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 時が過ぎる感覚が麻痺していた。気が付くと、カーテンが輝きはじめており、私は夜が明けてしまったことを知った。結局、昨日から一睡もせずに事件の真相を考え続けたが、何一つまともなこたえは出せなかった。否、こたえは出るのだが、それは私が求めるものではなかった。つまり、私が愛する人が犯行に及んだ、というものだ。これが、最も辻褄が合ってしまう。当然だろう。彼女は他殺体と共に密室の中で発見されたのだから。

 普段起床する時間を迎え、ベッドの脇に置いた目覚まし時計がけたたましい電子音を発した。私は乱暴にそれを掴み、壁に向かって投げつける。電池の蓋が外れ、目覚まし時計は停止した。

 静かになった部屋に、空気が抜けるような音が響く。何かと思えば、何度目か数え切れない己のため息だった。

 カーテンを引くと、朝日がこぼれ、目の奥を殴りつけられたかのような痛みを感じた。痛みに耐えながら狭いベランダへ出て、しばし呆然と外の景色を眺める。視界に駅へと急ぐ紺色スーツの群れが映り、今私が最低限しなければならないことを思い出させた。

 緩慢な動作で受話器を手にし、会社の番号をプッシュする。案の定、上司は既に出社しており、私の電話に不機嫌な声で応答した。私は一方的に休暇願いを申し立て、電話を切る。三日連続の休暇願は、上司の怒りよりも呆れを買ったようだった。

 インスタントコーヒーと湿気たビスケットで簡単な朝食を済ませ、ジーンズとトレーナーという楽な服装で私は家を出る。目的地だけは決まっていた。西長堀にある大阪市立中央図書館だ。書物などからこたえが得られるとは考えていないが、一人で堂々巡りをしているより少しはましだろう。

 地下鉄を乗り継いで到着した図書館で、先ず私は各階に設置されている端末により蔵書の検索を開始した。元より、目当ての書物などない。パソコンを前にして、私はしばし呆然とたたずんだ。立ったままの姿が滑稽だったのか、それとも貧相な服装のせいか、隣の端末を操作していた大学生風の青年が、私を見てうっすらと笑った。

 いくら笑われようと、私は一向に気にしなかった。私は立ったまま、この数日間で目にした物、耳にした言葉を思い出していた。

 赤いスニーカー、彼女が好んだ酒とタバコ、彼女が着替えたキャミソール姿、寂れたビリヤード場、暗い部屋に溶け込む沙耶、翌朝の日の光、大阪城公園の散歩、御渦と出会った喫茶店、警察の車、取調室の臭い。

 被害者の葬儀風景、伊藤の戸惑い、邦夫の評判と豹変。

 戸田夏子の半生と、子供たちに対する感情。

 様々な風景を思い浮かべ、最後に一つの単語が心に残る。


 『記憶』


 御渦が言っていた、ヒントとなるキーワード。

 使い古され少し黄ばんだキーボードへ向かい、私はその短い言葉を入力する。

 検索された書物の数は四百を超えた。限られた時間において、それら全てを読むことは不可能だろう。しかし私は充血した二つの目を更に酷使し、情報の取捨を開始した。できる限り、記憶に関する本を読んでやろうと決めた。


 記憶、損傷、時間、エピソード、手続、意味、海馬、シナプス、グルタミン酸、喪失、興奮、衝撃、増進、錯誤、減退、全生活史、一過性。


 いったいどのくらいの時間を、その図書館で過ごしたのだろう。何日にも思えるし、たった数分のようにも感じられる。実際には十時間弱であった。私はその間、水を飲むこともなかった。これほどの集中力を保てたのは、人生ではじめてのことだろう。途中、司書が必死の形相でいる私に対し、記憶に関しての本を数冊推薦してくれたことを除けば、私は全神経を活字を追うことに集中させた。この時間に比べれば、大学の受験勉強などはテレビをみながらラジオを聴いているような、中途半端なものであった。

 私は、目の前に積まれた本の山に目を向ける。その山の中の一つが、私にこたえを教えてくれた。確か、ここの司書が推薦してくれた本の一冊だった。ここにきたことは正解だった。目的は果たせた。

 立ち上がると目眩を起こし、私は膝をついてその場に座り込む。すぐに館内を巡回している警備員が声をかけてきた。どうやらそれ以前から、鬼気迫る表情の私を意識していたようである。大丈夫かどうか聞かれたような気がするが、私はそれを無視する形で図書館を出てしまった。机の上の本を片付けることも忘れていた。

 まるで、砂漠を三日間放浪した後のような勢いで、私は自販機から買ったスポーツドリンクを喉へと流し込んだ。改札の隣にある売店の女が、不審な顔を向けている。私はその女を睨み返す。普段の私は決してそのような行動はとらない。このときの私は、明らかに興奮状態にあったのだ。女は途端に、陳列された雑誌の整理をはじめた。

 空き缶を乱暴に屑かごへ投げ込み、私はホームに向かう。

 白線に沿って立ち、電車が入ってくるのを待った。

 こうして電車を待つときはいつも、私は自分の死を思い描いていた。自分の将来に、何一つ希望を見い出せなかったからだ。

 しかし今、私は喜びに満ち溢れていた。普通ではなかったが、思う人と再会した。彼女には婚約者がいたが、その人も今は亡き人だ。

 そして何より、私は彼女が抱える、おそらく彼女の人生において最大の問題であろうこの事件を、解決する糸口をみつけたのだ。

 肺の奥底より、笑いが湧き上がってきた。必死でそれを噛み殺そうとしたが、堰を切って飛び出した。

 幸い、電車がホームに入る瞬間と同時に起きた哄笑である。下品な私の泣き笑いは、ホームに満ちたアナウンスによりかき消されていた。

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