7
私は浅野沙耶を愛していた。そして、偶然にも彼女との再会を果たし、一晩だけであったが、愛し合った。少なくとも、私はそう信じている。
しかし、その沙耶には婚約者がいた。
そして、その婚約者は殺害された。
あろうことか、容疑が沙耶に向けられている。
とても理解の及ばない話である。私は文字通り、天国から地獄へと叩き落された気分であった。
だが私は、彼女を信じる。
世界中が彼女を疑っても、私だけは信じてやらねばならないと思う。彼女が連行される瞬間の、あの瞳は信じるに値する。何かの事情が、いや、何かの間違いがあるはずだ。
警察は間違っている。
今はなんの根拠もないが、あのときの沙耶の瞳、あの清らかさ、美しさ、それだけが私の生きる糧である。
そうだ、これが間違ったことならば、私が真実を突き止めてやる。私が、彼女の無実を証明してやろう。
そう決意した瞬間であった。
私の肩を乱暴に叩く者がいる。
「意外と早く開放されたもんだね」
振り向くと、そこには今私が最も憎むべき対象がいた。御渦宗茂である。
御渦は肩まで伸びた長い髪を夜風になびかせ、私を見下ろしていた。
彼の方が遥かに長身であるため、仕方のないことかもしれないが、見下されていることに腹が立った。
「その様子じゃあ、僕の忠告通り知らぬ存ぜぬを通したようだね。賢明だよ。あんな女のために、人生を投げることはない……」
切れる、という言葉の意味がそのときはじめて分かった。
私は幼児のように不可解な唸り声を発し、御渦に殴りかかったのだ。
夜の十時近いという時間帯が幸いした。大通りから一本外れた小道は、車もめったに通らない。大阪という街は喧嘩の絶えぬ場所である。怒声が飛び交う程度では、警察に連絡されることもなかった。
やたらめったらに腕を振り回し、私は御渦に向かっていくのだが、それはいっこうに届かない。御渦は軽やかな足取りで後退しながら、私の攻撃をかわしている。そうやって一〇メートルも進んだろうか。仕舞いに、私は自ら転んだ。
興奮していたせいか、受身も取れず顔から地面に落ちる。口の中に鉄の味が広がった。アスファルトの臭いが血のそれと交じり合う。
「まったく、何を怒っているんだい。僕は君の救い主だよ。犯人隠避の罪を知らないのかい? 『刑法第百三条、罰金以上の刑に当たる罪を犯した者、又は拘禁中に逃走した者を蔵匿し、又は隠避させた者は、二年以下の懲役又は二十万円以下の罰金に処する』ってやつ」
口の中に溜まった血を吐き出した。唾が混じり、糸を引く。その糸が風に揺られ、自分の頬にへばりついた。
途端、咽の奥より込み上げる嗚咽があった。
私には、何の力もない。何の知識もない。何もできない。
私は、生きている価値があるのだろうか。
生き甲斐であった沙耶を、助けることができないのだ。
「みっともない。不甲斐ない。情けない」
吐き捨てるような言葉が、頭上から落とされた。
「君は、何も分かっていないようだ」
私は目に涙をためながらも、御渦を見上げ睨み付けた。
「分かってないやと? 聞いたわ。浅野さんが何をしたのか。全部聞いたわ」
一筋の涙が頬を伝った。
「浅野さんは殺人犯や。俺に、いったい何ができるんか。何をしてやれるんか。俺には何もできんことが、俺にはよう分かった」
「何故?」
何故だろう。御渦に問われ、私は考える。
ほんの二、三分前まで、彼女の無実を信じると誓った。彼女の無実を証明してやると意気込んでいた。
しかし、実際に私は無力であった。怒り、拳を振り上げても、それを相手にぶつけることができないのだ。そして何より、心のどこかで、沙耶を疑いもしている。また、これほど愛しているにも関わらず、沙耶が別の男と婚約していたという事実は、私にとって裏切りであった。それがどれほど身勝手な考えだと分かっていても、どうしても彼女への怒りが込み上げてくる。そして、そんな感情を抱く自分は醜いものであると自覚もしていた。
「何もできないと思っているのか?」
御渦はしゃがみ込み、地面にへばり付く私に顔を近づける。彼には私の心が読めるようだった。
「僕が協力してやろうじゃないか、中井君」
唐突な、御渦の申し出であった。私の目には驚きではなく、疑いの色が浮かんでいたことだろう。
沙耶を警察に売り、私を蔑み、彼は何を求めているのだろうか。
「……協力?」
「そう、協力だ。君は考えていた。真犯人をみつけてやると。浅野沙耶の無実を証明すると。違うかい」
私はただ御渦を睨んだ。返事をしないことが、肯定を意味していた。御渦はニッコリと微笑む。
「何が目的やねん」
「そんな警戒しなくても大丈夫だよ。僕は、単なる好奇心から、君に協力を申し出ているだけだよ」
好奇心という言葉を聴き、素直に受け取ってよいものか、それともふざけているのか、私には判断しかねた。
「僕はね中井君、世の不可思議な現象を暴くことを生業としているんだ。ああ、そう構えなくとも大丈夫。別に君からお金を取ろうなどとは考えていない。ちょっと記事を書かせてもらえば良いのさ。僕は、フリーライターのようなものだと思ってくれればいい」
「……自分のしたことを分かって、そんなこと言うてるんか?」
「したこと? したことってなんだい? 警察へ通報したことか? 勿論分かっているよ。警察に指名手配されている殺人事件の被疑者を偶然みつけたので、知り合いの刑事に報告した。そのどこが悪いんだい?」
反論はできなかった。
「なら何で、その容疑者の無実の証明を手伝うなんて言うんや。矛盾しとるやないか」
「正直、彼女が犯人であることに疑いはないよ。ただ、いくつか納得のいかない現象があるんだね、今回の事件には。僕は、それを調べようと考えている。浅野沙耶が逮捕されて、それでお仕舞、といった単純な事件には思えないんだ」
そう言って、御渦は右手を差し出してきた。
「それに僕には豊富な人脈があるよ。警察官にも、あの山根さんの他にも、関西では五人親しくしている人がいる。一番階級が上の人で警視正がいる。僕を味方にして損はないよ」
そう、人脈は確かにあるのだろう。山根刑事もこの青年を信用しているというような発言をしていた。
私は無力だが、この男は力を持っている。私の心は決した。
彼が差し出した右手を掴んだ。
それは握手ではなく、倒れた私を引き起こすための右手だった。
強引に立たされた私は、呆然と御渦の顔を見上げて言った。
「何から、はじめればいいんだ?」
歯をみせない笑顔となり、御渦は私の体に付いた埃を払ってくれる。身長差もあり、まるで保育園児と保父のようだった。
「先ずは、君が今回の事件を正確に把握する必要がある。僕が知っていること全てを、説明してあげよう」
「さっき、刑事さんに概ね教えてもろたけど」
「多分、それは全てじゃないだろう。状況、場所、時間、報道されていない情報も、僕は持っている。それらをまとめ、一緒に分析することからはじめよう。情報を把握することによって、何をすればよいのか。何の情報が足りていないのかが分かるはずさ」
私の体を叩き終えると、御渦はさっさと歩きはじめた。私は急いでその後に続く。
「僕の部屋へ行こう。ここからなら君のとこより近い」
私はてっきり、どこかの居酒屋かファミリーレストランで話をするものと考えていた。この得体の知れぬ男の部屋へ行くことには、やはり抵抗があった。
「殺人事件のあらましを話すのに、人の目が気になる場所は避けるべきだろう」
私が彼の提案を拒否する前の、御渦の先制攻撃だった。私は御渦の話を聞かねばならない。しかし、やはり人が殺された話を、腰を据えてすることができる場所は限られてくる。私の部屋という選択もあったが、御渦を自分の部屋に招く気分にはなれなかった。
結局私は否を言えないまま、黙って御渦の後を追った。
しばらくの間、私たちは黙って歩いた。私の部屋よりも近いという話であったが、ゆうに三十分は歩いただろうか。車が通れないほどの細い道に入っていた。私のマンションと、さほど離れていない地域に当たるはずだが、全く見知らぬ土地にきたような感覚にとらわれる。迷路のように右へ左へ曲がっているうち、私たちは古い二階建てのぼろアパートの前に立っていた。
「到着だ」
それまで無言だった御渦が、久々に口を開いた。ポケットから鍵を取り出しながら言葉を続ける。
「一つ、言ってなかったことがあるんだ。僕は、京大を入学から半年で退学している。だから、君と授業が被っていなくて当たり前なんだね」
彼が退学していようとなかろうと、私には全く興味のない話だった。大学生活に水が合わず、早々にキャンパスを去る者は少なくない。
「それから、全てを記憶できるなんて言ったけど、あれも嘘さ。そんな芸当ができるわけがない。信じてないとは思うけど、一応訂正しておくよ」
この告白に私は面食らう。何故なら、私は彼の異常能力の存在を殆ど信じていたからだ。『信じてないとは思うけど』などとからかわれ、私は『当然だ』といった顔で平生を装う。
しかし、この彼の言葉が真実ならば、どのように新聞紙面の隅々までを記憶したのだろうか。
いや、そもそも、私の名をどうやって知り得たのだろうか。
途端、私は恐怖に襲われる。
私は今考えた疑問を口にしかけたが、御渦は鉄骨むき出しの階段を軽やかな動作で登っていた。カツンカツンという靴の音が夜空に響く。彼の部屋は階段を上ったすぐの所にあるようだ。御渦は鍵を差し込み扉を開け、入り口にあるスイッチを操作する。開け放たれた部屋の中から、煌々と光が漏れた。
「さっさと入れよ」
部屋の前に立ち、御渦は私を招いている。
逆光となった彼の顔は、真っ黒に塗りつぶされていた。表情はうかがえないが、彼は笑っているように思えた。
踵を返し、その場から逃げ出したい衝動にかられた。全速力で走り、家に帰りたくなった。そして、布団を頭まで被り、全てを忘れて眠ってしまいたい。たかが古いアパートに入るだけの話であるが、その扉をくぐってしまえば、もう後には戻れない。そんな気がした。
しかし、私には失うものがもう何もないはずである。
これ以上の不幸はない、これ以上の悲しみはないと自分に言い聞かせ。私は自らの背中を押した。とおり過ぎる地下鉄を前に、誰も押してくれなかった私の背中は、以外と軽いものであると知った。




