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ワルツを踊りながら

作者: 志甫テツ

読み終えた時に優しい気持ちになれていたら嬉しいです。

なぜ人は他人を羨むのだろう。いや、人だから羨むのか。人を人足らしめているのはそういった事柄なのだろうか。

羨んでいるその光景がたとえその当事者にとって羨ましがられるような事柄ではなくとも、他者からは関係ないのだ。

その裏にあるドラマになど興味はないのだから。




なぜ私は彼に声を掛けてしまったのだろう。

普段ならそんなことは絶対にしない。でも私は彼に声を掛けてしまった。

「ご一緒に食事でも行きませんか?」

私の口から出た私自身も信じられない言葉。

男性を食事になんて誘ったのは初めての事だ。私はそういった男女のコミュニケーションが人よりもかなり苦手なのだ。




その日はいつものようにカフェで働いていた。

店の道路側に面してテラスが張り出し、そこへ出ると屋外でコーヒーを飲むことができた。

私のような内気な女にはとても座ることのできない領域だ。

でも今の私はそんなことは気にせずそういった領域を闊歩できる、客ではないのだから。


衆目の視線を浴びることに臆せず、自らを保ちそこに佇む1人の男性がその衆目への最前線にあるテーブルで静かに本のページをめくり、コーヒーカップに手を伸ばす。

その姿に目を奪われたのだ。しばらくぼーっと見つめていた。

ああ、この鼓動の高鳴りは恋と言うやつだな、それぐらいは私でも分かった。内気ではあるが感情がないわけではないのだ。

ふと我に返り仕事に係る。久しぶりの感情だな、そう独り言ちる。


次の日も彼はやってきた。そして迷うことなくまた最前線へと赴く、歴戦の戦士のように。

その日は私が彼のテーブルへと向かい、よく冷えた水と温かいおしぼりを運びオーダーを取る。

彼は私をチラッと見るとすぐに視線をメニューへと向けそこに書かれている文字を指さし「これを」とだけ言うとメニューを閉じる。

私は感情の表現が苦手なのだ。気を抜くと眉間にシワを寄せているとよく言われる。

さっきも不機嫌そうな顔をしてしまっていたのではないかと不安になる。今私の心はこんなにも弾んでいるのに。




男はこの店の雰囲気とコーヒーが気に入っていた。

初めて来るがこのテラスはとても気持ちがいい。道行く人々の視線はあるがそれを意識の外側に置いてしまえば開放的でとても落ち着く。

そしてコーヒー豆をローストする芳しい香りに包まれながら木漏れ日のゆらぎの中で本を読む、とても心落ち着く時間だ。

昨日の充足感に取り憑かれ今日もまたこの店にやってきた。しかし、そんな平穏はすぐに破られた。

能面のように無表情な店員が水とおしぼりを持ってオーダーを取りにやって来る。

チラッと見たその時、能面のようだと思っていた彼女の顔に奥ゆかしいながら他者を思いやるような優しさのこもった笑顔があったのだ。

直ぐに目をそらしてしまった。電撃が走った、思考が停止する。コーヒーを注文するだけなのにうまく言葉が出てこない。

「これを」そういうのが精いっぱいだった。

そして運ばれてきたコーヒーが熱いことも気付かずに口をつけカップを落としそうになってしまった。




衆目たちはその男がやってきた時から値踏みを始めていた。

そこに座るということはそうされることを前提条件としているのだ。

舞台の最前列へやってきた役者のように観客達の視線を集める。

周りを気にすることなく自分だけの空間のように振る舞うその男に観客たちは息をのむ。静かに本へと視線を落とし自分だけの時間をゆっくりと過ごす、容姿の整った者が行うことでより芸術的に感じるその光景に嫉妬しながらも観客達は納得せざるを得なかった。

それ程に自然で高貴な光景であった。

そして自然とその場所はその男の指定席となる。




今日もあの人がやってきた。店の奥からその姿を見つけると自然と目でその姿を追いかける。

今日もあの席へと当然のように向かう。凛としたその歩く姿さえも美しく。

他の従業員にも彼の存在は特別な意味合いで映っているのだろう、そう考え私の入る余地はないなと自分で自分を諫める。

いつものように席に着き本を広げる。そして少し誰かを探すように周りを見回すと私と目が合う。

今日は少しじっと見つめられるが、やはり目をそらされると彼は本と向き合う。

私はやはり恋をしているのだと改めて思い知らされる、敵わぬ恋など愚かなことだ。私が生きた短い時間で得た結論だった。




今日も彼女と会うことができた。いや、これは会っているとは言えないな、せいぜい見かけたと言うべきだろう。

そんなことを独り思い本へと意識を向ける。

俺はよくクールだと形容されることがある。だが実は違うのだ、ただ他者に興味がないから感情というものを表現する方法をよく知らないのだ。

しかし、昨日から少し自分の様子がおかしいことには気が付いている。

これが人を好きになるということなのだろうかなどと考えていると、読んでいるはずの本の内容が全く頭に入ってこない。

ただ字をなぞるだけで内容が理解できていない。彼女のことが気になって仕方がないのだ。

いつの間にか本から目を離し周りを見渡していた。すると店の奥の方に彼女を見つける。

思わず少し見とれてしまった。変に思われてやしないだろうか? 見とれてしまった自分に後悔しながらも、今、目にした彼女のその姿を思い浮かべ優しい気持ちに満ちた瞳でまた本に羅列された文字を目でなぞる。




本を読むその男の涼しげな瞳に観客達は魅了されていた。

ただそこに居るだけで絵になった。美術館で展示されているどんな絵よりもずっと美しい風景だった。

そして観客達はその風景を借景として過ごすことに充実を感じていた。

近寄りがたいが近づきたい、そんな葛藤もまた充実というものに貢献していた。




「ごちそうさま」

私がレジで彼の清算を行った後だった。対価を払いその代償としてコーヒーを飲んだのだ、お礼などなくても私たちは不満になど思わない。

しかし彼は私に礼を告げた。きっとそれが彼のあたり前なのだろう、決して私に対して特別な感情などあるはずもない。

それは分かっているのだ。だが私の心はそうはいかない、意に反して高鳴るのだ。

心の高鳴りに動揺しながら、必死に礼への返答を考える。

「またいらして下さい」

勢いよくお辞儀をしながらそういうのが精一杯だった。ちゃんと笑顔で言えただろうか? それすらもわからない、言葉を出すことでほかの事には気を配ることは出来なかった。また眉間にシワを寄せてはいなかっただろうか?

顔を上げた時には彼は振り返って後ろを向こうとしていた。その顔に笑顔が見えたような気がしたが、これは恋が見せる幻なのだと自分に言い聞かせ平静を保とうとあがく。

ダメだな、予想以上に重症のようだ。心に大きく蠢く恋と言う病に打ち勝てるのか少しの不安を抱きながらもなぜか心は弾んでいた。




実はずっとタイミングを見計らっていたんだよ。俺は心の中の誰かによく話しかける。

こいつは俺だ。でも話し相手になってくれる、自分の全てを打ち明けられる唯一の存在だ。

周りを気にしながら彼女を探してただろ? 彼が俺の行動を正確に言い当てる。

そう、あまりきょろきょろすると彼女に気付かれてしまうんじゃないかと思ってこっそり本を読むふりをしながら探したんだ。

どうにか話ができないかなと思ってね。だから彼女がレジの近くに来るタイミングを計っていたんだ。

上手く彼女がレジを担当してくれた。でもいきなり何を話せばいいんだろうと思っていたら清算が終わりかけてて、勢いで出た言葉が「ごちそうさま」だったんだ。

ごちそうさまってなんだよとは思ったがその時の俺の素直な気持ちでもあったんだ。

そしたら彼女が「またいらして下さい」ってお辞儀されて、嬉しくて自分でもわかるぐらいの笑顔だったんだよ。

恥ずかしくなって直ぐ振り向いたから見られてはいないと思うけど、今度会った時ちょっと恥ずかしいなと思ってる。



彼が帰る時も観客達はその姿を追っている。

その日の彼が見せた笑顔は多くの女性たちの心を大きく揺さぶるものだった。

レジを後にする彼は何よりも輝いて見えた。そしてその笑顔の最も近くにいた者に嫉妬した。

だがその嫉妬の対象が大したことは無いと認識すると彼の笑顔だけをその日に起こったこととした。



人は他人を羨む。その裏にどういったドラマがあるのかは知らずに、ただ見える結果だけを頼りに。

いつかは交わるかもしれないそんなドラマ達のストーリー。


そんな2人と私が紡ぐお話、そうワルツを踊りながら。


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