終章
女はカートを押し、店内の食品を集めて廻る。
平日の昼過ぎは、客もまばらで動きやすい。できるかぎり人の目に触れぬように動くことが、最近自然と身についている。
その日に使う予定である肉と野菜は既にかごに入っていた。女は店の奥にある、アルコールのコーナーへとカートを推し進める。
ウイスキーのラベルを吟味して、結局いつも飲んでいるワイルドターキーを二本手に取ったときだった、女は背後から声をかけられた。
「悪い癖を直すつもりは毛頭なさそうだな」
声の主は男だ。それも、スーパーの陳列棚から頭が飛び出るほどの大きな男。
「その節は、どうも」
遠慮がちに女は挨拶をする。しかしその声には刺があり、女の表情も曇っていた。
「いやいや、僕はなにもしていない。全ては、中井君の手柄だよ」
「ええ勿論、彼には感謝しています。それでは」
女は逃げるように話を切り上げてカートを押した。しかしカートは派手な音を立てて止まった。男がその進路に足を出したのだった。
近くの惣菜コーナーで商品を陳列していた店員が反応したほどの音であったが、警備員が駆け寄ってくるほどのものではなかった。
「なんなの?」
「もう少し、お話しましょうよ」
女は観念したのか、手をカートから離しそのまま腕を組む。
「話って、何の?」
「勿論、先の事件についてです」
射すような視線を男へ向けてから、女は周囲を窺った。
「ここで?」
「場所はどこでもかまいませんよ。僕はね」
川とは呼ぶには抵抗がある、汚い水の流れが傍にあった。男と女はその流れに沿った狭い道に立っている。隙間なく建ち並ぶ長屋の向こう側には公園があるのだろう。子供たちの甲高い声が響いていた。
「それで、いったい何を話したいわけ? もう済んだことでしょう」
買い物袋を腕にひっかけ、女はセーラムに火を付ける。
「言わなくても分かるでしょう。あなたは、全て分かっている」
「全てって、いったい何のことなの?」
「とぼけるのは止めましょうよ。僕は、全部分かっているんだ」
「分かっているって、何が?」
「勿論、篠沢誠一を殺したのが、実は貴女だってことです」
女は形のよい眉を寄せて、タバコの煙を男に吐きかける。
「馬鹿なこと言わないで。あの事件は、兄がやったことよ。警察だってそう認めたから、私を釈放したんじゃないの。あなただって見たでしょう。あのときの兄の態度、あれは、自白したのも一緒でしょ。それに、兄は自供だってしているのよ」
「いいえ。救急車の中での邦夫さんの言動は、貴女を庇い、自ら罪を被るための芝居でしょう。ああでもしなければ、邦夫さんは貴女を守れなかったんだ」
「ちょっと! いい加減なこと言うの止してよ。あなた何を根拠にそんなこと言ってるわけ? 事件を解決してくれたのは中井君だし、あなたはただ立ってただけじゃないの。それに、警察に私を捕まえさせたのもあなた。あなた、自分が通報したことが間違いだったことが我慢できないんでしょ。もう放っておいてよ」
「放っておけませんよ。殺人犯を野放しにはしておけません」
「本当にいい加減にして! これ以上わけの分からないことを言うんなら、警察を呼ぶわ」
「だってあのとき、僕と貴女は目が合ったじゃないですか」
女はハンドバッグから携帯電話を取り出しそうとしていたが、その手の動きは凍結した。
「……あのときって、いつの話をしているの?」
「勿論、篠沢誠一さんが死んだ、まさにその瞬間の話です」
女は腰から地面へと崩れ落ちた。ぐにゃりと足首が曲がり、片方のヒールが脱げて転がった。まるで、背骨が抜けてしまったかのような脱力であった。腕にかけていた買い物袋も投げ出され、酒壜が触れ合って大きな音を出した。
「貴女は、記憶障害など起こしてはいなかった。完全に覚醒した目をしていましたね。そう、誠一さんが最後の呻き声を上げたときでした。それまで酔って寝ていたあなたは、一瞬だが目を見開いた。そして、その瞬間に全てを悟ったのでしょう。何者かが婚約者を絞殺しているのだということを」
「ちょっと……ちょっと待って。じゃあ、あなたなの? なんで? 私、本当に兄さんだと思ってた。暗くて、顔はみえなかったけど、兄さんの他にいないもの。誠一さんを殺そうとする人なんて……」
「ようやく認めてくれましたね。実は僕も驚いていたんですよ。貴女は泥酔し、熟睡している予定だった。ウイスキーには睡眠薬も混ぜていましたからね。でも、貴女にはあまり効かなかったようですね。しかし、貴女は婚約者が殺されかけているにも関わらず、声を発することもしなかった」
女の記憶が甦る。あの日、婚約者が風呂に入っているあいだに見つけた、台所に置かれているウイスキーの壜。女はその琥珀色の誘惑にあっさりと負けたのだ。
男は一歩進み、女との距離を縮める。
「誠一さんを殺したのは貴女も同然です。貴女は、目の前で殺人が行われているにもかかわらず、寝たふりを続け、犯人が去った後に偽装工作まで行った。邦夫さんが犯人であると信じた貴女は、一過性全健忘という知識を使い、邦夫さんが密室トリックを行ったかのような状況をつくり上げた。神経内科という職業と、貴女が一環して『憶えていない』と主張することで、警察は邦夫さんが犯人であると推理することを期待したんだ」
女は腰を抜かしたまま、視点の定まらぬ虚ろな目を右へ左へ動かしていた。彼女の中では、世界が逆転していたのだ。今まで見ていた景色が全くの嘘だといわれても、にわかに信じられるものではない。
構わずに男は続ける。
「実際には警察は思いのほか愚鈍で、貴女が目論んだような推理は働かせてくれなかった。それは仕方ないでしょう。あまりに唐突で、無計画な犯行だ。貴女のような若い女性に、そんな症状が起きることも予想しかねる。貴女が突発的に考えた筋書きは、幼稚過ぎて、かつ極めて自己中心的だった。だから僕が、フォローアップしなければならなかったんだ」
「どうゆうこと?」
女の声はかすれ、今にも消え去りそうに弱かった。
「それを説明する前に、一つ教えてください。貴女は何で、お兄さんの邦夫さんを犯人に仕立てたかったんです? 婚約者の命という犠牲を払ってまで、貴女が得ようとしていたものって、何なんです?」
女は呼吸を整えるために時間をかけ、そしてゆっくりとこたえた。
「……自由」
途端、御渦は哄笑する。
「やっぱり、予想どおりだ。でも『お金』というこたえも期待していたんですよ。その方がよりシンプルだ」
「兄は、私を縛り付けたの。中井君が指摘したとおり、兄は境界例よ。依存する相手を常に必要とする。そして、その相手を失うことに異常なまでの恐れを抱く。ずっと、その相手はお母さんだった。でもそのお母さんがいなくなることが分かると、兄は私をその相手に選んだの。私は東京から強制的に連れ帰されて、兄のために生きることを強いられたのよ」
「それは、結局貴女自身の問題だと思いますよ。逃げようと思えば、いくらでも逃げられたはずだ。最悪、警察に保護してもらうという手段もある」
「警察が動いてくれるわけないじゃない。兄は別に私をレイプしたり、殴りつけたりしたわけじゃないわ。兄は、とにかく周到だった……」
一時女の口は止まる。男は辛抱強く、女が再び話はじめることを待った。
「兄はお小遣いを沢山くれた。しばらくはのんびり暮らせって。好きなことをしていいって。ただ、仕事はさがすな、家を出て暮らすようなことはするな、それだけで後は不自由させないって、兄は言った。誰でも楽な方へ進んでしまうでしょ? 私は好きなことをした。でも、友達は皆東京や大阪で働いている。遊ぶ相手がいなければ、結局一人で時間を潰すしかないの。お酒の量が自然と増えた。兄は飲みすぎるなといいながら、いつもお酒を買って帰るの。自分は殆ど飲まないくせにね。全ては用意されていたことなの。私は兄に縛り付けられてしまったの。今回のことは……」
女の声は震えた。
「……そんな兄から逃げられる、絶好の機会だと思ったわ」
一粒、二粒と、女の頬を涙がつたう。今回の事件をとおして、彼女が本当に泣いたのは、このときだけであった。
「一過性全健忘の知識は、お兄さんに聞いていたのですか?」
女は首を横に振る。
「……暇つぶしに、兄の部屋にある本を読んでいたの。そこで知ったわ。でも、こんなことをするために憶えていたんじゃないわ。私はただ、兄から逃げたかっただけ……。あれは、咄嗟に思いついたの……」」
「分かりました。これ以上貴女の不幸自慢を聞くつもりはありません。婚約者の篠沢誠一さんにも、それほど強い愛情を抱いてはいなかったのでしょうね。次は僕が説明しましょう」
「そうよ。なんであなたが誠一さんを殺さなきゃなんないの? わけが分からない」
「僕は、貴女の婚約者を殺すことが目的だったんです」
「だから、何でその、誠一さんを殺したの? 彼に恨みでもあったわけ?」
「何度も言わせないでください。僕は、貴女の婚約者を殺したんです。その婚約者が、たまたま篠沢誠一という人物に過ぎなかった、というわけです」
女はようやく男の顔を見上げた。
「何で? 何で私の婚約者を、あなたが殺さなきゃならないの?」
「中井が、貴女を愛しているからですよ」
「中井君? あなたは、中井君のために、私の婚約者を殺したって言うの?」
「そうです。僕は中井をずっと見守ってきた。だから、彼の苦しみも悩みも、誰よりも理解しているつもりです。彼が最も愛する女性である貴女が他の男と結婚するということは、彼には途方もない苦しみとなることでしょう。はじめは、そんな苦しみを生み出す原因である貴女自身をこの世から消してしまおうかとも考えましたが、やはりそれも彼の苦しみとなります。必要最低限の行動として、貴女の婚約者を殺害するという手段しか、僕には残されていなかった」
落ち着きを取り戻しかけていた女は、男を睨んだ。刺さるような、憎しみがこもった視線であった。
「中井君のこと、大学入試で知ったというのは嘘なのね」
「そう。遥か以前より、僕は彼を知っている。彼に物心がつく前からだ。僕は彼に、世界の意味を教えてもらった。知識だけではない、世界の存在価値というやつをね。彼と出会わなかったら、僕はきっと十歳まで生きてはいなかっただろう。言ったでしょ。僕は、忘れることができない体質なんだ。辛いことも悲しいことも、そして嬉しいこと、楽しかったことも、全部完璧に記憶してしまう。そして、中井との思い出は、とても素晴らしい内容なのです。ああ、こんな話を貴女にしても理解してもらえないでしょうね。僕の中では光り輝いている記憶も、言葉にすると色あせたつまらない物にみえてしまう。ともかく、中井は僕の恩人で、僕はその記憶を少しも欠けることなく持ち続けているわけです。これからもずっと、僕は中井を見守って生きてゆくことでしょう」
楽しそうに遊ぶ子供の声は響き続けていたが、それ以外に音は無く、不思議と自動車も通らない。空は大阪にしては珍しく澄み渡り、遥か上空を、白い飛行機が旋回しているのが見える。
女は空を見上げながら、事件の夜を思い浮かべた。そして、兄が刺されたときの、悲しそうな顔も空に浮かんだ。
「私、警察に言うわ」
「言ったでしょう。貴女はその手で婚約者を殺したも同然なんですよ。どうするんですか? 警察に何て言うんです? 急に記憶を取り戻しました。犯人はこの男です。と言うのですか? 記憶を失ったことも信じてくれなかった警察が、急に思い出したという記憶を信じてくれるでしょうかね」
女は黙り込む。男に反論できないだけの後ろめたさが、女にはあったのだ。
「事件はもう、解決しているんです。この事件は、僕と貴女の共同作業だったと言えるでしょう」
僅かに強い口調で、男は続ける。
「貴女はただ寝ていればよかった。そうでなくとも、僕が出て行った後、鍵をかけるような真似をしなければよかったんです。それが、貴女にとって最良の選択肢だったんだ。それならば、貴女はあれほど警察から疑われるようなことはなかった。警察も、もっと素直にお兄さんのことを疑うことができたでしょうに。あなたは少しやりすぎたんだ」
女はただ、男を睨み続けた。
「しかし、貴女が馬鹿な真似をしてくれたおかげで、僕は中井に手柄を立てさせるという機会に恵まれた。貴女は偶然的に中井と再会したと思っているかもしれないが、全ては僕が仕組んだことです。本来は現場から逃げ出すという予定は、貴女が描いたシナリオにはないものだった。この大阪へ逃げてきたのは、伊藤の指示によるものだったでしょう。この辺りにタナカハルミという彼の女友達がいて、よくしてくれるはずだ、とね。実際にその名前の女性と部屋を、貴女の隠れ家として準備していたんですよ」
女の顔からみるみる血色が失われる。白を通り過ぎた、青い顔で男を見上げている。
「そうして逃げてきた場所で、貴女は中井と出会ったんだ。ちなみに、中井があの時間に電車に乗るように仕組んだのも僕です。まぁ、トイレでノックしただけですけどね。はじめは近所のタナカハルミの家に住まわせて、どこかで中井と出会わせることを予定していたが、同じ電車に乗るタイミングが計れたから、運に賭けてみたんです。同じ車両に乗り、二人が出会ったのは、まさに幸運だったわけだね」
「伊藤さんとあなたは、グルだったわけね」
「グルなんて言い方は心外だな。僕らはただ、同じ目的があっただけ。僕は中井の為に篠沢誠一が邪魔だったし、伊藤は結婚相手のコブが気に入らなかった。彼はとても捻くれた男でしてね、誠実な男が嫌いなんだそうだ。あと、篠沢伸子が持つ家と土地にも興味が有る。ギャンブルでつくった借金が、かなりの額になっているんです。でも、事件当夜以来、電話もしていません。ついでに教えておきましょう。伊藤は、僕に篠沢家の合鍵を貸してくれました。それから、伊藤に指示し、事前にあの家に大量のウイスキーを持ち込ませていたのはこの僕です。近くの公衆電話から時間を見計らって、貴女の家に間違い電話をかけたのも僕です」
女は唾を吐きかけたが、男にはとどかなかった。
「僕は、貴女を中井に再会させることが目的だったのではありません。勿論、二人の間に愛が芽生えることが理想です。少なくとも、貴女が中井に恩を感じる段階にはしておきたかった。そのために、貴女には警察に捕まってもらうしかなかった。二人で逃避行というプランも考えましたが、それは中井の人生に大きな負担となる。貴女が掴まり、それを中井が開放するという流れが、最も好ましい事態の収拾でした。だからこそ、僕は中井を、事件の解決者として導いたのです」
「もう止めて! いいかげんにしてよ。分かったわ。全部あなたの思い通りになったってことでしょ。もう満足でしょ。もう……、もう私を放っておいて……」
ついに涙声となった女を無視して、男は話す。
「いいえ、篠沢伸子の乱入は、予想した以上の結果になってしまいました。僕の計画では、彼女は刺殺することに失敗するはずだった。たとえ伸子がナイフを持って現れなくとも、僕の詭弁で検事を丸め込む自信はあったのですがね。結果として上手くいきました。お兄さんは、確かに境界例という厄介な人格障害でありましたが、貴女という妹を愛していたのでしょうね。彼は貴女の目論見を察して、自ら死を望んだ。そうすることで、貴女から捨てられるということを回避したのでしょうか。捨てられなくとも、死んでしまえば何にもなりませんがね」
女は顔を覆い、嗚咽する。
そして子供のように、声を上げて泣いた。
そんな女の姿を見て、男は満足げに微笑んだ。
「貴女は、僕が真実を伝えるまで、やはり中井に恩を感じていたことでしょう。少なくとも表面上ではね。しかし、それでは駄目なんです。貴女は中井を愛さなければならない。そうしなければ、中井は幸せにはなれないんです」
自分の泣き声が響いていたが、男の声ははっきりと、女の耳に聞こえていた。
「今、中井が手にした幸福は、なんとしてでも維持する。それが僕の願いであり、仕事であると考えています。貴女が中井を愛し、中井が幸せに暮らせるのであれば、僕はもう貴方たち二人の前に現れることもしません。ただ遠くから、見守り続けます」
女は悟った。自由を手にするために婚約者と実の兄を亡き者としたにも関わらず、自分は最も欲していた自由を、永遠に失ったということを。
この恐ろしい男からは、一生逃れることはできないことを。
女の頭には、逆光のせいで真っ黒となった顔が思い出された。黒い顔は黙々と、篠沢誠一の首を締め付けていた。その動きは淡々としており、感情は感じられない。ただの作業として行われている殺人であった。そうであろう、怒りも恨みもない殺しだったのだから。
「中井の愛した人が、アルコール依存症ではいけない。金輪際、酒は断ってもらいましょう」
男は地面に転がった買い物袋の中から、ウイスキーのビンを取り上げた。
「もう僕は行きます。ずっと僕が中井のことを見守っていることを、決して忘れないでください」
男は背を向けて歩き出した。しかしすぐに男は振り返り、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「忘れないでください」
了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
境界例の問題など、もし間違って記している箇所がありましたらご指摘下さい。
勿論、感想・批評もいただければ幸いです。
参考文献
『なぜ記憶が消えるのか』(ハロルド・クローアンズ著/白揚社)
『脳と記憶の謎』(山元大輔著/講談社現代新書)
『神経内科』(小長谷正明著/岩波新書)




