魔法学園高校三学期の終わり
――国立魔法学園高校――
「だめだ、ああ」
目の前に目に見えない緑色の光の壁がせまる。体のバランスを崩した彼は止めようがなく結界の障壁に向かって倒れていく。それが伸びた時間の中でゆっくりと迫ってくる。
もう、何度繰り返しただろう。そして、体に走る衝撃と気を失いつつ耳の奥に残る悲鳴が心を締めあげる後悔とじっとりと滲む汗で目がさめた。
矢野耕輔は、跳ね上がるようにベッドから身を起こし、宙に向け右手を突き出した格好で凝固した。しばらくそのままでいるが、自分の部屋にいるのだという認識とともに力がぬけ、再びベッドに倒れこむ。
もう五年も前のことなのに、度々《たびたび》そのときのことを後悔の念とともに夢に見る。自分のせいで淡い思いを抱いていた子の魔法を奪い、未来を奪ってしまった。一時はほとんど見ることもなかったが、数年ぶりの再会と彼女と顔を合わせる機会が増えるとともに夢に見る回数が増えた。
まだ、小学生の頃に起きた彼の責によらない事故だった、自分も被害者だった。しかし、彼の体が結界に触れたのが直接の引き金だったのは事実で、それはずっと彼の心の中で抜けない棘のように残っている。だれから責められたわけでもない、彼女には赦しももらった。普通にしていると意識することもない。忘れていたりもする。しかし、そう今朝のように悪夢にみると、後悔の念でその日一日重い気持ちで過ごすことになる。
そんなことを考えながら、起きだすにはまだまだ早い時間だがベッドから這い出す。寝直すことはできそうになかった。
「ああ、今日も寝不足になるなぁ」
のろのろと服を着替え、いつもより随分早い時間だが彼は登校することにした。
―― ☆ ☆ ☆ ――
その学校は、都市にあるにしては広い敷地に囲まれている。正門から続く幅10m奥行き100mほどの中央通路の脇には樹齢100年を越える木立が植えられている。今はまだ葉を落としているが、初夏になると若葉の緑が目に優しく映え、夏の盛りには、厳しい日差しを遮ってくれる優しい日陰を足元に落とすことだろう。木立の外側には手入れの行き届いた芝生が広がっている。設えられた花壇にはうららかな日差しのなか花々が春の訪れを待っていたかのように咲き誇っている。
そのまま視線を中央通路の奥に移すと国立魔法学園東京校の歴史を感じさせる石造りの重厚な本館とその背後の近代的別館が見えてくる。そのアンバランスさが魔法と現在物理学の歴史を象徴する雰囲気を醸し出している。本館の前庭には、今は六分咲きの桜の木が植わっており満開にはさぞ見事な景色だろうと予感させる。
まっすぐ進むと本館の巨大な鉄製の扉に至る。この扉は常に開け放たれている。それが正門の警備の厳重さと対照的で初めて訪れるものは当惑してしまうが、その扉の前に置かれた碑文に目通すとうなずくのであった。
―― 困難の扉を開け放て 自然の神秘は我らの前に開かれん ――
扉をくぐり身の丈の三倍はありそうな本館中央の通路をさらに奥に進むと、右側に高校生が学ぶ高等部、左に大学部が見えてくる。右側の高等部に進むと近代的デザインが尽くされた高等部の教室棟がある。
手前の建物は実験や実習などの各種施設が設置され、奥の一般教室とは一階と三階の廊下を通じて繋がっていた。いまはもうすぐ午後の授業が始まるのか学生たちの姿はまばらでみな足早に歩いていく。
目の前を制服姿の男子生徒が焦った表情を浮かべ走り抜けて行く。追い立てるように、しかしゆっくりとした音程で午後の授業の予鈴が鳴り響くのだった。
手前のビルの二階の右端には魔法実技実習室があり、これから一年の実習C・Dクラス合同魔法実習の授業が始まるところだ。予鈴はもう鳴り終わっている。
生徒はほとんど席についているが、一年の授業も残り少ない。もうすぐ始まる春休みのことや進級の話題が気になるのかざわついていた。
「進級できて良かったね」
「うん、魔法学園は進級も難しいからね。
一緒のクラスになれるといいね」
特に二年でのクラス分けには関心が高く、あちこちで同じ話題がされていた。
というのも、一年は適性と才能で、二年三年は魔法力を表す『レベル』によってクラスが割り振られる。
二年Aクラスとなれば一目置かれる。『レベル』は学期単位で評価し直されるが、クラス分けは進級時だから一年間はAクラスなのだ。
学園の運営側は決して認めないが、魔法力を表す『レベル』がスクールカーストの地位を決める大きな要素となっていた。これは、カリキュラムが魔法力をいかに強くするかという観点から作られていたのだから致し方ないことだった。
予鈴に少し遅れてきた藤鞍春華は、軽く上気した息を整えながら隣の席の川原玲奈ににこりと笑いかけた。春華の所属しているSクラスは少し離れたところにある。
春華はごく少数の先天的魔法使いだ。先天的魔法使いは『レベル』が高いことが多く、大抵はA・Bクラスで実習を受ける。彼女は、過去の事故で魔法を失っており、例外的にC・Dクラスで授業を受けているのだった。
春華は腰掛けつつ机の上に教材を置いて玲奈の方を振り返った。黒をベースにしたブレザータイプでスクールカラーのエンジ色の切り返しの入った制服がよく似合っている。目を惹く整った顔立ちにセピアがかった背中まであるカチューシャで留めた長い髪がふわりと流れる。同じ実習グループの玲奈は、孤立しがちな春華にとって気が置けない友人の一人だった。
「じゃあね」
隣の椅子に座り雑談していたクラスメイトが自席に戻るため席を立つのも見ず春華に視線を移し、友人に何度掛けたかわからないいつものセリフを玲奈は投げかけた。
「春華は相変わらず美人よねー」
「なにいってるのかしら、可愛らしさでは玲奈ちゃんに敵わないわ」
ふんわりとした雰囲気で幼さの残る容貌の玲奈がちょっと口を尖らせると嫌味を感じない。彼女は本当にそう思っているのだ。語りかけられた方の春奈は事実その通り。上品さを感じる筋の通った姿勢、キメが細かく色白の肌、通った鼻筋、小さめの鼻に形の良い唇、美少女そのものであった。
ひとしきりいつものルーチンをこなした後(周りからは生暖かい目で見られているのだが、本人たちは気にしていない)春華は授業に意識を向けた。その頃になってようやくグループの残り二人がまだ来ていないことに気がついた。
「あら、矢野くんと神河くんまだなのね。
矢野くんまた遅刻?
でも、神河くんが遅れるのは珍しいわね」
「確かに神河くんが遅れるのは(あまり)ないね」
玲奈の返事を聞いて春華は眉を軽くひそめる。周りを見回すと、クラスメイトはみな自分達のテーブルの周りにたむろってたり隣のテーブルの生徒とおしゃべりをしている。全員揃っているようである。
魔法実習の授業に遅刻する生徒はいない。この授業の教師は、校内でも厳しくて有名な多和良総一郎、遅れるとくどい説教が待っている。別に自分が説教されるわけではないが、同じグループの友人が説教されるとなると気が重い。友人の説教の場面が思い浮かび、ここに居ない矢野耕輔の事を考えながら彼女は昔の事故を思い出していた。
自分がほとんど魔法を使えなくなった原因の事故。耕輔が原因だけど責任のない事故。割り切っているつもりだった。日頃は忘れているのだが、多和良の説教という気の重さと魔法の実習と彼に向かった思考が過去の事故を意識の表面に浮かび上がらせてしまう。彼女は、事故を乗り越えたつもりでいたがちっともそうではなかったのである。