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 沈黙が続いた。

 口を閉ざしてしまった浅野邦夫に対して、警察関係者も声をかけぬわけにはいかなくなった。

 私の推理には穴が沢山ある。先ず、なんら物的証拠を挙げることができていない。その点に関しては沙耶を犯人と決め付ける、否、決め付けていた刈谷検事の推論と何ら変わりないものである。

 しかし、何故沙耶がその場に留まり続けたのかという問題。そして、部屋が施錠されていたという疑問に対して、私の推理はある種の回答を示しているものだと自負している。

 警察関係者は起訴一歩手前という容疑者を連れてきてまで、この場を準備していた。それは、御渦というわけの分からぬ人脈を持った人間による、警察としては予期せぬ事故のようなものかもしれない(無論私は、御渦がどのような手段を持ってこうした場をつくり出したのかを知りもしないが)。それでも、一度動いてしまったからには、警察側としても責任があるはずだ。私の一応は筋が通っている推理に対して、なんら反論を試みない浅野邦夫に対して、このままただ返すわけにはいかないだろう。何しろ邦夫も、立派な事件の関係者なのだから。

 邦夫の乾いた唇が開き、その場にいた者の半数は、邦夫の抗議が始まることを期待した。残りの半数は、彼の告白が始まるものだと見込んでいた。

 しかし、彼の口は再び閉ざされてしまった。

 そしてその瞬間、彼の反論を期待していた半数、つまり警察関係者たちも、浅野邦夫が真犯人であったことを確信したことだろう。

 推理ドラマのように、真犯人が素直に告白をはじめるわけはないのだ。一瞬みせた邦夫の穏やかな顔は、やはり意識が諦めへと移り変わったことを意味していたのだろう。

 床が軋み、何者かが歩み近づいている音がしたのは、まさにその瞬間。誰もが混乱し、困惑し、恐れ、戸惑っていたときだった。

「あんたなの……」

 家の奥から、脱力した女の声が聞こえた。

 一歩一歩、床を踏みしめ、その人物は近づいてきた。

 薄暗い廊下に、やつれた白い顔が浮かび上がる。

 顔の筋肉は弛緩しているのだが、目だけは異ように広がり、強い意志の力を宿している。

 この家の主にして、現在唯一の住人、篠沢伸子であった。

「本当に、あの子を殺したんは、あんたなの……」

 抑揚のない声が、狭いリビングに響いた。

 その場にいた者たちは皆、金縛りにあったごとく動けない。

 何故篠沢伸子がこの場にいたのか、彼女を連れ出した当人である稲生刑事が、最も当惑したことだろう。

「あんたなの……、あんたなの……」

 独り言のように伸子は呟き、繰り返す。そして、浅野邦夫はその問いかけにこたえようとはしなかった。ただ黙り、虚ろな伸子の視線を受け止めていた。

 ほんの一瞬だが、邦夫の視線が妹を捕らえた。私が沙耶と同じ教室にいたときによくやった仕草に似ている気がした。

「誠一君は、うちの妹を娶る器じゃなかった。それは、感じていましたよ」

「なんよ、なんよ器って。私の誠一が、あんたらに何をしたん? 何で、殺されなあかんの?」

「知りませんよ。あなたも、もう死んでしまった者のことは忘れて、さっさと自分の幸せを成就させればいいじゃないですか。そこの人と、結婚するつもりなんでしょ」

「幸せ……幸せ……私の幸せは、誠一なんよ。誠一がいたから、女手一つでも頑張って、人から蔑まれても、一生懸命……」

 伸子の声は、既に聞き取れないものに変わっていた。

 泣きじゃくりながら、母親は歩く。

 伸子の腰の辺りから、銀色に輝く光を私は見た。それが果物ナイフであるとすぐに見分けることができたが、私の口は動かなかった。

 滑るように私たちの目の間を通り、伸子は家を出かけている浅野邦夫に近づいた。

 そして、体を覆うよう邦夫に倒れかかった。

 邦夫は、倒れてきた伸子を支えるために手を伸ばしたが、その表情は苦痛にゆがむ。反射的に伸子を突き放す力は残っていたが、邦夫はその後、立ち続けることができなかった。膝から崩れ落ち、腹を庇うように体を折り曲げる。「ああ」と、力なく呟いた。

 邦夫の腹にはナイフが深々と突き刺さり、白いセーターに黒い染みが広がった。

 体から刃物が生えたような非現実的な光景を前にして、私は笑いを噴出しそうになる。これは、馬鹿々々しいコメディドラマじゃないのか、と。

 ここで、私の聴覚は麻痺する。金属を削るような高音が響き、それ以外には何も聞こえない。

 それが女の叫び声と分かるまで数秒の時間を要す程、私の頭は混乱していたのだろう。

 叫び声を上げたのは沙耶だった。喉の深い部分から搾り出す、本物の悲鳴だ。目と口が、これ以上開かないほど開ききっていた。

「女を確保! 救急車を手配、急げ!」

 検事が声を張り上げる。沙耶の悲鳴に負けぬくらい、大きな叫び声だった。

 女を確保と命じられ、若い稲生刑事は沙耶の腕を掴みかけたが、「そっちじゃない」と今度は山根刑事に怒鳴られる。現場は混乱していた。

 結局、山根が篠沢伸子の身柄を取り押さえたが、彼が動くまでもなく伸子は逃げようとする意図はなかったようだ。それよりも彼女は、もう生きようとする意志がなくなった廃人のように、私には見えた。

 刈谷検事は救急車を呼ぶ為の電話をしながら、うろたえる若い稲生刑事に指示を出す。稲生は前に倒れこもうとする邦夫を支えた。

 私は叫びながら卒倒した沙耶を介護する。彼女は文字通り白目をむけ、ソファーに倒れていた。

 救急車と警察車両のサイレンが同時に遠くから聞こえてくるまで、喧騒は続いた。あちこちの機関に連絡をとる検事、伸子に駆け寄る伊藤と、それを制する稲生刑事、体の支えを失った邦夫が床に転がる。

 誰もが動揺し、そして混乱していた。

 しかしある男は、混沌としたこの家において姿勢を崩さず、ただ一人、皆の動きを傍観していた。

 普段なら誰よりも動きが早く、そして誰よりもよく喋っていた男は、このときはただ静観していたのだ。

 御渦宗茂。

 彼は、緊張と困惑と怒声と悲しみが溢れるその空間において、ただ一人静かに腕組みしていた。右往左往する人々を、それがテレビ画面越しの出来事のように、彼は眺めていた。

 

 私には、御渦は微笑んでいるように見えた。

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