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 昨夜は、互いに殆ど口をきくことなく、早めに寝ることとなった。沙耶は終始不機嫌であり、身体を触らせない雰囲気を漂わせていたため、私は初日のように床で寝た。

 やはり、あのようなおかしな男と関わったのが間違いだったのだ。

 それでも朝になると、沙耶の様子はいつもどおりに戻っていた。まだ彼女と時間をともにして三日しか経っていないため、本当の浅野沙耶を私は知らないのかもしれないが、仕事に出かける私を笑顔で送り出してくれた。

 月曜日であるが、会社を休もうかと思った。沙耶との貴重な時間を、下らない取引先に奪われるかと思うと、休暇届けではなく辞表を出してもいいとさえ考えた。しかし沙耶は、そんな私の甘えた考えを正してくれた。

「ちゃんと待ってますから、しっかり働いてらっしゃい」

 私は沙耶の笑顔を見ただけで、まだ夢を見ているような感覚に囚われる。

 何度も何度も、会社から帰るまでこの部屋から去ることがないように彼女に懇願してから、私は地下鉄に駆け込んだ。いつもは始業時間の三十分前には会社に着いている私であったが、その日は遅刻ギリギリだった。

 一日中沙耶のことが気にかかり、仕事には全く集中できなかった。何度も自宅に電話をかけたい衝動にかられたが、誰も電話に出ないかもしれないという恐怖のせいでできなかった。

 幸い事務処理に追われた日であり、取引先に迷惑をかけることはなかったが、残業する羽目にはなった。

 結局、オフィスを出たのは二十時半を回っていた。

 駆け込むように地下鉄に飛び乗る。

 会社から私のワンルームマンションまで僅か四駅の距離であるが、とても長く感じる。一秒でも早く家に帰るため、私は右側の扉に張り付くように立っていた。緑橋駅で開く側だ。

 電車が到着すると誰よりも早く飛び出し、風のように改札を抜ける。

 異変はそのときから感じていた。誰かが私を見ている気がする。この駅は、日に無数の人が行き来するにも関わらず、見知らぬ顔が妙に気にかかった。

 暗い階段を駆け上がり、中央大通りに面した歩道に出た瞬間、私の顔に赤色灯が当たった。

 普段は何気なく、私の横を通り過ぎていくだけの存在であると思っていた赤い光だ。

 その光は、私の住むワンルームマンションの前から発せられている。大阪府警とペイントされた、白黒の車が二台停まっていた。遠巻きに、訝しげな瞳を向ける人々が集まっている。

 何が起きているのか、私には理解できない。

 何者か如何わしい、法に反する不届き者がこの建物にいたのだろうか。

 そのときようやく、私は沙耶の安否を気遣った。その不届き者に、沙耶が危害を受けていないだろうか。怪我でもしていないだろうか。悪いことばかりが頭に浮かぶ。私は自然に走り出していた。

 野次馬の群れを泳ぐようにかき分けて、私は進む。しかし、ようやくマンションの入り口にたどり着こうとしたその瞬間、私の腕を何者かが乱暴に掴んだ。とても強い力だった。私の体はいとも簡単にその何者かによって人目のつかぬ路地裏へと運ばれた。

 私はヒステリックに、その腕を振り解く。「なんや!」と、とりあえず叫んでいた。私にこれほど大きな声が出せるのかと、自分で驚いてしまったくらいだった。

「落ち着いて、僕の話を聞くんだ」

 黒く深い瞳が私の目の前にあった。その肌のきめ細かさと、額にかかる長い髪から、はじめは女かと疑った。しかし、その人物は私よりも一〇センチ以上背が高い。それが男だと気づくのに数秒を要してしまった。吸い込まれそうな美しさと、宇宙の深遠を想像するに似た不安を与える黒い瞳が、私を凝視している。乱れた漆黒の長髪を整えることなく、男は私の肩を掴んでいた。

 それは、昨日喫茶店で出会った御渦という男だった。

「なんやねん自分は!」

「一つだけこたえるんだ中井君。君は、あの女が何者か知っているのか?」

 昨日の御渦と同一人物か疑わしいほど、彼の表情は険しく暗い。声のトーンも低いものだった。

「あの女って、浅野さんのことか? 浅野さんのことなら知ってるわ。何もかも知っている。彼女は、彼女はなぁ……」

 言葉は続かなかった。私は、浅野沙耶のことを知っているのだろうか。彼女の生年月日、血液型、身長、声、性格、困ったときに唇を触る癖、細い指、右目下の黒子、茶色の瞳、好きな色は緑、嫌いな色は紫。後は、後は。

 私は彼女について、色々な情報を持っている。しかし、それでも、私は彼女を知っているのだろうか。改めて問われると、言葉が出なかった。

「なんで急にそんなこと、赤の他人のあんたにいわなあかんの」

「どうやら君は何も知らないようだね」

 抑揚のない御渦の言葉に再度反発を覚えたが、結局私は何も言い返せなかった。

「中井君、君はとても微妙な立場にある。余計なことを喋ったら、君も共犯にされてしまいかねない。終始、知らぬ存ぜぬをとおすことだ。実際に知らないならね。本当は知っているなら、隠すことは愚かだ。真実には忠実になるべきだ」

 目の前の男が、いったい何を喋っているのか、私には理解できない。

 不可解の連続に憤り、私は御渦を睨みつけた。御渦は動じることなく、真正面から私の視線を受け止める。その涼しげな眼には、私に対しての哀れみが浮かんでいた。

「御渦君。彼がゆうてた人かい?」

 いつの間に現れたのか、御渦の後ろに立つ男がいる。

 山のような男だった。長身である御渦と並んでも遜色ない身長に加え、横幅が常人の四倍はある。一応スーツを着て、ネクタイも締めているのだが、丸いボールが着飾っているようにしかみえなかった。

「山根いいます。よろしゅう」

 黒革の手帳を開き、自分の顔写真を示して男は名乗る。温和に見える外見と似つかわしくない、太く濁った声だった。

 警察手帳など見るのは、それがはじめてだ。

「あんた、中井さんやね。中井厚司さん。生駒電工にお勤めやね」

 警察が私のことを知っている。それだけで嫌な気分にさせられた。

「そない心配せんでも、会社に連絡したりしませんて。まあ、あんたの心がけ次第ですけどな」

 山根と名乗った刑事の口調は柔らかなものであったが、明らかに私を脅していた。

「浅野沙耶さんについてお尋ねしたいんやけど、あんた彼女のことよう知ってはるな?」

 沙耶の名前を山根が口に出した瞬間、私の脳は三度沸騰する。

「浅野さんに何かあったんか? 彼女は無事なんか?」

 私は、叫ぶように問いかけた。

 掴みかかる私の体は、いとも簡単に御渦により押し留められる。

「何を勘違いしてるのか知らんが、事件を起こしたのが浅野沙耶ですわ。ですんで、彼女が無事なのは当たり前ですわ」

 再び、私の頭は言語を理解できなくなっていた。

「事件?」

 誰が見ても、私は間抜けな顔をしていただろう。目を見開き、オウムのように相手の繰り返すことしかできなかった。

「そう、事件です。それも最悪の、殺人事件。浅野沙耶、彼女はその被疑者なんですわ」

「殺人……事件? 被疑者?」

 テレビや新聞でしか見ることのできない言葉が、今突然目の前に現れた。その言葉は知っている。しかし、私の頭はその意味を思い出せずにいた。

「山根さん。このとおり、彼は無関係ですよ。事件の存在すら知らないんだ。あの女に利用されていただけです」

 御渦は静かな目をしていた。動かない瞳は私を捉え離れない。その真摯な視線が物語っている。今の話は事実なのだと。

「そう、みたいやな。あんたも、とんでもない同級生を持ってしもたな。ま、とりあえず、署の方までご同行願いますかな。一応、しきたりみたいなもんですわ。そない緊張せんでもようおまっせ」

 山根は、私の腕を力強く掴んだ。警察の車に押し込むつもりなのだろう。任意同行というやつだ。

「浅野さんは、どこに?」

「すぐに降りてきますよ。なにせ女ですからな。逃げ場は完全に遮断しとるから、準備だけはさせてやったんです。それから、部屋の中、少し調べさせてもらいます」

 私の住むワンルームマンションの、薄汚れた入り口をみつめて山根がこたえた。読み取れぬ大きな朱印と、何か短い文が書かれた一枚の紙をみせられたが、それが捜査令状であることは後で分かったことだ。

 その直後、扇状に取り囲む野次馬の群れが一斉に声を上げる。芸能人でも現れたかのような盛り上がりだ。

 暗いマンションの入り口から、白い顔が浮かび上がった。沙耶が、左右を婦人警官に支えられるような姿で現れた。

 沙耶の瞳は濡れていた。

 道路に歩み出た途端、方々からフラッシュが焚かれる。それまでは気づかなかったが、マスコミ関係者も大勢やってきていた。不思議と、誰も私には関心を寄せていない。

「あんたの社会的な身の安全は保障します。せやさかい、ちゃんと捜査に協力していただきまっせ」

 黄色い歯をみせて、山根は笑っている。それを無視して、私は沙耶をみつめていた。

 私は何をしたらよいのだろう。何を考えたらよいのだろう。何を言ったらよいのだろう。

 沙耶は、どうすれば笑ってくれるのか。

 彼女を救うのではなく、どのようにすれば笑ってくれるのか。そればかり私は考えていた。

 私の目の前を彼女が通る瞬間、私は声をかけねばと息を吸う。しかし、実際には声は出せなかった。横に立つ御渦が、私の肩に手を置き、私の発言を制したのだった。

 沙耶は濡れた瞳で、私の目をまっすぐにみつめていた。

 そして、ゆっくりと二度、彼女は首を横に振る。一滴の涙が右目から零れ落ち、彼女の頬で弾かれた。

 私はその瞬間確信した。

 これは何かの間違いであると。

 いったい何が起きたのか、私にはさっぱり分かっていない。しかし、沙耶が左右を警官に挟まれ連行されるということは、全く間違っている。誰かと間違えられているのか。ともかく、この光景は間違っている。彼女の手首には、呪わしい銀色の手錠がかけられていた。そんなものが似合うはずがない。

 婦人警官に促されるまま、沙耶は素直に車に乗った。

 群れるカメラマンを追い払うための警笛を鳴らし、パトカーは素早くその場を去って行く。半身を捻り、パトカーの中から沙耶が私を見ていた。

 それは気のせいだったのかもしれない。しかし、私の目にははっきりと見えた。救いを求める沙耶の顔を。不条理からの救いを求める声を聞いた。

「通報したのは僕だよ」

 弾かれたように、私は声の主を求めて振り向く。そこには、沙耶を乗せて去って行く車を遠い目で見送る御渦宗茂がいた。

「君は知らなかったようだが、彼女は先日起きた殺人事件の被疑者として、指名手配されているんだよ。詳しくはこの後の取り調べで聞くことができるだろう」

 山根が小さく手を挙げる。宜しくという意味だろうか。

「一目見て、彼女が指名手配犯だということはすぐに分かったからね、君たちが店を出てから、知り合いの刑事、この山根さんに連絡したんだ」

 この男が、何故沙耶の名前を知っていたのか、これで判明した。そして、この不条理な光景を生み出した原因も。

 そこからは、あまり良く憶えていない。

 私の頭は真っ白になっていた。自分の体は、もう制御することができなかった。

 御渦に殴りかかっている自分があった。

 しかし、拳の先に御渦はなく、逆に腕を取られ倒される。

 地球がひっくり返ったかと思った次の瞬間、私はアスファルトの臭いを嗅いでいた。

 腕を背中で締め上げられ、骨を削るような鈍い痛みが肘から肩にかけて走る。

「頭を冷やせ。君はつまらない小石につまずいただけだ。さっさと忘れるんだ。忘れるんだ」

 頭に血が上り過ぎ、私は暫し意識を失ったようだ。

 朦朧とする意識の中で、御渦の声だけが響いていた。

「忘れるんだ。忘れるんだ……。君は忘れることができるんだから」

 忘れられるわけがない。御渦は、どのくらいの時間私が彼女のことを想い続けているか知っているのだろうか。忘れられるわけがない。

 大げさでもなんでもなく、彼女が私の半生の全てであり、生きがいであったのだ。

 私の半生を捧げた女性が、犯罪者のはずがない。

 それは、あってはならない事である。

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