今宵、眠りに落ちる時
空は、急激に鉛色の雲に覆われ、風も強くなってきた。
目の前を、茶色く縮れた枯れ葉が音をたてながら飛んでいく。
そのカサカサという音は、ユリウスに会議の席の重臣達の囁くような声を思い出させた。
「陛下、委任状にご署名を」
「しばしの間、ご静養を」
「ご政務は摂政殿たる伯父上様がなされます。ご安心を」
何が安心だ。不安だらけではないか。
せっかく改革を進めていたのに、伯父が政務を牛耳ればすべて水の泡だ。
「所詮、私にできることなどなかったと言うことか」
ユリウスは、自嘲ぎみに笑って首を振った。
時流に逆らう事もできずに、王都から離れたこんな場所に飛ばされ、体よく幽閉された自分の姿と、風に翻弄される枯れ葉が重なる。
「“ご静養”の後、“ご病状が悪化”して、“お亡くなりに”なるのだろうな……」
「今のままならそうなりますね」
やや高めの凛とした声がそう言った。
ユリウスは顔をしかめて振り向いた。
こちらに背を向け、暖炉の前にしゃがみ込んでいる後ろ姿が目に入った。
従者のお仕着せを着たその人物は、どうやら消えかけた暖炉の火を復活させようと奮闘しているらしい。革紐で一つに結ばれた肩ほどの長さの金色の髪が、今にも解けそうだ。
「どうしてここにいる?」
ユリウスは不機嫌な声でそう言った。
「ユリウス様のお世話をするためですよ」
「いらん。そう言っただろう。下がれ」
「嫌ですね」
「はあっ? そなた、仮にもその服を着ている以上、従者のつもりだろうが。主人の命令が聞けぬと言うのか!」
すると、従者は振り向きもせずに鼻で笑った。
「弱い者いじめはやめて下さい。その台詞、どうしてあなたの臣下の古狸どもにおっしゃらなかったのです?」
「……からだ」
ユリウスは少しうつむいて、不貞腐れたように口を開いた。
「すみません、聞こえなかったのでもう一度」
「命が惜しかったからだ! 締め切った会議室で味方は一人もなく、満場一致で政権の委譲を求められたのだぞ。断ればその場で斬り殺され、私は急な病で死んだと発表されるのがおちだった。って、何だそのため息は? 命が惜しくて悪いか」
「いいえ。それはごく真っ当な人としての心です」
従者はくるりと振り向いた。
勢いを取り戻した炎のゆらぎを背に、海よりも蒼い瞳がユリウスを真っ直ぐに見る。
「でも今の貴方は、漫然と死を待っている。矛盾してませんかね」
「今の私に何ができる」
ユリウスは拗ねたように言った。
「そうですね。手始めにその窓を閉めて、暖炉の側に座ることでしょう。肺炎で死ぬ可能性が減りますよ」
「嫌味な奴だな」
「そうあろうと努めていますから」
ユリウスは少し迷った後、結局従者の言うように窓を閉めて暖炉の前の椅子に座った。
「座ったぞ」
「大変結構です」
「だが、事態は変わらん」
「そうでもありませんよ。紛れ込んでいた曲者達は排除しておきました。今日のところ、ユリウス様は幸せです」
「幸せ……か?」
幽閉中の身の上だというのに?
「いやですね。私がお教えした事をもうお忘れですか?」
「忘れてはいない」
むしろその教えを実現しようとして、重臣達と対立したのだ。
「今宵眠りに落ちる時――」
ユリウスは目を閉じて言葉を紡いだ。
「――雨露を凌げる屋根の下、安全で清潔な部屋で、腹満ちて、寒くも暑くも痛くもなく、愛する者の傍らにいられる事こそ真の幸せ」
誰もがそんな生活ができる国にしたかった。
「私はどこでしくじったのだろうな」
「狸どもに温情をかけた時点でしょうか。その場に私がおりましたら素っ首掻き切ってやりましたものを」
「そなたは血の気が多すぎる」
ユリウスは顔をしかめた。
「ステラ」
従者は皮肉っぽく片眉を上げてユリウスを見た。
「私の名前を覚えていらしたのですね。安心しました」
「だから、その嫌味ったらしいもの言いをやめろ。何だって従者の真似事なんぞしているのだ?」
「ユリウス様が意地を張って、供回りは従者一人だけなんて言うからですよ。女官もとおっしゃれば、女姿のままでお供できましたのに」
「それも間違っている。そなたは女官でもないだろう」
「ユリウス様のためならば、何者にでもなってみせましょう。愛しいお方」
「この城に着いて、そなたを見た時は我が目を疑った」
「面白いほど驚いてましたね」
「実家に帰したはずの王妃が従者になっていて、驚かない奴がいるか」
しかも、淀みなく従者の仕事をこなすという謎の能力も持っている。
何故と問うと、坊っちゃん育ちのユリウス様とは違うのですよと、ステラはニヤリと笑った。
「そなたの長い髪が好きだったのに」
「すぐ伸びます」
「私といても何もいいことはないぞ」
「いいえ。今宵眠りに落ちる時、ユリウス様の傍らにいる事こそが私の幸せ」
――そして、どうか私を貴方の愛しい者でいさせて下さい
続けられた言葉に、ユリウスは手を差し伸べてステラを抱き締めた。
その頃、城の一階の厨房では、少しばかりガラの悪い男達が酒を酌み交わしていた。
王都から配属されて来た兵士達を全員地下牢にぶち込んだ時に、偶然ワイン蔵を見つけたのだ。
「姫さんが戻って来ない! やった! 今夜こそ上手くいったようだな」
「あの王様も優男のくせして頑固だからなあ……自分が配流されると決まった途端に、自分といても不幸になるとか何とか言って、姫さんを実家に帰しちまうんだから」
「姫さんが猫被ってるから悪いんだぞ。自分の道は自分で切り開くっつーか邪魔な物は全てブチ壊すお方なのにな」
「そこはホレ、姫さんも若い女の子だからさ、惚れた男には可愛いとこ見せたいんだろうさ」
――可愛いとこ???
男達は顔を見合わせて首を傾げた。
――黙っていれば姿形は可愛いが……
ステラの実家であるリンドール家は西の島々を領地とする侯爵家である。
と言えば聞こえはいいが、実は三代ほど遡った先祖は海賊だった。
今でも家臣の殆どは、荒くれた海の男達だ。
そんな男達の目から見ても、ステラは幼い頃から男勝りで胆力がある少女だった。
「何にせよ」
一番年かさの男が、空のグラスを掲げた。
「姫さんが幸せなら、それでいいってことよ」
確かに。と、他の男達が頷く。
再び空のグラスをワインで満たし、誰からともなく声が上がる。
「乾杯だ――愛に」
「愛に」
「それから、今宵地下牢で眠る気の毒な奴らに」
―― fin ――