3.ぶっ飛んできたぜ!
高層ビルの35階にその男はやって来た。
その男は大きなオフィスビルの一階にいた受付の女を人質にして上がってきた。片手には刃渡り15センチの折りたたみナイフを手にしていた。
「気を付けろ!警備員を呼んだら、この女を殺すからな」
男はそう言ってナイフを女の背中に突きつけて脅しながらそこまでやって来た。
社長室の入口には美人秘書の女がいた。男は、社長はこの女と好き放題遊んでいるのだろうと思うと想像し、怒りはより一層増した。
「早く社長室に通せ!電話なんてしなくていい。とにかく部屋を開けろ。この女を刺すぞ」
秘書は仕方なく社長室のドアのロックを解除した。
男が受付嬢を連れて中に入ると同時に、秘書は警備室に通報した。
社長室はだだっ広く、その男が暮らす部屋の10倍はあるようだった。空間が広く、高級そうな革張りのソファーがドカンと置いてあり、トロフィーやら高級そうなオブジェが飾ってある棚とか、そんな日常には不要な物ばかりが目につく。
社長は普通サイズのデスク6個分くらいあるデカい机の向こうに、ゆったりと座っている。
「誰だ?君は」
そう言って立ち上がった。
「おまえはもういい」
男はそう言って人質の女を放り投げた。受付嬢はホントにぶっ飛び、ドアの横の壁に背中をぶつけ倒れた。恐怖で動けないのか、ぶつかった衝撃で怪我をしたのかはわからないが、女はその場で座った態勢となったまま動かなかった。
社長の目には、男の手に握られた刃物が入ってきた。
「な、何なんだ。やめないか」
状況を悟った社長は、今度は怯えた声を上げて、男を宥めようとし始めた。
男は部屋に内鍵を掛け、社長に近づいていった。
この男はこの会社で契約社員として働いていた。半年前に、事前通告もなく首になった。それまでも激務に追われ、ろくでもない仕事を一生懸命こなしてきたのに、ろくな報酬もなく、それでももう少しで正社員登用され、社会保障も受けられる手前まで来ていた時に解雇されたのだ。
許せるはずがない。突然の雇用打ちきりに家賃も払えなくなり、食費も無くなっていった。アルバイトを転々として繋いできたけどもう限界だ。それでもなんとかまっとうに生きていこうとしていたけど、この会社のブラックだらけの実態を許すことができなかった。
社長を殺す。その恨みを消せなかった。
↓
大手IT企業の本社ビルの前には、すでに多数の報道陣が集まってきていた。
「ただいま入ったばかりの情報ですが、男が社長室に人質を取り、立て籠っているとの情報が入ってきました。犯人や人質の人数については、まだ正確にはわかっていませんが、社長と女性社員一名がいる模様です。また正確な情報が入りましたらお伝えします。以上、現場前より中継でした」
現場の側まで駆けつけた氷見翔はビルの上を見上げていた。報道陣から少し離れた場所で様子を窺っている。
「社長室ってどこかな?」
氷見翔は独り言のように声を上げる。
「38階建ての35階よ。35階には他に、ゲストルームとゲストをもてなすための料理を作る厨房、倉庫、秘書室、トレーニングルーム、スイートルームもあるけど、社長室は一番眺めのいい南側の真ん中の部屋よ」
彼はハンズフリー電話で相手と話をしている。その相手は佐久間美麻だ。
「上から1、2、3、ガラス張りの南側の部屋か。光が反射しててわからねえなあ」
彼は様々な機能が備わった高性能なゴーグルを付けていた。望遠機能も付いているから遠くまではっきり見えるのだけれど、中は見えない。
「防音反射板強化ガラスだからね。簡単に割って突っ込むのとかは無理よ」
「忍び込むのは趣味じゃなくてねえ」
「仕方ないわねえ。爆発させるよりは、傷を付けて割り砕く感じの方が、うまくいくと思うわ」
「了解」
「でもちょっと目立ちすぎじゃないの?」
「なーに、そんなの気にしてたら、救える命も救えないでしょ」
「もう少し考えましょ?」
プツン
「そんな暇はない」
氷見翔は強引に通信を遮断した。
足下には直径40センチくらい、厚み20センチくらいのパンケーキ状の機器が二つ置かれている。まずは右足をその上に乗せる。円形の真ん中は靴が嵌まり込むようにできてるみたいだ。右足はがちりと嵌め込み、同様に今度は左足をもう一つのパンケーキに嵌め込んだ。
雪山で使うかんじきのような物にも見える。厚みのある円形をしている。パンケージ状で赤い塗装がされている。
「じゃあ行きますよ」
氷見翔は足を踏ん張る態勢を取る。するとかんじきは空へと浮いた。辺りに数人の道行く人がいて、それを見てビックリしていたけど、その浮遊人間はすぐに飛び立って行ってしまった。
大手IT企業の社長室では、怒りに溢れた男が今にも社長へ飛びかかろうとしている。
「まあ、待て。君が苦労した分は全て認める。言い分も全部聞こう。私は君が間違っているとは思っていない。ただ私の元まで声が届いてこなかったんだ。君のような優秀な人間を解雇した奴が悪い」
社長は犯人の男を宥めようと、なんとか時間を延ばして話を続ける。本当のところは早く警備員なり警察なりが来て助けてくれるのを待っている。犯人の言い分なんて聞くはずもない。
犯人の男は一面ガラス張りの窓辺まで行って外を覗いた。
「おい、見ろ!報道陣やら警官やらいっぱいいるじゃないか!おまえが呼んだんだろ!こんな状況で僕が許されるわけないだろ!捕まるのは僕だ!その前にあんたを殺した方がましだ!」
犯人の男は叫んで、再び社長に襲いかかる。
「待て。このガラスは外からは見えない。君の姿は見えてない。私は警察を呼んでいない。誰かが呼んだんだ」
そう言って、チラリと社長室の入口付近に倒れている受付嬢を見る。男はその女が呼んだのかと思い、いら立つ。
そして、女の方に向かう。倒れている女を見て、男は立ち止まって呟いた。
「いや、この女は関係ない。もう遅いし、もともと金が欲しいわけでも、いい仕事が欲しいわけでもない。ただこんな腐ったブラック企業を作った男を罰したかっただけだ」
女には意識がなかった。この女に対する怒り、それはもはや彼にとっては意味のない感情だった。
「俺には時間がないんだ。もうやらないと」
犯人の男は再び社長のいる机の方へと足を歩める。
空は快晴だった。報道陣や警察関係者、野次馬の多くが地上から38階建てのビルを眺めている。人々はそこに飛んでいる人のような形の物を見ていた。
「あれ?人じゃないか?」
「まさか。飛行機じゃない」
「ラジコン?」
「人形のドローンとか?」
そんな声が飛び交っていた。
ズドーン!!
そして派手な音が響き渡った。
ビルの上層階のガラスにポッカリと丸い穴が開いたようだった。
氷見翔はガラスに特殊なナイフで丸い円形のキズを付け、そしてその真ん中に爆弾のようなものを仕掛けた。それがズドンという大きな音を立てて、丸い大きな穴を開けたのだ。
ガラス張りの壁には丸い扉がポッカリ空いた。穴には厚さ十センチ以上厚みのある直径一メートルほどのガラスがきれいな円形のまま、部屋の内部に吹き飛んで転がっていた。そしてそれは見事なまでに、犯人に命中し、犯人は厚い円形のガラス板の下に潰されて倒れていた。
「あらあ、やっちゃった。死んじゃったかな?」
氷見翔はそう言って、社長室に入ってきた。社長はあんぐりと口を開けていた。
空から現れた男は中に入って丸い靴を脱ぐと倒れていた男へ向かっていき、犯人の手首を掴んだ。
「ああ良かった。脈がある」
そしてその腕に手錠を掛け、社長のデカイ机の脚にもう片側の手錠を繋いだ。
入口で倒れていた女は大きな爆音に目を覚ました。その可愛らしい受付嬢を氷見翔が見逃すはずもない。すぐにそっちに駆け寄っていた。
「ああ、お嬢さん、もう安心です。私が来たからには危険はありません。今から一緒にお茶でもいかがですか?」
この場面で節操のないナンパを試みる。
しかし女は安心したのか、またふっと意識を失ってしまった。氷見翔はそれを抱き込み、ニヤリとする。そして受付嬢の体をなめ回すように見て、スカートの裾から覗く太腿に手を入れようとする。
「おい!やめろ!」
社長の声が響き渡る。
「いや、これはかっこよく助けに来た背の高い男を見て、気絶した彼女の望みに答えようと」
氷見翔は訳の変わらない説明をして、社長の方を見る。しかし、やめろと言った方向には犯人の男が立っていた。あのデカい社長室の机の脚に手錠を掛けたはずなのにそいつは無理やり引き抜いて外したようで、右手を複雑骨折したのか、だらりと垂れ下がっている。
自由になる左手を使ってナイフを拾ったようで、今にも飛びかかろうと社長へと近寄っていく。
氷見翔は女を壁に優しく座らせると、右の腰元から銃を取り出し、すかさず犯人を狙い打った。
ピキュン!
弾は犯人の首に命中し、倒れた。
「ハハハ、よくやってくれた。刑事さん!殺してしまったみたいだが仕方ない。こんな世の中の役立たず、いくら殺しても殺したりないからな」
安堵に緩んだのか、社長のどす黒い本性が口から出る。
その瞬間、氷見翔の顔色が変わる。
「おい、テメエ!人を殺して仕方ない!人の命をなんだと思ってんだ!生きてていい命と死んでいい命があるとでも思ってんのか!」
「いや、私は君のやってしまった罪を思ってだ。しかしなんだね。助けてもらったのはありがたいが、その口の利きようはないだろ。警官だろ。警官はそんな口を利くのかね」
社長の開き直り、警官の氷見翔を萎縮させようとするが動じない。むしろ怒りを増している。
「殺していい命があるならな、テメエの命も要りやしねえ」
そして銃を社長に向ける。
「お、おい!冗談だろ?」
社長は酷く汗をかき、あたふたするが、その場で手を挙げて助けてのポーズを取る。
ズキュン!
弾丸は社長の眉間に命中した。
「嘘だろ?」
そう言い残して、ゆっくりとその場へ倒れ込んだ。
「は、いかん!早く、あの子を俺のものに!」
そう言って氷見翔は受付嬢に手をつけようとする。
ガンガン!
社長室の入口が強い力で叩かれる。
「ちっ、もう来たのかよ」
氷見翔はあきらめて、チラッとパンツを覗いて、穴の開いた窓の外へと向かっていく。そして、脱いだかんじきのような空飛ぶ靴を履いて、すぐさま空へと飛び去っていった。
↓
空飛ぶ人間のニュースが飛び交う翌日、氷見翔は油坂係長と、捜査一課に呼ばれていた。
「氷見くん!困るよ、こういうの。まだ世に知られては困る警察の道具、スカイシューズを世に広めるような。しかも、犯人はまだしも、被害者まで撃ったとは」
一課長の宇島勝馬は眉間にシワを寄せて憤慨している。
「懲戒処分ですかね」
「そんなもんですまん!逮捕だ!牢にぶちこんでやる!」
「あ、まあ、犯人も無事に逮捕されて、被害者の社長も元気ですし」
油坂係長は禿げ頭をかきながら氷見翔をフォローする。氷見翔が撃ったのは麻酔薬入りの弾丸で、当たった相手を一発で眠らせる優れものだ。犯人も社長も死んでいない。
「あれも実験中の弾丸だ!下手したら死んでたかもしれんのだぞ!」
トントン!
誰かが部屋をノックする。
「誰だ!」
ガチャッと扉が開いて、捜査一課長の部屋にすらりとスタイルのいい黒髪の女が入ってきた。
「失礼します。一課の羽田です」
現れたのは捜査一課の美人刑事として庁舎内では有名な羽田蝶だった。
「羽田ちゃん。相変わらずお美しい」
怒られている氷見翔だが、その美貌に反応せずにはいられない。
「氷見くん!」
油坂が怒るが、意外にも宇島一課長は何も言わない。
「課長」
羽田蝶は課長の耳元まで近づいていき耳打ちをする。それに頷いて、宇島一課長は顔色を変える。困ったような嬉しいような変な笑みを浮かべている。
「とにかく、もう二度と派手に道具を使うな。後はいい。自室へ戻りたまえ」
「え、もういいんですか?」と油坂。
「いいから、とっとと出てけ!」
そして、氷見翔と油坂は羽田蝶と一緒に部屋を後にした。
「どうして?」と油坂。
「警視総監が今回の犯人逮捕にご機嫌らしくてね。一課長を誉めてたって言ったら、もうあれだから。あの人も単純よね」
羽田蝶はそう言ってあきれ返る。
「いやあ、俺は羽田ちゃんに会えて、本庁に来れて良かったよ」
氷見翔はまったく懲りていない。羽田蝶はこいつにもあきれる。
「ところで、今回の犯人なんだけど、少し様子がおかしくてね。あなたが言うには普通は外せない手錠を外したって。しかも強引に。今は病院で治療中なんだけど、どうやら精神科医から処方された注射薬を使ったと自供しているらしいの。まあ、ここからはあなたたちの仕事ではないんだけど何か引っ掛かるのよね」
油坂は若干嫌な予感を覚えたが、まさかと思い、それを胸に止めた。氷見翔が変なことを言わないか気にしたが、彼は羽田蝶の美貌に囚われていてほとんど話を聞いていなかった。
しかしこの油坂の嫌な予感は当たることとなる。そしてこれがこの物語の事件の幕開けとなることを、彼らはまだ知らない。
つづく




