4.まったく!何やってるんだ!
「僕の脳はもうつまらないものに侵食されてしまったのかもしれません。これ以上の何かを求めても得られるものはないし、誰かに勝るものはないのだと思います。僕に出来ることは、後はロボットが全部やってくれるから、この世に残っている理由はありません」
狭い部屋で、精神疾患の患者は白衣の医師にそう訴えた。
ここは世田谷区にある中王子心療内科クリニック。下をうつむく、まだ二十代の青年は人生を悲観している様子だ。
「そうか。君は第一志望の大学に落ち、なんとか受かった滑り止めの大学に行ったけど、一般人になったことに幻滅してしまったんだね」
「そんな単純なものじゃない!もっと複雑なんだ。複雑な問題があって、僕は絶対的に重要なものを失ってしまったんだ!」
青年は大きな声を張り上げ、中王子医師の見解を否定した。
「そう。でも君はその限界に耐えられずここに来たのだろう。その限界を超えたくて、ここに来たんじゃないのか?君はまだ死のうなんてしていない。その限界を超えたいと望んでいる」
中王子医師の眼鏡がギラリと光り、白いマスクの内からのこもった声が青年の耳に残った。
「どうしたらいい?先生?僕には何ができる?」
「簡単だよ。薬を出そう。これは特別な薬なんだ。君には特別にそれをやろう。そして、君が恨む相手に仕返ししてやるんだ。そうすれば君は君の限界を超えていける」
中王子は机の一番下の段に閉まってあった液体が入っているアンプルを出した。
「これは、筋肉に注射するんだ。右胸の辺りがいい。このアンプルを、このギザギザの付いたこっちの注射器にはめ込む。するとギザギザした部分から液が流れ出るようになっている。はめ込んだ後に一度液が出ることを確認してから鎖骨の下辺りにぶっ刺すんだ。そうすれば、君は力を発揮できる。それで恨みある人間に、全ての怒りをぶつければいい。ただし効き目は二時間程度だ。嫌いな奴をやっつけるにはその30分前に処方したらいい。一個しかないから大切に使うんだよ」
青年はじっとその話を聞いていた。
「どうして、僕が、恨みを持っていると?」
「話を聞いていればわかるんだよ。真相がどこにあるか?どうすれば問題が解決するか。私にはわかるよ」
中王子の眼鏡の奥がニヤニヤしていた。青年は少し恐れを感じたが、これが最高の解決案だと確信した。
「わかりました。やってみます」
ガラッ!
「センセー!」
診察室のドアが急に開いて、そこに看護師の女が立っていた。
「なんだ。急に。診察中だぞ」
「それが」
看護師が後ろを見るとそこにはスーツ姿の女が立っていた。すらりとしたスタイルのいい女だ。
「な、何なんですか?」
スーツ姿の女は警察手帳を出した。
「中王子さん、あなたを違法薬物処方の容疑で署に連行します」
↓
「それにしてもすごいですね。空を飛んだり、壁に穴開けたり」
蓮見もえみは嬉しそうにデスクの前に座る佐久間美麻に話す。
「ちょっと!口ばっかり動かしていないで、手を動かしてくれる!」
「はあーい。すみませーん」
美麻がしかり、もえみは恐縮する。
ここは捜査一課分室の特殊試行捜査係、通称とっかかりの事務所である。捜査一課といっても常に殺人事件を追っているわけではなく、過去の事件を見直したり、犯人の傾向を分析したりしている。通常の捜査一課が何しているかをもえみは知らないが、少なくとも、この特殊試行捜査係二班ではそういった事が仕事の一つになっている。
もえみは退屈そうに「犯人逮捕へ繋がる捜査手法」という説明文を読み進めていく。
ちなみに一班の主な仕事は見回りという名の、街をブラブラする職務である。
『何か事件はないかな?』ともえみは待っていた。
「失礼します」
そんな矢先にとっかかり事務所のドアが開いた。
そこにクォーターともハーフとも取れるすらっとしていて目鼻立ちがハッキリしたイケメン刑事が立っていた。
もえみはそのイケメンの顔をじっくりなめ回して目で追った。
イケメン刑事は奥にある油坂係長のデスクに一直線に向かっていった。
「油坂さん。係長のところは何を管理してンですかねえ?」
そう言って机の上を叩いた。
「君は、捜査一課の?」
「本庁の恩田シオンですよ。何度か会ってますよね」
「ああ、確か羽田くんの」
「羽田蝶のバディですけど…それはいいや。あんたのところの特殊な薬品が漏れたって聞いてね。それも15本」
「15本!」声を上げたのは、佐久間美麻だ。「そんなバカな」
明石研究室で、絶対流出することはないと豪語していたあれだ。
『あのセンセーだからかなあ』
もえみは声には出さなかったが、ドジなイケメン教授の明石音麿の事を思い出し苦笑いを浮かべた。
「この件に関しては、極秘事項でもあると聞いているから、本庁の一課では、俺と羽田さんのみで動いてる。後はあんたたちに尻拭いしてもらう」
シオンがそう声を張り上げた。
ガァーー!!
自動ドアが開いて、そこに髪をさらりとかきあげるスタイルのいい女が現れた。
「羽田ぁ、あの女め」と美麻が苛立った様子を見せる。
「失礼します。シオン君から話したと思いますけど、そういうことですので、よろしくお願いしますね」
羽田蝶はそれだけ言って、クールに話をまとめあげようとする。
「ちょっと待った。どういうことだか詳しく説明しなさいよ」
美麻が声を上げ、席から立ち上がった。
「あら、これは遠くの部屋に追いやられた佐久間さんじゃないの。お久しぶりです」
「私は一時的にここに来てやっているの。いいから何が起きたかちゃんと説明しなさいよ。言い掛かりだとしたら、あなたに責任取ってもらうからな」
なんだかとても険悪なムードである。明らかに二人は仲が悪い。
「しょうがないですねえ。今回の漏洩は、あなた方が逮捕した立て籠り犯人、IT企業の社長室に人質を取った事件ね、あの周辺を調べた結果、明らかになったの」
経緯はこうだ。
立て籠り犯の男には心療内科への通院履歴があった。犯人は事件を起こす前に、中王子クリニックという病院に通院しており、捜査一課が調査したところ不法薬物の取り扱いが疑われた。
捜査一課の羽田蝶は中王子クリニックに押しかけ、中王子医師が違法薬物を患者に渡すところを現行犯逮捕した。
科捜研での分析結果、その薬物は警視庁内の部署『とっかかり』が使用する特殊な薬物であることが判明。慌てた上層部は、この件を知る羽田蝶と数名に事件解決を指示した。
即刻、羽田蝶のグループは明石研究室に立ち入り、15本の注射薬アンプルが失くなっているのを確認した。それから同じ公安大学大学院にある『とっかかり』の事務所にやって来たのだ。
さらに現状として、逮捕された中王子医師は、5本のアンプルをインターネットの取引で入手したと、供述をしている。
「付け加えると、まだ調査中ではあるけれど、捜査一課が担当した他2件の殺人事件についても、このアンプルが使われた可能性が高いと考えているところよ」
「ということは、殺人事件に2本、立て籠り犯に1本が使われて、医者が残り2本を持っている。他に10本がどこかにある。ほんとに15本も失くなったのかな?」
もえみはチラッと口を挟む。
羽田蝶はもえみに近づいて微笑む。
「違うわよ、お嬢ちゃん。中王子医師は殺人事件の犯人とは無関係よ。彼は4本を別々の患者に処方し、そのうちの1本を立て籠り犯が使用。3本は不明。1本は私たちが渡す前に食い止めたけどね」
「と、いうことは、他の10本から2本が殺人事件に使われて、8本が不明。医者の3本もまだ使われないまま、患者が持っているってことかあ」
「そうよ。ご名答。賢いわね」
そう言って羽田蝶はにこやかに笑みを浮かべる。もえみはそれにはにかんで応えた。
「本当に、そんなに盗まれたの?何かの間違いじゃない?あなたたちの捜査は正しいのかしら」
美麻はこの事件の発端を疑っている。
「困るわねえ。こういう仲間を信じられない、おばさまは」
「あなたの言うことだからよ。お色気戦略に、ごますり作戦。あなたが信じられないのよ。顔を体も作り物で誤魔化しているんでしょ?あなたに真実はあるのかしら」
「失礼ね。セクハラよ」
「同姓じゃない!」
「じゃあ、パワハラよ」
「あら、ってことは、あなたがわたしより下の位って認めるのね。いいわよ。訴えても」
「あなたみたいに疑わしい顔ばかりしてるから、男に逃げられるのよ」
「何よ!」
周りの面々が口を挟む間もなく、仕方なくその罵り合いはしばらく続いた。
「まあまあ、それはともかく、俺たちはアンプルの回収とばら蒔いた犯人探しに向かう。とっかかりの皆さんは流出した経路を探ってほしい」
シオンがやっとのこと、その罵り合いにスパッと切り込み、ヒートアップしていた美麻と羽田蝶は黙り込んだ。二人は我に帰り、少し赤面して下をうつむいた。
「まずは事情聴取ってところですかねえ。ついに刑事っぽくなってきましたねえ」
もえみと美麻は流出の原因を探るべく、明石研へと向かった。もえみは目を輝かせ、初仕事にやる気を漲らせている。
「そうは簡単にはいかないわ。推理小説みたいに、簡単には犯人なんて見つからないからね」
そして明石研へ突入する。
部屋のドアが開くと、中には四人の研究者がいた。
「おお、ちょうどよかった。皆さんお揃いで」
美麻が声を掛けると、明石は頭を下げた。
「どうやら問題を起こしてしまったみたいで、申し訳ありません」
イケメン先生のきりっとした顔は、一瞬にして崩れた。やらかしてしまったことにかなり落胆しているようだ。
「まあ、先生もそろそろ何かやらかすのではって、俺も心配してたところでね」
そう言うのは、度の強い眼鏡を掛ける、ひょろりとした男だ。
「彼は出流原結弦。明石先生の右腕の助手よ」
「まあ、俺がいなければ先生なんて何もできないっすから」
ゆづるは偉そうな態度で胸を張った。
「いつもゆづる君には助けてもらっていますよ」
明石はただただ低姿勢に頭を下げている。年齢的にもそれほど違わなそうだが、その態度にはどちらが先生でどちらが助手だかわからなくなる。
「先生、そんなに謙遜しなくても。先生の論文は素晴らしいものばかりですよ」
今度はまだ声変わりもしていないのかと思うほど細い声の、背の低い、にこやかな男の子が先生を励ました。
「こちらは、兼続光生くん。今年入ったばかりの研究生よ」
「また、高校生とか?」
もえみはとっかかりの高校生、由比三樹を思い出して、そう聞いてみる。
「はあ、すみません。一応、大学生です。まだ卒業してない四年生ですけど、特別にここで学ばせてもらうことになりました」
「彼は、私の恩師である兼続教授の息子なんだ。その事もあってここで研究論文を書いてもらってるんです」
もえみはもう一度、みつおを見る。常に笑顔でかわいい系ではある。おねえさんがお世話して上げる、みたいな母性本能がくすぐられて、もえみは変な照れ笑いを浮かべた。
それからじっと明石先生の方を向き直す。
『やっぱ年上の男の方が好みだわ。明石先生が今のところのナンバー2ね』
勝手に順位を付ける。
その時、もえみは恐ろしいまでの強い視線を感じた。奥の方に一人、白衣を着た女性が立っていた。
「あの、あの女の人は?」
「あんたこそ誰よ!」
こっそり美麻に訊ねたつもりがその女性の耳まで届いていたようだ。
「すみません。わたしは特殊試行捜査係に新しく赴任しました蓮見もえみです。よろしくお願いしまーす」
そう言って丁寧に頭を下げる。
「ふん、そう。わたしは神林香美。よろしく」
よろしくとは言ったけど、まったくもえみと顔を合わせていない。明らかに嫌っているようすだ。
もえみもカチンときたが、ここは冷静に相手にせず受け流すことにした。
「では、先生。本題に入らしていただきます。アンプルが流出した件ですが、どちらに保管を?」
「美麻さんには、前にも言ったことあったと思いますけど、アンプルは薬品庫に保管してありました。薬品庫には我々四人の誰かがカードを翳さなくては入れないようになってたから、我々四人が怪しまれても仕方ないかと思います」
明石音麿、出流原結弦、兼続光生、神林香美、四人が容疑者になる。
「でも先生、それがそうとも言えないんです」
そこにみつおが異議を唱える。
「どういうこと?」と美麻。
「その、盗まれたアンプルには全部番号が振ってあります。そして、アンプルは全て5個入りのピンク色のケースに入れて、その後に薬品庫へ保管していました。
月に一回の在庫管理で薬品庫には50個のアンプルがあったと確認しています。ケースの中までは見なかったので、実際に50個はなく、3ケースが空でしたので35個しかなかったわけです。
前回アンプルを作ったのは3か月前で、調べたところ無くなったのは、新しい番号のアンプル15本だったんです。つまり、犯人は製造直後のアンプルをこの実験室から持ち去ったんです。
僕たちは、すでに空のケースを、空とは知らずに薬品庫へ保管したのかもしれません。そうすると薬品庫ではなく、この研究室に入れる全ての人が容疑者になるわけです」
みつおがすらりと説明をした。
「ちょっと待って。だけどそんなタイミングで誰かがやって来るなんてあるかしら?作ってケースに入れたらすぐに薬品庫へ保管するでしょ」
「それは、実際にはそこまでしっかり管理はしてなくて」そう言うのは明石先生だった。「薬品は完成した後、検査に掛けるんで。場合によっては実験台の上に一日放ったらかしの場合も。検査は作った分の残りを使用するから、ケースに入ったやつは検査に不合格でもならなければケースを開けることはないし。つまりその間に誰かがケースから中身を抜くこともできる」
美麻はうなずく。
「だとすると、製造された日から保管された日までに、この研究室へと立ち寄った人物を調べれば容疑者は絞られるわね。IDカードの入出履歴を調べればすぐにわかるわ」
「これで容疑者は割り出せそうですね」
美麻は『事件の解決は推理小説のように簡単にはいかない』と言ってたけど、自らが撤回しなければならないかのように犯人を割り出せそうな状態に近づいていた。もえみはそれが可笑しく、クスクスと笑った。
流出犯は直ぐに見つかるだろう。
でも、これがさらなる問題を生み出すことになろうとは、この時のもえみたちにはまだ知る由もなかった。
つづく




