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 人生で一番初めの友のことを、憶えているものだろうか。家族を除き、最初に心を通わせあった友達のことを。

 少なくとも、私は憶えていない。顔も、声も、名前も、存在したのかさえも憶えていない。しかし、第一の友は確かにいたのだろうと思う。ぼやけた黒い影が、私と手をつないでいた。そんな気がするんだ。





 御堂筋沿い、本町駅構内にある黴臭いトイレ。私は毎日夕刻、そこの一番奥に位置する洋式便所に座り込み、空虚な時間を過ごす。

 便座は一部が欠けており、黒いビニールテープを何重にも巻き一時的な補修がなされていた。そのテープ部分が尻に張り付き、座り心地は最悪だ。

 それでも私は仕事帰り、毎日その場に立ち寄った。

 湿気た空気に、遠慮のない芳香剤の香りと、小便の臭いが混じり合う。ときには、酒と吐しゃ物の臭気も加わるその場の空気が、惨めな私の居場所として相応しく思えたのだ。

 しかし、永遠にその場にいることは許されない。今も慌しく戸がノックされている。私は澄んだままの水を流し、居心地のよい空間をあとにした。

 ホームに出て空気の流れを感じると、生駒行を告げる無機質な市営地下鉄のアナウンスが聞こえた。タイミングよく、私が乗る電車が滑り込んでくるところだ。

 白線ギリギリに立つと、生暖かい風が顔に触れた。

 私は、電車がやってくる方向に目を向ける。手に持った文庫本には、全く意識が向いていない。全神経は背中に集中していた。

 誰かが、この背中を押してくれることを願う。勢いよく押された私の体は宙に舞うよう、電車の前に飛び出すのだ。

 警笛が鳴り響いた。

 いつも、この刹那私は祈る。見知らぬ誰かが私をホームへと突き落としてくれるのを。

 しかし電車は私の目の前を通過し、速度を落として停車する。電車の風圧で、私の短い前髪が揺れ、ゆるめていた紺のネクタイがふわりと浮かんだ。

 気落ちしたまま、私はその場にたたずむ。そして、電車から吐き出される人の波により右へ左へと突き飛ばされた。そうしてようやく私は、人々が下車し終わった電車に乗れる。汗と化粧の臭いに押し返されそうになるが、息を殺して足を進めた。

 ドアが閉じ、うねりを上げて電車が動きはじめると、私は慟哭を抑えるのに必死だった。

 死にたい。もう、死にたい。誰か殺してくれ。

 それが私の唯一の願い。他には何もなかった。

 大学を卒業し、無難に就職して一年。営業の仕事にも慣れ、変わらぬ日常が永遠に続くと思われる惰性の日々。同僚たちは営業成績で一喜一憂し、コンパでの出会いに色めき立つ。しかし、私には何一つ楽しいことなどなかった。周りの人間に合わせ笑い、ときにははしゃぐこともあったが、それらは全て演技だった。本当に心を震わせたことはない。正確に言えば、高校を卒業したとき、それ以来、私にはなにもなかった。あったのはただ、演技の上手い空虚な函だ。

 電車は、からっぽの函である私を家へと運ぶ。私は好きでもない推理ものの小説に目を走らせてはいるが、内容は全く頭に入っていない。それはただ、得意先の担当者がこの作者のファンであり、話を合わせるのに便利であるから読んでいるだけだ。

 地下鉄はカーブにさしかかり、連結部が悲鳴を上げる。大阪の町を東西に走る地下鉄中央線は、地図上ではまっすぐな中央大通りの真下にあるが、実際に乗ってみると右へ左へとよく曲がる。これは、どこの都市の地下鉄にも通じるものなのかもしれない。

 車両が緩やかな弧を描くと同時に、私はふらりと二三歩よろけた。左手は文庫に、右手はアタッシュケースにより塞がっていたため、つり革にも掴まっていなかったのが悪かった。私はすぐ後ろにいた人物の足を踏んでしまった。泥に汚れた、赤いラインが入ったスニーカーだった。それが女性のものだと判ったのは、短い悲鳴を聞いたからだ。

「すみません」

 相手の顔を見ることなく、蚊の鳴くような声で私は謝る。その後何事もなかったかのように、私は体勢を整え、再び文庫本へ目を向ける。

 しかし、先にも増して小説には集中できなかった。奇妙な感覚だった。女性の短い悲鳴が、何度も何度も、頭の中で木霊する。

 そうだ。私はその声を知っている。その悲鳴を知っている。忘れはしない。それは、私が愛した女性のもの。白い肌が瞼に蘇った。風に揺れる長い髪。鮮やかな唇。そして、鋭く冷たい瞳。

 彼女にならば、本気で殺されても良いと思っていた。

 その女性が傍にいる。今、私の後ろに立っている。おそらく、足を踏みつけた私を恨めしげに睨み付けているのだろう。

 私の動揺を気にも留めず、地下鉄は森之宮駅に着く。私は冷や汗をかいた。後ろの女性が降りてしまわないだろうかと、気が気ではなかった。

 やがて地下鉄は停車し、買い物袋を抱えた太った中年女性が他の客を押しのけて降りていく。私も押され、自然と体が反転した。

 文庫本を抱える体勢は崩していない。しかし、私の正面には彼女がいた。

 視線を上げることができない。私はただ文庫本の下から、少し汚れた彼女のスニーカーを覗いていた。スニーカーに描かれた二本の赤いラインがやけに目に付いた。

 鼓動が高まる。もう、文庫の文字は単なる記号と化していた。何故か涙も溢れてくる。私はまばたきの回数を増やし、それがこぼれないようにすることに必死だった。

 再び車両は揺れた。私のアタッシュケースが振られ、彼女の足にぶつかる。そのときはじめて、私は彼女がブルージーンズをはいていることを知る。カバンがぶつかった瞬間、彼女は鋭く舌打ちした。

 私の疑惑は確信へと昇華した。まだ顔を見ていないが、確かにその女性だった。喜びと恐怖を、私は同時に感じていた。

「あれ、中井君……」

 声をかけられ、ようやく私は顔を上げる。

 そこには、黒い大きな瞳があった。文字通り目と鼻の先に、透き通るような白い肌が見える。

「やっぱり、中井君じゃない。わたし、憶えてない? 浅野、浅野沙耶。ほら、高校で三年間同じクラスだった」

 無論、憶えていないわけはない。それどころか、この六年間、一日たりとも忘れたことはなかった。彼女のことならば、血液型も生年月日も、食べ物の好き嫌いも、全て憶えている。どれも彼女が他の生徒と喋っているのを立ち聞きした情報であり、直接言葉を交わしたことは数えるほどであるが、一つ一つ、私の脳裏に鮮明に刻まれているのだった。

「……ああ、浅野さんか。憶えてるよ。なんや、久しぶりやね」

 揺れる車両に負けず私は動揺していたが、必死に平静を装った。声も震えていたのだが、地下鉄の喧騒により、目立ったものではないと信じたい。二人の距離が近すぎるため、自分の口臭がとても気になった。

「ほんと、久しぶりね。なに? ネクタイしてるってことは、ちゃんと就職できたんだ。ああそうか。中井君、京大入ったんだよね。世の就職難なんか関係ないか」

 彼女が、私の進路について知っていてくれた。「何で知ってるんや」とすぐにでも問いかけたかったが止めにした。おそらく友達にでも聞いていたのだろう。私は一浪して入学できた口だったが、それでも私のいた高校から京大へ進学できた人間は限られている。極めて地味な存在であった私であるが、進学先の件は彼女の耳に入っていてもおかしくはなかった。

「浅野さんは何してるん? 仕事帰りにはみえへんけど」

 距離が近すぎるせいで彼女の全貌は伺えないが、ジーンズに色あせたパーカー、お世辞にもおしゃれな格好だとはいえない。強いて言えば、近所のコンビニかレンタルビデオ屋へ出かけるようなスタイルである。周りは会社帰りのサラリーマン、OLが多いだけに、彼女は浮いた存在であった。

「私? 私もなんとか大学は卒業できたんだけど、今は無職。お兄ちゃんに養ってもらってるの……。家事手伝いって言ったら聞こえはいいかな」

 頭の中に言葉は溢れているのだが、口から上手く出てこない。私が金魚のように口をパクパクと開いているうちに、電車は次の緑橋の駅に到着しようとしていた。

「あの、俺、この駅なんや」

 自分でも驚くほど淡白な声音だった。嘘を付いてこのまま電車に乗っていたい願いと、すぐにでもこの場から逃げ出したいと欲す二人の私がいた。結局私は、楽な道を選択した。ろくに別れの挨拶もしないまま、電車から降りようとしていた。これまで歩んできた人生そのものだった。

 電車を降りた瞬間私は振り向き、せめて携帯電話の番号を聞こうかと思ったが、後から押し出されてきたサラリーマンに突き飛ばされてしまい、最後の機会も失った。

 扉は無情な音を立てて閉まり、間の抜けた警笛を鳴らして電車は動き出す。私は必死に彼女の姿を社内に探したが、曇ったガラスと他の乗客のせいか、みつけることはできなかった。

 突然の幸運に鼓動が治まらない。しかし同時に、その幸運を自ら捨て去ってしまったことを思い出し、うつ状態へと陥った。なんという愚か者だろうか。その女性と会えなくなったことが、人生における生きがいを失い、自殺を常に考えるような精神にまで追いやられていたにもかかわらず、いざその女性が目の前に現れたら、しっぽをまいて逃げ出してしまう。これほど愚かなことはない。いくら心の準備ができていなかったからといっても理由にならない。自分のことを好きだと思ったことはなかったが、これほど嫌いになったこともなかった。

 拳で頭を三回小突き、私は改札へと歩きはじめた。

「頭良いのに、そんなことしたら馬鹿になるよ」

 弾かれたように私は振り向く。そこには、微笑みながら立っている浅野沙耶がいた。

「あれ、何で、そ……」

 やはり言葉は上手く出てこない。しかし、幸運はまだ続いていたのだ。

「せっかく久しぶりに再会したんだから、どっか飲みに行こうよ。今日は金曜日だし、明日は休みなんでしょ」

 彼女の声を再び耳にすることができただけで、私は幸せだった。その上、誘われもしているのだ。信じる神などいなかったが、私は何かに感謝した。

「でも、もう遅いで。それに君、どこかへいく途中だったんちゃうの」

 この期に及んで、私はまだ及び腰だ。

「いいからいいから。そんなことは心配しないで。さあ、行きましょ」

 沙耶は私の腕に絡みつき、自ら進んで歩きはじめた。私たちはそこから改札を通り、地上に出て店を探したはずだが、その辺はよく憶えていない。私は、完全なパニック状態にあったのだろう。

 気づくと、私たちは一軒の居酒屋に入っていた。そこは、全国どこにでもあるチェーン店で、店員の掛け声が常に響いている騒がしい場所だった。

「じゃあ中井君はメーカーの営業マンやってるんだ。さすが、なんかエリートって感じよね。よくテレビとかで見る名前だもんねこの会社」

 私の名刺と顔を交互に眺めながら、沙耶は話している。

「ね、私よく知らないんだけど、中井君の会社って結局何をつくっているわけ?」

「何って、一言じゃ説明できへんな。建築材料とか家電とか住宅設備とか、正直俺も全部は分かっとらんね。俺のいるセクションは、工事現場のおっちゃんらが使っている工具を担当してるんやけど、分かるかな、電動工具ってやつ。ネジ締めたり、釘打ったりすんの」

「ふーん、なんか分からないけど、お給料も良いんでしょ? 大企業だもんね」

「そんな、バブルの頃やったらどうかしらんけど、今じゃどこもしんどいよ。うちもリストラで、四十歳以上のおっちゃん達はビクビクしてるな」

 内心の焦りを感づかれないように、私は意図的に言葉数を増やしていた。

 金曜日の居酒屋は、全てのテーブルが埋まっている。待たずに座れたことは幸運だった。私と沙耶はカウンターに並んで腰掛けている。彼女の向こう側に座り一人で飲んでいる中年男性が、沙耶の口から滑らかに語られる標準語に対して不快な表情をみせていた。

「この辺りに住んでるってことは、大阪へ引越したのね」

「ああ、京都の実家から通えないこともないけど、遅うなる日も多いしな。それに、大学も実家から通ってたから、一人暮らしもしてみたかったからな」

 嘘である。本当は京都から離れたくはなかった。その方が、沙耶と出会える可能性が高いと信じていたからだ。

「そうなんだ。私はね、高校出てから東京の女子大に行ったの。でも学校の寮に入ったから、一人暮らしはできなかったな。私も一度はしてみたいよ」

 彼女が東京の大学に進学したことは、風の噂で知っていた。私も彼女を追って東京の大学へ進むことを浪人時代に考えたが、結局地元から離れることができなかった。そこまでの行動力はなかったのだ。それでも、お盆や正月といった帰省シーズンには、街を歩く度に彼女の姿を探し求めていた。奇跡的な幸運を期待していた。私が大阪で一人暮らしをはじめたのは、通勤の利便性と同時に、そうした自分の女々しさを改善したかったという理由があった。思い出の詰まった土地で暮らしていては、いつまでも私は沙耶という呪縛から開放されないのではと恐れたのだ。しかし、結局どこに住んでも、私は沙耶を忘れることができなかった。

「君、確か高校進学と同時に東京から引っ越してきたんちゃうかった?」

「ううん。生まれ育ったのは横浜」

 彼女が横浜育ちであることを知っていたが、私はわざと間違えた。人の過去を正確に記憶している人間は気持ちが悪い、君が悪いと感じられると恐れたからだ。

 学生時代を含めて、関東から関西へやってきた人間を何人か知っているが、皆一年もしない間に、多少は言葉に関西弁がうつるものだった。しかし彼女は違っていた。決して周囲とのコミュニケーションをおろそかにしていたわけではない。むしろ友達は多く、男女問わず人気があった。彼女はその中にあって自我を失わず、言葉が訛ることはなかった。影で彼女の標準語に不満を言う一部の女生徒もいないわけではなかったが、それはごく一部に限られていた。

「まあともかく、関東へ戻って、また関西にやってきたわけか。東京で就職する気はなかったの?」

 この質問に対して、一瞬ではあるが彼女の表情が暗鬱なものへと変化したのを私は見逃さなかった。今、沙耶は無職であると言っていた。就職に関する話題をふったことを後悔したが、口に出してしまったのは仕方がない。私は二杯目のビールを口に運びながら、彼女の表情に注目する。

「ま、色々あってね。まあ良いじゃないの。飲もう飲もう」

 明らかに繕った笑顔であったが、私は救われた。

 それからしばらくは、高校時代の思い出話を語り合った。高校三年間を同じクラスで過ごしていながら、二人の会話はこの居酒屋にいる間に行われた方が密度・量共に勝っていた。彼女と共通する話題などないと恐々としていたが、教師のこと、変わった友人のこと、話は尽きないかと思われるほど続く。そして、二人ともよく飲んだ。私はビールを飲み続け、彼女は日本酒を好んだ。

 酒が進んだせいか、私は彼女を観察する余裕も出てきた。格好は先に見たとおり、余所行きのものではない。髪型も寝癖こそないものの、整髪料を使った様子はなく、化粧もしていなかった。声を出して笑うが、どこか表情に影がみえ、時折周囲をさり気なく窺っているようにも見える。

 それよりも先ず、彼女がこの地域にいること自体が不可思議だ。正直、私はいつでもどこでも、彼女の姿を探していた。横顔が似ている女をみれば、正面に回り込み確認する。声が似ている女がいれば振り向いた。しかし実際、偶然電車で出会うなんて幸運はできすぎていると自分でも思う。しかし、本当の幸運というやつはそのようなものなのかもしれない。

 気づいたときは、既に遅かった。時刻は十二時半を回っていた。

「浅野さん。電車、大丈夫なんか」

 京都行きの終電は、京阪もJRも、既に出発してしまっている時間だった。

 青ざめた私とは正反対に、彼女は平生としており、お猪口に残った日本酒を呷っていた。

「うん。もういいの、特にどこかへいこうとしてたわけでもないしね」

 私たちは、ともかく店を出た。会計は私が払ったが、沙耶は酔っているのか、財布を出すそぶりもみせなかった。

「この後どうするの」

 沙耶は髪を掻き揚げ、火照った顔を私へ向けてそう言った。繁華街のネオンを背景としたその姿は神々しいまでに美しく、私の酔いを醒ます。

「家に帰るんちゃうんか? 電車はないかもしれんけど、タクシー代なら立て替えたるよ」

 言った後に気づいたが、私の財布にはここから京都までのタクシー代相当のものは入っていなかった。それでも、近くのコンビニのATMで下ろすことはできる。

 だが、彼女は首を横に振った。

「実はね、私、今日は帰るつもりはなかったの……」

 次の瞬間、私の周囲の時間は間違いなく止まったのだ。

「今日、中井君の部屋に泊めてくれない?」

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