表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/30

18



 大阪市内の地下鉄を乗り継ぎ、JRの新快速で大津市へ向かう。

 車内で、私はただ流れる景色を眺めていた。朝に分類される時間帯に、大阪から離れる方向の電車は空いている。それでも、殺人事件の話を声高にするのをためらわせる程度の乗客はいた。

 窓から視線を外し隣に座る御渦に目を向ける。彼は寝ているように見えた。しかし、ただ目を閉じているだけで、彼の表情は覚醒しているものと同じであった。時々乾いた唇を、赤い舌が濡らしている。しばらくその顔を見ていると、おもむろに御渦は笑い出した。思い出し笑いだろうか、鼻を鳴らすような、小さな笑いだ。私の視線を感じたのだろうか、御渦は薄目を開けて私を見る。

「おかしな事件があるものだね。包丁を持って郵便局に強盗に入って、切手を数枚、額にして七百円相当を奪って逃げた、だってさ。その上、一時間後に自首したとはね。この犯人、何を考えているのか分からん」

 話を聞いている私が、分からなかった。唐突に話をはじめた御渦を、私は目を見開いてみつめる。

「ああ、スマン。今日の朝刊を読んでいたんだ。三面記事にくだらない事件があったから、つい吹き出してしまった」

 朝刊を読んでいると言っているが、彼の手には新聞がない。それどころか、彼は目を閉じていたのだ。

 まだ記憶の自慢なのか、それとも単に私を馬鹿にしているだけなのだろうか。私は悩むことが無駄に思え、彼の言葉を無視して狸寝入りをすることに決めた。

 山科で新快速から乗り換え、湖西線を北上する。湖西線とは読んで字のごとく、琵琶湖の西側を南北に走る路線である。私は生まれてはじめて乗った。

 私は京都で生まれ育ったにも関わらず、隣の滋賀県という土地には数えるほどしか足を踏み入れたことがない。元来が出不精であることに加え、特にこれといった用事がなかったのだ。小学校時分に彦根城を見学したことがあるが、思い出と呼べるような立派な記憶は残っていない。観光や工場地帯、そして最近では京都・大阪で勤める人のベッドタウンとして栄えているという琵琶湖の南東部に比べ、西側は山肌が迫っているせいか、閑散としている印象が強い。車内にも客は少なく、老人が多かったのは、時間帯のせいばかりではないだろう。

 ゆっくりと走る電車からの風景も、高い建物などはみえず、穏やかな町並みを思い描くことができる。

 歓楽街として有名な雄琴温泉を抜け、私たちが乗る電車は堅田に着く。

 駅の周りには全国展開しているファーストフードの店舗も見ることができたが、基本的に人の数が少なかった。

 案の定、御渦は駅の中にある周辺地図を見ることなく歩きはじめた。

「バスに乗った方が楽だが、あいにく丁度良い時間帯のものがない。歩いて行けない距離でもないから、このまま行こう」

 古錆びたバス停を右手に見逃しながら御渦が話し、そして先を歩く。その後を三四歩後れて、私は続いた。

 私は今、自分がどこにいるのか、全く分かっていない。日の傾き具合から、東に向かって歩いているということだけが、辛うじて判断できただけだった。

 四月にしては容赦のない日の光が、私の額を焦がしている。五分も歩かないうちに、一筋の汗が耳の後ろに流れた。私はブレザーを脱ぎ、二本の指で肩にかけた。

 人は少ないくせに、車の数だけは多い。特に大型のトラックが頻繁に走っている。車が吐き出す排ガスの細かな粒子が、汗で濡れる顔に張り付くのが分かった。このあたりの人間は、おそらく車で移動することが当然なのだろう。歩いて移動する私たちは、奇特な存在であった。

「まだ、しばらくかかんのか?」

 先を歩く御渦に聞いてみる。彼は振り返らずにこたえた。

「これだね、これ。知っていることと、体験することは別ものなんだ。地図上では僅か三キロ弱の距離も、実際に歩くとそれ以上に長く感じる。加えてこの天気。天気予報では滋賀県は曇り、降水確率三十パーセント。湿度は七十。過ごしやすい日になるはずだったんだ」

「何が言いたいんや」

「世の中、思惑どおりに事は進まない、ってことさ」

 御渦の言葉はさっぱり分からなかった。暑さと疲労、そして排気ガスのせいで頭がくらくらしてきたため、私は考えることを止めた。

 どのくらい歩いただろうか。呆然と腕時計を見ると、駅に着いた時点からたった二十分しか経っていない。自分の感覚では、一時間は歩いた気になっていた。

 突然私の目の前に、壁が現れた。足を止める間がなく、私はそれにぶつかった。御渦が立ち止まっていたのだ。

「なんや、迷ったんか?」

「いや、琵琶湖が見えるよ」

 御渦の視線の先を追うと、景観は急に開けていた。太陽を浴びた静かな水面が無数に輝いている。

 私は、くしゃくしゃに縮まっていた心が広げられたような、そんな爽快感を味わっていた。湖面から流れてくる冷えた風が、汗をかいた体を急速に冷やしていく。

 琵琶湖がこれほど広く、そして青いものとは思わなかった。

 ここ数日、沙耶と再会して以来の私は、驚き、喜び、嘆き、苦しんだ。以前の私は何に対しても無感動であり、例え世界自然遺産を目の前にしても、木があって、水がある、としか見ることができなかっただろう。しかし今の私は、過敏なほど心が反応する。凝り固まった感覚が、氷解したのだろうか。

「違うよ」

 並立して琵琶湖を眺めていた御渦が言った。

「何が、違うねんな」

「彼女と会ったからじゃない。こうして僕と、一緒に見ているから感動するのだよ」

「言うてる意味がわからへん」

 気丈に私は言い返したが、内心はうろたえている。御渦は、私の心の中が覗けるようだ。しかし、彼の言動が不可解であったことは事実である。

「何で自分と一緒に琵琶湖見たら感動すんねん。誰と見たって、一人で見たって、見える景色は同じやて」

「違うよ。感情を分かち合う人物がいるからこそ、感動が二倍三倍になったりするんだ。君がこの景色を見て心を震わせているのは、全く僕のおかげというわけだ」

 私は呆れ返り、気持ちの高ぶりも急速に萎んだ。結局彼が言いたいことが分からない。自分を売り込んでいるのか、感謝をされたがっているのか、若しくは、私と友達になりたいのか。なんにしても彼は失敗しているのだ。私は、御渦に対して不快感しか抱いていないからだ。まさか、それが目的ではないだろうかと考えたが、あまりに馬鹿らしく、私は苦しそうに笑った。

「さぞかし、綺麗な景色なのだろうね。どんな色が見えるんだ?」

 他人事のような御渦の感想に、私は即座に反応する。

「どんな色って、自分も見てるやないか。これ見て、綺麗や思わんの?」

「僕は、色が分からないんだ」

 突然の御渦の告白に面食らった。色が分からないということは、色弱だということだろうか。しかし、色弱とは、色の違いを判断し辛い症状であって、色が見えないというものではなかったと私は認識していた。

「言葉どおりにとらえてもらってかまわないよ。僕は、一切の色を見ることができない。全て白黒だ。生まれつきでね、正直皆が言う『色』という概念が理解できない。ものは濃いか薄いかの違いしか、僕にはみえないんだ」

 明るい口調のまま、御渦は語った。こんなとき、普通の大人はどのように対応するのだろうか。励ますのか、ただ受け止めるのか。そもそも、そんな症状が有り得るのか、私は知らない。単にかつがれているだけという可能性の方が高い気がした。それでも、からかうような発言を許さない気を、御渦は発していた。

 結局、何も言わないことにする。何も聞こえなかったそぶりで、私は琵琶湖の景色を見つめ続けた。

「ここからは琵琶湖に沿って歩くんだ。戸田夏子の家は、湖が一望できる一等地にあるはずだ。羨ましい限りだね。この景色を毎日堪能できるのだからね。ただ僕は完全な景色を記憶できるから、彼らと同様にいつでも何度でも味わえるのだけれどね。白黒だけど」

 私は黙って御渦の後を歩く。彼の言動をまともに受けるのは、ただ疲れるだけだということを、この数日で私は学んでいたのだった。

 それでも御渦は一人で喋り続けていた。内容は彼がこれまでに見た美しい景色の話である。白馬の高原、富士山、釧路湿原、那智の滝と、彼なりの解説を交えて語った。色など見えなくとも、景色のすばらしさは理解できると豪語している。しかし、全てが水墨画では飽きるだろうなと、私は感じていた。容姿、知識、欠点がないように見えた御渦にも、弱点があるものなのだなと、私は少しだけ彼に同情していた。

 ここで私は、会社のパソコンで営業提案書をプリントアウトしているときの状況を思い出していた。文字だらけの白黒印刷はすんなりと用紙を吐き出すプリンターだったが、グラフを盛り込んだカラー印刷のときは三倍近くの時間を要していた。つまり、色を加えることで、処理速度が大きく減退する。それだけ多くのデータ容量を必要とするのだ。御渦の場合もそうなのではないだろうか。抜群の記憶力を持ったが故、彼の脳はその色彩を捨てたのではなかろうか。そう考えれば、彼のいっていた記憶を失わないという異常能力は現実味を感じさせた。一度は自ら否定していたが、私は再び信じる、否、疑いはじめていた。しかし、その答えを求める問いを発する勇気はもてなかった。

 そうしてしばらく歩いていると、御渦が一軒の家を指差して言った。

「あれだ。戸田夏子の家」

 私たちの前に、黒光りする瓦屋根の屋敷が現れた。白壁の塀は高く、近づく者を威嚇しているようにも見える。私は根拠のない不安感を覚えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ