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とっかかり ~特殊試行捜査係の事件簿~  作者: こころも りょうち
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21.ハニートラップ

 明石研では、その研究室の長である明石音麿(あかしおとまろ)を中心に、助手の神林香美(かんばやしこうみ)、研究生の兼続光生(かねつぐみつお)、新しく加わった助手の花木華(はなきはな)が実験台を囲み、新しい実験の最終段階に入っていた。その実験によって、いくつかの混合物がさらに結合し、新たな組織構造を成していれば、特殊試行捜査係に新たな性能が加わった薬品を届けることができる。

 ビーカーに試薬を入れ、新しく開発した液体が、オレンジ色から真っ赤に染まれば実験は成功だ。

 明石はおそるおそるゆっくりとビーカーに試験管から試薬を入れる。色はみるみるうちに真っ赤に染まった。

「せんせー!」

 神林香美が明石の顔を見て声を発し、先生の喜ぶ顔で見返されるのを待つ。しかし、明石は香美の顔を見返さずにじっと色の変わった薬品を見ている。

「成功です。これで新たに、彼らに使ってもらえるアンプルが増える」

 焦らずじっと確認してから明石は実験の成功を確信に変え、凛々(りり)しい顔を少し緩めた。

「せんせー、もっと喜んでください。一年間掛かった実験の成果なんですから」

「でも、まだ人体への影響や、予測される能力の発揮が()られるか、そういった試験を重ねる必要がありますからね」

 完成したからといってすぐに使えるわけではない。この実験の後、様々な試験を重ねて初めて使用できるようになる。それまでにまた一年近い年月を(つい)やすことになる。

 こうした研究を重ね、アンプルはすでにバージョンスリーにまで到っている。流出した筋肉増強剤はそのうちのバージョンワンにしかすぎない。

 バージョンワンは人間の能力を上げるという薬品としては最もわかりやすく簡単なものだが、それだけでは人は強くなれない。ひなたと由比三樹にはバージョンスリーが渡されていて、いざという時に使用できるよう持ち歩いている。一般的な警官が拳銃を腰にぶら下げているようなものだ。

 ちなみに今回開発された薬品はバージョンフォーではなく、バージョンファイブに向けての試験品になる。バージョンフォーはすでに試験段階に入っている。

「あの、すみません。私にもそろそろこの実験が何なのか、教えてもらえますか?」

 入って()もない花木華はこれが何の実験かをまだ教えてもらえていない。

「そうだね。そろそろ華さんにも話しておきましょう」

「せんせー、まだ早いのでは?」

 香美が警戒する。不審な情報も得ている彼女は鋭い視線を華に浴びせ、彼女の言動を制止させようとする。

「いや、何か分からずにやっていても無意味だから、やはり話しておきますよ。ただこれは機密事項にあたる。華さんがこの研究室に加わった時にサインして頂いた書類も、きっちり説明しましたよね」

 明石は涼やかな笑みながらも強く華に確認を求める。明石とて、まだ花木華を信用しきっているわけではないのだ。香美は心配しながらもここは一旦引き下がる。

「ええ、もちろん、わかってます。口外(こうがい)は絶対にしません」

 華はしっかりした目付きで、明石の念押しに答えた。

「では簡単に説明します。ここで研究されているものは全て警察で扱われるものです。それはここに入るときに説明しましたが、その中で、ここで扱われる薬品は、警視庁刑事一課特殊試行捜査係、通称とっかかりで使用されます。そしてこの薬品は刑事の力を最大限引き出す薬として使用されます。なので、決して口外してはならない大事な研究になります」

 それほど重要な薬品が、実のところは15個も流出しているわけだが、そこはまだ華には内緒(ないしょ)だ。

 華はその秘密を聞かされることに息を呑み込む。明石は話を続ける。

「最初に開発されたのが、筋肉増強剤。筋肉を強化し、通常の人間が全力で出し切る力の、およそ2倍以上の力を発揮することができる薬です。2番目に開発されたのが、知覚強化剤、通常の人間より動体視力や反射神経などの能力が強化され、俊敏(しゅんびん)な動きをすることが可能になります。それから3番目が可動促進剤(かどうそくしんざい)です。これは通常の人間より筋肉の筋が伸び、身体を柔らかく動かすことができる薬です。筋肉増強剤だけだと身体を痛めやすく、下手に動かすと骨や筋、神経を痛めるために開発されました。地味なようで画期的な薬です。今のところ、この3つを混ぜ合わせた薬品が、とっかかりで使われています」

 明石はそこで一旦息をつき、周りを見回す。実験機器やらパソコンやらで手狭(てぜま)となった研究室の中で、三人の若者が明石の話を真剣に聞いている。明石は少し高揚(こうよう)して話を続ける。

「さらに次の薬品。現時点は試験中なのが瞬間治療剤です。試験は良好に進んでいます。これは壊れた肉体を瞬時に回復させることができる、かなり効能のよい薬です。程度によりますが、筋を痛めたり、軽い傷を負ったりしても一瞬で治ります。そしてそしてなんと、今回開発されたのが、知能覚醒剤というものなのです。これは、説明するには難しいのですが、人間の知能を最大限高め、予測の難しい事態を解決に向かわせる薬になります。わかりにくいですが、うまくいけばかなり複雑な状況でもクリアできるような力を発揮することのできる薬です。このように、ここでの研究はその薬を様々な動物の体液を混合させることによって開発しているのです」

 最後はかなり鼻息の荒くなった明石が興奮気味に力説して、話を終えた。

 華は固まった表情をして、まじまじと明石の顔を見つめている。

「少し、驚かれましたか?そんなものが存在するとは思ってもなかったかもしれませんね」

「いえ、ただ、まだお若いのに、そんなにすごい開発をされているとは思いませんでした」

「いやいや、これは偶々(たまたま)ですよ。偶然、発見されたものですから」

「いえ、研究とはそういうものですから。先生の能力に感服(かんぷく)します」

 明石は目尻にシワを寄せて、珍しく満面の笑みを浮かべ喜んで見せた。

「いえ、本当にすごいです!」

「いやだなあ」

 明石はかなり嬉しそうにして、照れ隠し頭を掻こうとして、右手を動かした。

 ガシャン!

 その大きな動作で、手が実験台の上のビーカーにぶつかり倒れ、液が机の上に広がる。

「せんせー!」

 香美が慌てて液体の(こぼ)れるビーカーを起こすが、すでに薬品は机の上から床に零れ落ちるほど広がっている。

「ありゃあ、やってしまいましたね」

 みつおは手も出さず苦笑いを浮かべて、明石に向かって声を掛けた。

「あの、すみません。大切な成果が台無しになってしまって」

 自分のせいではないけど華が即座(そくざ)に謝る。

「そうよ!あなたねえ」

 机や床に零れた液を拭きながら、香美が怒りを(あらわ)にする。

「いやいや、これは私のせいだし、それにこれは実験成果を試すための薬品で、まだ保管庫には同じものがたくさん仕舞(しま)ってあるから大丈夫ですよ」

 明石はマイペースに説明し、自らも零れた台を片付けようとし始めた。

 華はそれを聞いてほっとした。

 机の上を片付けようとしていた明石だが、今度は試薬の入っていた試験管を滑らせて机の上に落とした。割れはしなかったけど、机の上はさらにぐちゃぐちゃだ。

「ああ、先生はもういいから少し離れてください」

 香美は怒りたくないがさすがにこのドジぶりに苛々(いらいら)して、明石を机の側から入り口の端へと追いやった。

 明石は研究室の端から片付けをする三人を眺めていた。流出事件に、出流原ゆづるの件、明石研はピンチを迎えていたが、花木華が加わり、実験も成功したことで、少しずつ元通りになっていく姿を、机の周りが綺麗になっていくのと重ね合わせて見ていた。三人の動きを、その視線を。だが、そこには何かの不自然さがあるように見える。明石はその危機感にただならぬ気配を感じた。


 ↓


 女は両方のふくよかな胸を寄せて、胸元の開いたピチピチのシャツを着ていた。赤いひらひらしたスカートは短く、少し太めの太ももを(あらわ)にして、健康そうな脚力で路上をツカツカと歩いていく。

 目の前から来る背の高い、少し身だしなみがずぼらな男性が歩いてくる。女はその男に視線を送る。しかしその男は女の方を見向きもせずに通りすぎていく。

「ちょっと待ってくださいよお。そこ違いますよお」

 女は通りすぎていく男に向かって声を張り上げた。その声に男は振り向いた。

 人通りの少ない路上だ。その女に無関心な男とて、その声が自分に向けられているものだとはすぐに気づいた。

「あの、ちょっとは目の前から綺麗な女性が来たら、見ますよね。何だったらじっと見てもいいですよ。素通りはやめてください」

 男はじっと黙っている。何も感じていないかのように。

「あの、聞いてます?せんせー」

「あ、どちらかでお会いしましたか。大学の方?」

 女はニヤリとする。やはり私の変身ぶりに気付かなかったようだとうぬぼれる。

「わたしですよお。わ、た、し」

 その男、明石音麿はその女が誰だか全くわかっていない。

「あの、特殊試行捜査係の、は、す、みです」

「あ、あーー、蓮見もえみさん!どうも、お久しぶりです」

 明石は見た目に気づかなかったというより、もえみ自身の存在を全く忘れられていたかのようだった。

 もえみはがくりと肩を落とした。

「どうしたんですか?今日はお休みですか?」

「いえ、今日は先生にお話をしたくて、来ました」

「そうなんですか?こんなところで?あ、研究室にいなかったんで、追ってきたとか」

 理由はいくつかある。まず、明石研の捜査は今、捜査一課に任されている。研究室に行けば彼らが何しに来たのかと、邪魔をするかもしれない。それから、他の研究員がいない場所がいいというのもある。そんな中で質問しても周りを意識して、明石が本当の事を話さない可能性があるからだ。

 でも今日の一番のポイントは、ハニートラップだ。若い女性と二人きりでプライベート的な感じで会えば、先生も男、つい本音が出るのでは?と、もえみは考えていた。

「まあ、いいじゃないですか。それより、もう少し落ち着いたところでお話ししませんか?お忙しいですか?」

「いや、まあ、少しだけならいいですよ。あの、ただ、家で母さんが夕食用意しているから一旦電話してもいいですか?」

 もえみは苦笑いを浮かべてから「どうぞ」と(ゆず)った。明石が()っからのマザコンだったことを、もえみは思い出す。

「あの、それとも、もしよかったら、蓮見さんも家で夕食しますか?」

「いや、いえ、あの、すみませんが」

 母親一緒に夕食したらハニートラップの予定がメチャクチャだ。夜遅くまでなって、明石との一夜も妄想したもえみだが、その可能性は絶対にないことを確信した。それでも策略を遂行しようと明石を誘う。

「近くのカフェバーみたいなところで、軽くいかがですか?」

「わかりました。じゃあ、ちょっと電話しますね」


 もえみは明石を恵比寿駅から徒歩数分のところにあるカフェバーへ誘った。昼間は静かなカフェだがアフターファイブには様々な種のカクテルを提供するオシャレなバーに変わる。明かりは控え目で、個々の空間はパーテーションや観葉植物で区切られていて、雰囲気を出すにはいい感じのバーだ。男が女を誘いそうな店だけど、今日は逆だ。

「ここ、コーヒーもおいしいですけど、カクテルも美味しいんですよ。おすすめはコーヒーのカクテルです。甘味と苦味が程よいんです」

「そうですか。あまり空きっ腹には飲まないのですが」

「ええー、一杯だけ飲みましょうよー」

 もえみは胸の谷間を強調し、二人の距離を狭める向かい合いの二人席で明石に酒を(すす)めた。

「じゃあ、一杯だけ」

「よし、決まり!」

 もえみは店員を呼んで、お勧めのコーヒーカクテルを二人分注文した。

 もえみは酒には自信があった。明石を酔わして、ハニートラップで隠し事を(あば)くのが作戦だ。

 数日前、とっかかり一班の大地ひなたから、明石の隠し事を聞いた。九州に飛ばされた出流原ゆづるの想像でしかないけど、明石が研究に関わる重要な秘密を隠しているという話だ。

 大学の研究なんでそんなものは当然いくらでもあるだろう。ひなたはそれほど重要視していないような言い方だったけれど、捜査状況の進展がないない中で、何かの道筋を立てたいと、もえみは明石に迫ろうと今回の単独行動を思い付いた。

『もし、この作戦に成功すれば、ひなた班長に()められる。そして自分を見る目も変わって、一緒にバディを組んで、ずっと一緒』

 もえみの目的はそっちにある。

 コーヒーカクテルが運ばれてきて、二人はグラスを重ねて乾杯をしてから、互いにグラスに口をつける。

「うん、確かに、これは美味しいですね。すごく飲みやすい」

「でしょ!せっかくだから飲んでほしいなって」

 このカクテル、実はかなり度数が高い。少しで酔いが回る危険なカクテルだ。もえみは酒には強い。後は明石を酔わせて、ハニートラップで口を割らせるだけだ。

「ところで先生。明石研に新しい助手さんが入ったそうですね。どんな方ですか?」

 いきなり本題に入るのはまずいと、まずは何気ない会話から明石の様子を伺う。

「花木華さん。まあ、元気そうな女性です。ゆづる君に代わって頑張ってくれそうです」

「出流原さん、残念でしたねえ。先生をあんな風に(おとし)めようとしてたなんて。一番手の助手さんで、先生からいろいろ教わっていたでしょうに」

「まあ、彼にはいろいろ助けられてたと思ってたからね。ほんと、残念だよ」

「先生、かわいそうに」

「いや、僕が悪いんだ。まったく悪いことをした。彼にはもっと信用されるように、うまく付き合わなくてはいけなかったんだ。僕が、人付き合いが下手だからいけなかったんだ」

 明石はそう言って自分の顔を手で覆った。もえみは急に感傷的(かんしょうてき)になり、話口調も(くだ)けてきた明石を見て、予想以上の変化に驚く。明石は酒に弱いのかもしれない。

 そして明石はコーヒーカクテルをまた一口口にする。もえみはニヤリとする。このまま行けば予定よりも早く明石の口を割らせられるかもしれない。

「じゃあ、先生は出流原さんに心を開けず、大切な事を教えてなかったんですね。そういうのはよくないですよ」

「そうだね。僕もそう思うよ」

「先生は、何を教えなかったんですか?」

 もえみは少し早いが真相に迫ろうとする。

「それは、これといって具体的な何かというわけじゃないんだ。普段の会話とか、研究の教え方とか、そういうものなんだと思う」

「違いますよ。きっと。先生は、出流原さんに、大切な研究の何かを教えなかったから、嫌われてしまったんです」

 もえみは唇を明石の耳許(みみもと)に近づけて(ささや)くように伝えた。

 明石は黙っている。

「私には、教えてくださいよ。私には、嫌われたくないですよね」

 もえみはそう言って、ここ一番の上目遣いで明石を見つめる。

 明石は再びカクテルに口を付け、一気に飲み干した。

 カクテルグラスをテーブルの上に置く。明石は下を向いたまま動かない。

『どうしたのかな?』と、もえみは思う。

「そこは違いますよ。研究と彼とは関係ないですよ。知ったかぶられても困るな。お嬢ちゃん。研究ってのは、互いに自分のアイデアを出し合って、それから地道にやっていくんですよ。僕のアイデアを簡単に見せるものではない。成果はいくらでも見せたい。でもそこに至る過程は、簡単に見せるものではない!」

「あの?先生?」

「あなた、刑事でしょ?研究の何がわかるの。わからないよね?刑事さんは犯人探しをしてくださいよ。研究とは関係ないでしょ」

 もえみの顔がひきつる。

『しまった。この人、マザコンな上に、酒乱(しゅらん)だったのか』

「あなたはなぜ?警察官になったんですか?僕は、研究が好きで、才能があると思ってなりました。そして、あなたたちに、素晴らしい研究の成果を渡しているじゃないですか?その中身を知りたい?何をおっしゃいますか。私たちの苦労をあなたたちは何もわかっていない」

 明石はまったくハニートラップに掛かっていない。そしてそれと関係なく、もえみの言葉が明石の導火線に火を付けてしまったようだ。

「せんせい。ごめんなさい。もう、聞きませんから。研究の話を教えてくれなんて言いません!」

 もえみは慌てて明石の怒りを静めようとする。

 すると明石は下をうつむいて黙り込んだ。

「せんせい?今度は?どうしました?」

 もえみが肩を揺すり、声を掛ける。すると明石はムクッと顔を上げた。

「あの、ここはどこでしたか?」

「あ、先生。ここに来ようって私が誘いまして」

「あ、そうか」

 明石は急に我に返ったようだ。もえみはここからもう一度、やり直せると考える。

「それで、ですね。先生。やはり犯人を突き止めるには、先生が知りうる情報をできるだけ多く開示してほしくて、できれば研究の事もちょっとは教えてほしいな。なんて思ったりして?」

 もえみは、今度は下手に出て、きゃぴきゃぴの笑みを浮かべる。

「は、いけない!母さんと夕食が」

 腕に()める高級腕時計を見て、明石はガバッと立ち上がる。

「今日はすみません。少し酔って記憶が曖昧(あいまい)なんですが、そろそろ失礼させてもらいます」

 そう言ってレジに向かい、二人分のカクテル代をカードで支払うと、そそくさと店の外へと出ていってしまった。

 一人店に残されたもえみ。作戦は大失敗に終わったうえに、明石には散々な悪態(あくたい)をつかれた。

「もおお、なんなのお、あの人」

 もえみは明石の変貌(へんぼう)ぶりにイラッとし、今日はここでやけ酒でもしようと決めるのであった。


 つづく

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