序章
赤ら顔の女の足は、転がるように歩を進める。
その不規則な靴の音が、朝を迎えたばかりの住宅街に響いた。
「飲みすぎちゃうんか、伸子」
大股で女の後を追う男が呼びかける。しかし女はカラカラと笑いながら、昨日夜半に降った雨の跡が残るアスファルトの上を右へ左へ、今にも転びそうに歩き続けた。 男の顔も先を歩く女に劣らず赤みを帯びているが、こちらの足取りは軍人の行進並みに毅然としたものだ。男のその鋭い目と筋肉質の体躯は、初見の者に玄人筋の人間と勘違されることが多々あったが、彼の職業はラーメン屋の雇われ店長だ。
「あら、篠沢はん。今お帰りでっか」
カーディガンを羽織っただけのパジャマ姿で、門の所まで朝刊を取りに出ていた中年男性が、汚いものを見る目で伸子に挨拶をよこす。カレンダーでは四月の中旬にさしかかっていたが、寒い日が続いていた。特に京都という町は朝が冷え込む。中年男は両手で身体を抱いて震えていたが、見事に禿げ上がった頭を上下させ、伸子を舐めるように見ていた。その眉間には、終始しわがよっている。
「ええ、仕事ですんで、仕方ありまへん」
半分閉じかけた目でみかえしつつ、伸子は中年男へ酒臭い息を吹きかけた。四十八歳にしては艶っぽい視線は、中年男性をいっそう不快にさせる。
「あんたさんもええ歳なんやさかい、そない無理して働かんでもええんとちゃいまっか」
「あら、無理なんてしてやしまへんて。おかげさんで、毎日面白うしております。なあ、あんた」
後ろを歩く男に視線を移し、再び伸子は笑い出す。禿頭とラーメン屋は短い間視線を交差させるが、双方苦笑いであった。禿頭は五十を間近にした男女の恋を笑い、ラーメン屋は近所の者だというだけの他人による、お節介な言動に呆れた。
「息子はんは立派やのになぁ……」
そう呟きながら、男は禿げ上がった頭を掻きながら家の中へ帰っていく。その男の言葉は、伸子にとって厭味でも蔑みでもなかった。むしろ喜びだ。酒を注ぎ、下品な話を繰り返すことを朝まで続けることで、一人息子を女手一つで育て上げたのだ。贅沢はできなかったが、大学も卒業させた。どこに出しても恥ずかしくない息子に育てた。だから、何に対しても我慢ができた。息子は宝であり、唯一の生きがいだ。自分がどれだけ世間から蔑まれようと、息子がいるからこそ、彼女は胸を張って生きることができるのだ。
「誠一君は、もう仕事に出かけた時間やろか」
伸子の腕を支え、ラーメン屋は問う。伸子の子である誠一とは、何度も会い話もしていた。近い将来籍を入れるつもりがあることも伝えてある。息子の誠一は、その申し出を快く祝福してくれていた。それでも、男にはその家に上がりにくい理由があった。伸子はその理由を遠慮であると決め付け、いつも強引に家に上げるのだった。
「まだ家におると思うよ。もう、そない気にせんでええんよ。あの子、あんたのこと好きやって言うてるんやから」
男の表情が陰ったことから、その思いを察した伸子がこたえた。そして、男の厚い胸板を拳で二度叩く。
「しかし、彼も今は大事な時期やからな。俺たちのことで、変な迷惑はかけたないし」
途端、伸子の顔から笑いが消えた。彼女は今、大きな問題を抱えている。それは、最愛の息子の結婚話であった。息子は二十九歳。いくら溺愛しているからといっても、いつまでも一人身でいさせるわけにはいかない。当人同士が望むのであれば、結婚を許し、祝福しなければならないだろう。それくらいの覚悟は、伸子にもできている。しかし、その相手が問題だった。
息子の婚約相手は容姿が良かった。自分の息子とは不釣合だと認めたくなるほど、整った顔立ちをしていた。言葉遣いも正しく知性があり、笑顔も明るい。何度か手づくり料理を食べてみたが、その腕も良いようだ。女性の社会進出が叫ばれて久しいこの時代に、働いた経験がないということを除けば、なんら問題のない女性である。
しかし、伸子はその婚約者を好きになれなかった。
何故なのか。伸子は何度も自問したがこたえがでない。生理的に受け付けないのか、それとも単なる母親の僻みなのか。ただ、その女を見ると、何かに苛つくのだ。その何かを彼女は言葉にすることができない。強いて表現するならば『恐怖』である。そう、伸子はその婚約者に対して脅えていたのだ。何か、その女が不幸を運んでくる。そんな気配を女の勘として感じていた。
それに、彼女は理解しきれなかった。インターネットの掲示板などという、架空の世界で知り合った男女の関係などは。
「どないしてん。具合、悪いんか?」
伸子は真っ青な顔をしていたようだ。男が肩を抱き、心配そうに伸子の顔を覗き込んでいる。
息子の婚約者を考えることで、伸子の酔いは急速に醒めつつあった。
「なんもないけど、早く帰ろ。私、いやな胸騒ぎがすんねん」
伸子の家は二階建ての一軒家だ。誠一が生まれたばかりの頃、亡き夫が建てた家だった。誠一が五歳のときに不慮の事故でこの世を去った夫が、唯一残してくれた財産。この家があったからこそ、伸子は一人で息子を育て上げることができたのだ。築二十五年を越えたあたりから、壁にひび割れが目立つようになってきたが、暮らすには問題ない。そして何より、亡き夫の記憶と、誠一と過ごした思い出が詰まった家である。
そんな我が家を前にして、伸子が今のような不吉な思いを抱いたのは、夫が事故に遭ったと報告を受けたとき以来だった。入院の必要があると知らされ、家まで着替えを取りにきた。夫は伸子が着替えを持って病院に向かっているあいだ、容態が急変し帰らぬ人となっていた。
玄関の鍵は閉められていた。普段ならば、誠一は朝六時半には日課としているジョギングから帰り、熱いコーヒーをすすりながら新聞を読んでいる時間である。これまでに施錠されていたことは極めて稀であった。風邪などで体調が悪い日にはジョギングをサボるが、年に一日あるかないかのことである。たとえ日曜日でも、誠一はこの習慣を守っていた。
震える手でハンドバックから鍵束を取り出し、伸子は玄関の鍵を開ける。
扉を開けて先ず目に付いたのは、赤いラインの入ったスニーカーである。伸子はその靴に見覚えがあった。それは、誠一の婚約者のものである。息子の白いランニングシューズに並んで、きちんと揃えて置かれていた。
伸子は、自分の頭に血が上っていくのを感じた。酒は見開かれた目から抜け、頭は完全に覚醒する。
昨夜は面倒な仕込みがあったため、伸子は普段よりも早い時間に家を出た。誠一の婚約者は夜に訪れることが時折あったが、それでも伸子が祇園の店に出勤する七時過ぎには帰るようにさせていた。外で二人がどこへ行こうとなにをしようと構わないが、この家にいる限りは、二人きりで夜を過ごさせることを伸子は許さなかった。
それなのに、自分がいないことをこれ幸いと、あの女はぬけぬけとこの家に上がり込み、のうのうと一晩を過ごしたのだ。誠一がジョギングをサボった理由は、それなのだろうと、伸子は確信した。
伸子は乱暴にヒールを脱いだあと、息子と仲良く並んでいたスニーカーを蹴飛ばす。そして、意図的に足音を響かせながら廊下を進む。案の定、居間には誰もいなかった。伸子は歩みをゆるめることなく、そのままの勢いで階段を駆け上がった。足音を聞きつけた女が、慌ててベッドから起き上がる光景を思い浮かべ、伸子は密かに笑った。女は裸かもしれない。整った顔が、焦り、歪む様を望んだ。
「誠一! 誠一ちゃん。今帰ったよ。何やの? あんた具合悪いんか?」
誠一の部屋の前に立ち、伸子は拳で戸を叩く。薄いベニア板を重ねてつくられているその戸は、伸子が叩く度に軋み、細かな埃を放出した。
先ず、冷や汗をかいた息子が顔を出すことを伸子は予想していた。しかし、反応は全くなかった。物音一つ、うめき声一つ聞こえない。一瞬、間の悪い静寂が伸子を包む。
伸子の怒りは加速した。自分の居ぬ間に盗人のごとく家に忍び込んでおきながら、存在を無視するかのごとく対応されている。伸子は更に力を入れて戸を叩いた。
「ちょっと。起きなさい。さっさとこの戸を開けなさい!」
穴があくほど戸を叩いたが、やはり反応はなかった。
伸子は戸のノブに手を伸ばす。今までは息子のプライバシーを尊重して、勝手にそのノブを回したことはなかったが、このときの伸子にそんなことを悠長に考えている余裕はなかった。
しかし、ノブは回らない。間違いなく施錠されていた。その部屋は、元々亡き夫の書斎としてつくられ、鍵が付けられていたのだ。部屋の内側から、ノブの中心のボタンを押すタイプの鍵だった。外に鍵穴はなく、息子が部屋の中にいるのは確実である。
再度伸子は戸を叩く。何度も何度も叩いた。怒りの感情は次第に薄まり、代わって不安感が伸子を支配しはじめていた。愛する息子の身に、何事かが起きている。やがてその騒ぎを不信に思ったラーメン屋も二階に上がってきて、二人で声を出した。伸子は心配のあまり、半狂乱となって騒ぎはじめる。
「壊してもええか?」
伸子に了解を得ると、ラーメン屋は戸に体当たりをはじめた。二度、三度。戸は見かけ以上に頑丈で、なかなか開く気配がない。体当りを続けながら、ラーメン屋は伸子に語りかける。話しかけなければ、彼の恋人は正気を失いそうだった。伸子は中に息子とその婚約者がいることを信じきっているが、中には誰もいないのだろう。靴があっても、別の靴を履いて出かけているのだろう。前日に互いに新しい靴を買ってきていないと何故言えるのか。そうでなければ、この静けさは異常である。鍵は、なにかの拍子に自然と施錠されてしまっただけだ。
話しても伸子は落ち着くそぶりを見せなかった。伸子の気がすむのならと、男はいっそう力を込めて、戸にぶつかっていった。。
大柄なラーメン屋がぶつかる毎に、戸は悲鳴を上げた。六回目か七回目で、木が裂ける音がした。そこから更にラーメン屋は、足で蹴ること五回、ようやく戸は破壊された。
伸子は戸が開くと同時に部屋に飛び込んだ。そうして先ず、ベッドに呆然として座る、息子の婚約者をみつけた。普段は整った顔立ちのその女が、弛緩した表情でただ座っている。その衣服に乱れはなく、ただ、ポスター一つ貼られていない部屋の白壁を眺めていた。口が僅かに開いている。
「あんた! おるんやったら、何で返事一つせえへんの? 誠一ちゃんは何処行ってん?」
ベッドに座る女の視線がゆっくりと動き、伸子を捕らえた。その瞳は、なんの意思もない、単なる穴に見えた。
気味の悪さに、伸子がその視線から逃れようと首を曲げた、その瞬間だった。
伸子は、自分の足元に黒いシミが広がっていることに気づく。そして、その中心に頭があった。うつ伏せで倒れている、男の頭だった。
それが、愛する我が子のものだと分かると、伸子は声にならない悲鳴を上げた。彼女にとってそれは、世界の終焉にも等しいものであったのだ。




