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 彼との出会いの場であり、私にとって事件の始まりの場所である喫茶店『カンザス』に向かっていた。

 私が出した結論、この事件のこたえを誰かに話さなければならない。その相手を思い描いたとき、私の脳裏には一人の人物しか現れてこなかった。警察に駆け込むことも考えてみたが、相手にされないことは目に見えていた。結局私は、あの男に頼るしかないのだろう。

 しかし私は、彼との連絡手段を持っていない。電話番号も聞いていない。これまではいずれも、その前日に約束した時間に待ち合わせるという手法で合流していたのだ。彼の部屋に行ったこともあるが、あの何もない部屋にいつもいるとは考えられなかった。

 彼を捕まえる唯一のあてが、この喫茶店であった。

 時間は夜の七時に迫ろうとしている。夕飯時に、この店のようなコーヒーを売り物にする昔ながらの喫茶店には客がいない。それは、曇りガラス越しに外から見ても分かっていた。

 派手なベルの音を奏でて戸を空ける。やはり店内は閑散としており、大半のテーブルには客がいない。私は店の奥へと目を向ける。そこに、大きな影をみつけることができた。紛れもない、御渦であった。

 御渦はハードカバーの本を眺めていた。そして彼はゆっくりと顔を上げ、私と視線を合わせた。驚いた表情は窺えない。彼は、早く座れと言うかのように、自分の前の空いている椅子を指差す。そしてこう言ったのだ。

「わりと早かったじゃないか」

 私は確かに、彼がこの店にいることを期待してやってきていたが、全てを見透かされたような気がして不快だった。

「ここで、何しとんや」

「何しとんや、とはご挨拶だな。君を待っていたんだよ。それ以外にないだろ?」

 ここへきてあがいても仕方がない。私は御渦の前に荒々しく座った。

「いつから、待ってたんや?」

「一時から」

 じつに六時間以上、彼はここで待っていた計算になる。私がここへやってくることは見抜いていたが、そのために長い時間を無駄にさせたことを思うと、後ろめたさと同時に密かな喜びを感じていた。

「話を聞く前に、何か食べたまえ。どうせ、朝から何も食べちゃいないのだろう」

 その辺りも見透かされている。厨房の方から、ベーコンを炒めた香ばしい香りが漂ってきた。途端空腹を覚え、軽いめまいを感じる。私も何か注文しようと、テーブルの隅に立てかけられているメニューを手に取ろうとしたとき、我々のテーブルに湯気の立つベーコンサンドが運ばれてきた。

「こちらでよろしかったですか?」

 マスターは御渦の顔を窺いながら、私の目の前にその料理を置く。

「そろそろくる頃だろうと思ってさ、先に注文しておいたんだ」

 ふっくらとした白いパンに、カリカリに焼かれた厚切りベーコンがたっぷりのレタスと一緒に挟まれている。バターとケチャップが溢れ出すほど塗りこまれており、私は唾を飲んだ。

 食べろよ、と言うかのように御渦は料理を指さした。

 結局、この男には敵わない。

 私は諦めに似た感情で、そのサンドイッチにかぶりついた。

 食事が終わる頃には、ご丁寧に熱いコーヒーが運ばれてきた。私が最後の一切れを口に入れるのを見計らってから、御渦はタバコに火を点ける。

 そんな悪習には興味がなかったが、上手そうに煙を吐き出す御渦の姿を見ていると、その有害物質がとても魅力的なものにみえてしまう。サンドイッチで腹が膨れたせいだろうかと思われる。

 御渦は目聡く私の心情を察知し、箱を振り一本のタバコをこちらへ向けた。

 一瞬躊躇したが、私はそのタバコを箱から抜き取る。恐る恐る咥えたときには、もう御渦がマッチを擦って火をかざしていた。吸い込みながら火を点けるということを知らない私は、タバコの先端を大いに焦がした。そして、案の定盛大にむせこんだ。

 笑うことなく、御渦は優しげな目で私をみつめている。

「こんなときは勢いが大事だ。酒も飲むかい?」

 私は、涙を浮かべながら首を振った。咳き込みはなかなか止まらない。やはりタバコは体に合わないようだ。私はまだ十分長いタバコをガラスの灰皿で揉み消した。コーヒーを流し込んでみたが、喉の奥に残ったタール味はなかなか消えそうになかった。

「それで、今まで考えてこたえは出たのか? その清々しい表情から察するに、今回の事件が、ようやく解明できたようだけど」

 完全に上から見たものの言い方で、御渦が聞いてくる。そんな御渦の態度を笑顔で受け返す余裕が、このときの私にはあった。もう劣等感はない。私は既に、彼と同じ段階に登っていたからだ。

「ああ、分かったよ」

 心の余裕がそうさせたのか、こたえた私の口元は自然と微笑んでいた。

 御渦の表情が途端に曇るのを、私は見た。

 彼としては意外だったのだろうか。自分だけがみえていた景色を、他の人間がみつけることができたということを。

「君、本当に分かったのか?」

 念を押すように、御渦が聞いてくる。

「ああ、分かったって。分かってしまえば、簡単な事件やな」

「そうさ。事件は、とてもシンプルだ」

 そこで、私たちは互いに少し笑った。私は心から笑ったつもりだったが、御渦の顔は違っていた。昨日までの自信に溢れた目の光は失われ、今は不安と悲しみが窺える。事件の謎を解いたものが、自分以外に出現したことが、それほど不思議で、悔しいことなのだろうか。

「そこで、あんたに頼みがあるんやけど、ええかな」

「頼み?」

 時間と共に、御渦の目に浮かんだ悲しみの色は、濃くなるばかりであった。今にも泣き出しそうな、そんな弱々しさが感じられる。

「今回の事件の関係者を、一堂に集めて欲しいんや。篠沢誠一が殺害された時間前後に関わった人間を全てだ。勿論、浅野沙耶さんも含めて」

「ちょっと待て、君、関係者を集めて、何をする気なんだ?」

 この男もうろたえることがあるのだなと、私は驚いていた。

「関係者を集めて、この事件を解明するんやないか。皆の前で、アイツがしたことを、アイツが誤魔化そうとしたことを、話してやるんや」

 御渦は長い間私の目をじっとみつめ、深く考え込んでいる。

「なんのために、そんなことをするんだ?」

 考え込んでから、ようやく御渦の口から発せられた言葉は、空虚な問いかけであった。

 そして、唐突に私は疑問を感じた。御渦という男、何もかも知ったような素振りを今までみせていたが、実は何一つ分かっていないのではないだろうか。

 彼の記憶力は確かに驚くべき能力かもしれないが、記憶の容量と、論理的な思考能力は、比例するものではないのだろう。

 彼は知らないのだ。

 事件の断片的な情報はこと細かく持っていたが、それを組み合わせることができていないのだ。

 私はようやく彼と同じ景色を見ることができたと思っていたが、実はその先の景色まで見ていたのだった。

「関係者を集めるの、無理なんか?」

 私の態度は、自然と高圧的なものに変化していた。自分は知っている、相手は知らないという状況。それがこれほどの優越感を与えるものだと、改めて知った。

「無理じゃあないさ。その場所は制限されるだろうけど、なんとかなると思う。ただ、その前に聞かせてくれないか。君は本当に、今回の事件を理解しているのか?」

 やっぱりだ。御渦は分かっていない。分かっているとしても、それは彼が理解したと思い込んでいる範疇での理解であろう。

「分かっているよ、心配するなて」

「じゃあ、今この場で、僕に説明してみてくれ」

 懇願に近い、御渦の口調であった。

 今まで劣等感を感じ続けてきた反動か、私は素直に彼に説明する気にはなれなくなっていた。

「お互い理解しあっていることを、改めて言い合うってのは、なんだか馬鹿らしくないか? こたえ合わせなら、皆の前でやったらええ。もし仮に、俺の考えが間違っていたなら、その場て自分が訂正してくれたらええやかないか」

 突き放した言い方をしても、御渦は更に、すがるように言葉を重ねる。

「君が言いたくないのなら、僕の方から言ってやろう。結論から言えば、篠沢誠一を殺した犯人は……」

「止めろ! 何をそんなに急ぐんや。俺たちがここで、たった二人きりで事件を解決しても、それは単なる自己満足にしかならへん。俺たちは、推理ごっこをしてるわけやない。一人の人生が、これで決してしまうような問題に立ち会っとるんや。やっぱり、それを語るに相応しい場所があると思う」

 御渦は私の勢いに押し切られ、それ以上は事件の説明を求めようとしなかった。彼は新しいタバコに火を点し、テーブルの木目を数えるように俯いてしまった。

 そのままの姿勢で、御渦は黙々と指に挟んだタバコを、吸わずに消費した。タバコは自然に燃え続け白い灰ととなり、自らの重みにより折れてテーブルの上を汚す。

「おい。しっかりしろや」

 短くなったタバコが御渦の指を焦がすのではと心配した私は、ついに声をかけた。

 御渦は今眠りから覚めたというような、虚ろな目を私に向ける。

「わかった。土曜日に関係者を集めよう。平日よりも集まりやすいだろうからね。君も、もう三日も会社を休んでいるのだから、明日は日常の生活をおくったほうがいいだろう。君は浅野沙耶と出会ってから今日まで、非日常を体験し続けてきたんだ。一度、自分の生活に戻って、考えてみたほうがいいだろう」

 意味ありげな御渦の言い回しであったが、私は聞き流した。

「時間と場所が決まり次第、電話するよ。連絡先を教えてくれ」

 普段どおりの御渦が戻ってきた。まだ不安げな目の色が残っているものの、次々と自分のペースで話を進めた。

「ああ、連絡先、何かメモするもんある?」

 ボールペンは尻のポケットに挟まっていたが、メモ帳の類は持っていなかった。御渦に持っているかと尋ねたが、すぐにその質問が意味をなさないことを思い出した。

「そうか、あんたは、何でも憶えられるんやったな」

 私は携帯電話の番号を口頭で伝えた。確認のため一回だけ御渦が復唱し、それで終わった。

 必要な話は全て終わった。

「コーヒーを、もう一杯どうだい?」

 御渦が聞いてきたが、それ以上この席に座っていると立ち去る機会を永遠に失いそうな杞憂を抱いた私は、首を振ってその申し出を断った。

「それじゃあ、これだけは読んでおいてくれないか。先日僕が言った、人格障害についてまとめたものだ。きっと、君の推理の補強になると思う」

 御渦は十枚ほどの束となったレポート用紙を、私に押し付けるように渡してきた。

 レポート用紙は細かな手書きの文字で埋まっていた。おそらく、御渦自身が書いたものだろう。この時の私は、こんなものは不用だと考えていたが、そんな手間のかかることをされては、無下に断ることもできなかった。そして結局、このレポートは役に立ったのだ。

「じゃあ、疲れたから帰るわ」

 二人分の伝票を掴んで出ようかとも考えたが、昼一時から店に居座っている御渦の会計がいくらになっているのかが気になってしまい、私は千円札を一枚テーブルに置いて立ち上がった。

「もう一日ある。じっくり考えてみろ」

 私の背中に向かい、御渦が声をかけてきた。

 そのときの私にとって御渦の声は、単なる負け惜しみにしか聞こえていなかった。

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