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夜の橋  作者: 坂本梧朗
8/11

その8

「最近ぐあいが悪くて、その話はまだしてないの」

 光子は悪戯をした子供のように竹夫の眼を伺った。光子の答にやっぱりという失望を味わいながら、「だれが」と竹夫は訊いた。「おかあさん」と光子は答えた。光子の 母親の心臓が悪いことは光子から聞かされて竹夫も知っていた。「良くなってから話そうと思ってる」光子は両の掌で包んだグラスを見ながら言った。そう言われれば竹夫も黙るほかはなかった。今月中に式の日取りついて大体の線を出す、というこの前のデートでの合意も危ういな、と思いながら、「どんな具合なの」と竹夫は尋ねた。

「風邪をこじらせて、熱が退かないの。心臓が弱いから、お医者さんも絶対安静って言ってる」

「ふ ー ん、それはよくないな」

 光子はクスっと笑って、

「柿本さん達も見舞いに来てくれてね」

 柿本という言葉に竹夫はビクリとした。柿本は光子達の組合の副委員長をしている男で、三十四、五の、妻も子供も居る人物だった。光子は職場の話をする度に柿本の名を出した。その口調から、光子が柿本を尊敬し、信頼しきっているのが竹夫にはよく分かった。初めの頃は何ともなかったが、光子との会話に不満を覚えるようになると、光子がしばしば口にする柿本の名が気になり始めた。日祭日など、竹夫が店を休んで、光子と過ごすプランを立てた時でも、野球の応援があると言って、光子はよく断わっ た。金庫の野球チームが試合をするのだった。「だれが投げるの」と聞くと「柿本さん」と微笑んで答えた。光子に言わせればそれも組合活動の一環ということなのだが、竹夫は虚ろな気持になるのだった。馬鹿なことだと思いつつ、竹夫は柿本への嫉妬を覚えるようになっていた。二ヶ月程前のデートの時、相変らず柿本の名を口にする光子に、竹夫は自分を抑えかねて、「君が愛しているのは柿本さんだ」と言ってしまった。しまったと思ったが遅かった。光子は湿った声で、「本気でそう思ってるの」と竹夫の顔を見つめた。竹夫の人間性を疑うという感じの眼だった。「柿本さんには奥さんも子供もいるのよ」自分をそんな女と思っているのかという語気があった。「君が僕を愛しているとはどうしても信じられないんだ」竹夫はヤケ気味にそう言った。光子は息を呑むようにして竹夫の顔を見つめた。だってそうじゃないか、竹夫が言葉を続けようとした時、光子が口を開いた。「私は好きとか愛してるとか言えないし、言いたくないの。だから梶木さんも私に言ってくれなくていいわ。そんなこと、言葉じゃないって感じがする。私は梶木さんとつき合っていて、とても楽しいし、自分が成長してるなって感じるの。だから梶木さんにとても感謝してる。梶木さんのためなら何でもしてあげたい気持よ」竹夫には光子の気持が何となく伝わってきたが、それなら言葉にして「好き」とか「愛してる」とか言っても悪くはなかろうと思った。「梶木さんから信じられないなんて言われると、とても悲しくなる」そこで光子は言葉を切り、少し考えて、「そんなこと言われると、逆に梶木さんの私に対する気持がわからなくなってくるの」と小さな声で続けた。竹夫は自分の言葉が光子を傷つけたことを知ったが、そしてその痛みもあったが、しかたがないという思いだった。光子が自分に愛を確認させる何ら具体的なものを与えてないんだからと。


 それから今まで、柿本の名前は二人の禁句のようになって光子も口にしなかったのだ。竹夫は「ふーん」と言ってその話題をやり過ごした。柿本の名を口にした時の光子の屈託のない声の調子が心に残った。クスッと笑って柿本の名を口にしたことに、光子と柿本のつながりの太さを感じて、竹夫は打撃を受けていた。光子の内部の何かがふっきれたのか、と竹夫は光子の顔を眺めた。二人の間には既に隔りができているような感じがした。柿本とは何でもないから、光子は気軽にその名を口にできたのかも知れないとも思った。しかし光子との間に風が吹きぬける感じは消えなかった。


 ニ人の会話はとぎれがちだった。竹夫は結婚について詰めた話をするつもりだったが、木に竹をつぐような感じがした。沈黙を恐れるように二人は周囲の人間の噂や映画の話などをした。そんなとりとめのない会話の間に一度竹夫は内部から押されて、「僕と結婚はするんですね」と光子に確認を求めた。その改まった言葉遣い、切迫した感じの掠れ声に自らしらけた。光子はいたわるような目で竹夫を見て、「結婚するんだったら梶木さんとします」と言って微笑んだ。遠い未来の約束を聞くようで、竹夫は一向に満たされなかった。


 階段を降りながら竹夫は疲労を感じた。今日は夕食を 一緒にしようかとも考え、母親の俊子に遅くなるかも知れないと言ってあった。竹夫自身その意欲をかなり減殺されていたが、おそらくだめだろうと思いつつ一応誘ってみると、光子は「友達と会う約束があるから」と断わった。これも何度も経験したことだった。喫茶店の前で別れを言うと、竹夫は足早に歩きだした。


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