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三日ぶりに出社したオフィスでは、私に対して誰もがどこかよそよそしく見えた。
自分のデスクに座る前に、上司に呼ばれる。小言を頂戴することを覚悟したが、課長は私の体を心配したのみであった。元気ですとこたえると、課長は馬鹿みたいに笑って私の背中をバシバシ叩いた。何がそんなに面白いのか理解できない。
私は自分でも驚くほどの集中力をもって、次々と仕事を片付けた。午前中に溜まっていた取引先からの問い合わせメール七件と先週の伝票を処理し、午後には課長と共に代理店を訪問し、第2四半期における販売目標数値を決定させた。
私は、心身ともに充実していた。はじめて仕事を楽しいと感じ、達成感も覚えた。
明日に対する期待が、私の心を軽くしていたのだろうか。
自分の将来に広がる景色が、これほど明るく見えたことはない。被害者には申し訳ないが、この事件が私の人生における最大の転機となった気がする。
軽やかな気持ちのまま、私は夜の十時まで事務処理をこなし、会社近くのラーメン屋で軽い夕食を済ませて家路に着いた。
私が地下鉄の駅から地上に上がってきたことを見計らったように、胸のポケットに納まっていた携帯電話が鳴り出した。発信先は公衆電話と表示されている。通話ボタンを押すと、こちらが名乗る前に聞き覚えのある無感情な声が聞こえた。
「明日、午後二時に、篠沢家に関係者を集める」
駐車場のチケットを吐き出す機械のごとく、御渦は必要最小限な情報だけを伝えてきた。
「分かった」
私も負けずに、一言で応じる。
電話越しに、私たちの間に奇妙な間が生じ、その後向こう側から受話器を置く気配が感じられ、電子音が響いた。
電話が切れる瞬間、御渦が発するため息が聞こえた気がするが、何かの雑音なのだろう。
御渦と短い電話を終えても、気分の高揚は持続していた。私としては珍しく、手近なコンビニで酒を買って帰った。酔わなければ眠れない気がしたからだ。
錆付いたマンションのドアを開け、自分の部屋に帰ってきた。当たり前のことだが、一人暮らしの私の部屋は真っ暗だ。仕方なしに、自分で黄ばんだ蛍光灯を灯す。上着を脱ぎ、ネクタイを解いてベッドに座る。
缶ビールのプルリングを引いた音を聞き、私はつい先日、この部屋で沙耶と過ごしていたことを思い出していた。沙耶が買った僅かばかりの買い物は、殆ど警察が持ち去ってしまっていたが、その香りだけはまだ微かにこの部屋に残されている。ビールと、タバコの匂いである。タバコを吸う人間を、これまでの私は心底軽蔑していたが、沙耶が吸っていると思うと喫煙者を卑下する気持ちも薄らいでいた。
彼女の気持ちを少しでも理解したいと思い、私は空けたビールに口を付ける前に、靴を履き直して再びコンビニへと向かう。そして、店頭でタバコを買おうとしたのだが、銘柄が分からなかった。レジの後ろには客が並んでおり、私は軽いパニックに襲われながらも、必死で沙耶が吸っていたタバコの柄を思い出し、それを指差した。
「セーラムでよろしいですね?」
念を押されても知らないものは仕方がない。私は「はぁ」という間の抜けた言葉を返す。
レジの店員は心配そうにそのタバコを渡してくれた。
部屋に帰りいざ火を付けようとしたのだが、私の部屋にはライターがなかった。沙耶が持っていたものは警察が持ち去っていた。
仕方なく、ガスレンジの炎で代用することにする。強すぎる炎を前に、眉毛を焦がしそうになりながらも、何とか火を点ける事ができた。そして、予想どおりむせた。
旨くもなんともない。私にとって煙は単なる煙に過ぎなかった。しかし、その匂いだけは、沙耶が漂わせていた同じものを、部屋の中に充満させることができた。その瞬間、まるで沙耶がこの部屋に戻ってきてくれたような錯覚に陥った。そして同時に、彼女と過ごした三日間の思い出が、鮮明に甦ってくる。
彼女が語った最後の言葉はなんだっただろう。そう、彼女が逮捕される日、私を仕事へ送り出してくれたときの言葉だ。
『いってらっしゃい』だったろうか。違う。
『ちゃんと待ってますから、しっかり働いてらっしゃい』だ。
そう言って、私を仕事へと送り出してくれた。まるで同棲しているような幸せを、私に与えてくれた。しかし彼女は、私の帰りを迎えてはくれなかった。彼女は警察に連行されてしまったのだ。
物事には、原因があり結果がある。始まりがあって終わりがある。
見送ったら、出迎えてくれねばならないはずだ。
私はまだ出かけたまま、帰ることができずにいる。
これは、彼女が出迎えてくれなければ終わらない。
そんな自分勝手な思索にふけりながら、私は缶ビールを飲み干した。
彼女の香りを発するセーラムは、流し台の上に置いたままになっている。その火の下には、タールの黄色い染みが広がっていた。




