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世界が変わったようだった。今まで見ていた景色には色がなかったが、今は全てが明るくみえている。
今私は、白いカーテンの隙間から柔らかく差し込む朝日を、穏やかな彼女の寝顔越しに見ている。静かに寝息を立てる沙耶の顔は、陶器のように白く滑らかだ。ピクリと黒く茂ったまつ毛が動き、薄く瞳が覗かれる。
「おはよ」
と、かすれる声で彼女は言った。
寝顔をみつめていたことを咎められるかと思い、私は急いでベッドを出る。立ち上がった瞬間、自分がトランクス一枚の姿であることに気付き、慌てて転がっていたジーンズを履いた。そんな姿を見て、沙耶はやっぱり笑った。
「ねえ、今日はどうする? 昨日はお金使っちゃったから、今日は節約コースで遊ぼうよ。近くに公園あったでしょ。そうそう大阪城公園。そこ行こうよ」
私が淹れたインスタントコーヒーをすすりながら、沙耶は楽しそうに今日一日の予定を立てはじめていた。私は黙って彼女の話を聞いていたが、その予定の最後に沙耶が帰宅するという言葉が出ないことを、ただ祈っていた。
「夕ご飯は私がつくってあげるね。こうみえてなかなか料理は上手なのよ。何つくろうかな……」
「夕飯食って、その後はどうするん?」
耐え切れず、私は問いかける。絶対に聞きたくない言葉を、彼女に言わそうとしていた。
「どうって、どうしたら良いの?」
問いは問いで返された。彼女の瞳が濡れかけているのをみぬよう、私はこたえる。
「もう二日も経ってる。お兄さんも心配してるやろ」
私の言葉はそこで途切れた。だからなんなのだ、という目で沙耶は私を睨んでいる。
「私、まだ帰りたくないの」
最後の部分は震える声だった。沙耶は俯き、両手で持ったコーヒーカップを握りしめる。
「もうええ、分かった。しばらくこの部屋におったらええ。だから泣かんといてくれ」
途端沙耶は顔を上げ、私に抱きついた。そして彼女は私の耳元で、殆ど聞き取れない声で「ありがとう」と呟いた。
しばらくの間、私たちは静かに抱き合っていた。どのような兄妹喧嘩をしたのだろうか気にはなったが、沙耶の体温を感じている間に、そんなことはどうでもよくなってしまった。
私たちは一駅分を歩き、大阪城公園へたどり着く。もう一年も大阪に住んでいながら、この公園を訪れたのはこれがはじめてのことだった。
今日も晴れている。加えて日曜日。ましてや桜の季節ともなれば、花見の名所の一つであるこの大阪城公園は、人で溢れているのは目にみえていた。ゆっくり座って花見をできるスペースはない。
しかたなく私たちは、沙耶が買ってきた缶ビールを片手に、四月中旬の葉桜をみながらゆっくりと歩いた。連日飲み続けで胃が重くなっていたが、沙耶と桜並木を歩いているだけで心が弾んだ。ヒラヒラと無数の花びらが舞い、沙耶を神秘的に彩る。私は、気が遠くなるほど幸せだった。
堀に沿って広大な大阪城公園を歩き回り、私たちは心地よい疲労感を感じていた。私は夕食の準備前に喫茶店で休憩することを提案する。
『カンザス』という名前の喫茶店が、私のワンルームマンションの近くにある。毎日その前を歩いていたはずだが、私はその存在を知らなかった。沙耶とその道を歩くことにより、はじめて気が付いたのだ。それまでの私がいったい何を見ていたのか、とても不思議だった。
店内は三十席あるかないかの狭さだ。大通りに面しており日当たりも悪くないが、窓に曇りガラスがはめ込まれているせいで、午後四時という早い時間であるのにも関わらずとても暗い。ダークグレイで統一されたテーブルとチェア、そしてボリュームをしぼられて流れているビリーホリディも、その暗さに一役買っている。
席は殆ど空いていた。新聞を広げたまま人形のように動かない老人と、座っていても長身だと分かる細身の男が、別々のテーブルに付いているだけだった。
私たちは勝手に空いた席に腰掛けた。するとすぐに、口髭を蓄えたマスターが水を運んできた。私はアイスコーヒー、そして沙耶は目敏くメニューの中からアルコールをみつけ出し、ハイネケンを注文する。マスターが引き返すとき、奥に座っていた長身の男と、私の視線は交差した。正確には、私の連れである沙耶を凝視している男を、私が発見したのだった。私の視線に気づいたその男は、次に私の顔を見続ける。
同姓である私が呆然とするほど、男の顔は美しい。肩まで伸びた黒い髪、涼しげな瞳に高い鼻。滑らかで白い肌は、石膏彫刻を彷彿とさせる。推定で百九十センチはあろうかと思われるその体躯でなければ、女性と見間違えていることだろう。
男は微動だにせず、ただ鋭い目で私を捉えていた。私はその視線に耐え切れず、目を逸らせた。
「どうしたの。そんなに疲れちゃった?」
沙耶の話を聞いている間も、視界の隅から向けられてくる男の視線を感じていた。
アイスコーヒーとグラスに注がれたハイネケンが運ばれてくる。沙耶は男の視線には全く気づかず、咽を鳴らしビールを呷った。
「ちょっと、飲みすぎとちがうか」
私の言葉を無視するように、沙耶は早々とグラスを空にする。そして、慣れた手つきでタバコに火を点けた。私にかからないよう天に向けて大きな煙を吐き出してから、ようやく沙耶はこたえた。
「もう、お兄ちゃんみたいなこと言わないで」
彼女がアルコールを求める理由が、兄との喧嘩であるのならば良いが、どうやらアルコールそのものが兄妹喧嘩の要因である気がする。沙耶は明らかに、アルコール依存症の気があった。盲目的に彼女を愛している私にも判るくらいだ。しかし、「もう帰る」という沙耶の言葉が恐ろしく、私はそれ以上彼女を責めることをしなかった。
所在なく、私は沙耶から目を逸らす。しかしその先には、依然として私たちを見続ける男があった。機械のように微動だにせず、凝視している黒い眼が見えた。
「すみませーん。おかわり下さーい」
空いたグラスを振りながら、沙耶は店のマスターを呼ぶ。口髭のマスターは素早く新しいビールを運んできて、泡だけが残っているグラスを持ち去った。私はその仕事の速さを苦々しく見ていたが、沙耶はもう新しいビールで咽を鳴らしていた。
そのときだった。私の視界の隅で何かが動いた。気づくと、私の隣に何者かが腰掛けている。あの、長髪の男だった。
「よぉー」
と男はなれなれしく声をかけてくる。この男は、沙耶の知り合いだったのだろうか。ならば、男がしばらく我々を見続けていたことも頷ける。しかし、沙耶はグラスを傾けるのを止め、訝しげな顔を男に向けている。
「中井君のお知り合い?」
沙耶の言葉は意外なものであった。沙耶の知り合いでなければ、男は何者なのか。無論、私に心当たりはない。
「久しぶりやな」
男は私の目をしっかりとみつめたままだった。どうやら、沙耶にちょっかいを出しにきた軟派男でもないようだ。
「なんだ、やっぱり中井君の知り合いなんじゃないの。紹介してよ」
「いや、知らへん。どちらさんですか?」
この言葉を言うには多少の勇気が必要だった。もしも取引先の人間だとしたら、この先の付き合いが悪化するかもしれないからだ。ただ、見た目上は私とほぼ同年齢で、相手の態度からもビジネスの臭いはしていなかった。
「つれないな、中井君。君、中井厚司君だろ」
不気味だった。全くの見ず知らずの人間に、名を憶えられている。仕事上の取引先、過去の友人を幾人も思い出してみたが、このような大男はいなかった。加えてイントネーションが標準語だ。そんな特徴深い人物が知り合いにいれば、記憶に残っていないはずはないのだ。
「小学生んときの、クラスメイトか?」
私の問いに対して、男は首を横に振った。
「わからないか。わからないだろうな。よし、クイズにしよう。なんで僕が君の名前を知っているのか。当たったら、君たちの飲み物代は僕が払おう」
「面白そうね」
沙耶はいち早く警戒を解き、男に笑顔を向ける。一方私は、無言で男を睨みつけていた。沙耶との時間を邪魔されて不快であったが、この二日間で、話題も尽きかけていたのも事実だった。
「とりあえず、貴方の名前を教えてくれません? それとも、クイズをする上でそれは大きなヒントになるのかしら」
新しいタバコに火を点し、紫煙と共に沙耶は質問を吐き出す。
「いや、問題はないだろうね。僕の名前は御渦宗茂。御する渦と書いてミウズだ。珍しい苗字だろ」
男の姓を聞いても、全く知らぬ名だった。確かに珍しい名字である。一度でも聞いているならば、滅多に忘れることはないだろう。ムネシゲという名前にも心当たりがない。
いつの間に持ってきたのか。男の前には中身が半分に減ったコーヒーカップが置かれている。御渦はそれを少しだけ飲んだ。
「今のはヒントにもならないな。それじゃあ第一ヒント。僕の年齢は二十三歳です」
二十三歳。私よりも一つ年下だ。見た目通り、同年齢であった。
「大学での友達じゃないの? 京都大学での。友達とまでいかなくても、同じゼミだったとか」
私が考えていることを沙耶が先に口にする。そう、考えられるのは大学の授業だ。小さい教室などでは、いちいち生徒の名前が呼ばれていた。私は他の生徒の名など一人も覚えていないが、一年間定期的に名前を聞いていたならば、記憶に残ってしまっている可能性はある。
「おしいな。同じ大学ってとこまでは当たってる。でもね、僕と彼は在学中、全く同じ授業がなかった。同じ学部だったのに全く被らなかったんだ。これもまた珍しいかな」
男の言葉に、私は何か違和感を感じていた。
「同じ授業がなかったの。それじゃあ、サークル活動で?」
「俺、サークルにはどこにも入ってへん」
沙耶の質問には、私がこたえてやった。
「何? それじゃあ、二人にはまるで共通点がないじゃないの。もう、さっぱり分からない」
判りきったことだった。断言できるが『忘却』などということもない。私はこの男を全く知らない。なぜなら大学生時代、私には友人どころか、知人と呼べるような人物は一人もいなかったからだ。毎日まじめに授業を受け、ノートを取り、帰る。四年間、日々同じことをただ繰り返した。おかげで単位は、卒業に必要な量の倍は取得できた。ただ、得られた資格などはない。時間つぶしをしていただけなのだ。それを裏付けるよう、何一つ身についた知識などなかった。
「あなた、ノーマルな方? そうでなけりゃ……」
片目を細め、沙耶は御渦を睨みつける。私は彼女の質問が意図することが分かった。
御渦も同様に理解したようで、声を出さずに笑う。
「残念。僕にそんな趣味はない。この中井君を、心ときめかせて電柱の影からみつめていたことはないよ」
否定しながらも、御渦は私に流し目をくれる。もちろん私にもそんな趣味はないが、無意識に顔を赤くしてしまった。
沙耶は乱暴に、灰皿でタバコを揉み消した。そして、諦めのため息と一緒に言葉を続ける。
「わかった。あなた、中井君とどこかでぶつかったりしたんでしょ。教室の入り口とか、学食とかでばったりと。そのとき中井君は学生手帳とか自動車免許証を落としてしまう。それを貴方が拾ってあげた。学生手帳には写真と名前が書いてあるでしょ。これでしょ。正解?」
沙耶の投げやりな態度にも、御渦は表情ひとつ変えない。
「そんな、マンガやないんやから。第一……」
「第一……そんな些細なことを憶えているわけがない。だろ?」
御渦は私の言葉を遮るように言った。私が言いたかったことはまさにそのとおり。仮にそんなマンガのような出来事が、一日に二度あったとしても、一月もすればきれいに忘れてしまっているような事柄である。沙耶が茶化したように、一目惚れでもしない限り記憶に残るわけがなかった。しかし、御渦は唐突に手を叩きはじめてこう言った。
「正解。シチュエーションは少し違うが、大まかなこたえとしてはオーケーだ」
音を絞ったジャズが流れる店内に、御渦の拍手は響き渡る。
私は、彼の言葉の意味が理解できない。
「おい、どこが正解やねん。ちゃんと説明せんかい」
「そうだな。今から五年前。正確には千八百四十五日前。空一面、雲ひとつない、とても気持ちのいい日だった。最高気温十九度、湿度七十パーセント。降水確率一〇パーセント。ちなみに実際雨は降らなかった。時刻はお昼前、君は合格発表の掲示板の前にいた。お母さんと、家庭教師の先生が一緒だったね。『ようやったな厚司』と君のお母さんは涙声。『がんばったもんな、中井君は』と、黒ぶち眼鏡の痩せ細った家庭教師は大喜び。君はただ、皿のような目で、じっと自分の受験番号をみつめていた」
御渦の口からこぼれる言葉は、私の頭にスコップを差し込み記憶を掘り起こし、当時の情景をまざまざと思い出させる。確かに私は母と、そしてガリガリに痩せていた家庭教師と共に大学入試の発表をみに行った。ただ、その日付や天候までは覚えていない。それどころか、家庭教師の顔もはっきりとは思い出せなかった。
「僕は君のすぐ隣で、同じく合格発表の掲示板を見ていたんだ。だから、君の顔と名前を知っているんだ。どお? つまらないこたえだろ」
「おいおい、ちょっと待たんかい。分けわからんて。なんや君は、五年前のそんな些細な光景を、今でもはっきり憶えてると言うんか。そんな嘘、小学生でも騙されんわ。ふざけとらんで、ちゃんと説明してもらおか。なんで俺の名前を知ってるんや」
恐怖により、私の苛立ちは促進されていた。普段出したことのない口調になっている。
「そんな、怒られてもな。今のがこたえなんだって。あのときを除いて、君をみかけたことはないよ。僕、殆ど学校へは行かなかったから」
「じゃあなにか、自分は見たもん全て、聞いたもん全て、何もかも残らず記憶してるって言うんか?」
「そう、言ってるんだが」
急に、御渦の目は鋭く光る。私にはそう見えた。
時間が止まったように、しばらく誰も口を開かなかった。
「……へえ、そう。すごいのね。見たもの全部憶えてられるんだ。じゃあ、毎朝新聞なんか読んでたら大変ね。パンクしちゃいそう」
黙りこんでしまった私に代わり、沙耶が口火を切る。半分ほどに減ったビールをぐいと飲み干し、カラカラ笑った。
「なんだい。二人とも信じてくれないのか。なら証拠をみせよう。なあ中井君、この店の入り口にマガジンラックがあるだろ。あそこから何でも良いから、新聞を取ってきてくれ。僕が取りに行くよりフェアだろ? とってきたら、どの項でも構わないから、僕に問題を出してごらん。この店に置いてあるものならば、いつも全て読んでいるからね」
御渦は私に命令した。その仕草は、執事に物事を命ずる英国紳士といった具合だ。私は不平を言う間もなく動き出していた。元来、私はそのような役どころが似合う性分なのだろう。高校時代も体格の良いクラスメイトに、パンと牛乳を買いにいかされたことが何度かあった。
「くだらないわ。もういいから帰りましょうよ」
新聞を手にする前に、沙耶が言った。何故かとげのある声音であったが、私は笑顔で彼女を制し、全国紙のひとつを掴み取り席に戻る。その間、御渦に紙面を読まれないように、背中に隠した。
沙耶はやけに私の手の新聞を気にしたが、一瞥すると新しいタバコに火を点け、面倒くさそうに煙を吐いた。
私は、紙面が一切御渦にみえないよう慎重に新聞をめくった。
「よし、じゃあ今日の読売新聞から、社説の最後の一行をこたえてもらおか」
「うーん。こたえづらいな。『タイできない。』だ。文章としては『若者の活躍には期待できない。』となってるんだけど、期待の期のところで改行されているから、『タイできない。』がこたえになるだろうね」
御渦のこたえのどおりに、記事の文章は改行されていた。改行の他も、一字一句違うことなく正解している。
熟考した様子は全くなかった。ポケットから小銭を取り出すような、そんな当たり前の顔を御渦はしている。私は脇の下に冷たい汗が流れるのを感じたが、表情は未だ平生を装っていられた。
「なら次や。今度は六面の広告から、健康食品の写真が下半分を占めている。小瓶が横になり、中から錠剤がこぼれて転がっている。その数を言うてみ」
御渦は腕組みし、今回は熟考しているように見えた。うーん、と一度唸る。
「微妙だなぁ」
と、頭を掻いた。
「錠剤は七つ瓶の外に転がってるんだけど、一つ、瓶の口から半分だけ覗いているんだよな。これをカウントしたら、全部で八つかな」
私は、御渦に写真を全くみせていない。無論テーブルの上に新聞が乗せてあるわるではない。透けてみえている心配もない。私は問題となる部分を裏側から、掌でずっと押さえていたのだから。それにもかかわらず、彼は私と一緒にその広告写真をみながらこたえているようだった。確かに転がっている錠剤は七つ。そして、瓶の入り口に一つ隠れている。これは、私自身も言われるまで気づかなかったことだった。
私の表情は、さぞ青ざめていたことだろう。
「どうだい。信じてくれたかい? 中井君」
大袈裟に、御渦は額にかかった前髪を掻き揚げた。
「凄いのね。本当になんでも憶えられるんだ」
信じられない、と沙耶は空になったグラスを眺めて言った。驚きの表情を隠せない私とは正反対に、彼女は退屈しているようだった。
「いや、正確には『なんでも呼び出せる』かな。人は誰でも、見聞きしたものを記憶するのだよ。それは死ぬまで消えることはない。忘れるなんてことはないんだよ。忘れるという現象は、単に記憶を呼び起こせなくなっているだけさ。より専門的な話をすると、記憶というシステムは三段階で機能しているものなんだ。新しい情報を見聞きして、それを認識することを『記銘』、それを長時間、これにも色々段階があるんだけど、保存し続けることを『保持』といわれる。そして保持したものを意思上に再び呼び起こすことを『追想』または『想起』という。忘却という現象は、この『追想』が正しく行われなかった場合を指すんだ」
記銘、保持、追想。これらの単語は大学の一般教養で耳にしたような気がする。確か、心理学概論ではなかったろうか。
御渦は更に続ける。
「記憶が『保持』される期間は、瞬間記憶、短期記憶、長期記憶に区分される。瞬間を短期、短期記憶を中期とも呼ぶ場合があるけどね。瞬間記憶は文字通り一瞬だけの記憶、電話帳を見てダイヤルするまでの数字や、レストランでメニューを見てから注文するまでの間だけ使われる。次に短期記憶、試験前の一夜漬け勉強なんてやつがこの部類だね。そして長期記憶、いわゆる思い出や知識というやつだ」
また聞いたことのある単語が並んだ。
そのとき、沙耶が大きな欠伸をした。それから、つまらなそうに彼女は語りだす。
「変ね。私が聞いた話では、記憶のメカニズムってのは研究が進んでて、記憶の期間に応じて脳のどの部分が働いているかってことも分かっているそうよ。瞬間記憶では、頭頂葉から側頭葉までの間。短期記憶は側頭葉から帯状回・海馬を情報が回る。回っている間が記憶される。長期記憶は、最終的に前頭葉に蓄積されるものだって。そうじゃなかった?」
正直、私は沙耶の話が殆ど理解できていなかった。
「あの……」
私の理解の遅さを察して、沙耶はすばやく解説を加えてくれた。
「つまり、記憶が留まっている時間というものは、脳の中での役割機能の違いなわけ。というよりも、頭の中をぐるぐる回って、長い間記憶される入れ物に入るの。その入れ物に入れない、どうでもいい情報は消去されちゃうの。だから、貴方のお友達の話は全部でたらめだってこと。瞬間記憶を全部記憶しているなんて不可能だわ。生涯にかける電話番号は何桁になると思う? この人はそれを全部憶えてるなんて言っているのよ」
沙耶は昔から頭の良い女性だったと思う。試験の成績は平凡なものであったかもしれないが、友人や教師との接し方で、彼女が愚かな行動をとったことはない。しかし、彼女がこのような知識を有しているとは意外だった。
「それくらい憶えてるよ。小学校四年のころ仲が良かった島田君の電話番号は五四七三の……」
この御渦のこたえには、さすがに沙耶も驚きの表情を浮かべる。しかし、顔の筋肉はすぐに脱力してしまった。島田君の電話番号を確認する術は我々にはない。彼がその電話番号を正確に憶えていようがいまいが、そのこたえを口にしている男に呆れたのだ。
「あなた何なの? 何を企んでいるわけ? 新聞紙を一日分、隅から隅まで憶えるなんてことまでして、中井君から何を得ようとしてるの?」
刺すような沙耶の声だった。私に対して言われているわけではないのに、心を裂かれるような痛みを感じてしまう。
しかし、御渦は何もプレッシャーを感じなかったようだ。その証拠に、彼はこんなことを言った。
「そんなに怒るなよ浅野さん。アサノ サヤさん」
時間が停止した。
沙耶のことを、私は彼に紹介しただろうか。
私は、沙耶と目を見合わせた。お互い、この数分間の記憶を辿っている。
言っていない。
私が彼女を呼ぶこともしていない。例え無意識に彼女に呼びかけていたとしても、私は必ず「浅野さん」とだけ言っていたはずだ。彼女と知り合って以来、名前で呼んだことなどない。心のうちでは何度も呼びかけていたのだが、実際に口に出したことはない。断じてない。
御渦が彼女の名前まで知っていることは、明らかに不自然だった。無論彼女は、有名人でもなんでもないはずだ。
「何? 何なのあなた。気持ち悪い……」
吐き捨てるような沙耶の言葉だった。鼻の横にある筋肉が片方だけ痙攣していた。それは私がはじめて見る、彼女の醜い顔だった。
「ああ、そうか。私のことも、いつかどこかで聞いたのね。きっと、とても些細なことで。それをあなたは憶えているのね。分かった分かった。あなたの記憶力自慢はもういいわ。その特技でいつかテレビにでも出たらいいわ。それじゃあ、私達は失礼します」
沙耶は伝票を御渦に投げつけると、勢いよく席を立つ。そして彼女は、私を引きずるようにして店を出た。
料金を持つと言ったのは御渦だった。沙耶の回答を正解としたのも御渦である。伝票を彼に預けたことに不正はないはずだった。それでも私は気にかかり、店を後にする瞬間まで、御渦の様子をみつめていた。
青年は笑っていた。
微笑でもなく、哄笑でもなく、薄笑いでもなく、苦笑いでもない。口は確かに笑いの表情なのだが、目だけは何故か、悲しそうであった。




