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06.突然聞こえた赤子の泣き声

 慣れた実家の屋敷で、窓の外を眺める。パンパンに張った胸が苦しく、何度か搾った。本当なら息子の口に入り、あの子の体を作る乳なのに。


 悲しくなって鼻を啜る。溢れ出る涙を袖で吸った。美しい花々が咲く季節だから、あの子も寒くはない。それが唯一の救いね。カーテンを揺らして部屋を満たす心地よい風にも、心が晴れる事はなかった。


 寂しい、悲しい、悔しい。様々な感情が入り乱れ、唇を噛む。乾燥した唇はすぐに切れて、血の味が広がった。残念そうに侍女テレサが眉尻を下げる。


「お嬢様、唇が荒れてしまいましたね」


 幼い頃から一緒にいたテレサは、私が既婚と知りつつ「お嬢様」と呼ぶ。その響きが懐かしくて、訂正せずに聞き流した。居心地がいい実家の部屋は、結婚前と何も変わっていない。まるで結婚が嘘だったみたいに、自然と私を受け入れた。


 戻った私に、テレサは何も聞かなかった。痩せた手足を摩って温め、柔らかくした食事を根気よく与える。母に言われ、私はひとまずスープを摂ることから始めた。


 息子が戻った時に、お乳が出なくなったらどうするの。そう言われたら、食べないわけにいかない。ぼうっとしていると悪い考えが浮かぶ私は、息子の名を考えることにした。一族に多い名前がいいかしら。お祖父様はリカルド、ひいお祖父様はナサニエル……そうね、ひいお祖父様のナサニエルを頂きましょう。


 両親やお祖父様は、私の離縁の手続きを進めている。もし拒否するなら、王家に脅しをかけるつもりですって。ひいお祖父様も巻き込んでしまったわ。お父様はひどくお怒りで、侯爵位を返上して帝国に戻るおつもりみたい。


「旦那様や奥様が頑張っておられるのですから、お嬢様も頑張らなくてはいけません」


 姉のような侍女テレサは、柔らかく笑った。頷いてスープを口に入れる。吐き気がするけど、飲み込んだ。名付けたばかりの息子ナサニエルに、再びお乳を飲ませたい。その一心で、小さなカップのスープを飲み切った。


「ご立派でした、少し休みましょう。きっと良い知らせが届きますよ」


「ありがとう」


 掠れた声で礼を告げ、横になって目を閉じる。食べ物の入った胃が重かった。軽い腕を見つめて、潤んだ目を瞬く。早く帰ってきて、可愛い私の赤ちゃん。ベルナルドがいなくても、立派に育ててみせるわ。あんな父親なんて要らない。


 深呼吸して目を閉じる。眠りは深く、急速に訪れた。目が覚めたのは、赤子の声が聞こえた気がしたから。すっと眠りの中から意識が浮き上がった。


「ナサニエルなの?」


 倦怠感を無視して手足を動かす。じたばたと暴れるような形になった私を、テレサが支えた。


「お嬢様、今こちらに向かってます。無理をなさらないで」


 ベッドに座らされても、赤子の声に反応してしまう。徐々に近づいてくる。胸を弾ませ、私はドアを見つめた。あの扉が開いたら、待ち望んだ息子がいるのかしら。ナサニエルと呼んであげるのは初めてだわ。ひいお祖父様のお名前を頂いたこと、喜んでくれるといいけれど。


 期待に胸を高鳴らせた私は、お母様の声に応じる。


「起きている? ティナ」


「お母様、お入りください」


 開いたドアの向こう、お母様の腕に抱かれたお包みに釘付けだった。柔らかな水色のお包みから小さな手が覗く。


「取り返したわ、あなたの息子よ」


 腕の中にそっと下ろされた。私が弱っているのを知るから、お母様だけじゃなくテレサも支える。震える腕の中で、お包みから覗いた顔は……ああ、間違いない。また涙が溢れた。


「お帰りなさい、私の息子……ナサニエル」

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