27.またお会いしましょう!
ボォーーー!!
船の汽笛の音が聞こえた。ここは静かな町だ。なにしろ一番うるさい音がこの汽笛の音なのだから。
わたしは長い間、この町で暮らしている。息子を失って、また息子を育て、息子を置いて、都会を去った。
土曜の朝に、読書しながら静かな時間を家で過ごしていると携帯電話が鳴った。知らない電話番号だったけど、東京の電話番号で、何かの知らせかと思い、その電話に出た。
「もしもし、こちら東京都世田谷西署の宇内というものです」
「はい?」
警察からの突然の電話に、わたしは少し警戒した。
「あのですねえ。お伝えにくいのですが、昨日、あなたの元夫の兼続金雄さんが亡くなりました。死因は窒息死。首を吊って亡くなっていました」
一瞬、わたしの胸の鼓動は高鳴った。でもわたしは落ち着いていた。
「それは自殺したということでしょうか?」
「そうなります。御愁傷様です」
「いえ、もう兼続とは10年近く会っていませんから」
「それで、ですね。実は、息子のみつおくんが行方不明でして、そちらに行っているとか、そういうことはないでしょうか?」
「自殺?ですよね」
「ええ、自殺です。ただ、念のため事情聴取をしたいので探しているところです」
「息子とは、ずっと会っていません。あの子はわたしの居場所も知らないと思います。まして捨てた母親に会いたいとも思わないでしょう。もういい歳になっているはずです。一日くらい連絡が取れないこともあるのではないですか?」
なぜだか少し腹が立って、わたしは苛立つように、その刑事に告げた。
「申し訳ありません。もし、連絡がありましたら、折り返し連絡いただけると助かります」
刑事がそう伝えてきて、電話は切れた。
翌日の日曜日には地元の警察官もやってきた。警視庁からの要請で、直接事情を聞いてほしいとのことだった。わたしは昨日、宇内という刑事に話した内容と同じ事をもう一度伝えた。
息子について事細かに聞かれることはなかった。わたしはかつての息子の死やその後の出産の事が公になってしまったのではないかと心配した。でもやってきた警官は、それについては全く知られていない様子だった。
息子は行方不明だというのにその心配もしなかった。普通なら刑事も怪しむかもしれない。けれど10年も会っていなければそうかというように、刑事は気にも止めていない様子だった。
その日の午後、図書館へ行き、新聞閲覧コーナーでいくつか主要な新聞を閲覧した。全ての新聞に、兼続金雄の名前はあった。どの新聞も著名人のおくやみ欄に小さな記事で掲載されていた。
『ノーベル賞候補ともいわれた日本の遺伝子学の権威が亡くなった』
死因については未記載か突然死などと書かれ、明らかにはされていなかった。告別式が明日行われ、喪主は兼続銀平となっていた。金雄の最初の結婚相手との間に生まれた子で、今はもう40代後半になっている息子だ。わたしがまだ彼と結婚していた時も時々自宅を訪れ、金雄に金をせびっていた。起業しては会社を潰し、また起業しては会社を潰すような、ぼんくら息子だった。
みつおについては何も書かれていなかった。わたしは密かに、秘密が暴露されていないことを知って安堵した。
静かな生活が続けられる。もうあの子に関わることはない。
↓
都会ではジングルベルの歌がそこかしこで鳴り響いている。事件から1ヶ月近く過ぎたけど、兼続みつおの行方は今もわかっていない。それと同時に、残り3個のアンプルも見つかっていない。
アンプル流出事件は、兼続金雄単独の犯行として片付けられている。ただこれは警察内の内々の処理であり、実質的に刑事事件にはなっていない。
もえみたちは今日も兼続みつおと3つのサンプルを探している。今のところ、アンプルが使われたという形跡はない。ひょっとしたら事件にならないままに使いきられてしまったのかもしれない。それでも少なくとも、どこにどう流れたかを彼女らは明らかにしなければならない。
「ぜんぜん手掛かりありませんねえ」
もえみは頭の傷もすっかり治って、今日も元気に大江戸大学や二重橋大学にみつおの姿がないか関係者をあたって探していた。だけどみつおの姿は全く目撃されていない。
一緒に付いてくるのはいつもの充だ。彼は今日も全く役に立っていない。変な人だと思われ、女子大生に避けられまくっている。
日も暮れて、すっかり辺りは暗くなっている。
「今日はもう、上がりましょ」
指示をするのはいつももえみの方だ。どっちが年上だかわかりはしない。
「はい、帰りましょう」
いつも素直な充。彼はすっかりもえみのペットのようになっている。
今日は早めに上がる。事件は解決していないけど、新しい殺人事件が起きていない。日々は落ち着いていた。そんなわけで、今日はとっかかりの皆で忘年会をすることになっている。
二人は6時半に一旦事務所に戻った。事務所には油坂係長と有馬班長が残っていた。
「おう。おかえり。じゃあ、そろそろ行くかね。7時からだったよな」
油坂は忘年会を楽しみにしていたようだ。かなりウキウキした様子で、すぐにパソコンのスイッチを切り、ビジネスバックを持って、帰れる態勢になった。
「ひなたさんとかはどうしました?」
「彼らはもう行ってるよ」
「はや!」
六本木の住宅街を少し入ったところに静かな場所に居酒屋がある。公安大学院大学御用達の居酒屋で、大学職員がよく通っている。入口はやけに狭いけど、奥は広く、カウンターとテーブル席の間を通りすぎると、奥には宴会をやるにはちょうどいい座敷の個室が4、5部屋用意されている。カウンターやテーブル席を通る時には、もえみも公安大学院大学で見たことがある先生方が何人か見受けられた。
奥の襖を開けると、そこにはすでにひなたと氷見翔、佐久間美麻、それから宇郷増高がいた。今日は増高の快気祝いでもある。
「おお、皆、来たか!座って、座って」
元気になったことが嬉しいのか、いつもよりもテンションの高い増高が一番奥の席からもえみたちに声を掛けた。
「三樹くんは?」
「さあ、トイレじゃねえ?」
油坂の問いに氷見翔が答える。
「もえみはこっちよ」
部屋に入って右手手前に座る佐久間美麻が言う。
「なんで俺から遠ざけんのお」
氷見翔が不満そうに言う。
「ひええ、ごめんなさーい」
もえみはそう謝って右手一番手前の端の座布団に座る。氷見翔は左手の奥で、巨体の増高と大きなひなたに挟まれ動けない。右の奥には油坂と有馬が入り込み、一番入口のお誕生日席に充が正座して座る。
美麻が店員を呼んで飲み物を頼む。それからしばらくして、すぐに飲み物は運ばれてきた。
「後は、三樹くんか」
席が整ったのになかなか来ない若造に皆、落ち着かない。
「もういいや。後から来るだろ。始めようぜ」
氷見翔が急かすと、油坂もそれを認める。
「じゃあ、先に始めてましょうか」
ちゃぶ台の上には刺身の盛り合わせや土鍋の準備もされている。
「では、ここは、無事に回復した増高さんから一言」
佐久間美麻が音頭を取り、増高がビールジョッキを持って立ち上がる。
「皆には心配かけてすまなかった。この通り、大きな後遺症もなく、俺は元気だ。その後の捜査には参加できずにすまなかった。俺としても何か力になれればと思ってたんだが、頭の方はあまりよくないし、PCも苦手で、肉体しか使い物にならないから怪我を治すしかなくて、ヤキモキしながら治療してた。それでまあ」
「長い長い。もうええわ!」
氷見翔が嬉しそうに笑ってつっこむと、皆も笑った。
「今締めようとしてたんだよ!とにかく、まあ、待たせたな。みんなこれからもよろしく頼むぜ。カンパーイ!」
「カンパーイ!」
そして皆がビールジョッキをぶつけ合う。
「あ、美麻さん、何飲んでるですか?」
もえみは隣に座る美麻に声を掛ける。
「カンパリソーダよ」
「あれ、ビールは苦手ですか?」
「そうね。あまり好きじゃないわ」
「へぇ、わたしはやっぱり一杯目はビール派ですけどね」
「もえみもお疲れさま。入ってきてから今日まで本当によく頑張ったわ。大変な目にも合って」
「いえ、わたしは簡単にはやられませんから」
頭には髪の毛で目立たないけど、少しだけ傷が残った。あのかりあげ男はその後、静岡県警に逮捕された。その後の取り調べで、いくつかの余罪があることもわかった。
一課の恩田シオンが何度か取り調べに静岡まで出張した。かりあげ男はネットの闇サイトを通じて、みつおと知り合い、みつおの指示であの別荘を訪れたという。みつおについては最初から最後まで名前さえも知らなかったそうだ。
インターネットの発信元を調べたところ、そのやりとりは、身分証明書の要らない漫画喫茶から発信されていることがわかった。シオンはそこもあたって、防犯カメラから発信した人物を特定した。
その人物は女だった。正しくは、女装した男だろう。つまりは、兼続みつおだ。ただ、前髪の長いストレートの髪型で、黒縁眼鏡を掛け、マスクをしているので、顔ではっきりとみつおとわかるわけではなかった。ワンピース姿は女にしか見えず、その人物がみつおだと断定するにはかなり決めつけた見方をしなければならなかった。
「結局、彼を捕まえないと何もわからないのよね」
美麻はため息混じりに言って、串に刺さった焼き鳥に食い付く。
「そういえば、明石先生、今日から復帰ですよね。外回りしてたんで会ってませんが」
「ああ、来てたわよ。一応、顔を見せにいった。元気はなかったけど、まあ、もともと元気はつらつってタイプじゃないからね」
明石研はその後、とっかかりによって徹底的に調査がされた。しかしみつおが事件と関わった形跡は一切見つからず、全ての資料は明石に返された。
「香美さんは?」
「ええ、彼女もいたわよ。あまり代わり映えしないみたい」
一課の潜入捜査員であった草木木葉(潜入時の名は花木華)を襲ったことで、一度は捕まったが、あまり公の事件にはしたくないという宇島課長の要望、それから草木木葉自身も起訴しないとのことから、香美は無罪で釈放された。
現在、明石研には二人しかいない状況で、毎日実験用の動物の世話をする時間に全てが費されている。さらにいえばしばらくの間、動物たちはペットショップの春日井かすみがやってきて、とっかかりのメンバーが手伝って世話していた。今は新たな助手を募集している。
「明石研が無くなっちゃうと、わたしたちもどうなるかわからないからね。上層部は、なんとか明石件をあのまま残しておきたいみたいだけどね」
「香美さんも無事で良かったです。結局、変なメールもみつおくんの仕業だったわけですし」
「まあ、あの子も性格には問題があるけど、明石研も先生一人じゃ危ないから、いなくするわけにはいかなかったのよね」
美麻ともえみは二人で話をし、男どもはなんかどうでもいい下ネタで盛り上がっている。充は一人で酒を飲み、一人で飯を食べている。相変わらず感情が読めない。
「ねえねえ、由比三樹くんまだ来ないの?」
そんな充にもえみは話しかけてみる。
「来ないですね。探してきましょうか?」
「あ、いいよ。じゃあ、わたしが行くよー」
そう言って、もえみは立ち上がった。
「じゃあ、お願いします」
僕が行きますとは言わずに素直に答えて、また飯を食べ始める。それが充らしい。
「大丈夫?」と、美麻が聞く。
「ええ、すぐに帰ってきます。外で長電話でもしてるんじゃないですか?ああ、電話も掛けてみるか」
もえみは携帯を持ち、ベージュ色のモコモコのコートを着て、座敷を出て、ブーツを穿いて、居酒屋の入口へと向かった。そして由比三樹の携帯に電話を掛けた。電話は呼び出し音になるが、電話には出ない。
「おかしいなあ」
そうつぶやいて、店の外まで出た。
夜も更けた住宅街にはいくつかの電灯しかなく、人通りは少ない。いったん路地に入ってくるまでの道を戻り、大通りまで出た。
大通りにはある程度の人通りがある。そして車の往来が多い場所だ。
左右を見回す。少し離れた歩道の隅に学生服を着た男の姿が見える。少し盛り上がった髪型のシルエットが由比三樹だと、もえみに気づかせた。
彼はどうやら女子高生と話をしているようだ。彼の向こう側に眼鏡を掛けた制服の女性が見える。
『なんだ?彼女か?なかなかやるねえ』
もえみはそんな風に思い、ある程度の距離まで近づいて行く。そしてそこで立ち止まって見守ってみる。
でも由比三樹の向こう側にいる女子高生に気づかれてしまったようだ。由比三樹は彼女に言われたのか、もえみの方に振り返った。
女子高生は後ろを向いて、去っていこうとする。もえみは仕方なく、由比三樹の方に駆け寄っていく。
『まさか、わたしを二股の彼女と勘違いされたんじゃあ』
そんなことを思いながら走り寄っていく。由比三樹は女子高生が去っていくのに気づいて追いかけようとする。彼女は路駐してあった黒いセダンの車の方へと走っていき、その車に乗り込もうとした。
由比三樹が女子高生に追い付き、もえみもすぐに二人のいる場所までやってきた。
「逃げるのか?」
由比三樹は女子高生にそう言って、車のドアを開いた後部座席に乗り込むのを止めた。
「またどこかで会いましょう。その時を楽しみにしてます」
女子高生はそう言った。その声はもえみにもどこか聞き覚えのある声だった。
由比三樹は強引に女子高生の腕を掴み、車に乗り込もうとする彼女の腕を引っ張った。
「由比くん、何してるの?やめなよ。女の子にそんな」
何かよくわからないが、女を乱暴に扱う男にもえみは憤りを感じて、由比三樹の手を女子高生から離させた。
「こいつは、みつおだ」
「な、何?」
もえみが顔をまじまじと見る。ストレートヘアに黒縁眼鏡、漫画喫茶の防犯カメラに映っていた女性にそっくりだ。
「こんばんは。蓮見もえみさん。お元気でしたか。頭の傷も治ったみたいですね」
その声は、確かに声変わりをしてないような男の声であり、兼続みつおの声であった。探していた男がふと現れたのに、もえみはすぐに手錠を掛けて確保という気にはなれなかった。
「みつおくん。なぜあんなことをしたの?わたしに対しても」
「あのムキムキの彼ですか。お気に召しませんでした?」
「当たり前でしょ!」
「でもほら、薬を置いておいたでしょ?あれ、明石研の新薬なんですよ。効き目あったみたいですね」
それはみつおが明石研から持ち出した新薬であると、その後の調査で判明している。
「何が目的なの?」
「何が目的?ただ、実験しているだけです。人というものがどういう生き物で、僕という生き物がどういう生き物か」
「みつおくん。あなた、どこまで知っているの?」
「そうですねえ。だいたいのことは、三樹くんに話しました」
もえみは由比三樹を見ると、すぐに答えた。
「あんたが聞いたっていう内容を、みつおの口からもう一度聞いた。全ての犯人は自分だって名乗った。兼続金雄じゃない」
「じゃあ逮捕しますか?」
みつおが由比三樹をからかうように両手を出す。由比三樹がズボンのベルトに付けていた手錠を出すと、すぐにみつおは手を引っ込めた。
「テメエーー!!」
由比三樹が襲いかかろうとすると車を回り込んで道路側に逃げた。追おうとすると助手席から図体のでかい黒い背広の男が現れ、由比三樹の襟首をひょいっと掴んで持ち上げた。
「なにすんだ、放せ!あいつは犯罪者だ」
女子高生のみつおは道路側から捕まった由比三樹を見つめ、ゆっくりと後部座席のドアを開けて乗り込んだ。
由比三樹はSPのような男に馬鹿力で放り投げられ、歩道に転がり込んだ。もえみもみつおを追おうとしたけど、そのSPに仁王立ちされて手出しが出来ない。
SPは開いていた後部座席のドアを閉め自分は助手席に乗り込んで、ドアを閉めた。
後部座席の窓が開いて、女のみつおが顔を出した。もえみと目が合う。
「じゃあ、お元気で。またお会いしましょう」
そう告げると、黒い車体は猛スピードで走り出し去っていった。
もえみは何もできないまま、その場に立ち尽くしていた。
「由比くん。大丈夫?逃げられちゃったねえ」
それから地面に叩きつけられた由比三樹を気遣って近寄っていった。
「けっ、まあいい。とりあえず車両ナンバーは控えておいた。後で調べて正体を暴いてやる」
辺りは静けさが増す。たくさんの車が通りすぎる音と、道を歩く靴音だけが空しく響いていた。
みつおの乗り込んだ車のナンバーは、後日、高級車だけを扱うレンタカー屋の車であることが判明した。それを借りた人物はある製薬会社の社員だった。その社員は上司の指示だと言って、上司は秘書室からの依頼だと言った。秘書室は特別な客の招待のために使ったといい、その客を招待したという常務に確認したが、そんなものは頼んでないと言ってきた。
そこで捜査は頓挫し、結局、みつおがどうしてあの車に乗っていて、どこからやってきてどこへ行ったかはわからないままとなった。
由比三樹の話では、みつおはわざわざ由比三樹の学校の制服を着て現れたそうだ。それは自分の気を引くためだろうと言った。実際に女子高生の姿のみつおに気づいたのは由比三樹だけだった。氷見翔も女子高生に目がいったそうだが、後であれがみつおだったと知るとひどく落ち込んでいた。
みつおが現れた理由は、自分が生きていることを伝えるためではないかという答えに至った。由比三樹を選んだのは、自分が捕まりそうにない相手であったためだろうという理由だ。由比三樹はそれに否定したけど、それに対するもっともらしい回答は出てこなかった。
ただ、みつおは残り3つのアンプルは自分が持っていると、由比三樹に告げてきたそうだ。そして当分は使わないと言っていた。
本当かどうかはわからない。だけどここ最近、事件がないことを考えれば彼が完全に嘘を付いているとも言えない気がした。
もうすぐ新年を迎えようとしている。とっかかりにおけるアンプル流出事件は、完全な解決を迎えることなく、年を持ち越した。
もえみは今日も事件を追い続ける。事件の真犯人、兼続みつおを追って。
おわり




