖女を妻に迎え入れた。今は他国との間に諍いもないからな。王太子の妃に国内から聖女を迎え入れようという話になったんだ」


 神から賜ったお役目を終えた聖女たちは多くの男性から妻にと望まれる。聖なる力を持って生まれたというだけで人はありがたがるのだろう。


 聖女の血を家系に取り入れたのだと箔付けをしたがるという理由もある。


 アンナと同じ聖堂で暮らしていた二歳年上の聖女も力が消えると同時に隣町の男のもとに請われて嫁いでいった。「十歳以上年上の男の方が甘やかして好きにさせてくれるのよ」という助言を残して。そしてその通り彼女が複数の縁談から選んだ夫は十五歳年上であった。


「王子に興味があるのか?」

 ウィルがどこかそわそわと尋ねてくる。


「興味はありますよ! ええと、王子様の似顔絵を描きたいです」

「似顔絵?」


「はい。妹聖女たちに、王子様はこういうお人だったよ~って見せてあげたいので。田舎だと王様や王子様の絵姿を拝見する機会などまずないので。今描いている絵もあの子たちへのお土産なんです。王都はこんなところだったよ~って」


 にへらっと笑うとウィルは「ま、まあ。頼めば似顔絵くらいなら描かせてくれるかもしれないな」とぶっきらぼうに言った。


 * *


「ねえ、あの黒髪の騎士様カッコよくなかった?」

「えええ~、わたしは金髪のロバート様の方が好き~」

「お互い好みが被らなさそうでよかった~」

「ねえねえ、何の話をしているの?」


 きゃっきゃと楽しそうな会話に無邪気に入っていこうとすると、サリーとコレットがぴたりと口を噤んだ。

 それから同時にアンナを上から下まで眺めて朗笑する。


「アンナみたいな孤児には関係のない話題よ~」

「田舎育ちの子は騎士様だって門前払いよね」


 それだけ言って同室の二人はアンナを省いて会話を再開させる。

 初日に行った自己紹介で、彼女たちはアンナを自分たちの下の存在だと認識することにしたようだ。二人共生まれた地方は違えども、その土地ではそこそこ裕福な家の出だという。


 アンナが孤児だというのは生まれ故郷では皆が知っていることだった。とある農家の家の前に赤ん坊の頃捨てられていたのだという。律儀に育ててくれた養父母だったが、アンナが三歳の年に不作に見舞われ、食い扶持を減らすために聖堂に預けられた。


 そこでわずかながらも聖女の素質を見出されてそのまま暮らすようになり今に至っている。


 同世代の娘が四十八人も集まれば自然と序列のようなものができあがる。一番上に立つのは当然貴族の直系筋の娘たち。その次が貴族の傍系で、土地を与えられている騎士の家系、豪商と続く。


 王都から遠い地方であったり大きな街から遠い土地の出身だと、これまた侮られ、序列一つとってもつけた方はややこしい。


 当然アンナはほぼ下である。今までこんなにも多くの娘たちと一緒に過ごすことがなかったため、悪意の混じった序列付けも新鮮だったりする。


 王都までの道のりを共にした娘たちが皆純朴でアンナとも普通に接してくれるため、そう悲観することもなかった。


 人は人、わたしはわたし、というのがアンナの信条だった。


 王太子との会食は滞りなく進められているらしい。貴族の直系筋の娘たちから先に宮殿に呼ばれているため「聖女は皆平等の精神って結局は建前よね~」という諦観の声が漏れてきた。


「そういえば王子様との昼食は宮殿で行うのにどうしてウィルはわざわざ中央大聖堂まで来るの?」

「各地から集められた聖女たちの護衛を王子から任されているからだよ」


 ふとした疑問に返ってきた答えを聞いたアンナはさらに首を傾げた。


「ふーん。じゃあこんなところで油を売っていていいの?」

「一応きみだって聖女だろう」

「それもそうか」


 納得したアンナは再び手を動かし始めた。

 ウィルとは数日おきに会う仲になっていた。アンナが中央大聖堂内の高い場所に登って絵を描いているとどこからともなく彼が現れて隣に居座るようになったのだ。


 再三「もっと低い場所で描け」と言われるのを右から左を聞き流していたら、今日は何かもじもじとしながら「俺を描いてくれ」と言われた。


「ウィルって肌がつるつるしているから描き甲斐がないわ」

「そんなことを言われたのは初めてだ……」

「ほら、お年を召した人だと、顔に人生が現れるじゃない? 皺とか色々。そういうのを汲んで描き込んでいくのが好きだったりするのよ」


 絵のモデルは大抵の場合隠居した爺婆であった。妹聖女たちの姿もよく描いていて、こちらは離れて暮らす彼女たちの両親に送ると喜ばれた。


 アンナはざっと描いたウィルの絵姿に視線を向けた。こんな美形を描いたのは生まれて初めてだった。絵と本物を見比べる。この美形をそのまま写し取るにはまだ技術が足りない気がする。


「どうしたんだ?」

「ウィルって無駄にいい顔をしているなあって」

「……褒められた気がしない」


 ウィルはちょっぴり傷付いたような声を出した。きっと日頃はその顔のおかげで女性からモテまくっているに違いない。騎士という身分は田舎でも憧れの的であった。男の子は剣戟ごっこをするし女の子は騎士に守られるお姫様ごっこをして遊ぶものだと聞いたことがある。


 アンナは描き上がった絵姿をウィルに渡した。受け取ったそれを見たウィルは瞳を細めた。彼の身分なら画家に正式な肖像画を依頼することも可能だろうに、素人の落書きの域を出ないアンナの作品に熱のこもった視線を向ける。

 嬉しいような恥ずかしいような。二つの気持ちが胸の中で陣取り合戦を繰り広げて落ち着かない。


「絵のお礼に王都見物にでも連れて行ってやりたいが……」

「えっ⁉」

 い、今何と? アンナは期待を宿した瞳をウィルに向けた。


「その聖女服は街中で目立つからなあ……」

「じゃ、じゃあ普通の服ならいいの?」

「なんだ。聖女服以外も持っているのか?」

「王都までの旅の途中で一着だけ用意してもらったの。何かの時に必要になるかもしれないからって」


 支度金で買ってもらった平服だ。そうか、こういう時に必要になるのか。

 ウィルは思案するように虚空を見つめたのち、アンナに向けてにやりと笑った。


「よし、じゃあ三日後の同じ時間にここで待ち合わせだ」


 * *


 そして三日後、アンナは念願の王都観光を行うため午後の自由時間にウィルと落ち合い中央大聖堂を抜け出した。


 彼は慣れた風情で小さな通用門からアンナを外へ連れ出してくれた。

 何もかもが初めての体験だった。乗馬もだけれど、男性との二人乗りも。


「しっかり捕まっていろよ」と言われ、彼の胴体に腕を回す。


 騎士というのは伊達ではない。アンナよりも硬い筋肉に覆われているのが衣服越しにも分かった。

 王都は想像以上に賑やかだった。


「うわぁぁ」


 馬車の中から眺めただけの光景に思わず声が滑り出る。

 市庁舎の鐘楼や複数建てられている聖堂、それから噴水広場に精緻な仕掛け時計。すごいなあ、とウィルが案内してくれるすべてに感嘆する。


 路地を一つ入った旅籠の厩番に硬貨を渡し、しばしの間馬を預け付近の散策をすることにした。


 自分の足で王都を歩いていることに興奮する。

 木綿のブラウスとくるぶし丈のスカート。その上から半袖のチュニックを羽織り胸のあたりでりぼんを巻くというごく普通の出で立ちをしたアンナは、ごく普通の街娘と変わらなく映っているのだろうか。


「何か食うか?」

「え、いいの?」


 広場には露店が複数立っている。干した果物や腸詰肉などが売られている傍らで油で何かを揚げるいい音が聞こえてくる。


「なあに、これ?」


 興味を惹かれたのだと悟ったウィルが店主に硬貨を渡した。ウィルの視線から商品の手渡し先を読んだ店主がアンナに熱々の揚げたパンを差し出した。

 ドキドキしながらかぶりつくとふわふわの生地の中から甘いジャムが飛び出した。


「おいしーいっ!」


 感激するアンナを見つめるウィルと目が合う。

 薄い灰色の瞳が春の日差しのように柔らかで、思わずごくりと嚥下する。物理で胸が詰まったため、ドンドンドンと慌てて胸を叩いた。


「こら。急いで食べるからだぞ」

「ち、違う……これは」


 食い意地を揶揄されたようで面白くない。原因はウィルではないか。そう指摘したいのに、憚られる。だって、それだとまるで……と考えて、すぐに頭を振った。


「ジャムがついている」


 ウィルの手が伸びてきてアンナの唇の隣を拭う。

 なんてことのない仕草。アンナだって妹聖女を前に同じことをしたことがある。拭ったジャムを舐めることなんて言ってみればよくあること。


「!」


 それなのに。

 アンナはウィルのその仕草を妙に生々しく感じてしまうことに動揺する。


(わぁぁ! わたしのばかばか!)


 これまで同じ世代の男と接してこなかったひずみがこんなところで現れるなんて。一人だけ動揺しているのを悟られたくない。


「これだけたくさんの建物や人たちを思う存分絵に描いてみたいわ」

「アンナは本当に絵を描くのが好きなんだな」


 あえて明るい口調で言うとウィルがどこか懐かしそうな声を出した。

 一瞬だけ頭の奥にどこかの景色が浮かび上がる。地面に木の棒で絵を描く自分に話しかけてきた少年……。あれ? これはいつの記憶だろう。それは泡のように消えてしまう。


「絵にすれば好きなものをずっと残しておくことができるから」


 揚げ菓子を食べ終えたアンナはそのあとも気の向くままに王都の路地を歩き回った。

 人形劇に感激してたくさんの品物が売られている商店の規模の大きさに仰天して。


 楽しい時間はあっという間に過ぎ去った。

 名残惜しかったけれど、そろそろ帰る時間だ。


 再びウィルと一緒に馬に乗り、彼の胴に腕を回す。行きよりもどこか緊張するのはどうしてだろう。探求しそうになる心に待ったをかけた。


「じゃあ、またな」


 中央大聖堂の裏手の通用門で別れを告げたウィルは当然のように次があることを示唆する。「じゃあね」と手を振り、アンナは歩き出す。自分の中にも次を楽しみにしている想いが生まれていることに気付く。


(ん~、友達だよね。友達。そう同世代の男友達……たぶん?)


 口には出さずに心の中でぶつぶつ唱えていると、前方に老紳士を発見した。

 中央大聖堂の関係者だろうか。この大聖堂は市民にも開放されているが立ち入り許可されている場所は限られている。


「おや。お嬢さん。迷子かな」

 立派な口ひげを蓄えた老紳士の方もアンナをただの市民だと勘違いしたようだ。


(わたしの今の格好、ちゃんと王都人に見えるってことだ)


 嬉しくてつい頬がにやける。無断外出した聖女です、とは言わない方がいいだろう。立ち去ろうとした時、老紳士が目を見開き「きみ」とアンナを呼び止めた。


「はい?」


 もしかして脱走がバレた? 大聖堂では週に何回か、訪れた市民たちの前で祈りを捧げる機会がある。何度かアンナも参加していたから、その時に顔を覚えでもしていたらその正体に気付くだろう。


「き、きみは……。名前は? いや、出身は……ジョベール家の縁者だろうか?」

 アンナに取りすがる勢いの老紳士が口にする言葉たちに気圧されながら、慎重に求めに応じる。

「ええと……。名前はアンナ・オルカーと申します。ジョベール家というのは聞いたことがありません」

「……そうか」

 老紳士ががっくりと肩を落とした。


「何かあったんですか?」

「い、いや……。私の知り合いにお嬢さんが似ていたものだから」

「そうですか。わたしは孤児なので出自は分かりませんが、案外そのジョベール家とやらの血を父か母のどちらかが引いているのかもしれませんねえ~」


 今思いついた考えを特に何も考えないまま口にしたアンナは、両手でスカートをちょこっと持ち上げて膝を曲げて礼をしたのち、老紳士から離れた。

 そろそろ部屋に戻って着替えをしなければまずい。


 * *


 その老紳士とは案外早くに再会した。

 祈りの儀式の公開日に祭壇前方に座る彼とバッチリ目が合ったからだ。


 驚き口をはくはくと動かす彼からアンナはつぅっと目を逸らす。何も言わないでほしいと心の中でお願いをしながら。


 日常のささやかな珍事はさておき、王太子の妃候補たちは集まるごとに彼の話題でもちきりになっていった。


「エドウィン様はとっても麗しい御方でしたわ」

「高嶺だと分かっていても、もしも……って考えたくなってしまうわ」

「あんな美形を見たらもう他の男なんて目に入らなくなっちゃうじゃない」


 などなど。昼食会を済ませた娘たちはブレることなく目を蕩けさせている。


(ウィルよりも格好いいのかしら?)


 アンナは身近な騎士を引っ張り出して頭の上に疑問符を浮かべた。彼も相当に美形だと思うのだが。王都には見目麗しい男がわんさかいるらしい。アンナの知識が上書きされた。


「昼食会が一回きりだなんて、そんなのつまらないわ」


 ある日バーバラがこんなことを言い出した。

 王太子と二人きりになれる機会がたったの一度だけということに不満を隠さない彼女は格下と見なす同輩聖女に昼食会辞退を命じたのだ。


 侯爵家の娘の命令に同じ聖女とはいえ、身分の低い娘が逆らえるはずもなく。

 食堂で繰り広げられたそのやり取りに、アンナはたまらずに割って入った。


「ちょっと待ってください。わたしたちだって王子様に会いたいですよ」

「まあ、なあに? あなたみたいな芋娘がまさか本気でエドウィン殿下の妻の座を狙っているの?」


 バーバラは不機嫌を隠さずに剣呑な声をアンナに向けてきた。


「妻の座は狙っていませんが、宮殿で出される昼食は食べたいです」

「あははは! 庶民は意地汚いこと!」


 バーバラが高い声を上げて朗笑した。

 あれ? 食事に興味を示すのってこんなにもよくないことだっけ? と自問するが、滅多にできない体験はしてみたいし、宮殿に入れる機会なんて金輪際訪れないことは確信できるし、機会は平等に与えられるべきである。


「アンナ……わたし、別に……」

 背に庇った同輩の少女が震える声を出す。


「わたしたちのような田舎出身の人間にとって王都ってとっても遠いんです。物理的にも心理的にも。王族の絵姿なんて見る機会ほぼないんですよ。だから彼女もわたしも、地元に帰ったら多くの人たちに聞かれるんです。王子様はどんな御方だったのか? って。その時に、この国を将来治める王子様はこんなお人だった、こんなお人柄だったって、自分の目で見たお姿を伝えたいじゃないですか。だから、わたしたちからその機会を取り上げないでください」


 はっきりとした口調で物申せばバーバラは気迫に負けたのかしばし押し黙る。

 しかしそのことが屈辱であるかのようにアンナへきつい眼差しを向ける。


「あなた――」

「我儘も大概になさったら? バーバラ」


 遮ったのは何かと彼女と張り合うケイシーだ。


「あなたって自分のことしか考えられないのねえ。そういう浅ましい心根の娘が将来の王太子妃? 笑ってしまうわ」


「あなただって同じことを考えていたでしょうが!」

「いやだわ。何のこと? わたしはこの国の王太子殿下の立派なお姿を多くの人々に伝えたいって心を支持するわ。それがエドウィン殿下の伴侶となる妻に求められる資質だもの」


「……」


 女二人の火花を散らすやり取りがアンナの眼前で繰り広げられる。

 ケイシーにやり込められたバーバラが悔しそうに唇を引き結ぶ。

 勝ちを確信したケイシーは優越感を隠しもせずに笑みを浮かべてアンナたちに振り返る。


「でも、田舎娘のあなたたちがいきなり王太子殿下と二人きりになると、緊張してしまうでしょう? その場にわたしのような貴族の娘がいれば、わたしの作法を真似ることができると思うの」

「はあ」


 思わず生返事が漏れ出た。

 ケイシーがにっこりと笑った。


「だからね。あなたたちの昼食会にわたしも連れていって。お友達枠として。もちろん、あなたたちの昼食の権利は侵害しないって誓うわ」

「ちょっとズルいわよ、ケイシー!」

「我儘バーバラは黙っていなさいよ」


 二人は再びバチバチと火花を飛ばし合った。


 * *


 あの一件以降アンナには食い意地が張っているという評判が加わった。美味しい食べ物は正義だ。別にいいではないか。


(ここの食事も十分に美味しいんだけどね~)

 同じ聖堂暮らしでも格差ってあるんだなあと世の不条理を知ってしまった次第だ。


「アンナに土産だ」


 と言って今日もアンナの前に姿を現したウィルが布包みを差し出してきた。

 促されて開けば焼き菓子が数枚現れる。


「美味しそう」

「うまいぞ」


 一つ摘まんだウィルがアンナの口元にマドレーヌを持ってくる。ぱくりと食べるとバターの濃い香りが口いっぱいに広がった。頬っぺたが溶けてしまったらどうしてくれるのだ。

 けれども美味しいものは美味しいので、つい手が伸びてしまう。


「あんまり王都の味に慣れないようにしないとなあ……」


 自分を戒めるような独り言が滑り出た。


「わたしが住んでいた聖堂の裏手にペリジャの木があってね」

 アンナは故郷を思い描く。ペリジャというのは果物の名前で、熟すると黒に近い紫色になる。


「おやつ代わりによく食べたわ。木の上の方に成っているのが甘くて美味しいから、小鳥たちと取り合いになって」

「俺も昔食べたことがある。木登りが得意な友人がするすると木に登って熟したペリジャをもいでキャッチしろって落としたのを、俺は額で受け取っちまって」

「あらら~」


 少々痛そうな思い出話にアンナが合いの手を入れる。


「熟していても結構硬いから痛かったでしょう?」

「そう……だな」


「痛いといえば。昔お姉さん聖女がね、おでこをぶつけて泣いたわたしにおまじないをしてくれたのよ。ほらこうすれば痛いのなんて飛んでいっちゃうでしょうって。おでこにキスしてくれたの。ふふ。あれ、わたしも妹聖女にしてあげるのよ」


 一緒に暮らす聖女たちはみんな姉妹も同然で。

 実の両親の顔は知らないけれど、一緒に育ち暮らした聖女のことはみんな覚えている。


「男にはしていないだろうな?」

「何を?」

「その……まじないだ」

「する相手いないもの」


 からから笑うとウィルが何とも形容しがたい顔でこちらをちらちらと眺めてきた。

 他愛もない話をしてウィルと別れたアンナが敷地内を歩いていると、司祭が走り寄ってきた。


「オルカー、探したぞ」

「どうしました?」

「急なんだが、一人頼まれてくれんか」


 中年司祭に促されアンナは大聖堂に近しい小部屋へと連れて行かれた。聖女の力は瘴気払いに真価を発揮するのだが、祈りの力を近くで浴びると心の中に温かな力が湧き、人々に活力をもたらすとの謂れがある。


 治癒能力ではないのだが、お布施を弾むと聖女個人から祈ってもらえるとあり、神の代理人からの祝福として根強い人気がある。


(力の弱いわたしなんかが行ったら詐欺なのでは……?)


 むしろ魔法使いが作った魔法薬を飲んだ方が効果があるのではないだろうか。

 しかし意見を言う暇もないまま小部屋にぽいっと放り込まれてしまい、アンナはひとまず室内にいる人物らに向けて礼を取った。


 何と相手は先日出会った老紳士ではないか。隣には妻と思しき婦人が着席している。

 年の頃は隣の紳士よりは年下だろうか。やつれてはいるが美しい顔立ちをしている。


「ご、ごきげんよう?」


 この言葉でよかっただろうか。若干語尾を上げながら挨拶をするアンナを見つめる婦人の瞳に涙が盛り上がる。


(挨拶間違った?)


 引くつくアンナを老紳士が「立ち話もなんだから」と着席を促す。


 二人の正面に座ったアンナに茶が提供される。

 やがて婦人がぽつぽつと質問を繰り出してきた。家族はどのような人物だったのか。所属する聖堂の居心地はどうか。町の環境はどうか。などなど。


(祈りは……?)


 一向に本題に入らない上に、結局この日は世間話で終了となった。お布施の無駄遣いでは? と内心首をひねるアンナは、翌日も同じご婦人から指名が入った。


 それから彼女は毎日中央大聖堂を訪れるようになった。

 身の上話が一巡する頃には、覇気のなかった婦人は見違えるほど元気になっていた。彼女はカロリーナと名乗っただけで家の名前を言うことはなかった。


「長い間領地にこもって泣き暮らしていたのだけれど、人生に希望を見出せたおかげで最近生きるのが楽しいのよ」


 血色の良くなった頬をさらに紅潮させて微笑むカロリーナはとても美しくて。

 いつの間にかアンナも彼女と過ごすひと時に喜びを見出すようになっていた。

 なんだかカロリーナとは他人の気がしないのだ。髪と目の色が同じだからだろうか。


 ある日、話の流れで絵を描くことが好きだと言うと、おずおずと「わ、わたくしのことも描いてくれる?」と言ってきたため快諾した。


 そうしたら立派な用具が一式届けられて仰天してしまった。

 しかも次に会った時にはカロリーナの夫の老紳士まで一緒で、「わ、私も一緒に描いてくれないか」とお願いされた。


「実は絵の具は使ったことがなくて……。あの素画でよければ……」

「アンナが描いてくれるのだったら素描でも何でも構わないわ!」


 食い気味に返事をされた次第であった。


 * *


 回廊を歩いているとバーバラからすれ違いざまにドンッと体をぶつけられた。


「あーら。孤児風情が真ん中を歩かないでほしいわ」


 捨て台詞と共に彼女が去っていく。

 面と向かって意見をしたことで彼女に敵認定をされてしまった模様だ。あのあと美味しいところをケイシーに持っていかれて余計に腹に据えかねたのだろう。


 女同士の軋轢や闘いとは恐ろしい。

 そのようなさなか、ついに王太子との昼食会の順番がアンナに回ってきた。


(おおお……ついに王子様とご対面だわ)


 さすがに昼食の席で姿絵を描かせてもらえるとは思っていない。となれば記憶を頼りに描くしかない。

 よし、今日はしっかり王子様の姿を目に焼きつけようと心に決めたアンナは身支度を整えて指定された門へ向かっていると、前方から近付いてきたバーバラに泥水をぶっかけられた。


「ちょっ……、何をするのよ」

「あーら。孤児風情がエドウィン殿下と昼食だなんておこがましいにもほどがあるのよ」


 さすがに怒りを表に出したアンナがおかしいとばかりにバーバラが笑う。

 アンナはくるりと踵を返した。


 こんな女に付き合っている暇はない。部屋に戻って着替えなければ。こうなれば意地である。別に王太子の妃の座など狙ってはないが、故郷で土産話を楽しみにしている院長たちの顔を思い浮かべれば、負けん気がむくむくと盛り上がる。


 バンッと扉を乱暴に開けて割り当てられた衣装箱を開けた。


「なっ……」


 取り出した替えの聖女服も平服も両方が汚されていた。ずいぶんと手の込んだ嫌がらせだ。部屋自体に鍵はついていない。それぞれに割り当てられた衣装箱は鍵付きだったが、いちいち施錠などしていなかった。


(まさかここまでやるとは……)


 濡れたままの状態で向かってしまおうか。いや、さすがにだめだろう。着替えないと。でも着替えなんてない。頭の中でぐるぐると思考が回る。


「今日の候補は欠席だって伝えてきてあげるわ」


 いつの間にか部屋の入口までやってきていたバーバラが愉快そうに声をかけてくる。

 その時。


「ああよかった。間に合って。あなたに届け物よ」


 聖女たちの世話を任されている修道女がアンナを見つけて喜色満面になった。

 後ろに続く下女が長方形の木箱を二人がかりで持っている。

 修道女はアンナの泥水で汚れた姿に目を剝いた。


「まあ、あなたったら。一体どんなお転婆をしたの!」

「こんな子、今日の昼食会に相応しくありませんわ。わたしから宮殿の遣いに伝言をしますし、何ならわたしが代わりにエドウィン殿下とお食事をしますわ」

「バーバラ、あなたは一番最初に参加したでしょう」


 集められた妃候補たちの監督係りを兼ねている彼女はバーバラ相手であっても臆さない。

 その一言でバーバラを思考から追い出した修道女によって連れ出されたアンナは、超特急で支度を整えることとなった。


「うわ」


 ひんやりとしてすべすべした素材は、もしかして絹だろうか。生まれて初めて身に着ける高級品に冷や汗が垂れそうになる。


(だ、だめ! 汗止まれ~。止まれ~! これ汚したらシャレにならない)


 思わず念じてしまうアンナであった。

 若い娘らしい色鮮やかな藤色の衣服は、きっと貴族の娘にとっては普段着のような意匠なのだろうが一般庶民のアンナにとっては舞踏会に着ていくであろう煌びやかなドレスも同じで。髪につけられた飾りについている石はガラス製だと信じたい。エナメルの靴につけられたりぼんの中心の石もガラス製だと以下略。


 よし、考えるのを止めよう。早々に思考を手放した次第であった。

 準備が整ったアンナは修道女に先導されて指定された門へと向かった。


「ではいってらっしゃい」


 修道女に見送られ、アンナを乗せた馬車が宮殿へ向けて出発する。そういえばケイシーの姿がなかったけれど宮殿で待ち合わせだろうか。なんだかんだと彼女がいい思いをすることになったからバーバラは余計にアンナが憎かったのだろう。


(宮殿かあ……。ウィルの職場でもあるんだよね。今日会えるかなあ?)


 最近彼の姿をとんと見かけなくなった。

 せっかく王都でできた友達なのに。いつの間にか彼の姿を探すようになっていた。

 宮殿で会えたとしても彼は仕事中だろうから話しかけても困らせるだけかもしれない。寂しいなあ。ふと生まれた感情に胸の中が支配される。


 王太子との昼食じゃなくてウィルとの昼食だったらよかったのに。


 馬車の減速に気付いたアンナは首を横に向けた。

 大きな車寄せは、当然のことながら今お世話になっている中央大聖堂のそれよりも立派だった。


 扉が開けられ騎士の手を借りて降り立ったアンナはぽかんと口開けてしばし固まった。

 中央大聖堂で耐性がついたと思っていたけれど、上には上があるのだということを今日知った。思わず頬をつねってみる。痛い。まだ天国ではないらしい。現実だ。


「どうぞこちらへ」


 初日に現れた王太子の近侍の青年が案内人として現れ、その背中をついていく。

 一人では絶対に迷子になるような広い宮殿内を方向感覚も分からぬまま歩き、日当たりのいい豪華な部屋で置き去りにされた。


「よく来たな、アンナ」

「うわっ! ウィルだ。ウィルがいる。久しぶり」


 細長い室内での友人との再会に思わず駆け寄った。


「どうしてここにいるの? って、そっか。ウィルは王子様の騎士だものね」

「残念ながら俺は王子様の騎士ではない。今まで騙していてごめんな」


「そうなの? あ、王子様のお友達?」

「違う」

「じゃあ従兄弟だ」

「違う」

「もしかして弟?」

「違う」


「えーと、じゃあ……」

「どうしてここまできて、王子様本人っていう選択肢が出てこないんだ」

「ええ~。まっさかあ」


 ウィルの苦情をアンナが笑い飛ばす。


(ん? 今なんて言った……?)


 アンナはゆっくりとウィルを見上げた。薄灰色の瞳と視線が交わる。


「……あはは」


 もはや乾いた笑い声しかでてこない。

 そういえば今日の彼はやたらと装飾過剰な服を着ている。胸のあたりに何かごちゃごちゃと金属のメダルがたくさんついているし、肩にはひらひらした短い紐が垂れ下がっている。


「身分を隠していて悪かった。正体を言うわけにはいかなかったんだ」

「じゃあ……本物?」

「俺がエドウィンだ」

「ドッキリじゃなくて?」


「これが本気でドッキリなら、俺は身分詐称で牢屋にぶち込まれている」


「な、なるほど……?」

「なんで語尾が上がるんだ」

「なんとなく?」


 あんまり王子様っぽくないからと言ったら怒られそうな気がする。口調もいつもと変わらないし。キラキラオーラが出ていないし。ああでもこの人も美形だった。そういえばみんな言っていたっけ。顔がいいと。なるほど。そこは合っている。などと口にしないまでも、本人に聞かせたら拗ねるであろう感想を頭の中で繰り広げる。


「食事の前に、会わせたい人たちがいる」


 そう言ってウィルもとい自称エドウィンがアンナを促した。

 室内の扉を開け彼に続いて入室すると、これまた知った顔が視界に飛び込んできた。


「カロリーナ様とその旦那様!」


 なんといつも会いに来る夫婦が座っていたではないか。

 二人はすっと立ち上がり「ご機嫌麗しゅう、王太子殿下」と美しい所作で礼を取った。


(本物の王子様だった……)

 いや、まだ盛大なドッキリという可能性も残っている。


「アンナ、こちらはルシャール公爵夫妻だ。そしてきみの本当の両親でもある」


 言葉の意味を理解するのにたっぷり一分は要した。

 その後出てきたのは何とも間抜けな一言で。


「……………へ?」


 アンナの目の前に立つルシャール公爵夫妻は期待に満ちた眼差しを寄越してくる。いや、そんなキラキラした視線を注がれても。思わず一歩足を後ろに引いた。


「い、いやだなあ。いくら孤児を相手にしているからって冗談がすぎますよ?」

 笑い飛ばそうとするとカロリーナがぶわりと瞳に涙を浮かべた。


「冗談ではないんだ。アンナこそが私たちが失ったクリスティアに違いないんだ!」

「あ、あなたはわたくしの若い頃にそっくりで……。年の頃だって……あの子と同じ」


 老紳士もといルシャール公爵のあとを嗚咽交じりにカロリーナが引き取る。


「アンナも混乱しているだろう。俺から……ゴホン。私から話そう」


 エドウィンに促され、夫妻の対面に着席した。

 説明をする立場としてか、エドウィンは対面に座る三人を眺めることができる位置に、一人で座る。


 彼の説明によれば、今から十七年ほど前のこと。ルシャール公爵家には待望の女児が生まれた。クリスティアと名付けられた赤ん坊は、しかしある日突然と姿を消した。現場の状況から誘拐を念頭に捜索が行われた。


 国王と親交のあるルシャール公爵は魔法使いを派遣してもらったものの、行方は杳として知れなかった。

 娘を失くした夫人は領地で泣き暮らすようになった。


 そうして月日が流れたある日のこと、ルシャール公爵は中央大聖堂にて若い頃の妻にそっくりな一人の娘と出会った。それがアンナである。


「まるであの頃のカロリーナが目の前に現れたかのような……。とにかく驚いた」


 話を聞けば孤児だという。まさか、という思いが腹の奥からせり上がった。驚くうちにその娘は彼の前から立ち去ってしまい、また会えないかという期待を込めて中央大聖堂へ通っていたらなんと聖女であった。


 まずは妻にも会わせてみよう。急いで領地に帰りカロリーナを王都へと連れてきて――。


「夫人はアンナこそが自分の娘だと確信したそうだ」

「えええ……。他人の空似では……」


「そんなことない! わたくしには姪がいるのだけれど、あなたはその姪とも似ているのよ。ふとした表情がそっくりなの。それにね、わたくしの祖父は絵を描くのが趣味だったの」


「私は王太子殿下に事情を話し、きみが生まれ育った町とその地方への人の出入りを入念に調べることにしたんだ」

「ルシャール公爵の訴えを聞いた私は再捜査を行うことにした。そうして今回犯人を特定することができた」


 エドウィンが大きく頷いた。


「きみはルシャール公爵家の娘だ」


 大きくなりすぎた話に、もはや何も言えなくて、アンナはただただ目を丸くすることしかできなかった。


 * *


 それから少ししたのち、四十八人のお妃候補全員と会食を終えたエドウィンが中央大聖堂を訪れ、選んだ妃を発表することとなった。


「私は、アンナ・オルカーと生涯を共にしたい」

 朗々と紡がれたその声ののち、広間にどよめきが広がった。


「嘘よ!」


 金切り声が響いた。

 バーバラである。


「殿下の妃になるのはこのわたしのはずよ! なんのために楽しくもない聖女の生活を我慢してきたと思っているのよ! すべてはこのためじゃない!」


 相変わらず感情が制御できない彼女は、自分の心をそのまま表に出した。

 しかし、今回はケイシーもバーバラを諫めない。それは彼女もこの結果に納得がいっていないからであろう。一同の視線が自然とアンナへと向けられる。ある者は敵意をむき出しにして。ある者は案じて。関わり合いによって視線の中に込められた感情はきっぱりと分かれた。


「では尋ねるが、いつ私がバーバラ嬢を将来の妃にと、内定を出したんだ?」

「そ、それは……」


 予想以上に鋭い声を浴びせられたバーバラが言いよどむ。

 だが、それも束の間で彼女は自分の心に正直に物申す。


「ですが、このお妃選びが何よりの証拠でしょう。聖女の中から妃を選ぶ、即ち一番身分の高いわたしを選ぶも同義。わたし以外は全員引き立て役にすぎません。だって、大勢の中から選ばれたという謂れがあった方が、あとあとの箔付になりましょう」


「きみのような自分勝手で利己的な人間を、私が妃に選ぶとでも?」


「――っ」


「私は私の意思でアンナ・オルカーを妃に迎え入れたいと選んだ。今回の件は、私の意志が最優先とされる」

「でも!」


「では権威主義のバーバラ嬢にも理解できるように伝えよう。アンナの後見にはルシャール公爵家がつくことになった」


 エドウィンの発言にバーバラの近くに佇む聖女たちが驚きの声を上げる。

 まだアンナにはピンとこないのだが、ルシャール公爵家といえば由緒ある家柄なのだそうだ。そのような家がどうして。詮索する視線が向けられるのを、アンナは複雑な気持ちで受け流した。


 将来の妃候補が一人に絞られたため、集められた四十七人は順次帰郷することになった。

 身分の高い聖女たちは納得がいかないという顔を隠しもしなかったけれど、それものちのち一蹴された。


 エドウィンがアンナの出自を公表したからだ。


 それと同時にバーバラの出身家である侯爵家の当主がアンナ誘拐の首謀者として訴追された。

 秘密裏に捜査が行われていたそうだ。それで忙しくしていてアンナに会いに来る時間が減ったのだという。


 バーバラの父にとってルシャール公爵家は目の上のたん瘤であった。しかも妻と同じ頃に妊娠したというではないか。万が一にも両家共々娘を授かったら。将来王太子妃の座を争うことになるであろうことは必至。

 であれば――。


 邪な考えに支配されたバーバラの父は、裏稼業に身を落とした者たちを雇い、ルシャール公爵家に誕生した女児を連れ去った。

 雇った者たちに良心が残っていたのかどうか。それとも将来強請りのネタにしようとしたのか。はたまた扱いに困ったのか。


 アンナは殺されることなく片田舎の農家の軒先に置き去りにされた。

 この件が明るみに出たためバーバラの父は牢に収監されることとなった。爵位などは縁者に引き継がれることとなったが、今後この件は尾を引き発言力は底辺まで落ちることになるだろう。バーバラを含めた子供たちも当分の間表舞台に出てくることはないとエドウィンが補足した。


「わたし、未だに信じられません」


 アンナはひとまず中央大聖堂に所属することになった。

 聖女の力が消えるのは大体二十歳前後。アンナは十七歳で、まだ力は健在だ。


「俺もびっくりした。まさか惚れた女性が赤ん坊の頃にとんでもない波瀾万丈に見舞われていたなんて、考えもしないだろう?」


 エドウィンがしみじみと頷いた。

 彼は王都に住まうこととなったアンナのもとへ足繁く通ってきている。

 そもそも彼が今回のお妃選びを発案したのは、子供の頃に出会ったアンナとどうしても再会したかったからだという。


「まさかわたしの飛んじゃった記憶の中にエドウィン様と出会っていたとは」

「つーか、金輪際絶対に木登りなんてするなよ? 俺の大切な思い出がアンナの中ですっからかんになっていたと知った時の俺の衝撃……分かるか?」

「え……へへ」


 誤魔化し笑いをするとむにっと頬を摘ままれた。

 放せと彼の手を取ろうとすると、逆に握られた。

 そして真剣な眼差しでこんなことを言うのだ。


「俺の妻になってくれ。頼む」

「わたしみたいな庶民代表が王子様のお妃なんて、務まらないですよ」


「大丈夫だ。教養や知識はあとからでもついてくるけれど、人の資質は生まれ持ったものだと俺は思う」


 じっと見つめながらアンナの手の甲に唇を押しつけるのだから始末に悪い。

 心臓の鼓動が速まるのをどうしても悟られるわけにはいかない。だって、後戻りできなくなる……。


「それに実際問題、アンナの力が消失しないかぎり結婚はできない。すっかり生きる気力を取り戻したルシャール公爵夫人がアンナのことをつききりで世話したいと意気込んでいるし、何とかなるだろう」


 それはいくらなんでも前向きすぎやしないだろうか。

 彼の言うとおりルシャール公爵夫人ことカロリーナはしょっちゅう大聖堂を尋ねてきては、娘のためにしたかったことリストを攻略中なのと称してドレスやら靴やら手袋やらをアンナに押しつけ……もとい贈ってくる。


「公爵家の娘だったからアンナと結婚したいんじゃない。きみの明るさだとか元気のよさに惹かれた。俺に捕まっちまったことを諦めろ」

「うわ。その説得の仕方どうなんですか」

「敬語はなしでいいのに」

「一応わたしだって分別ってものがあるんです」


 答えを出すことに及び腰になるのに、エドウィンと会えることを喜ぶ自分もいるのだから恋心とはままならない。


(恋……そっか……。これが恋なんだ)


 すとんと腑に落ちてしまった。

 もうこうなったら覚悟を決めよう。

 故郷で誰かが言っていたではないか。惚れた方が負けなのである。


 * *


「ウィルの初恋の聖女をさ、王都に呼んじゃえばいいんじゃないかな。お妃探しと称して」

「はあ?」


 ある日、のほほんとした声と顔で父は宣った。昔から割りと豪快かつ大雑把な気質を持つ父であった。

 まだ王太子であった頃、少年だったエドウィンを連れて国中を回ったことからもうかがい知れるというもの。


「宮殿の中に大切に育てられるよりもさ、大事なことがあると思うんだ」


 という父の方針で、騎士団の視察という体を取り小さな町を旅して回ったものだ。己の前にエドウィンを乗せ、父はことあるごとに「これが私たちの国だよ」と言ったものだ。


 実地で地理と歴史を教えられているさなか立ち寄った小さな町でエドウィンは運命の出会いを果たしたのだった。


「ねえあなた、見かけない顔ね。迷子?」


 今でもよく覚えている。見知らぬ女の子が声をかけてきた時のことを。

 聖堂の近くだった。その女の子はエドウィンよりも年下で、けれどもまったく物怖じしない態度で好奇心を隠しもせずにこちらをじぃっと見つめてきた。


 不躾とも思える視線だったのに、どうしてだか彼女の瞳に惹きつけられた。

 エドウィンは「大人たちの話の邪魔をしたら悪いから」と言った。


 仲良くなるのに時間はかからなかった。

 その女の子こそ幼い頃のアンナだった。彼女はこの町の聖堂に所属する聖女とのことだった。エドウィンの手をぱっと握って聖堂の周辺をあちこち案内してくれた。


 父は数日この町に滞在するようで、一日の勉強と稽古の隙間を縫ってエドウィンはアンナに会いに行った。


 アンナはエドウィンの手を取って色々な場所を案内してくれた。絵を描くことが好きなようで、ある日などは木の棒で地面に熱心に動物を描いていた。「上手だね」と褒めると、アンナは頬をふにゃりと緩ませながら照れた。


 そんな彼女との別れはすぐにやってきた。もともと一か所に長く留まることのない旅だ。

 エドウィンはアンナに「明日の朝この町を出ることになった」と伝えた。


「そっか。せっかく仲良くなれたのにね」


 寂しさを素直に表した彼女は一呼吸ののち「いいものをあげる」と言ってエドウィンの手を取り走り出した。

 連れて来られたのは聖堂の裏手。


「ほら、ペリジャの木。美味しいのよ。お土産にあげるわ」


 つるりとした木の幹を見上げると、色の抜けた葉っぱに紛れて黒っぽい実が成っているのが見てとれた。初めて見る果物だった。


 アンナがするすると木登りを始める。女の子でこんなにも木登りが上手な子に初めて会った。というか、役割は逆では? と思い見上げたエドウィンは慌てて下を向いた。スカートで木登りをするから中身が丸見えだった。


「ウィル~、今から落とすから受け取ってね~」

「え、おいっ! ちょっ」


 上を向いたちょうどその時、ガツンと額をペリジャの実が激突したのだった。

 エドウィンが条件反射で「痛て」と声を出すと、アンナが慌てて木の上から降りてきて前髪を分けて赤くなった額を覗き込んだ。


「大丈夫。わたしが痛くなくなるおまじないをしてあげる」


 そう言うや否やアンナの顔が近付いてきて。

 エドウィンのおでこにちゅっと唇を押し当てたのだった。


 思えばあれに全部持っていかれたのだ。あれは反則だろう。柔らかで温かなものが触れていたのは、ものの数秒のことだったに違いないのに。


 エドウィンには時が止まったかのように感じられたのだ。心臓がバクバクと大きく高鳴った。今しがた起こったことを頭では理解しているのにその一方で信じられなくて、エドウィンは声を発することすらできないのに。


 アンナは「これ、前にね、お姉さん聖女にしてもらったとっておきのおまじないだよ」と太陽のような笑顔で説明するのだ。


 エドウィンにとって忘れられない初恋の大切な思い出ではあったが、再会したアンナはあの日のことをきれいさっぱり忘れていた。

 こちとらあの日持たされたペリジャの実の種を大事に取っておいて宮殿に帰ったのち植木鉢に蒔いて大切に育てているというのに。


 彼女との思い出の証である若木の成長を見守るエドウィンに思うところがあったのだろう、王位を継いだ父がお妃探しを提案したのだ。


 細かいことにこだわらない性質の父は「あの子のことが忘れられないんでしょう。だったらさ、今のエドウィンの目で彼女を見てさ、決めたらいいじゃない」と背中を押してくれた。身分はまあ何とかなるでしょうと、家臣に煩雑なことをぶん投げることを前提として。


「妃は国内の聖女を検討したい」そう口にすれば関係各所が色めきだった。一番は聖女を娘に持つ貴族家だった。


 揃って「我が娘を」と推してくるので「中央大聖堂に属する聖女たちのみと顔合わせをするのは不公平だろう」と一蹴してやれば彼らの方から「では国内の聖堂から候補者を集めましょう」と提案してきた。


 召喚された何十人もの聖女たちの中から自身の娘が見初められれば箔がつくと考えたのだと推測する。

 エドウィンとしてもアンナを王都に招く口実を得ることができたため彼らの案に乗ることにした。


 公平を期するために花嫁候補たちと一度ずつ昼食をとることになったけれども、アンナが手の届く範囲にいるというのに大人しく待っているなど、どうしてできようか。


 騎士に扮してさっそく彼女に会いに行った。

 あれから数年経過しているのだから多少は娘らしい趣味を見つけたか。もしくは部屋に閉じこもって絵を描いているか。さてどうやって彼女を探そうか。


 思案しながら歩いていると石壁の上に一人の聖女が座っているではないか。まさかな。こんなにも早く見つかるものか? とはやる心を制して念のために声をかけると、そのアンナ本人で。


 再会したアンナは昔とちっとも変わらない明るく元気な姿でエドウィンを再び魅了した。


 まさか木登りに失敗して落ちた衝撃でエドウィンと過ごした数日間の記憶が飛んでいるとは思わなかったけれど。

 記憶のままのアンナの笑顔に今回もまた見惚れて。妻にするなら彼女がいいと再確認をした。


「というわけだアンナ。俺を一度だけじゃなくて二度も惚れさせたんだから責任を取ってくれ」


 諸々の事後処理も終えたエドウィンは中央大聖堂に足繁く通いアンナに求婚する日々を送っている。地方の聖堂で慎ましく暮らしていた彼女にとって将来の王妃の座というものはまったく想像もつかないはるか遠い世界のことのようで、顔を青くしながらぷるぷると「無理……」と何度もお断りされている。


 それでも諦めきれないのだから仕方がないではないか。しつこさには定評があるのだ。何しろ初恋を長年拗らせてきたのだから。


 そろそろ諦めてほしい。そう説き伏せていると、若干頬を染めた彼女が何事かを呟いた。


「ん?」

「結婚します! と言ったんです」


 小さな声に聞き返したら、今度は大きな声が聞こえてきた。やけくそ気味に聞こえたのは気のせいではない。

 思わず目が点になる。


「本当か?」

「……好きになっちゃったので。会えなくなるのは寂しいです」

「そうか」


 まずい。嬉しくて顔がちっともしまらない。

 隣に座るアンナをぎゅうと抱きしめると腕の中で「ぎゃっ」という驚く声が聞こえてきた。悪いが慣れてもらわなければ。結婚はまだ先だとしても、夫婦になれば抱擁以上のあれやこれやが待っているんだぞ。なんてことを口にするほど性急にことを進める気はないけれども。


 ようやく進めることができた関係性を実感したかった。

 エドウィンの腕の中でアンナが体のこわばりを弛緩させ、たどたどしく両腕を背中に回してくれた。胸の奥に甘やかなものが広がっていく。


 ああようやく想いが報われた。もう手放すことなどできないから覚悟してくれ。

 そう示すように抱きしめる腕に力を込めた。


 * *


 その後アンナは十九歳で聖女の力を失くすまで中央大聖堂で聖女の務めを果たした。

 出自と合わせてもう一つ驚いたことがあった。


 アンナは生まれた直後に封印魔法をかけられていたのだという。魔力もしくは聖女の力があったととしても発現しないようにという念の入れようであった。


 国で一番の魔法使いによって封印魔法を解かれたアンナの力は突出していて、自分でも驚くほどであった。

 なるほど、強い力だから封印してもなお漏れ出ていたのかとはエドウィンの言である。


 聖女のお役目を終えたアンナは一度ルシャール公爵家に滞在したのち、エドウィンのもとへ嫁ぐことになった。


 一度腹をくくってしまえばアンナはどこまでも前向きになれるのだ。

 自分に足りないものをよく学び吸収した。

 人間とは非常に現金なもので、ルシャール公爵家の権威にケイシー以下同輩聖女たちはすっかり大人しくなった。


「アンナは貴族社会に染まらなくていいからな」


 とエドウィンから言われたしカロリーナからも「あなたがあなたのままでいたら自ずと結果は現れるわ」と太鼓判を押してくれた。


 突如できた三人の兄たちはみんなアンナを可愛がってくれ、あと三年、いや五年くらい結婚を先延ばしにしたらいいんじゃないかと引き留めてエドウィンと火花を散らしていた。


 ちなみにアンナの名前は、協議の結果アンナ・クリスティア・ルシャールということになった。

 結婚式には故郷の聖堂から院長と妹聖女たちが参列してくれた。久しぶりの再会に喜び抱きしめ合い「お姉さまきれい」「お姫様みたい!」と褒めてくれた。


 大聖堂の祭壇の前で夫婦の宣誓をして、命ある限り共にあることを誓い合い、唇を重ねた。

 この人がいてくれれば何とかなるだろう。前向きなのがアンナの長所なのだから。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 主人公達がハッピーエンドなのは良かったけど、流石にバーバラが可哀想かなと思った。多分父親に王妃になれと言い聞かされて厳しく教育されて、しかも父親が余計な事をしたせいで土俵にすら立てず惨…
2024/03/20 12:52 退会済み
管理
[良い点] 面白かったです〜ホント、一箇所の曇りなく、隅から隅まで面白かったです〜。漫画なら単行本一冊くらいかな? アンナが気に食わない同性読者ってこの世に一人もいないんじゃないの?ってくらい魅力的で…
[良い点] アンナの頭から飛んでしまった、エドウィンの初恋の思い出を読んでみたいな~と思ったら、最後に書かれていて嬉しかったです。 アンナ…これを忘れてしまったの?こんなのエドウィンが惚れてしまっても…
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