25
約束の時間五分前に、私と御渦は篠沢家に到着した。家の前には、京都府警のパトカーが一台、それに連なって邦夫のアウディが停められていた。既に、役者は揃っているのだろう。
御渦が先に立ち、呼び鈴を押す。すぐに戸は開けられ、四角い顔をした大柄な男が現れた。
「お待ちしていました御渦さん。それと、中井さんですね。もう、皆さんお集まりですよ」
短く刈上げられた頭に、よれた黒いスーツ。テレビドラマなどでよくみられる、典型的な体力自慢の若い刑事がそこにいた。刑事は自分の家のように、私たちを慇懃に導いてくれる。
この家を訪れたのは二回目だ。前回のときは部屋中が締め切ってあったせいで、全体的に暗いイメージを持ったが、今回はまた違った意味で空気が重い。
案内されるほど、この篠沢家は広くない。玄関の後、形ばかりの短い廊下を抜けると、すぐにリビングに出る。このリビングには、多くの人間がいる気配がしていた。
先ず視界に、山のような巨漢が入ってくる。見覚えてのある顔が、ゆっくりと私の方に向けられた。山根だった。沙耶が連行された現場にいた、御渦の知り合いだという刑事である。
山根は私たちがきたのを知ると、脂ぎった丸い顔を人懐っこくゆがめて笑った。
山根は確か、大阪府警の刑事であったはずである。この場にいる理由は分からなかったが、多少なりとも見知った人物がいることで、私の緊張は僅かに緩和された。
次に見えた男は全くの初見である。中学生のように小柄で針金のように痩せているが、肌のつやは若いものではない。銀縁の度の強いメガネをかけており、表情は窺えなかった。
「山根さんとは面識があるよな。その隣の、宇宙人みたいな人がこの事件の担当検事、刈谷さんだよ。それから、案内してくれたこのゴリラは、京都府警の稲生刑事だ」
ゴリラと形容された稲生刑事が苦笑いでこたえたのに対し、検事だという刈谷は、眉一つ動かさない全くの無反応であった。それでも、宇宙人と言われて怒り出さないということは、やはり彼も御渦とそれなりに親しい間柄なのだろうと思われる。
稲生刑事は我々の案内というあまり意味のない役目を終えると、さっさと検事の隣に一歩後退して立った。山根と稲生という巨漢二人の間に立つ検事は、より一層小柄にみえ、人間離れの風貌が際立つ。私はいつか見た、捕獲された宇宙人だといわれる写真を思い出した。
篠沢家のリビングにはアームチェア二脚、ラブチェア一脚の計四人が座れるソファーセットが置かれているが、警察の関係者は誰一人その席に座ろうとしない。ラブチェアには、篠沢伸子の恋人である伊藤重信が一人で座っていた。
私たちに向かって置かれているアームチェアのひとつには、浅野邦夫が足を組んで座っている。リビングに現れた私たちを一瞥したが、すぐに視線を外し、この空間自体に関心がないように窓の外を見続けている。私としても会釈をする気分ではなかったので、好都合ではあった。
そしてもう一つのアームチェアには、私たちに背を向ける形で長い髪の女が座っていた。その頭はゆっくりと回り、私に向けられる。
沙耶だった。
無論、期待していなかったといえば嘘になる。
私は関係者を集めてくれと御渦に頼んだのだ。沙耶は今回の事件における容疑者であり、これ以上の関係者はいないと言えるだろう。
沙耶は髪の毛が乱れており、化粧もしていない。それでも彼女は十分に美しく、私の胸はちくりと痛んだ。
沙耶は私を見て、力なくではあるが優しく微笑んでくれた。
何を意図した微笑みなのだろう。私への謝罪なのか、現状への自虐なのか、或いは後悔なのか、それとも私がこの場にきたことへの安心か、喜びと見るのは自惚れだろうか。
とにかく、沙耶は笑ってくれた。それだけでも、私がこの家にやってきた価値はあった。
「現場検証という名目で、被疑者を連れてきてはいるが、こんなことは特別なんだよ。その辺をまず理解していただきたいね」
口を開いたのはちび検事だった。その外見に相応しい、甲高い声音だ。
「君にはいくつか借りがあるから、こうしたサービスをしているのだよ。早く済ませてくれないか。私も、それに集まってくれたお二人も、暇じゃあないんだからさ」
検事が言う「お二人」とは、浅野邦夫と伊藤重信を指しているのだろう。邦夫はお構いなしに外の景色を眺め続けており、伊藤は警察関係者を前にして恐縮している様子だった。
早くしろと急かされて、私は軽いパニックに襲われる。
「あの、関係者は、これで全員でしょうか」
何の考えもなしに、私は口を開いた。何か言わなければならないという強迫観念から出た言葉だったが、聴いた者は勝手に都合よく解釈してくれたようだ。
「ああ、篠沢伸子さんなら、席を外してもろてます。遺族の目の前に被疑者連れてきたら、そりゃアンタ、えらい面倒なことになりまっせ」
こたえたのは山根だった。
私は忘れていた。この事件は殺人事件なのだ。人の命が失われているのだ。面白半分の推理ゲームではない。そう考えた途端、極度の緊張が私を襲う。もし間違っていたら「すみません」で済まされるのだろうか。相手は本物の警察だ。胃が急速に収縮していくのが分かった。
「なあなあ、早くしてくれって言ってんの」
黄色く尖った声が私の尻を叩く。検事は少し膨れた顔つきで、短い腕を胸の位置で組んでいた。
胃が更に収縮し、胃液が食道を湧き上がってくる。
「心配するな。僕は君の後ろにいる。不味いことになったら、いつでも代わってやるから」
えづく瞬間、御渦の低い声が耳元で囁かれた。その声に救われ、私はパニックに陥らず、深呼吸を一つ入れる余裕を持てた。
何故だろうか。この御渦の台詞は、いつかどこかで聞いたことのある言葉だと思った。遠い昔、私がまだ幼稚園に通っていた時分に聞いたような、そんな気がした。
落ち着きを取り戻した私は、先ほどファミリーレストランで何度もイメージした手順を思い出す。
「あの、私、中井と申します。事件の容疑者になっている、浅野沙耶さんの高校時代のクラスメイトってだけの男です。今日は無理を言って、皆さんに集まってもらいまして申し訳ありません。でも、今回の事件、どうしても納得がいかない点があるんです。その点を、関係者の皆さんと話し合うことができたらと思うてます」
自分の声ではないようなしっかりとした滑舌で、私は語りだすことができた。
「無意味な前置きはいいから、言いたいことを言いなさい」
刺のある口調で検事が促す。私はペースを乱すことなく、話を続けた。
「では早速ですが、事件をはじめから見直してみて下さい。いくつか、不可思議な点がみつかるはずです」
私は不特定の人間に問いかける形で、いったん言葉を切った。しかし、誰も反応してこない。それも、当初の予定通りだ。部屋はいつの間にか完全に静まり返っていた。私は、自分の言葉に聞き耳をたてはじめた人々の顔を意識せぬよう心がける。
「あの日、四月十日木曜日、浅野沙耶さんは兄である邦夫さんに車で送られてこの家を訪れました。その時間を教えてくませんか?」
私は浅野邦夫に向かって質問を発した。何度も警察にこたえている内容であろう。また、私と御渦は一度彼の口からそのこたえを聞いている。それでも手順通りにやらなければ、私はまた混乱しそうだった。
張りのある高音が部屋に響く。
「十七時半前後。浅野邦夫さんは彼女を送り届けるとすぐに帰宅した。自分の家に戻られた時間は十七時五十五分。これは隣家の証言も得ている。時間的矛盾点もなければ、犯行時刻には一切関わりなし!」
代わりにこたえたのは刈谷検事であった。彼の頭の中には、事件に関する全ての情報が時系列で整理されているのだろう。一分一秒の無駄を嫌い、且つ他人の意見を挟む余地を残さない、快活な回答であった。この質問に関しては誰がこたえようが構わなかったので、私はかまわずに言葉を続ける。
「邦夫さんが帰ってから、犯行時刻である十一日の午前零時前後まで、沙耶さんと被害者の二人きりで過ごしたということですが、間違いありませんか?」
「その通り。被疑者と被害者は二人きりでこの家にいた。これは、周辺住人の証言からも明らかなことだ。邦夫氏が出て行って、被害者の母親が帰宅するまで、この家に出入りした人間はいない」
「できれば、彼女にこたえて欲しいのですが」
刈谷検事の話を遮るように、私は言葉を重ねた。検事は何事か言い返そうとしたようだが、御渦が目配せをしたことにより、なんとか黙ってくれた。
「あの、私……」
皆に注目され、沙耶の口は重くなっている。
「浅野さん教えてくれ。十一日の朝を迎えるまで、君は篠沢誠一さんと二人っきりだったのかい? それとも、誰か他の人間が尋ねてきたりはしなかった? これは、とても重要なことなんだ」
「私……、ごめんなさい。何も憶えていないの……」
消えそうな沙耶の声だった。集中しなければ聞き取れない。不意に鳴り出した冷蔵庫のうなり音の方が、リビングに大きく響いていた。
「下らん。何を言い出すのかと思えば、第三者の登場かね。もっとマシな新説を期待していたのだけどね。あの御渦宗茂がセッティングしたということでこれまで我慢してきたが、ここまで下らない話を聞かされるとは思ってもみなかった」
吐き捨てるように、検事は続ける。
「この女は逮捕されてから今現在まで、一貫して黙秘を続けているんだよ。正確には『憶えていない』の一点張りだけどね。これは黙秘しているのと同義だよ。被害者との馴れ初めや、彼女自身の現在の境遇などは饒舌に語るが、こと事件に関しては完全な黙秘だ。邦夫氏に送られてこの家にきたことまでは憶えているが、それから次の日の朝、彼女が被害者の母伸子さんに発見されるまでの十二時間強、彼女は一切憶えていないと主張している。無論、我々としてはこのふざけた、極めてご都合主義的主張を鵜呑みにすることはできず、彼女の黙秘、証言拒否として認識している。つまり、彼女は自分の都合の悪い話は、こたえたくない、というわけだ」
いつ息継ぎをしているのか分からないほど、検事は早口にまくし立てる。しかし私にとって、検事のこたえは十分予測できる範囲のものであった。
「もう一度確認します。沙耶さんは、一切自供をしていないのですね」
「しつこいね君も、そう言ってるじゃないか。確かに彼女は、自供はしていない。だけどね、状況証拠のみでも、立件できる材料は十分そろっているんだよ。今回の事件に関しては、逆に自供してくれないほうがやりやすいくらいだ。犯人である浅野沙耶は、自分でも分からないほどの混乱の中、婚約者を絞殺したんだ。だから、そのときの自分のことを言葉にして説明することは難しい。まぁ、弁護士がこの点をついて、彼女の責任能力を争ってくる場合は、僕としても有罪を勝ち取ることに不安を覚えるけどね。それでも、彼女以外に犯人がいるなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。いいかい君、浅野沙耶は犯行の自供はしていないが、また否定もしていないんだ。彼女はただ、馬鹿みたいに『憶えていない』を繰り返しているだけなのさ。これはもう、私がやりましたってことじゃないのかい?」
検事はそう言うと、隣に立っている山根刑事と目配せして、無理に驚いた表情をみせた。検事の顔には、勝利の笑みが自然と零れ落ちている。
「浅野さん、もう一度だけでええ。本当に何も憶えていないのか? 何でもええんよ。どんな些細なことでも、何でもええ。そのとき誠一さんと交わした会話だとか、見たテレビの内容だとか、本当に何でもええよ」
「ごめんなさい。本当に……本当に何も、何にも憶えていないの。何ひとつ思い出せないの……。ごめんね、ごめんね、中井君……」
震える声で彼女は謝罪し、終に顔を覆って嗚咽した。
私は沙耶を悲しませたくはなかった。できることなら、こんな質問を投げかけたくはなかった。それでも、私は彼女を救い出すため、彼女を泣かせる必要があったのだ。
「もう止めようか。こんなことをしても、誰も喜ばないだろ。君も、不必要に人の傷をえぐるような真似は止めなさい」
刈谷検事は尖ったあごを使い、稲生刑事に撤収の合図を送った。
私は一際大きな声を出し、彼らの動きを制止する。
「待って下さい。今のところが重要な点ですよ。気づきませんでしたか?」
「今のところって、何処?」
検事に指示され、帰る準備をしはじめようとした直後だった。稲生刑事は半身を捻じ曲げた状況で私に尋ねた。
「もうしばらく、私の話に付き合って下さい。話を進めましょう。疑問点についてです。浅野さんが仮に犯人だとするならば、動機はいったいなんでしょう。何故浅野さんが婚約者を殺さなければならないのか。検事さんはその点、どうお考えなんでしょう?」
私は一方的に話を続けることで、刑事たちの注目を強引に得た。そして検事は何の抵抗もなく、私の問いにこたえてくれるのだった。生来、話好きな人物なのだろう。
「動機か。その点は僕も分からない。ただ、十分説得力のある推測は立てられるよ。被害者篠沢誠一さんは、婚約者である浅野沙耶に対して、別れ話でも持ちかけたのだろう。彼女はアルコール依存症という、人生のパートナーとしては選びたくない要素を持つ人間だ。それまでは高ぶっていた感情も、ふと先の長い人生を考えてみたとき、彼女と一緒になっては幸せになれない。そう誠一氏が思い至ったというのは、十分に考えられる。そして事件当夜、彼が被疑者に別れを告げると、被疑者はかっとなり、手近にあった貯金箱で被害者の頭部を殴打する。怒りの治まらない被疑者は、殴打されて半ば意識のない篠沢さんの首を締め上げ死に至らせた。その後彼女は、自分の犯した犯罪に驚愕し、呆然となり朝を迎える。この間、凶器についた指紋などを拭取ったのだろう。被害者の母親に問い詰められた瞬間、はじめて被疑者は恐ろしくなり、現場から逃走する。事件前日までの行動・状況を判断しても、計画的殺人ではなく、あくまで突発的なものと考えられる。我々としても、それほど酷な刑を要求するつもりはない。その点では譲歩するよ」
検事は、沙耶の有罪を信じて疑っていない。論理として脆い部分は、強引な推測で補強した持論を展開した。先ず、篠沢誠一が別れ話を持ち出したという点から非常に曖昧だ。素人の私でも、そう感じられた。
「分かる。君が言いたいことは十分分かる。私の推理には何一つ証拠というものがないと言いたいのだろう。だが、状況証拠というやつだけで、裁判は人を有罪にできるのだよ。また、彼女が中から施錠された部屋の中に死体と共にいたという事実、これはもう既に、浅野沙耶が立派な犯罪者であるという証拠だとは思わないかい? まあ私の経験上、これだけの材料が揃っている裁判で、私が負けることはないだろうね」
上目遣いで私に視線を投げかけたところで、検事の話は一旦止んだ。実際の裁判では、彼の言った論理が通じてしまうのだろうか。裁判風景など、テレビドラマの中でしか見たことのない私にとって、法曹界などは文字通り異次元の話なのだ。検事という立場の男が言うならば、その通りなのだろう。しかし、彼がいったい誰と勝ち負けの争いをするのか、私には想像ができなかった。
「ならばお尋ねします。浅野沙耶さんが明確な殺意をもって、婚約者である篠沢誠一さんを絞殺した、という検事さんの主張ですが、そうなると『何も憶えていない』と言い張っている沙耶さんの証言は、全くの嘘だということになりますが、そう捉えてよろしいですか?」
私は、『嘘』という言葉を強調して、検事に言った。
「勿論、嘘であると考えているよ。仮に彼女が何も憶えていないという主張が正しくても、それは彼女自身が思い出したくないと自分の記憶を閉ざしているだけであって、憶えていようが忘れていようが、彼女が犯した犯罪に変わりはないよ。事実は、現場という証拠が、しっかりと記憶しているのだからね」
自分の言葉が思わず名言になった、と検事は感じたようだ。口元が糸で引っ張られるように、左右へ伸びた。私はようやく、検事が予定していたキーワードを口にしてくれたことで、同じように静かに笑った。
「今のところ、もう一度おっしゃって下さい」
「いいとも、事実は現場という証拠が……」
「そこではなく、もう少し前のところです」
検事は下唇を出して、あからさまに不機嫌な顔をみせる。それでも言われるがまま、記憶を整理するために目を閉じた。
「ええと……、憶えていようが忘れて……」
「もう少し前です」
私の語気は更に強まった。検事は私を睨みつけ、短い溜息の後話し出す。
「彼女自身が思い出したくないと、自分の記憶を閉ざしている。これかい?」
「それです!」
私は検事から向きを代え、沙耶の兄を見た。
「浅野邦夫さん。あなたは確か、神経内科の医師でしたよね。神経内科といえば、記憶に関する諸問題も扱うはずです。その専門家の意見として、検事さんが主張するような、沙耶さんが自ら記憶を閉ざしているような状況、記憶の封印のような状況は、考えられることでしょうか?」
それまで無関心に窓の外を眺めていた邦夫も、我々の話は聞いていたようだ。彼は躊躇することなく、私の問いにこたえてくれた。
「それは、十分有り得ることだ。心的外傷により、一時的、あるいは永久的に記憶を封印するというケースは多々みられる症例だね」
他人事の体を崩さぬまま、邦夫は淡々を述べる。
「ならば、更にお尋ねします。沙耶さんは、妹さんは、実際記憶を失っているとお思いですか、それとも、単なる虚言でしょうか?」
「沙耶の様相を見る限り、何らかの記憶障害を起こしている可能性が高いな。しかし、丸々一晩の記憶を失うってのは、ずいぶん都合の良い記憶喪失だとは思うけどね」
「……それだけ、ですか?」
「それだけって、どいゆう意味かな」
「兄として、言うべきことはそれだけですか?」
私の語気は荒れていた。実の兄ならば、妹をかばうのが当たり前ではないのだろうか。私は最後の機会を彼に与えた。しかし、彼はこたえてくれはしなかった。
声の乱れを正すため吐息をはさみ、私は話を続ける。
「では、二つのパターンで考えてみましょう。先ず、浅野沙耶さんが嘘を付いている場合です。彼女が検事さんの言う通り、婚約者を衝動的に殺害したとします。その後の彼女の行動はどうみますか? 彼女は自分が殺した人間を前にして、部屋を施錠します。そしてその死体と共に一晩を過ごし、翌朝部屋をこじ開けられた後、現場から逃走するのです」
私は一度言葉を止め、集まっている全員の顔を一通り眺めてから続ける。
「これは、とても不自然なことではないでしょうか。いくら混乱していたとしても、殺害したその瞬間に逃げ出すならともかく、彼女は間違いなく一晩を死体と同じ部屋で過ごしていて、その上部屋を内側から施錠しているのです」
「不自然と解釈するのは、君の偏った、被疑者に対しての好意的な見解によるものだよ。犯罪者というものは、ときとして理解の及ばない行動に出るものだよ。数百円分の切手を盗むため、郵便局に強盗に入る間抜けもいるのだよ。まあ、これは結果論だけどね。ともかく、浅野沙耶は衝動的に殺人を犯した後、怖くなったんだよ。彼女は先ず恐れたんだ、自分が犯した罪に対してね。そして彼女はとりあえずその場を隠そうとした。それが、部屋を施錠した理由だと私は見ている。これは、犯罪者によくみられる現象だよ。死体をバラバラにして押入れに隠してしまうのと同じ心理だ。短絡的に罪を犯す者は、こうした極めて幼稚な行動をとることが、多々あるんだよ」
私はわざとらしく深くため息をつき、検事に向かって言い放つ。
「理解の及ばない行動に出る、幼稚な行動をとることがある……。検事さん、あなたの話は犯罪捜査に携わってきた経験の上に成り立った、それなりに説得力のあるものなのかもしれません。だけど私は、もう少し理路整然とした推理を行うことができます」
検事の顔が見る間に赤く染まってゆくのが分かった。低い位置から私を睨み、唇を震わせていた。
「なんでっかなその、理路整然とした推理ってやつは。これは遊びやおまへんで」
怒り心頭で言葉が出なくなっている検事の代わりに、山根刑事が口を出す。無論私も、遊びでこの場に立っているわけではない。
「私の推理は、先に申し上げたパターンの二番目。つまり、浅野沙耶さんが全く嘘を言っていない状況で成り立つものとなります」
それまで顔を伏せていた沙耶だが、このときようやく私の方を向いてくれた。彼女は拘束されてから今まで、やっと自分の話を信じてくれる人間をみつけたのだろう。
「私は、沙耶さんが『憶えていない』と主張することが嘘ではないと確信しています。それは私が、彼女が逮捕される寸前まで生活を共にしていたからです。偶然出会ってからの四日間、彼女は事件について何一つ話してはくれませんでした。彼女が逮捕された直後は、私も彼女に利用されただけなのではと、多少疑ったりもしましたが、今にして思うと、彼女は何がなんだか分からぬまま、私の前に現れたのでしょう。記憶が混乱したままこの家を飛び出して、そして偶然出会った旧知の私に助けを求めた。しかし彼女自身、何から助かりたいのか、どのような危機に陥っているのかを正確に理解していなかった。だからこそ、私に対して何も言わなかったです。否、言えなかったというのが正しいのでしょう」
山根刑事は腕を組んだ姿勢で、黙って話を聞いていたが、困惑の色を顔に浮かべて口を開いた。
「しかし、中井さんも認めましたやん。被疑者はあんたさんと一緒におる間、テレビとか新聞をみせようとしなかった、て」
「ええ確かに、私は彼女と一緒にいる間、新聞やテレビのニュースには殆ど目を向けていませんでした。彼女が意図的に、そうした情報から私を遠ざけていた様子もありました。けどそれは、当然なことだと思います。あのときの彼女は、私しか頼れる人間がいなかった。私のマンションしか、彼女に居場所がなかったのです。彼女は何があったか憶えてはいませんが、何かしらの事件が起きたことは、逃げる際の雰囲気で理解したのでしょう」
「憶えていないのに逃げるってことが、そもそも不自然と感じないのかね」
ようやく怒りを静めた検事が言った。
「それも説明ができます。彼女は逃げたんじゃない。何者かによって逃がされたのです。逃げさせられたと言い換えてもいい」
「なんだいそりゃ。逃げさせられたって、無理やりに、逃げなきゃならん状況になった、ゆうことですか?」
今度は稲生刑事が、目を丸くして問い返す。
「その通り、彼女は逃げなければならないと言われたのでしょう。そうですよね、伊藤さん」
私の視線の先には、俯いたまま、死んだように動かない伊藤重信が座っていた。
この男しかいないのだ。一度、前にこの家を訪れたとき、既に御渦が問い詰めていた内容を私はなぞっているに過ぎないが、私も熟考した結果、あのとき沙耶を逃がすことができた人物は、彼しかいないと判断した。そして、何者かが逃がさねば、彼女は絶対その場から逃亡するようなことはなかったのだ。
彼は、目を閉じたまま、深い瞑想に入っているようにも見受けられる。しばらくの間沈黙が続き、その場に集まった人間全員が、伊藤の反応を待っていた。
「……そうです。沙耶ちゃん逃がしたんは、私です」
呟くような小さな声だったが、あまりに部屋が静かになっていたせいか、私の耳には伊藤の言葉がはっきりと聞こえた。多分、皆が聞き取っただろう。その証拠に、刑事二人とその間に挟まれていた検事は、揃って目を見開いている。
「何を今更言い出すんですか。あんたは今まで、そんなことは何も言わなかったじゃないですか!」
検事が声を荒げた。しかし伊藤は、悪びれることなく証言をはじめる。
「私が戸を破り、放心した沙耶ちゃんと、死体になっていた誠一君をみつけました。そのとき咄嗟に思ったんです『何かおかしい』って。沙耶ちゃんの様子はただごとではなかったし、伸子も狼狽していた。伸子が警察、救急車と叫びながら二階から転げ落ちるように降りていってから、私は沙耶ちゃんに言うたんです。逃げなさいって。自分でもよう分かりませんが、あの状況から彼女が疑われるのは明確です。でも、私は沙耶ちゃんも誠一君もよく知っていましたので、彼女が誠一君を殺めるなんてことは、ありえないと思ったんです。だから咄嗟に、財布に入っていた二万円を彼女に握らせて、家から追い出すように逃がしたんです」
伊藤はゆっくり顔を上げ、驚いたことに私の目を凝視した。
「この人と同じですわ。私も、沙耶ちゃんが嘘を付いているとは思えなかった。何か別の、よう分かりませんけど、何か別の理由があって、沙耶ちゃんは二階の部屋におったんだと思います。けして、彼女が誠一君を殺すような、そんな馬鹿な話はありえません」
二階の部屋という言葉に反応し、私は所々にシミが浮かぶ古い天井を見上げてしまった。この視線の先において、人が殺された。そう思うと、改めて背筋に冷たいものを感じる。私は、殺された篠沢誠一の霊がまだ家にいて、私たちの会合を傍聴している様を想像した。
「よろしい。浅野沙耶がこの場所から逃亡した理由は、そうして逃がされた結果だと認めましょう」
検事の顔は弛緩していたが、すぐに鋭い視線を取り戻し、私を睨みつけた。
「しかしやはり、何もしていなければ、逃げろと促されても彼女は逃げなかったでしょう。つまり、浅野沙耶は自らの後ろめたさに加えて、背中をちょっと押されたに過ぎない。彼女が逃げようが留まろうが、彼女が最も疑われる存在に変わりはないでしょう」
どうですか皆さん、といわんばかりに、検事は手を広げて集まった者たちに問いかけた。検事の言葉は正論だが、私はまだ核心を語ってはいなかった。
「確かに、後ろ暗い気持ちがあったなら、逃げる機会を与えられれば逃げ出すでしょう。しかし、沙耶さんは逃げる時間はそれこそ十分あった。逃げようと思えば、いつでも逃げられる状況にあった。しかし彼女は留まっていた。否、留まることしかできなかったのです。なぜなら、彼女は今自分がどこにいるかも判断できない状態にあったからです」
御渦と、もう一人の男以外の顔が、一斉に困惑した。私の言葉の意味が全員には伝わっていないようだった。
「沙耶さんは、何も記憶できない状況に陥っていたのです。彼女が事件のことについて、何も憶えていないと証言しているのは、彼女がそのとき、何も記憶できていない状態にあったためです」
私の言葉が途切れると、しばし沈黙が訪れた。警察関係者は私の話を咀嚼しているようだが、誰も理解には至らないようだった。
「記憶できていない状態とは、どんな状態なんです? さっぱり分かりまへんわ」
静寂を破ったのは山根刑事だ。
「言葉通りの意味ですよ。過去の記憶が無くなってしまうような記憶喪失ではなく、新しい情報を一切受け入れなくなっている記憶障害です。つまり、その状況に陥った者は、時間が停止したことと同じ現象が起きたと感じるでしょう。我々がこうして話をしていることも、いわば記憶を積み重ねていることであります。私が少し前に言った言葉を、誰も記憶してくれていなければ、それは私が何も言っていないに等しい。そりゃ、どうでもいい話であれば、二三日で皆忘れてしまうような内容であっても、そのとき、その瞬間には記憶されているものです。そうでなければ、人間の世界に会話というものは存在しなかったことでしょう」
私はおもむろに尻のポケットから財布を取り出し、目線の高さまで持ち上げてから、床に落とした。静まり返っていた部屋の中に、パタンと乾いた音が響く。
「今私が落とした財布を、皆さんご覧になりましたね。私が財布から手を離す瞬間も見ていたはずです。よって、今床に落ちている財布が、どうしてそこに転がっているのか、皆さんには理解できている」
「当然やないか。そない当たり前のこと、何でたいそうに説明してんねや」
多少苛々した顔をした山根が言った。
「そうです。当たり前のことです。しかし、記憶ができない状況に陥った者にとっては、これが当たり前ではなくなってしまう。私が財布を落とした瞬間を見ていても、それを記憶に留めておくことができないので、その後床に落ちている財布を見ても、どうしてそれが床にあるのか分からないのです」
検事が短い手を挙げて、一端私の言葉を遮った。
「君が言いたいことは分かるよ。そりゃそうさ。記憶ができない状況に陥ったら、確かに時間が停まったように感じるのかもしれないね。君は、浅野沙耶がそんな状況になってしまったと言いたいのだろう? しかしね、いくら彼女が『憶えていない』と主張しているからといって、そんな都合のいい話はないだろう。それに、今の彼女は気落ちしているものの、至って健康に見受けられるがね」
刈谷検事はゆっくりと部屋の中を移動しつつ、話を続ける。
「そして君の推理とやらは、彼女が事件の現場に居合わせながらも、そして犯行後婚約者の死体を前にして一晩を過ごしたのも、彼女が記憶障害を起こし、目の前で起きた事が理解できなかったからだと、そういうことなのだろう」
「簡単に言えば、そういうことです」
私が認めると、検事は困ったような、それでいて笑っているような、複雑な顔をみせた。
「先ず、そんな都合の良い記憶障害があるのかね。記憶喪失なんて話は、君が好きな二時間ドラマでよくみかけるが、一時的に起こる障害なんてねぇ……」
私は別に二時間ドラマが好きではないが、検事に対して説明を続ける。
「一時的な記憶障害、ありますよね。この場には幸いにも、その専門家がいらっしゃいます」
私の問いの先には、ソファーで足を組んでいた浅野邦夫がいた。邦夫はもう外の景色には興味を失っており、私の話をちゃんと聞いていたようだ。
「まぁ、ありますよ」
神経内科は軽い口調でこたえた。その瞬間、検事の頬がピクリと痙攣するのを私は見逃さなかった。
「正式には『一過性全健忘』と言います。一時的な健忘、つまり記憶の喪失が起きるケースとして、交通事故やボクシングなどの激しいスポーツによる脳震とうによる記憶喪失と、今言った一過全健忘があります。一過性全健忘の特徴は、脳にダメージを負わずとも起きるというものです。専門家と紹介されたのに恐縮ですが、これが起きる要因はまだ研究途中にありまして、厳密には解明されていません。ビタミン不足、脳血管障害が理由とも言われていますが、決定的な原因を、今の医学会は提示できずにいるのです。一時的なものという、それほど深刻な症状でもないので、研究する者が少ないというのも要因でしょうね。ただ、症例は多々あります。それほど珍しいものでもありません。普通は、三十歳以上の中高年世代に起きる症状で、数時間から半日程度、記憶が全くなされない状態に陥ります。ただ、これによる後遺症などはなく、概ね再発することも無いようです。一回睡眠をとると完全に回復しますが、症状を起こした期間から、悪くすると数週間の記憶を失います」
抑揚のない口調で、邦夫は説明を行った。
「三十歳以上の中高年に起きる症状ということですが、二十歳代での症例はないのでしょうか」
「詳しくは資料をみなければ分からないけど、あったとは思うよ」
私に対して邦夫は、敬語を忘れるようだ。
「ならば、沙耶さんが事件当夜、その一過性全健忘となった可能性はあるというわけですね」
「可能性のあるなしで言うならば、今ここにいる人間が、いつ記憶障害を起こしても不思議じゃあない。先も話した通り、原因は分かっていないのだからね」
パンと、唐突に手が一度叩かれ、狭いリビングに乾いた音が響く。手を叩いたのは刈谷検事だった。
「分かった分かった。よくもまあ、そんな珍しい病気を探し出してきたものだよ。感心した。でもね、それはやっぱり、都合の良い辻褄合わせに過ぎないね。君の推理だと、彼女は自分の恋人が殺されるのを目の前にしながらも、記憶障害を起こしていたため、それを理解・記憶することができなかったというわけだ。今邦夫さんがおっしゃった通り、確かにそうした病気があるのだろう。しかし彼女がそうした記憶障害を起こしたとしても、何故君の言う真犯人は、彼女をそのままにしておいたんだい? 殺人現場をみられていたのにだよ」
「検事さん、それは順序が違います。被害者の篠沢誠一さんは、沙耶さんが一過性全健忘となったが故に、殺される結果になったのです。つまり、犯人ははじめから、沙耶さんが記憶できない状況にあることを予め認識していたのです。沙耶さんが記憶障害を起こしたことで、犯行に至ったのです」
私が言いたいことは、検事には理解できたのだろう。刈谷検事は急に顔を強ばらせた。
「つまり……君が言う真犯人は……」
「はい、浅野沙耶さんの兄、浅野邦夫さんです」
私の声は僅かに震えていた。
途端、高笑いする声が室内に響く。私に名指しされた当人、邦夫の笑い声だった。
「話の途中からさ、凡そ検討はついていたけどさ、まさかそんな直球で言われるとは、思っていなかったよ……」
邦夫はゲラゲラと笑っていた。笑いすぎて、目には涙を浮かべている。
「検討がついていたということは、自覚、つまり罪の意識があったということではありませんか?」
「馬鹿も休み休み言ってくれ。君ははじめから、記憶について執着していた。沙耶が何も憶えていないという言葉に拘り、これを起点として今回の事件を再構築しようとしていた。その結果辿り着いたこたえが『一過性全健忘』だ。そして、この比較的珍しい症例に詳しい私に対して白羽の矢を立てているわけだよ」
邦夫の高笑いは止んだが、その笑顔は維持されたままだった。
「まあ面白いから、最後まで話してみてよ。その上で、私としての対応をさせてもらおう。勿論、法的手段も含めて、対応させてもらうよ。幸い検事さんもいることだ、大いに相談させてもらうよ」
私は脅しに怯まず、再び口を開いた。
「では話しましょう。沙耶さんが一過性全健忘になったことは、全くの偶然だと私は考えています。原因の分からない病気は、さすがに専門医である邦夫さんでも、意図的に起こすことはできないでしょうからね」
邦夫は笑みを浮かべたまま、黙って私の言葉に耳を傾けている。
「邦夫さん。事件当日、あなたは沙耶さんを送り届けてから、確かに一度帰宅している。そして今は苗字の変わった母親と二十三時過ぎに自宅の電話で話もしている。この点に疑いはありません。しかしあなたは、母親との会話の後も、電話を受けている。私があなたの家を訪れたときに聞きました。そのときあなたは、その電話が間違い電話だったと仰いましたが、果たしてそれは真実でしょうか」
「誰からの電話だと言うんだい?」
邦夫の目は充血していた。
「電話は、篠沢誠一さんからだったのではありませんか?」
「馬鹿な。なんで彼が私に……」
既に邦夫から笑みは消えていた。
「被害者である篠沢さんは、沙耶さんが異常な状況に陥ったことを、兄であり医者であるあなたに知らせてきた。救急車を呼ぶよりも、そのほうが適切な判断が仰げると思ったのでしょう。何しろ沙耶さんはアルコール依存症という状況下にある。以前にも似たような症状が出ていれば、邦夫さんが知らないはずはないと誠一さんが考えたというのは、容易に想像できます。電話で手短に沙耶さんの症状を聞いたあなたは、それが一過性全健忘であることを認識した。篠沢さんが語った内容はおそらく、『何度も同じことを質問する』『時間を何度も聞き返す』『今どこにいるのかを理解していない』、といった内容でしょう。そして、あなたはこう言った。『今車の調子が悪いから、迎えにきて欲しい』とね」
邦夫の表情は、憎悪に満ちたものに変わっていた。
「よくも、よくもまあ、そんなつくり話を考えたものだ」
「自分の車は目立ち過ぎる。なんとかして周囲に気づかれず、篠沢家に辿り着くため、あなたは邦夫さんに自分を送らせることを思いついたのです。多分、夜も遅いから、家から少し離れた場所で待っているようにと指示したのでしょう。篠沢さんの車はごく普通の国産セダンです。目立つことはない。そうしてあなたは、犯行時刻に十分間に合う時間にこの家に戻ってきた」
「いいかげんにしろ!」
邦夫はソファーから立ち上がり、私に飛びかかってきた。ついに、我慢の限界がきたのだろう。邦夫はテーブルに躓きながらも、私の顔を殴りつける寸前まで迫った。しかしその動きは、丸太のような太い腕に止められる。
「まあまあ、最後まで聞いてやりましょう」
片手で邦夫を押さえつけながら、山根が言った。山根は顔だけを向けて、小さくうなずいた。それは私に対してではなく、私の後ろに控えている御渦に対しての合図のように見えた。
「この家に到着し、沙耶さんの症状を自分の目で確認したあなたは、それが一過性全健忘であることを確信した。そして、予てより計画していた、否、希望していた妄想を実現できる機会であると判断した。あなたの妄想とは、あなたが与える罪と罰なのでしょう」
「黙らせろ! そいつを黙らせろ! そいつの方こそ妄想だ」
邦夫が咆えたが、体は山根が押さえつけている。万が一のことを考えてか、稲生刑事もすぐに動けるように身構えていた。
「自覚しているのかしていないのか、私には分かりませんが、邦夫さん、あなたは境界例ではありませんか?」
「キョウカイレイ? また聞き慣れない言葉が出てきたな」
腰を低く保ったままの姿勢で、稲生が呟いた。
「君、犯罪捜査に関わる人間ならば、境界例ぐらい知っておかなければならんよ」
すかさず、検事は叱咤する。
「境界例とは一つの人格障害の名称です」
私は御渦が渡してくれたレポートを思い出しながら、説明を続ける。
「健常者と人格障害者の境界線は、簡単に線を引くことができませんが、アメリカでつくられた精神疾患の診断マニュアルにDSMというものがあります。このDSMによると、人格障害は十種以上に分類されています。これらを見ると、人間は誰しも、何らかの人格障害を持っているようにもみられます。例えば、自己愛性人格障害というものは、芸能人の追っかけをやっている人は皆該当するような気がします。世の中には特別な人がいて、その特別な人に近づくことで、自分も特別な存在であると錯覚するというものです。私が思うに、健常者と人格障害者の線引きは、他人に迷惑をかけるか否かであります。芸能人の追っかけにしても、自分の余裕がある範囲内でそれを行っている人は健常者で、親兄弟、果ては消費者金融に借金をしてまで追っかけをしている人は人格障害と呼んで言い過ぎではないと思います。人格障害のやっかいな点は、それを本人が自覚しているケースが極めて稀であること、そして、肉体的な疾病に比べて、必ずしも入院や治療が必要ではないということがあります。これはつまり、周りの人間が我慢するということにより、多くの場合問題や事件に発展しないからです」
私は説明をしながら、自分はどんな人格障害に分類されるのかを考えた。先日読んだ御渦のレポートには、『回避性人格障害』というものがあった。何事からも逃げていた私は、これに分類される気がする。しかし、ここまできたら、私にもう逃げる道は残されていない。
「境界例とはそうした人格障害の一つとして区分されているものであります。簡潔にこの人格障害を説明すると、それは『他者への依存する度合いが異常である』ことです。勘違いをしないよう予め言っておきますが、これは愛情ではありません。この人格障害者は、とにかく、精神的に依存する相手に、見捨てられることを極度に恐れます。それを回避するために異常な努力をすることが特徴です」
私は頭の中で、何か見落としている点はないかを確認しながら話を進めた。矛盾点はないか、検討違いな発言をしてはいないか。私の言葉に耳を傾けている参列者の表情からは、何も伺い知ることはできなかった。皆、私の言葉を理解することで必死なようだった。ただ一人、怒りの形相をした浅野邦夫を除いては。
「境界例となるには、その人物の成長過程において原因があるといわれています。特に、母親との関係が重要だと言います。通常、人は生まれてから時を経るにつれ、親とは順次距離をとっていくものであります。乳飲み子のときは完全に母親に依存していますが、それが離乳食を食べ、オムツも外れ、幼稚園・学校へ通い、大学では家を出て下宿し、そして就職して経済的にも自立することとなる。しかし境界例の場合、この親と子の距離をとる過程が上手くいかない。親が、子供が自立して行くことを邪魔する傾向にあるのです。境界例となる人物の母親は、子が自分で何かを成し遂げようとすると、横からその邪魔をする。母親がいなければ、何もできない子供につくり上げてしまうのです。これは、二十歳を過ぎても自分の着る服を親に選んでもらうといった、いわゆるマザコンも含まれるのでしょうが、私が今言っている境界例は、これが精神的に行われている状態を指します。母親は、言うことを聞かなければ捨ててしまうよ、と子供に対して見捨てられる恐怖をあおり、自分の支配下に置くのです。その子供は、見捨てられる恐怖を抱きながら成長し、終には、人に見捨てられることを極度に恐れる、境界例が出来上がるわけです。浅野邦夫さんの母親、夏子さんの話も聞いてきましたが、彼女には境界例の子供をつくる要素が多々みられました」
「私も専門医ではないが、お前のような素人に人格障害の講義を聞かされなくても、それがなんだかは知っている。もっと簡潔に結論を語ることはできないのか」
三度邦夫が吼えていた。邦夫のみならず、他の警察関係者一同も話の収束を望んでいるような顔をしていた。
「分かりました、結論から先に述べましょう。その後、その理由を話します。反論はそのときに聞くことにします」
そこで一呼吸の間を空けてから、私は続ける。
「この家に到着し、妹である沙耶さんの症状を確認し、彼女が一過性全健忘、つまり一時的に記憶を行えない状況に陥っていることを確認したあなたは、沙耶さんへの復讐を行うことを決意した」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ。被害者は篠沢誠一やで。篠沢誠一への復讐ではないんかい」
山根刑事が目を丸くして言った。
「そうです。これは、沙耶さんに対しての復讐です。被害者はあくまで、そのとばっちりを受けたに過ぎません。浅野邦夫さんは、境界例という人格障害でありまして、彼は妹である沙耶さんに依存していた。そして、彼女に捨てられることを異常なまでに恐れている。それを回避するためには、気違いじみた行動をとるのです。繰り返しますが、これはいわゆる、近親相姦ではありません。邦夫さんは、兄として妹である沙耶さんを愛しており、それは性的なものではない。しかし、依存しているのです。本来これは、母親である夏子さんに向けられたものでありましたが、それが妹の沙耶さんへ移っているのです。移ったというより、彼が移したのでしょう」
邦夫の表情が一層険しくなっていた。
「話を結論へ進めましょう。細かな説明は後で行います。ともかく、邦夫さんは沙耶さんへの復讐を実行します。ただしこの復讐は、沙耶さんを傷つけるものではありません。これが話を複雑なものとしているのですが、邦夫さんは沙耶さんに依存しているわけであり、その依存対象を殺したり、肉体的に傷つけることは自分の首を絞めることと同義となるのです。要は、彼女が自分から離れる、彼からすれば自分を捨てようとしている彼女を許せなかった。しかし反面、彼女を必要としている。その結果の復讐でなければならない。そこで彼が考えた復讐は、沙耶さんを殺人事件の容疑者に仕立てることだったのです」
「よう分からんな。あんたの話では、この邦夫さんは、自分の元から離れようとしている妹を繋ぎ止めようとしたんやろ。殺人犯として逮捕されてもうては、結局自分の側から離れてしまうやないか。殺すのと一緒やないか」
「邦夫さんは、肉体的に沙耶さんへ依存しているわけではありません。あくまで精神的になのです。それは距離が離れていても関係ありません。肉体的な依存、つまり、性の対象として求めていたのならば、沙耶さんが刑務所の中に入ってしまっては元も子もありませんが、彼の場合は精神的に求められれば、それでよいのです。沙耶さんが頼る相手が、自分であればよいのです。おそらく、差し入れや手紙のやりとりだけで、彼は満足できるのでしょう」
「話を先へ」
検事が冷静な声で促した。私の話に興味を持ちはじめている様子だ。
「では、具体的に彼が何をしたのかを話しましょう。邦夫さんは、篠沢誠一さんの隙をついて、先ず頭部への一撃を加えます。これは、警察の方の実況見分の通り、部屋の中にあった貯金箱を使ったのでしょう。そして、誠一さんのベルトを使って首を絞めた。邦夫さんが篠沢誠一さんを殺している間、傍には沙耶さんがいたのでしょう。その一部始終を彼女は目にしていたはずです。しかし、彼女はその光景を記憶することができなかった」
このときには邦夫は咆えるのを止め、ただ、鋭い目つきで私の目を凝視していた。
「篠沢邦夫さんを殺害してから邦夫さんは、今回の事件の最大の謎であり、沙耶さんを事件の容疑者としている唯一とも言える理由、施錠された部屋、いわゆる密室の作成を行います。皆さん、殺害現場の部屋の鍵を思い出してください。部屋を施錠する内側からドアノブの中央のボタンをプッシュするだけの、いたってシンプルな構造でした。それでも、これを外から行うことは、何かしらのトリックでも使わなければ不可能のように思われます。今回の事件に関しては、例えば機械や糸を使ったような、推理小説に出てきそうなトリックはありません。もしそのような仕掛けがあったら、先ず警察が何らかの痕跡を発見するでしょうし、また、沙耶さんが一過性全健忘となったことで実行された殺人に対して、邦夫さんがそのようなトリックの準備をしていたというのも現実的ではない。では、どのように部屋を施錠できたのでしょうか」
私はその場にいる警察関係者を見渡した。山根刑事も稲生刑事も、私の視線を受けると気まずそうに目を背けた。しかし、検事だけはまっすぐに私の目を見据え、自信たっぷりにこたえた。
「彼女が施錠したのか」
検事は、親指で沙耶を指しながら言った。
「そうです。施錠したのは沙耶さんです。沙耶さんは自ら、自分を容疑者としてしまう状況をつくり出してしまったのです」
その言葉に最も驚いていたのは沙耶であった。目を見開き、瞳孔が広がっているようにも見えた。無理もない。彼女にはそのときの記憶が一切ないのだから。
「ちょっと待って、この人は、記憶ができない一過性なんたらで、カカシみたいな状態やったんとちがうか? いくら単純な構造やゆうても、カカシには何もできまへんで」
額に汗をかきながら、山根が言った。もう邦夫を押さえつけてはいなかった。邦夫は怒りが治まったようにはみえなかったが、私に飛び掛ってくる様子は既に無かった。
「カカシではありません。記憶が残せないというだけであり、その他は健康なんです。一過性全健忘となった代表的な例として、アメリカのある外科医が、胆のうの摘出手術中にこの症状を起こした、というものがあります。彼は手術中その助手に、ここはどこだ、今何時だ、胆のうは摘出したのか、と何度も何度も尋ねたそうです。そんな状況下にあっても、助手の手助けもあり、彼は無事にその手術をやり遂げました。記銘という、記憶を新たに入力する機能が働いていなくても、それまでに蓄積されていた記憶の想起、つまり、何かしらを思い出すという機能は働いていたのです。沙耶さんについても、同じことが言えると思います。彼女は目の前で起きた殺人事件は記憶に留めておくことができなくても、耳も聞こえていたし、ドアノブの中心を押して鍵を閉めるという行為も憶えていた。邦夫さんは現場の部屋を出て、外から沙耶さんに指示を出したのでしょう。『鍵を閉めろ』とね」
各々が私の言葉を租借するために、沈黙がしばらく訪れる。私は全ての人間が理解するのを待った。いいや、私は彼らがそれぞれ、当時の現場を思い描くことを待っていたのだ。私の描いたシーンを、皆がそれぞれの頭の中で思い描いている。ドア越しに指示を出す兄邦夫に従い、うつろな目をした沙耶がドアノブのボタンを押す様を。きっと、何度かは失敗しただろう。私は実際に、一過性全健忘となった人間を見たことはないが、おそらくカカシに近い状態なのだろう思う。
静寂を破ったのは、荒々しく立ち上がった浅野邦夫であった。
「もうよろしいですかね。私は暇じゃあないんだ。そろそろ帰らせてもらいます」
大股で玄関に向かった邦夫の歩みを止めたのは、細い女の声。それまで、単に質問に対して脅えたこたえを続けていた沙耶は、ようやく自発的に言葉を発した。
「兄さん待って。今の話、中井君の話は本当なの?」
兄はただ、妹を睨み付けた。私を含め、その場に居た者は皆、怒声か罵声か、または理路整然とした反論を邦夫が行うのだろうと予想していた。しかし、彼はただ黙って、妹を睨み返すのみであった。
「兄さんこたえてよ。本当なの? 今の話は、本当なの?」
終に沙耶は叫びだした。叫びと化した沙耶の問いかけに対しても、邦夫は黙ったままであった。
暗黙の了解という言葉を、私は連想した。私だけではない。警察関係者も含め、誰もが邦夫が真犯人であることを、そのとき確信しただろう。
妹を睨み続けていた邦夫の目から、ふっと力が抜ける瞬間を私は見た。
その目は怒りから、穏やかなものへと変貌した。
全くの別人が、瞬間的にその場に現れたような錯覚を起こすほど、その変化は大きなものだ。
私は自問する。彼の顔つきは、どのような心理を描写しているのだろう。
諦めか、後悔か、失望なのか。
どれでもない。彼の目が語っているのは、妹への愛情。それも見返りを求めない、慈愛の目だった。




