6
山根刑事に抱きかかえられるような格好で、私はどこかの警察署に連れて行かれた。名目上は任意同行であるが、扱いは容疑者と同じだった。
焦点が定まらぬまま取調室に投げ込まれ、軋むパイプ椅子に座らされる。
「いやいや、ご苦労さまでんな中井はん。この度は、不幸というか、不運というか、ほんま……」
椅子が壊れるような音を立てて、私の正面に山根は座り込んだ。
「さっさとお話聞かせてもろた方がよろしいな」
私の不機嫌な表情を見て取り、山根はようやくファイルを広げた。
ここはどこだろう。私は何をしているのだろう。
一瞬の混乱の後、大切な質問を思い出した。
「沙耶は、浅野さんはどこですか?」
山根の目つきが鋭く変わった。咄嗟のことで、心の中の叫びが口から出てしまっていた。
「沙耶、沙耶ね。呼び捨てにできる間なんですなぁ」
ボールペンを走らせることはなかったが、刑事の頭の中にメモは刻まれただろう。
「浅野沙耶はね、今、別の警察署に送られている最中ですわ。事件が起きたのが、京都やったからね」
事件という言葉に、私は過敏な反応を示したようだ。体が痙攣したように動いてしまった。
「あんた、中井さん、あんたは、事件のこと何も知らないようだが、ほんまかね。私はね、あの御渦という青年を信頼してはいるんだが、一応確認しとかんとね……」
舐めるような視線で私をみつめ、山根は言葉を続ける。
「ほな、唐突ですけど、先週の木曜日、四日前ですな、この日、あんたどこで何をしてはりましたか?」
刑事の顔はファイルに落としているが、鋭い目だけは真っすぐに私を向いていた。
四日前。四月十日木曜日。私は何をしていたのだろうか。正直、殆ど思い出せなかった。
私はその間、死んでいたも同然だった。なにしろ私は、ほんの三日前に生き返ったのだから。沙耶と再会したことにより、息を吹き返したのだ。
「……仕事を、していました」
「でしょうな」
反応の速さから、既にその日の私の行動は確認済みのようだった。会社の上司か同僚、取引先にも連絡がいっているのかもしれない。仮にそのとおりならば、そんな質問に意味があるのだろうか。私は己の心が冷え固まっていくのを感じていた。
「いやいや、そう構えんでよろしゅうおまっせ。私ら、あんさんを疑ってるわけではないんです。何事もしきたりといいますか、順番といいますかなぁ。ともかく、気長にやりまひょ」
そう言うと、山根は緩慢な動作でタバコを取り出した。思い出したかのように私に了解を得ようと小さく手を挙げたが、私の返事を待つ前に火は点いていた。
刑事は上手そうに紫煙を吐き出した後タバコの箱をこちら側へ差し出してきたが、私はそれを黙殺する。弛んだ頬を震わせて、山根は呆れたような、怒ったような、どちらともいえる顔をみせた。
「中井さん、あなたは翌金曜日もいつもどおり出社し、普段と変わらない仕事をこなしている。木曜の晩から金曜の朝にかけて、どこぞへと出かけたことはありませんか」
「ありません。家で寝ていました。帰りも遅かったので……」
その日は確か、残業のせいでオフィスを辞したのが十一時をまわっていた。
期待通りの回答なのか、山根は小刻みに頷いていた。
「話を進めまひょか。あんさんは、十一日金曜日の夕方に、浅野沙耶と再会した。高校を卒業して以来、五年ぶりの再会だった。そうですな?」
私は小さく頷く。
「もう一度確認します。高校卒業以来、浅野沙耶とは、一度も会っていませんな」
「会ってません」
「彼女の、この二日間の様子はいかがでしたか?」
「様子って、別に、普通ですよ」
「五年も会っていないのに、彼女の普通が分かるんですな」
「以前のままの彼女だった、という意味です」
狭い取調室に、自分の声が響く。自然に、私の声は大きくなっていた。
「怒りっぽかったり、急に泣き出したりと、情緒が不安定ではなかったか。何かに脅えたりしていませんでしたかね?」
私はただ首を横に振った。私の不用意な言動が、沙耶の不利益に繋がるかもしれない。そう考えると、もう何も口にする気にならなかった。
しばしの間、部屋の中を沈黙が支配する。静けさを消し去るため、山根刑事は大きなため息とともに紫煙を吐き出した。
「実際あんた、何が起きていているのか、全然理解してないんとちがいます?」
視線を上げて山根と目を合わせたことが、肯定したと理解された。山根はニヤリと頬をたらせて笑い、念入りにタバコを揉み消す。
「この二日間、新聞とかテレビとか、ニュースを見てないんとちがいますか」
その瞬間まで気づかなかったが、確かに私は先の週末、一度もニュースをみなかった。普段の休日ならば時間潰しのためだけに、昼のワイドショーまで見ているというのに。情報といえば、昨日の夕刻、御渦と出会い、彼の記憶力を試すために新聞を捲った、ただそれだけだった。
それは偶然なのだろうか。それとも、意図的にみなく、いや、隠されていたのか。思い当たる節はあった。
「図星でっしゃろ」
再び、山根が黄色い歯をみせた。
黙って首を縦に振った、沙耶の姿を思い出す。彼女の無実を確信していたはずなのに、私の心は揺れはじめていた。
「あんた、浅野沙耶と、計三回の夜を過ごしてはるな。あんたも若いし、あの女もなかなかみないベッピンさんや。何もなかったわけはないやろ」
突き破るほどの勢いで、私は山根を睨み付けた。
そんな私の視線にも動じず、山根は新しいタバコに手を伸ばす。その太い指は正確にタバコを一本つまみ出し、百円ライターで火を点けているが、刑事は粘着性の視線を私から外すことはなかった。
「知りませんやろ。あの女、婚約者がおるんでっせ」
すぐには理解できない刑事の言葉だった。
コンヤクシャとは、どうゆう意味だったろう。
「いや、正確には、婚約者がいた、ですかなぁ」
背筋を、冷たい汗が流れる。
殺人事件、容疑者は沙耶、今はいない婚約者、これらの単語を結びつける意味はなんだ。
「あの女がね、殺してしもうたんですわ」
世界が揺れる。私の視野は狭まり、刑事の顔が映りの悪いテレビのようにゆがむ。
椅子に座っていられないほど、目が回った。
「聞いてらっしゃいまっか? もう一度言いまっせ。浅野沙耶は、婚約者を殺害して逃走していたのです」
嘘や、と私の口は動いたが、声は出ていなかった。
「あんた、ほんまに知らんようなんで、詳しく教えて差し上げましょ。
四月十日木曜日。あんたが浅野沙耶と再会する前の日ですな。その日、浅野沙耶は篠沢誠一の家を夕方五時頃に訪れています。篠沢誠一ゆう男が、今回の事件の被害者であり、浅野沙耶の婚約者ですわ。歳は二十九。京都市内のコンピューター会社に勤務し、システムエンジニアをやっておりました。まだ詳しいことは捜査中でありますが、沙耶と篠沢は、どうやらインターネット上で知り合ったようです。なんです? 私にはよう分からんのですが、チャットだか、掲示板だか。ともかく、二人が付き合いだしたのが、凡そ半年前。篠沢が沙耶にプロポーズしたのが十月のはじめだということで、かなり早い展開ですな。結婚式場の予約まではしていないが、これまで二人で京都市内の式場を三件訪れて話を聞いている。担当した者の話では、来年の春、つまりちょうど一年後に式を挙げたいという希望だったそうですわ。まぁ、人からみれば、非の打ちどころがない、幸せなカップルに見えたそうです」
刑事は手帳を捲りながらも私の顔色を盗み見るように、チラチラと視線を向けてくる。
既に、私は自分の意思で表情を保つことができていない。顔面の筋肉は弛緩していた。目にも涙が溜まっている。
「大丈夫ですか中井はん。話を続けます? それとも、ここで止めますか?」
私は首を左右に振った。とても緩慢な動作であったが、刑事は私の意図を理解し、話を続けてくれた。知りたくはないが、知らないままでは気が狂いそうだ。
「事件当日の話に戻りましょう。浅野沙耶は篠沢誠一の家を訪れた。このとき、彼女は一人ではありません。沙耶の兄、浅野邦夫が車を運転し、沙耶と共に篠沢宅へとやってきたのです。この兄、邦夫のことはご存知ですか? 沙耶とは七つ歳の離れた兄です」
会ったことは無いが、沙耶に兄がいることは、私の記憶にも残っている。また、先日沙耶が言っていた、『兄と喧嘩して家出した』という言葉が甦った。
「家族ぐるみの付き合いにまでなっていたのかというと、その辺りが複雑なのですな。篠沢誠一は母と二人暮しでして、どうやらその母親が、浅野沙耶にあまり良い印象を持っていなかったようです。母一人子一人の生活が長かったせいか、他の女に大事な息子を奪われるという感じでもあったんでしょうな。まあ実際、命まで奪われてしまったのですがね……」
刑事は自分の言葉により、苦しそうに笑った。どこが可笑しいのか私には分からなかったが、不謹慎であることを恥て、山根はわざとらしい咳を一つした。そして、何もなかったの如く話を続ける。
「母親が、息子の彼女なり嫁なりを嫌うという話は、世の中に星の数ほどありますな。ただ、篠沢誠一の母は、息子の婚約者は嫌っても、その婚約者の兄にはとても好意的だったのですわ。これは珍しい話に分類できます。その理由は、兄浅野邦夫の職業に由来していたようです。医者だったんですわ、邦夫は。篠沢のお袋さんは、権威というやつに弱い人だったようです。医者という肩書きだけで、もう心を許していた節がある。
母親との間があまり上手くいっていなかった沙耶は、篠沢家を訪れるときには決まって、気に入られている兄を連れて行っていたのです。
その兄と、その日も共に訪れたわけですわ。しかし、当日は敵対する母親がいなかった。お役御免の兄邦夫は、早々に篠沢家を辞している。供述によるとその時間は十七時三十分前後。それから翌朝、母親が帰宅するまで、沙耶は婚約者篠沢誠一と二人きりで過ごしている。犯行はこの間に行われました。比較的住宅の密集している地帯でしてな、夜に誰かが訪れたならば、車の音などですぐに分かってしまうそうです。付近の住民の話では、その日は兄邦夫が帰宅する以外、車の往来はなかったようですわ。
鑑識の見解としては、死亡推定時刻は十日の二十三時三十分から日付が変わる二十四時。
直接の死因は頸部圧迫による窒息死。その直前に、後頭部に鈍器の一撃も受けている。鈍器で頭をどつかれて朦朧としたところを、首を絞められとどめをさされたゆうことです。
翌朝七時十五分、誠一の母が男と共に帰宅しました。男というのは、母親、篠沢伸子いいますねんけどな、この伸子の恋人やそうです。伸子は誠一を一九で生んでますさかい、今は四十八歳。独身ですし、恋の一つをしてもおかしくはありまへん。ちなみに伸子はスナックを経営してまして、この恋人はそこの常連なんですな。
二人が家に帰る。しかし、屋内はとても静かだったといいます。
毎朝六時には起きて近所の公園までジョギングすることを日課としている息子が、その時間に起きていないというのは稀だったとのことで、母伸子は二階にある息子の部屋を覗きにいった。このとき、伸子は玄関に置いてあったスニーカーを見ています。そのスニーカーが、気に入らない女のものであることを伸子は知っていた。そんな朝早くからやってくるわけはなし、自分がいないことをこれ幸いと、一晩泊まったのだと思うと、伸子は無性に腹が立った、と言っております」
スニーカーという単語が、私の記憶を鮮やかに甦らせる。沙耶と再会したとき、彼女はやはりスニーカーを履いていた。この現実離れした話が、はじめて実感できた瞬間であった。
「階段を踏み鳴らして、伸子は息子の部屋の前に立つ。そして、叩き壊すかの勢いで、戸を叩きはじめた。しかし、部屋の中からは全く反応がなかったんです。靴があるのに外出しているわけがない。戸は内側から鍵のかかる仕組みになってまして、このとき戸は施錠されていました。伸子は自分が無視されたと考え、さらに数十回、戸を叩きます。しかし、やはり反応がない。怒り猛っていた伸子も、これはおかしいと考えはじめる。伸子の恋人、名前は伊藤重信ゆう男ですが、これも手を貸して、戸を叩いたり怒鳴ったりしたらしい。それでも応答がないため、仕舞いには伊藤が戸を蹴り破った。
そして、篠沢誠一の絞殺死体と、呆然とその横に座っている浅野沙耶を発見するのです。
母伸子は泣き叫びながらも警察を呼ぶ。しかし近所の交番から巡査が駆けつけるまでの間に、浅野沙耶は逃亡。京都府警は各方面に緊急配備。マスコミも使い、顔写真を公開もした。それが報われて三日後の今日、ようやく逮捕に至ったわけです」
刑事は腕時計をみつつ、短くなったタバコを揉み消した。
「ちょっと待ってください。それだけですか? 動機は? 彼女が何故、夫となる人を殺さねばならんかったのですか? それに、絞殺って言ってますけど、間違いないんですか? もしかしたら、自殺って可能性もあるんとちがいますか?」
私は興奮し、立ち上がっていた。勢いで、パイプ椅子が後ろに転がる。
「ちょっと、落ち着いて中井さん。まあ、座りなさい。我々警察も、安易に判断したわけと違います。顔写真を公開するのですから、間違いがあってはいけまへん。先ず自殺か他殺か、この線は間違いなく他殺ですわ。こまかい事情は今説明できまへんが、これについては間違いないという報告を受けています。そして、彼女は密室の中に、被害者と一緒にいたわけですから、状況証拠からしても事件の被疑者となるのは当然。加えて沙耶はその後逃亡している。これからの取調べの中で自白が取れなくとも、十分裁判で戦える材料は揃っておりますな。動機なんてものがはっきりしない事件など、無数にあります。そのあたりは、これからの取調べで明らかになるでしょうがね」
山根は席を立ち、私のために戸を空けた。
「今日はお疲れでしょう。また、ご足労願うこともあるかと思いますけど。そのときはよろしゅうたのんます。何か思い出したときはすぐに連絡を下さい。では……」
『帰ってよい』ではなく『帰れ』という意味だろう。私がなにも知らないと分かると、興味は薄れたのだ。となれば、無関係な者からの無用な質問にこたえてやる必要もないわけだ。
私は素直に取調室を出る。山根刑事に送りましょうかと言われたが、あからさまに面倒くさそうであったため、私は返事もしなかった。建物を出てはじめて、そこが城東警察署であると知る。運転免許の更新で、一度訪れたことがあった。
絶望と混乱に満ちた頭を抱え、私は徒歩で家路につく。
無意識に腕時計を見る。短針は9の字を指していた。
どの路をとおり、私は歩いたのか憶えていない。ただ、まっすぐにあの部屋に帰ることはできなかった。




