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まさに、まさしく、その日は紛れもなく、私の生涯で最良の一日となった。
十時過ぎに目を覚ました沙耶と共に、大阪で一、二を争う繁華街である難波界隈へと出かけた。比較的落ち着いた梅田よりも、若者向けのスポットが多い難波の方がより大阪らしく、より沙耶を楽しませることができると判断した結果だった。
昨晩は緊張と期待とにより、殆ど眠れなかった。寝不足のせいで顔は普段以上にさえないが、持っている服の中で最もましだと思われる紺のシャツとカーキ色のパンツという、私にとっては最大級のおしゃれをしている。ちなみに普段の祭日に出かける格好は、首周りが伸びた古いTシャツに穴の開いたジーンズが多い。それどころか、休みの日に外出すること自体珍しかったりする。
地下鉄を乗り継ぎ、私たちは心斎橋駅で降りた。
沙耶ははしゃいでいた。先ず地味な格好をなんとかしたいと小さな洋服屋に入る。店内は土曜日だというのに閑散としており、暇そうな中年女性が爪を切っていた。
そんな店でも、私は女性ものの服を売っている店に入った経験が皆無であったが故に、店内に五分も留まることができなかった。
約二十分間、所在無く道行く人々を眺めていた私の前に、別人と化した浅野沙耶が現れた。麦わら帽子に大きなサングラス。肩を露にしたピンクのキャミソールに七分丈の白いパンツ。スニーカーは大きなコスモスが飾られたサンダルに変わった。沙耶の体の線がはっきりとわかる服装だった。彼女は高校生の時分よりも、幾等か痩せたように見えたが、美しいことに変わりはなかった。
「どお、似合う?」
手を腰に置き斜めに立ってポーズをとり、彼女は聞いた。私は細かく、何度も頭を縦に振っていた。その姿がよほど滑稽だったのか、沙耶は声を出して笑った。
「これで何とか街を歩けるかな。中井君に恥ずかしい思いをさせない?」
「そんな、俺の方が恐縮してる」
「化粧ができたら良いんだけど、そこまでは準備してないからね」
今まで着ていたジーンズやパーカーは、コンビニで買った紙袋に詰め込み、私が持つことになった。まだ季節として彼女のキャミソールは早すぎるかに見えたが、その日は五月上旬並みの暖かさで、空も晴れ渡っていた。私は白く滑らかな彼女の肩のラインを、歩きながら何度も盗み見ていた。
そこから、御堂筋に沿って建つレンガ造りのカフェで遅めの朝食をとり、若者が集うアメリカ村へ向かった。私も沙耶も、特に明確な目的があったわけではない。ただ、華やかな場所に行けば、何かしらで沈黙が苦になることもないだろうと思われた。
アクセサリー屋やジーンズショップをひやかしながら、私たちは時間を過ごす。沙耶は何にでも興味を持ち、よく喋り、よく笑った。私はその隣で、ただ微笑んでいた。人込みは嫌いだが、彼女といる限り、人々がつくり出す雑踏も心地よく感じられた。
時間はいつの間にか午後二時をまわっていた。ランチを食べていなかった私たちは、若者の町には似つかわしくない古びた定食屋に入った。彼女はもっと明るい、洒落た店を好むだろうと思っていたのだが、そこへ入ろうと先に言ったのは沙耶の方だった。
昼飯時を過ぎているからか、それとも常にその状態なのか分からなかったが、とにかくその店は空いていた。我々の他は、半分ほど空いたビール瓶を前にして動かない老人が一人いるだけだ。
私は塩サバ定食、沙耶はてんぷら蕎麦を注文した。腰の曲がった一人の老婆がつくっているとは思えぬ早さで料理は完成し、空腹だった私たちは、黙々と箸を動かしていた。
食事も済み、老婆が無言で注いでくれた番茶をすすっていると、私はふいに自分の中で慟哭が始まるのを感じた。自分でも、それが何故だか分からない。後で考えたことだが、このとき私は喜びのあまり泣きそうになったのではなく、その後訪れる夢の終焉を怖れ、子供のようにむせび泣きしそうになったのだ。
不自然な咳払いでそんなむせびを振り払い、私は無理に笑顔をつくる。
「なあ、この後どうする?」
口に出した後、すぐに私は後悔した。沙耶がこのまま帰ってしまうのでは、という不安が脳裏を過ぎる。が、沙耶の口からは明るい口調で提案が出された。
「そうねー。久しぶりにビリヤードがしたい気分だわ」
定食屋を出ると、幸運なことに歩いて数分でビリヤード場をみつけることができた。原色が予想できないほど色あせた小さな看板を掲げているその店には、難波駅の近くであるにもかかわらず客がいない。不健康に痩せた青年が店番をしていた。彼は無言で一時間七百円と書かれた料金表を指差して、手書きの伝票を渡してから、ずっとテレビを見続けていた。その店が流行らない訳が分かった。
用意されているボールの番号は九番までで、必然的に我々はナインボールをすることになった。幸いなことに、私は学生時代に一時ビリヤード場に通っていたことがあり、沙耶の前でもそれほど恥をかかずに済んだ。しかし、彼女の腕は本物だった。綺麗なフォームから打ち出される力強い手玉は、正確にボールをポケットに落としていく。一時間で八ゲームをこなしたが、ジャンプショットも見事に決める沙耶に結局私は一勝もできなかった。
軽い運動をして汗をかいた我々は、少し早めではあるがビールを飲むことにした。これを提案したのも沙耶だった。この日は終始、沙耶が発起した行動をとっていた気がする。
イタリア料理を主体とした、創作料理の店に入る。アンティーク調の落ち着いた店が難波の若者に敬遠されたせいか、席はガラガラに空いていた。柄物のベストを着たウェイターが仰々しく持ってきたメニューを見ると、どの料理もびっくりするような値段であったが、沙耶と過ごす特別な食事だということで、その場で席を立つような真似はしなかった。
ビールを飲むつもりだったが、そんな空気ではなく、私は無作為に選んだボトル五千円のワインを注文する。注文の際私の声が上ずっていたせいか、沙耶は長い間クスクスと笑っていた。財布の中身を思い出してから、一人七千円のコースを注文する。
「お金大丈夫? 私、自分の分はちゃんと払うからね」
と沙耶は言ってくれたが、そもそも金の使い方を知らない私である。こんなときでなければ、単に預金通帳の数字が増えていくだけの、つまらない人生なのだ。
ワインボトルが半分になるころ、順場に料理が運ばれてきた。沙耶はよく飲み、そしてよく食べた。普段小食な私も、彼女につられてフォークを口に運んだ。値段と見比べるとそれほど美味い料理ではなかったが、それまでの人生で最も楽しく、最も幸せな食事だった。
奮発してもう一本同じワインを頼んだが、食事で満腹となった私に代わり、沙耶が殆ど一人で空けた。
「そんなに飲んで大丈夫か? 帰れるんか?」
と心配した私に、思わぬ言葉が返ってくる。
「大丈夫。今晩も中井君の家に泊めてもらうもの」
沙耶の言葉は、私の思考を止めるに十分なものであった。私は所在無く、鶏のように辺りを見回していた。何故か自分が、とんでもなく背徳的な行為をしている錯覚に陥ったのだ。
そのときには客も僅かに増えており、我々の右隣のテーブルにも中年のカップルが座っていた。その男の方が、目を細めて沙耶の胸元を眺めているのに私は気づいた。不快だった。その男がではない。いやらしい目つきをした男が、自分の影と感じられたからだ。私は勢いよく立ち上がり、彼女の手を掴むと、逃げるようにその店を後にした。
「いったいどうしたの、中井君。私、何か気に障るようなこと言っちゃった?」
店を出るとすぐに、心配そうな上目遣いで沙耶が聞いてきた。
酒のせいか、私の顔は赤みを帯びているようだ。それが彼女には、怒っているように見えたのだろう。
「何もない。浅野さんは、何も悪ない」
そのまま目的もなく、私たちはしばらくの間、人で溢れかえった心斎橋を歩いた。
「私、やっぱり帰った方が良い?」
一歩後に付いて歩いていた沙耶が、突然言った言葉だった。私の視界に、地下鉄の入り口を示す看板が入っていた。沙耶の視線の先にも、やはり地下鉄の看板があった。
「なぁ浅野さん。そもそも、なんで大阪にきてたん? どこかに向っている気配もなかったし、今日もこうして一日過ごしてるし」
私はついに、昨日から抱いていた疑問を口にすることができた。彼女が帰宅する素振をみせたことが、私の背中を押したのだ。沙耶が大阪に来ていた理由を知らなければ、彼女を引き止める術も思い浮かびはしないのだ。
人の流れは大河のごとく止まることはない。私たちは、その濁流の中にたたずみ、向かい合っている。
「……実はね、私、兄と喧嘩したの」
蚊の鳴く声で、沙耶は語り出した。
「それで、家出したの。恥ずかしいよね。二十四歳にもなって家出なんて。だから言えなかったの。ごめんなさい。いくら高校のクラスメイトだったからって、二日も泊めてもらおうなんて迷惑だよね。私甘え過ぎたみたいね。……もう、私帰るから。本当にごめんなさい」
私の横をすり抜け、沙耶は地下鉄の駅へと下ろうとする。私はとっさに、その腕を掴んだ。あまりに力が入ってしまったせいか、沙耶の顔は痛みにゆがんでいた。
「俺、浅野さんのことずっと好きやってんで」
自分の言葉ではないようだった。それでも、しっかりと彼女の目を捉えながら、長年言えずにいた台詞を、私は吐き出すことができた。
沙耶の顔は、痛みにゆがんだものから、瞬時に驚きへと変わる。それから、彼女は優しく微笑んでくれた。高校時代は、何度も何度も盗み見た。そして、高校卒業後は、数少ない写真と、記憶の中にある彼女を何度も見ていた。そんな私でも見たことのない、優しい笑顔だった。
「……ありがとう」
沙耶の反応は、ただそれだけだった。
結局のところ私の思いを受け止めてくれたのか、それとも拒絶されたのか分からないが、ただ、私の気持ちは理解してもらえたのだろうと思う。
私たちは来たときと反対のルートで地下鉄に乗り、一緒に私の部屋へと帰った。
部屋の中に入ると、沙耶は後ろから私の首に腕を回してきた。一瞬、私は彼女に絞め殺されるのではないかと疑うほど、その腕はしっかりとした力を持っていた。
「うれしかった」
そんな、沙耶の細い声が聞こえた。
魂が抜けた状態となった私は、部屋の明かりを点けることもなく、ただ玄関にたたずむのみであった。
私の首を開放した沙耶は、先に立って暗い部屋に入り込み、家主であるはずの私を逆に迎い入れる形となる。そして、私の手を引きながら、彼女は呟くのだ。
「いいよ」と。
彼女の口の動きだけが、薄暗い部屋の中でもやけにはっきりと見ることができた。彼女の白い歯が光っていた。
私たちは、闇に溶け込むように部屋の奥へと進んで行く。
沙耶の髪が揺れ、甘い香りが糸を引くようだった。
もう、私に意識はなかった。全て彼女に任せきってしまった。
ただ二人して、ベッドに倒れこんだ。
そして私は、このときはじめて女性を知ったのだった。




