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私の狭いワンルームマンションに、浅野沙耶がやってきた。
酔った頭でありながらも、私の羞恥心はしっかりと目を覚ましており、彼女を玄関に待たせ、部屋中に散らばる雑誌や食べ散らかしたスナック菓子の袋を乱暴にゴミ袋へ詰め込んでいた。
「なんか、普通なんだね」
沙耶の顔は日本酒により桜色に染まっていたが、動作、言動はまったくのしらふに見える。私の部屋に入り四方を見渡して、少しがっかりした口調で彼女は言った。
「京大出のエリートには、もっとおしゃれで、広々としたマンションに住んで欲しいものよ。ドラマに出てくるようなね」
舐めまわすように部屋の中を確認したが、面白みのある物をみつけられなかったようで、彼女はどさっと私のベッドに腰掛けた。
夢と現実の区別ができなくなっている。この光景は、私が長年求めていたものであった。高校の入学式で出会い、一目惚れしてから丸九年。幾度も幾度も思い描いた理想の姿が、今眼前に広がっていた。私のベッドに腰掛ける彼女。本当にこれが現実なのか、思い切り自分の頬を打って確かめてみたかった。
「ねえ、お願いだからそんなふうに座らないで」
呆れた顔をした彼女が言った。私はなんのことかすぐには分からなかったが、どうやら私は玄関近くに正座していたようだ。
「なに? 酔っぱらってるの? お酒弱いんだね」
足元に転がっていたテレビのリモコンを拾いながら、彼女は笑った。沙耶の笑顔は、悪魔的な魅力を持っている。
「なあ、本気でうちに泊まる気なんか」
私の声は明らかに震えていた。私の動揺が手にとるように伺えたのか、彼女はいっそう明るく笑う。
「もしかして、すごく迷惑だった? 中井君の彼女が怒るとか、大丈夫かな……」
「そんな、彼女なんておらへんよ」
彼女の目に、私はひどく激昂しているように映ったのだろう。沙耶は驚いた表情をみせ、その後また笑い出した。
「そうなの。じゃあ、何も問題ないよね」
笑顔を維持したまま、彼女はテレビをつける。この時間は、多くのチャンネルが報道番組を組んでいるが、彼女は若手芸人が馬鹿騒ぎしているバラエティを選んだ。
「ねえ、中井君お風呂入っておいでよ。仕事で疲れてるんでしょ。私、ちょっとテレビ見たいから」
私はネクタイを解き、上着と共にハンガーへかける。その間、沙耶はテレビをみながらクスクスと笑っていた。
私の部屋に脱衣所といったものはない。部屋から直接ユニットバスへいくことになる。彼女の前で着替えるわけにもいかず、どうするかと悩んでいたときだった。
「中井君、タバコない?」
「ああ、俺吸わへんから……」
「そうなの。じゃあ、部屋で私が吸ったら嫌よね」
「構わへんよ。灰皿はないけど、空き缶でも使ってよ」
「じゃあ、ちょっと買ってくる。すぐ隣にコンビニあったよね。タバコ置いてるよね」
彼女は自分の財布をつかみ、私の部屋を出て行った。そのときはじめて気づいたが、彼女はハンドバックも持っていなかったようだ。
沙耶は私が風呂に入るのに対して、気を利かせてくれたのだろうか。それとも単にニコチンを欲しただけだろうか。
ともかく、この期を逃すかと素早く衣服を脱いでいるそのとき、私は心臓が縮み上がる思いをする。ベッドの上、枕に並ぶように置かれている革張りの分厚い本。それは、高校の卒業アルバムだった。寝る前に沙耶の写真を眺めるのは、私の体に長年染み付いた習慣である。
卒業アルバム自体をみられても、何も彼女に気取られるようなことはないはずだ。私は、沙耶の写真に丸印をしているわけでもなく、付箋を張っているわけでもないからだ。しかし、心のやましさというものはあった。誰しも、自分の知らないところで写真を毎日眺められているということは、気持ちのいいものではないだろう。私は卒業アルバムをクローゼットの奥へと投げ込み、その後急いで風呂へ入った。
熱いシャワーを浴びれば、少しは落ち着くと考えていたが甘かった。私は妄想を膨らまし、この後起きるであろう事態を、なんパターンもシミュレートする。いつもより念入りに体を洗い、最後にいつもは無視している湯垢などを拭取ってユニットバスを出た。部屋の中で着替えができないことを予測して、予め着替えの下着とスエットは持ち込んでいたが、湯気のせいでそれらは湿っていた。
風呂場から出た私の目には、最悪の事態が映っていた。
沙耶がいないのだ。
瞬時に私の脳は混乱する。彼女を思うあまり、終に私は幻覚を見るまでになっているのだろうか。タバコを買いにいくと言って出かけた彼女だったが、それにしては帰りが遅い。私は急いで入浴を済ませたつもりだが、それでもゆうに十分間は経っていた。コンビニからは二、三分で帰ってこられるはずであった。
濡れ髪のまま、私は部屋の中を右往左往し、彼女の痕跡を必死で探した。しかし、元々沙耶は手ぶらで現れたのだ。部屋の中には、何一つ残されていない。唯一、バラエティ番組が流れるテレビがついたままになっている。それだけだった。
本当に夢だったのか。私は自虐的な笑みを浮かべて立ちすくんでいた。
錆付いたドアが音を立てて開いたのはそのときだった。沙耶はコンビニの袋を下げ、私を不思議そうに眺めた。
「そんなに面白い? そのテレビ」
私は不自然に浮かんでいた笑みを振り払い、空咳をする。
「えらい遅かったな」
「心配した? ちょっと雑誌を立ち読みしてきたの。あと、歯ブラシと、下着買ってきた」
それにー、と間を持たせてから、彼女はそれまで背中に隠していたもう一つのビニール袋を取り出す。
「ビールも補充してきましたー」
嬉しそうに彼女が揺らすそのビニール袋は、銀色の缶ビールで膨らんでいた。
「まだ飲むんかい」
「いいじゃないの。明日は休みでしょ」
彼女は乱暴に靴を脱ぎ、テーブルに転がるように倒れこむ。そして、さっそく五百ミリリットルのビールを取り出しプルトップを引き、缶のまま旨そうに喉を鳴らした。その姿は、私が長年思い描いていた成長した浅野沙耶とは若干異なったものであったが、飾らない仕草には好感が持てた。
ほら、と彼女が私に差し出すビールも、シャワーで汗をかいたせいか、とても旨いものだった。
「じゃあ、あたしもシャワー浴びようかな」
長い睫毛に挟まれた瞳が、一瞬だけ私を捉える。その意図を瞬時に汲み取った私は、缶ビールを片手に立ち上がる。
「俺、散歩してくる」
私は、スエット姿のまま外へ飛び出した。これがサンダルであったらそれほど不自然ではなかっただろうが、スエットに革靴はいただけない。変質者の観がある。急いだせいではない。元からサンダルなどもっていなかった。
そんな姿で深夜の散歩へでかけるわけにもいかず、私はマンションの階段踊り場で、所在無く時間を過ごした。持って出た缶ビールはすぐになくなり、私は何もすることができなかった。こんなとき、タバコを吸う習慣がある人間が羨ましく思える。だが、四月の夜風は風呂上りのほてった体には心地良かった。無論熱くなっていたのは、風呂のせいばかりではない。
女性の入浴は時間がかかると聞いたことがあるため、余裕を持って約一時間後、私は自らの部屋をノックした。耳を傾けると、「中井君なの?」という沙耶の声が聞こえたため、慎重に扉を開く。
そこには、Tシャツ姿の沙耶が、缶ビールを片手にテレビを見ている姿があった。
「どうしたの? 貴方こそどこまで散歩してきたの?」
テーブルの上には、既に空となった缶ビールが二本転がっていた。彼女が浴室から出たのは、ずいぶん前だと推測できた。
テレビでは見慣れぬニュースキャスターが、今日の、正確には昨日起きたニュースを無表情で伝えている。私がニュースに目をやると、何故か沙耶は急いで手元のリモコンによりテレビの電源を消した。
「ねえ、ところで私、どこで寝たらいいの?」
それは、私が四月の寒空にたたずむ間、ずっと考えていた問題だった。何もすることがなかった私は、考えることしかできなかったのだ。
彼女に私のベッドを譲り、私が床に寝るのが、まあ順当な判断だろう。しかし、私の寝汗が染み込んだベッドに、彼女を寝かすことに抵抗がある。臭いはしないか、心配だ。
それでも、沙耶を床で寝かす訳にはいかない。友人が泊まりにくることもない我が家には、客用の布団などないのだ。
「一緒に寝ようか」
彼女は薄く笑いながら言った。完全にからかわれていると分かっていても、私の体は素直な反応を示す。先ず顔が真っ赤に染まるのを感じた。
「もう、勝手に寝てくれや」
私は押入れの中から冬用の毛布を一枚取り出し、さっさと床に転がった。座布団を枕にし、きつく目を閉じる。冗談で言った彼女の言葉が耳からはなれず、私は下腹部が熱を帯びていくのを感じていた。もう、立ち上がることはできない。
クスクスと沙耶の笑い声が聞こえ、その後すぐに蛍光灯は消された。
「ねえ、明日どこかへ行こうよ。大阪って、あんまりきたことないんだ。案内してよ」
無論ばれていただろうが、私は寝たふりを続けており、彼女の言葉にこたえることはなかった。それでも頭の中では、明日はどこへ行こうと考える。これが夢でないことを祈りながら、私は重苦しくも心弾む長い夜を過ごすのだった。




