19
「さて、どうしたものかな」
目的の家を前にして、御渦はそんな気の抜ける言葉を漏らす。
「何も、考えてへんのか?」
「全くの無策だ」
御渦は何故か偉そうにこたえた。
「戸田夏子は、十中八九、一人で家にいるはずだ。彼女の新しい夫は倹約家だという話は、君も昨日聞いただろうが、これは僕が仕入れた情報とも合致する。夫は買い物などに必要な最低限の金しか妻に与えないのだそうだよ。勿論、お手伝いさんなんて雇っていない。この家も見た目は綺麗だが、夫がその両親から受け継いだもので、ペンキを塗り替えただけの築三十五年の年代物なんだ」
琵琶湖に沿って並んでいる柵の一つに腰かけ、御渦はタバコを咥える。それに火を点ける間だけを空けて、言葉を続けた。
「だから夏子は、遊びに行くだとか、習い事に行くだとか、外へ出かける機会が極めて少ないのだそうだ」
いったいどこの誰から、いつの間に聞いた話なのだろうか。それを問い質す前に、御渦が自ら語りだす。
「戸田夏子の夫、戸田正義という人は、この県内にある木下冷蔵機械という会社の取締役をしている。一般的に木下冷蔵機械という会社名には馴染みがないだろうが、大手家電メーカーに対して冷凍機器製品をOEM供給している会社でね、上場こそしていないが県内屈指の規模を誇るメーカーだよ。業績も上向きだ。僕は偶然そこの常務と懇意にしていてね。昨日電話で話を聞いておいたのさ。戸田正義は僕の知っている常務と敵対する派閥に属しているらしくて、細かな情報を仕入れることができたよ。あの世界は、相手の弱点をさがすことに躍起になっているからね」
御渦はまた、その顔の広さを使ったようだった。しかし、刑事の一人と知り合いだというのはまだ現実的であるが、一流企業の常務と懇意にしているというのはどうなのだろう。私と同年代ということを考えると、とても信じられるようなことではない。それから、敵対しているという話であるが、同じ会社の役員の個人情報を、ペラペラと外部の人間に電話で喋ることがあるのだろうか。
「信じる信じないは、君の自由だけどさ。僕は何一つ間違った情報は伝えていないよ」
私の訝しんでいる顔を見て、御渦は言った。
「問題は、どうやって戸田夏子に話を聞くか、だ。君、何か考えはあるかい?」
急に聞かれても、私には何も思いつかない。私は馬鹿みたいに、首を振るだけだった。
「こんなときは、ストレートに行くのが一番かな」
根元まで灰にしたタバコを袋形の携帯灰皿で揉み消し、御渦は戸田家の門へ大またで歩きはじめる。私は慌ててその後を追った。
立派な門であった。白壁の柱に、黒く変色した表札が見える。『戸田』と力強く太い文字が書かれた表札の下には、インターホンが設置されていた。その更に下には、よくテレビCMでみかけるホームセキュリティの、赤い派手なステッカーが貼ってあり、私は意味もなくうろたえた。まだ法に触れるような悪事は、何もしていない。しかし、隣に立つ御渦が、これまで訪れた先の相手を尽く腹立たせているという実績を考えると、どうしても不安になってしまうのだ。
そんな私の逡巡を全く無視して、御渦はインターホンのボタンを躊躇いなく押した。呼び鈴代わりのメロディが流れる。
一分間ほど待ったが、反応は全く無かった。御渦はもう一度ボタンを押す。
更に一分待った後、ようやく動きがあった。
「どなた様?」
低くこもった中年女の声が、インターホンを通して聞こえた。家政婦などいないという御渦の話しを信じるならば、おそらくその声が、沙耶と邦夫の実の母親、夏子なのだろう。
「あなたの娘さん。浅野沙耶さんが殺人事件の被疑者として逮捕された件で伺いました。少しお話を聞かせてもらえませんでしょうか」
ストレートに行くとは言っていたが、あまりに直球過ぎる御渦の言い回しだ。
加えて、御渦の声は大きかった。インターホンなど通さずとも、家の中にいる夏子に聞こえるのでは思われるほどだ。それは勿論、周囲の家にも響き渡っていることを意味する。これはもう脅迫だった。
「ちょっと、なんなんです唐突に。警察の方ではないんですか?」
「違います。一民間人ですが、京都で起こった殺人事件について、話を聞かせて欲しいだけです」
夏子がうろたえていることは、その声の震えで十分分かった。御渦は、更に大声で追い討ちをかけている。
「あなたの実の娘さんである浅野沙耶さん、彼女が殺人事件の犯人であるといわれていますが、僕の知人がそれは違うと言うのですよ。事件の真相をさぐるために、ご協力してください。話を伺えるのなら、こうしてインターホン越しでかまいませんので」
「ちょっ、ちょっと困ります。すぐに参りますので」
乱暴にインターホンは切れ、代わりにドタバタと家の中で走る音が響いてきた。門の向こう側に見える日本庭園の奥にある玄関の戸が開き、ジーンズにトレーナーという、ラフな格好をした戸田夏子が現れた。彼女はサンダルを履き、我々がいる門の前まで駆け寄った。
「ほんま堪忍してください。近所の目ゆうもんがありまっしゃろ。早う入って下さい」
先ず御渦が、そして私が、夏子に引っ張り込まれるように門の中へ入る。そして夏子と共に走り、玄関へ滑り込んだ。五十を過ぎた女を必死になって走らせてしまうほど、御渦は彼女を追い詰めたというわけだ。私は罪悪感を抱いた。
「あれほど刑事さんに言うといたのに、マスコミには話さないでくれって。なんの為の約束なんだか」
玄関に入ると、私たちに聞こえるように夏子は一人呟く。そして私たちと向き合い、毅然とした態度で言った。
「あんたらどこの新聞記者や。それともテレビか? 私はな、刑事さんと約束したんやで。あの子らのこと何でも話す代わりに、私のことは一切あんたらに流さないってな。あの子らとはもう名字も違ってる他人やし、何をしようと私には関係ないことや。あんたらが大声出すさかい、仕方なく家に入れしましたけど、今からすぐに裏口から帰ってや。まだ表で騒ぐようなら、刑事さんにきてもらいますから。もうこうなったら世間体も糞もないわ。あんたらのところの会社訴えて、慰謝料がっぽり払うてもらいますわ」
あの浅野沙耶の実母、それは美しく、そして知的な女性であるのだろうと、私は何の疑いなく思い描いていた。しかし、今私の目の前で機関銃のように言葉を発した女は、下品でヒステリックであった。沙耶のように関東のアクセントで話すこともなく、典型的な関西のオバチャンの様を呈している。
「あんた、名刺よこし!」
私の目の前に手のひらを突き付け、夏子は怒鳴る。あいにく、否、幸運にも、私は自分の名刺を持ってきていなかった。もし持っていたら、私は素直に名刺を差し出していたのだろう。それは、新たなトラブルの種でしかない。私の会社と今回の事件は、微塵も関わりはないのだから。
「奥さん、我々はマスコミの人間ではありません。沙耶さんの友達です。その、高校のときの同級生です。な?」
突然に同意を求められた私は、機械仕掛けのように首を縦に何度も振った。彼の言葉は、私のことと限定していないことを除けば、正しい。
「ほんまか?」
私は夏子に睨まれる。その勢いに押されながらも、私は出身高校の名と、ついでに担任の名前も話す。それでも、学校や担任の名前は今の時代調べようと思えば調べられると疑う夏子に対して、彼女の親友の名を三人挙げることで、ようやく認めてもらえる格好となった。
「しかし、なんであんたが、首を突っ込んどるんかね。あんた、沙耶と付き合ってた人かい?」
いいえ、と脅えながらこたえかけた私の言葉を遮って、御渦が割り込んできた。
「彼女が警察に逮捕される直前、私たちは沙耶さんと一緒にいたのです。高校時代に親しくしていたこの中井を頼って、彼女は助けを求めてきていたわけです。彼女は私たちに訴えました。自分は何もしていないと。しかしそのときの私たちに、警察の逮捕を阻むだけの力はなかった。無実を訴える彼女を、見送るしかできなかったのです。しかし私たちは、こうして事件の関係者を廻り、彼女の無実を証明できる情報を集めている、というわけであります」
自分が警察に通報したという事実を忘れたかのような御渦の説明であった。つい私は御渦の顔を覗き込んでみたが、彼はなんとも涼しげな表情をしていた。
一方夏子は、御渦と私を交互にみつめながら、しばらく逡巡しているようだったが、終いにこう言った。
「とりあえず、上がってちょうだい」
戸田家は外観と同様に、内装も純和風の造りになっている。
私と御渦は客間に通され、濃く熱い緑茶が出された。喉がカラカラに渇いていたが、熱い緑茶は飲み難い。私は口を尖らせて、必死な形相ですすっていた。
夏子は着替えてくると言い残し、二階へと上がったきりになっている。
御渦と二人残されているが、彼と世間話をして時間を潰す気にもなれない。また、事件の話をする状況でもない。所在無く私は部屋を眺めるのだが、本当に何もない空間であった。八畳の和室で、私たちが並んで座るその後ろには床の間があるが、壷も掛け軸もない。
仕方なく私は、熱い緑茶に息を吹きかけて冷まし、そしてすするという作業を繰り返した。一方御渦は、かなりの高温であったにも関わらず、既に茶を一気飲みで呷っている。
「えらいお待たせしました」
戸田夏子が障子をゆっくりと開けて入ってきた。先ほどのラフな格好から、白いブラウスとクリーム色のスカートという、落ち着いたスタイルに変わっていた。
「先ほどはお見苦しい姿をみせまして、えろうすんませんでした。こんな事件が身近で起きて、私も混乱しておりましてな。そんで、私に聞きたいことって何でっしゃろ」
私たちを出迎えた女と、今目の前に座っている女は別人なのではなかろうかと、私は疑っていた。着替えてきたから様相が異なるのは当たり前なのだが、喋る言葉も、表情すらも変わっている。女とは、いくつ歳を重ねても化けるのだと感じた。
「ただもう、あんたら素人さんがどうこうできる状況ではないと思いますがね」
遠い眼をしながら、夏子は言った。
「そんなことありません。沙耶さんは警察に逮捕されましたが、まだ起訴はされていないのです。お分かりになりますか。逮捕と起訴は違うのです。逮捕して、しばらくの間尋問による自供や承認・証拠集めを経て、検事が十分だと判断した後、ようやく被疑者は起訴されて裁判にかけられるわけです。起訴されるまでの期間は、逮捕されてから通常十日、更に延長が可能でもう十日間、計二十日間という時間がありますが、今回の事件は検事も容易だと考えているようなので、明日起訴されてもおかしくない。そして、この国で起訴されれば、ほぼ百パーセント有罪となってしまうシステムになっています。それは、裁判官が検事の証拠に絶大な信頼を寄せているからなんです。検事が有罪と判断すれば、これ即ち裁判官も有罪と判断するのです。これが陪審員制を採っているアメリカならば、裁くのは一般市民でありますから、刑事ドラマのような逆転裁判、つまり起訴された被疑者が無罪を勝ち取るケースが多々あるわけです」
もう一度「つまり―」と言って一度口を止め、御渦は夏子の顔を観察する。彼女が話しについてきているのか確認したようだった。夏子の以前に、私自身がちゃんと理解できているのか疑わしい。
「つまり、私たちは沙耶さんが起訴される前に、真犯人若しくは、沙耶さんが犯人ではないと確信できる情報を仕入れねばならないわけです。今となってはそれ以外、彼女を捕縛から解き放つ手段はないと言えます」
御渦は沙耶の母親である夏子に向かって話しているのだが、私は自分に向けられた言葉だと解釈した。正直、刑事事件の司法手順など、私は全く理解していない。単に私は、裁判の場面で、彼女の無実を証明する証言を行うものだと漠然と想像していた。しかしそれでは間に合わないという。
いったい、私にはどれほどの時間が残されているのだろう。
「時間がありません。さっそくお話を聞かせてください」
唐突に大きな声を出した御渦によって、私と夏子は同時に驚かされた。二人とも座布団から尻が二センチほど浮いた。
「先ずお聞きしたい。先ほど貴女は、『あの子らのこと、刑事に話した』とおっしゃいましたよね。『あの子ら』の『ら』とは複数形ですよね。貴女は警察に対して、沙耶さんのみではなく、兄の邦夫さんについても質問されたわけですか?」
何気ない一言であり、私は聞き逃していた。これも御渦の記憶力のたまものなのだろうか。
「あの、私、そんなこと言ったやろか」
夏子はとぼけてみせたが、真摯な御渦の目に射られ、すぐに観念したようだった。
「はいそうです。邦夫のこともようけ聞かれました。事件の日のことだけやなくて、あの子らの生い立ちから、性格、最後には虐待が無かったかなんて、失礼なこときかれましたんや」
一度口火を切ると、夏子の舌は滑らかに動きはじめる。
「警察に言った通り教えてあげましょか。先ず邦夫ですわ。あの子は、ほんまに良い子でした。私の言うことに滅多に逆らわず、従順でしたわ。我侭も言わず、勉強も言われる前にしておりましたし、私の手伝いもようけしてくれました。ほんまに、ほんまに良い子。自慢の子ですわ。高校も大学も良い所行ってくれて、近所親戚にも大きい顔させてもらいました。んで、結局お医者様になってくれて、もう言うことありませんわ。小遣いもくれますしね、ほんま、私にはできすぎた息子です」
うっとりした眼差しで、まるで遠く離れた恋人を思うような夏子の言葉であった。
私の目から見るとあの浅野邦夫という男は、どうにも理解に苦しむ人物に映ったのだが、実の母親からすると、可愛くてしかたがないのだろう。確かに邦夫は医者であり、一部の人間からは支持もされている。私のような普通のサラリーマンをやっている人間からすると、明確に人の役に立っていると見て取れる医者という職業には羨望を憶える。
「いたずらをして、叱り付けるなんてこともなかったんですか?」
御渦が質問を重ねると、夏子は少女のように赤面してこたえた。
「そりゃ、小さいときには邦夫もいたずらしましたよ。男の子ですもんね。でも、そんなことすると橋の下に捨てるよ、って叱ると、直ぐに従順になる子でした」
この時点では、夏子の言葉に対して、私は殆ど疑問を抱いてはいなかった。しかし、彼女の続く言葉には、愕然とさせられた。
「んで、次にあの子、沙耶ですわ」
声のトーンが急激に落ちた。同じ母親の口から出た言葉とは、にわかに信じられなかった。夏子の顔はあからさまに曇っている。目が細められ、小鼻が膨らんだ。喋ることが苦痛という顔を我々に向けた。
「あの子には、ほんま、苦労させられましたわ。ちいちゃい頃から我侭放題。あれを買って、これを買って。食べもんでも好き嫌いばっかり。やれ人参が嫌い、ブロッコリーは食べない。勉強なんて何度言ってもせえへんし、家の手伝いも全然したことおまへん。ほんま、あの邦夫の妹かと、いいえ、この私の娘かと、それこそなんべんも疑いましたわ。私ではなくて、夫に似たんでしょうな。もう亡くなってしもた人を悪く言うのは気が引けますが、はっきりせえへん、気の弱い、どうしょもない男でしたわ。そんな男に、あの子は似てしもうたのでしょうね」
この中年の女は、本当に沙耶のことを話しているのか、私には実感が持てなかった。私が知っている浅野沙耶と、全く異なった人物像が語られている。
そして、続く言葉は、更に信じられぬものであった。
「せやから、あの子があんな恐ろしい事件を起こしても、私はそれほどびっくりしまへんでしたわ」
呆れた。事件の真相は別としても、自分の娘が殺人事件の容疑者として逮捕されたにもかかわらず、それを驚かず、そして疑わない母親がこの世にいてもよいのだろうか。私は怒りを通り越して、ただ呆れた。
「そりゃ、そりゃね、私も何かの間違いであって欲しいですよ。実の娘ですから、ねぇ」
取り繕ったように、慌てて夏子は言葉を続ける。どうやら私は、不快な感情を顔に出してしまっていたようだった。
「ですから、あんさんらが沙耶の無実を証明してらはるなら、願ったり叶ったりではあるんですよ」
妙な間が空いてしまった。夏子自身も、自分の言葉に行き過ぎた表現があったことに気が付いたようだった。しかし、それは彼女の本心であると思われる。彼女は沙耶を愛してはいないようだ。
「それでは次に、邦夫さんと沙耶さんのお父さんである、亡くなった浅野雅夫さんについて教えてくれませんか?」
「あの人のこと? そんなん、今回の事件と関係ありますん?」
「ええ、様々な事象が関連していると考えています」
「かまいまへんよ。沙耶が助かるんならねぇ」
わざとらしい言い回しであった。常識という台本に書いてあった、白々しい台詞に聞こえる。
「あの子らの父親、雅夫は三年前の夏に亡くなりましたんや。享年、たしか五十三やったかな。ええ、死因でっか? ほんま、しょうもないですよ。あの人、家の中で、階段踏み外しよったんです。ほんま、運動神経のない人でしたわ。会社休みの日で頭ボーとしてたんでしょうな。上から下まで転げ落ちて、そりゃ大きい音がしましたよ。そんで頭打って、私はすぐに救急車呼んだんですけど、打ち所悪くて、意識失のうたまま、その三日後にあっさり死んでしまいましたんや」
隣に住む他人の話のように、夏子は淡々と亡夫の話をした。
「働き盛りのときでしょ。私は悔しゅうてね。子供の手も離れ、ようやく楽できるゆうときに、コロリと先に死なれてしもうて。幸い邦夫がもう病院で働きはじめてくれていたんで、家計はなんとかやりくりできましたよ。沙耶? あのときの沙耶はまだ学生で、遊び呆けている頃で、あの人が亡うなった日も、海外旅行へ行ってましてな、連絡とれんで、通夜も葬式も出んかったんですよ。ほんま、親不孝な娘ですわ」
「その、雅夫さんが階段を転げ落ちたとき、邦夫さんは家にいたのでしょうか?」
「それ、どうゆう意味ですの」
「いや、息子さんを疑っているのではなく、邦夫さんはお医者さんなので、応急手当などできなかったのだろうかと思いまして」
「邦夫はいましたよ。でもあの子の専門は神経内科なんでね、事故のときはなんもできしまへんでした。でも、あの子はあの子なりに父親を気遣ってましたんよ」
年甲斐もなく、夏子は頬を膨らませてこたえた。
「あの、先ほどから気になっていたんですが、夏子さんはこちらの言葉を話されるんですね。しかし、沙耶さんと邦夫さんは、関東の言葉を話されていたようなんですが、その辺の事情を教えてもらえますか」
「ああ、ちょっと複雑なんですわ。私はこっちで生まれそ育ったんですが、若い頃東京に働きに出てたんです。そんで向こうで、雅夫と知りおうて、結婚することになるんですが、私の実家が、京都で古い和菓子屋やってましてね。私一人娘でしたさかい、三男坊だった雅夫が婿にきてくれるゆうことで話がまとまったんです。一旦二人でこちらにきて、雅夫は和菓子職人の修行をはじめたんですが、あの人手先が不器用でね、私の父親に四六時中叱られてたんです。そんで、どうにも我慢できないということになって、あの人家出したんですわ。ちょうどその頃私のお腹の中に邦夫がいましてね。父親のない子にしたくなかったんで、私は雅夫について家を出たんです。ほいで結局、あの人の実家がある横浜で雅夫は電材卸の会社に再就職しまして、邦夫が生まれ、沙耶が生まれたんです。それからしばらくは、平凡な暮らしを続けてました。けど因果なもんで、あの人八年前に京都へ転勤になりましてね、また家族でこちらへ戻ってきたというわけなんです。その頃には夫と仲の悪かった私の両親も他界してましたよ。で、私も向こうでは関東の言葉喋ってましたけど、こちらに戻ってからはすぐに地の言葉が戻ったんです。夫と子供たちは横浜で過ごした時間の方が長いせいか、こっちの言葉は喋らんのですわ」
何故にこの夏子だけが関西の言葉を話すのか、納得がいった。しかし、それが今回の事件に関わりがあるのだろうか。私には御渦の質問の意図が測れない。
「話を戻しましょうか。夫雅夫さんが亡くなったが、邦夫さんが家計を支えてくれたので、苦労はなかった、ここまでお聞きしましたよね。それ以前の話を聞かせてもらえませんか。貴女と雅夫さん、そして邦夫さん、沙耶さん、家族が全て揃って暮らしていた頃の話です。雅夫さんが亡くなるまでの、平和なときの話を……」
御渦が問うた時期とは、私と沙耶が同じ学び舎で同じ時間を過ごした頃のことであろう。私たちの誰もが、自分の夢を叶えられると信じて疑わなかった、光り輝いていた時代である。その中で、沙耶の輝きは一段と強いものであった。
「家族が皆、揃っていた頃、ですか?」
訝しげな顔で夏子がこたえる。御渦の問いも不可解ではあるが、こたえるのに顔をしかめるような問題でもないだろう。
「ええ、ええ、やっぱり幸せな頃ですわ、ね」
夏子の言葉は、滑らかには出てこなかった。
「そうですね。でも、その頃の話言うてもねぇ、何を話してええのか、わかりませんわ」
「例えば、家族揃って旅行に行った話だとか、何か事件があったり、もめごとがあったり、何でもかまいません」
そうですねー、と言ったきり、夏子は固まってしまった。確かにこたえにくい、漠然とした質問であろう。私が同じ質問を受けたとしても、すらすらと事柄を挙げることは難しい。何しろ四年以上前の話である。私は、修学旅行の内容すらはっきりと思い出せない。
「そうですね。家族旅行なんてしたことありまへんでしたけど、邦夫が大学に合格したとき、盛大にお祝いしたのはよう憶えてます。毎晩遅うまで勉強してましたからね。それから、あの子、医大に入ってすぐ、バイクで事故を起こしましたんや。そのときはもう、心臓止まるかと思うほど心配しましたわ。幸い、大きな怪我をすることもなかったんですが、もうバイクは禁止させました。それから、大学二年の頃ですかね。邦夫に付きまとう変な女が現れましてね。同じ大学の娘ですわ。今で言うたら、ストーカー言いますんか。家の方にも押しかけてきて、私はノイローゼになりかけてましたわ。あの子は全然興味ないのに、しつこく付きまとうんです。最終的には警察にも相談したんですよ。結局警察はなんもしてくれしませんので、私が直接言ってやったんです。私、大学まで行ってきて、学食でその娘みつけまして、他にも学生がいっぱいいる中、大きい声で言ってやったんです。うちの子あんたのことなんとも思っておりません。もう近づかんといてくれますか、って。あの娘目丸くして、驚いてましたわ。あれはホンマ、爽快でしたな」
大きな口を開けて、夏子は高らかに笑った。
「邦夫さんは、女性に人気があったんじゃないですか。そのストーカーまがいの人以外には、恋人などいなかったのですか?」
「いえいえ、あの子は、勉強ばかりしていましたからね。女気はなくて、このまま結婚もしないんじゃないかと、心配してますんや」
本気で危惧しているとは思えない、明るい顔で夏子は言う。
「ありがとうございます。なんだかプライベートな質問ばかりしてしまいまして、失礼いたしました。最後に一つだけよろしいでしょうか。貴女の再婚に対して、邦夫さんや沙耶さんは、反対しませんでしたか?」
「ええ、邦夫も、それから沙耶も、特に反対はしませんでしたよ。もう二人とも大人でしたから、私には好きなようにせえ、とのことでしたわ」
再び、夏子は笑う。低く響く、下品な笑い声だった。私は唐突に、吐き気がするほどの不快感を覚えた。彼女の笑い声がそうさせたのか、他の理由があったのか、この家にいる時点では気が付かなかった。
「それでは、貴女が家を出るに際しても、浅野家では大きな変化がなかったわけですね」
「そうです。寂しいくらいでしたね。特に邦夫なんて、私にべったりでしたから、もっと悲しんでくれそうなものでしたけど、あっさりしてましたわ」
「沙耶さんはどうです? やっぱり、反対しませんでしたか?」
「あの子は、私に対して無関心でしたからね。なんとも思わなかったんとちがいますか」
「確認します。貴女が再婚なさるとき、沙耶さんはもう京都に帰ってきていたのですか?」
「ええ、帰ってきていましたよ。その、沙耶の友達なら知っているのでしょうが、あの子、お酒に溺れている時期でしたから、邦夫が強引に連れて帰ったんです。ホンマ、妹にも優しい良い子ですわ」
「沙耶さんが家に帰ってくるのと、貴女の結婚話が決まったのは、どちらが早かったんでしょう?」
「そないなこと、細かく憶えていませんけど、私の結婚話の方が早かったと思いますよ。なにしろ、求婚されてから入籍まで、ゆうに一年はかかっていますからねぇ」
「分かりました。今日は本当にありがとうございます。沙耶さんのことは、我々にお任せください」
「そうですか。そりゃ、よろしゅうたのんます」
まるで他人事のように、戸田夏子は深々と、社交辞令として頭を下げた。




