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 四月十六日水曜日は、雲ひとつない晴天だった。

 私は朝、会社に電話をかけ、二日連続の有給休暇を貰った。風邪を引いたと嘘をついた。上司の声は予想どおり、昨日とは違って不機嫌なものに変わっていた。当然だろう。新入社員だった昨年の私は、一日たりとも会社を休まなかった。三十九度の熱が出たときも出社したし、本来会社の規定で必ず取らねばならない有給休暇も、私は書面上休んだことにして仕事をこなしていたのだ。

 そんな私が二日連続で休んだことを、上司は訝しんでいることだろう。それとも、警察から全てを聞いており、同情してくれているのだろうか。どちらにせよ、私は会社での立場を悪化させている。

 しかし、そんなことは些細なことだ。極端な話、職は変えられる。でも沙耶の代わりはいないのだ。

 今日も御渦と、朝から行動を共にする。昨日のように服装の指示がなかったため、ジーンズに白シャツで、ブレザーを羽織ってきた。カジュアルではあるが、人と会っても失礼に当たらない範疇と、自分なりに気を使った結果の選択だ。

 例の喫茶店『カンザス』で朝九時に待ち合わせる。約束の時刻十分前に店に入っていた私は、トーストが付いたモーニングセットを注文し、各社の朝刊に目を通した。沙耶の事件について新しい情報はなく、引き続き容疑者の取調べが進められているという小さな記事しかみあたらなかった。

 ふと気付くと、周りにいたはずのサラリーマンの姿が消えていた。皆、それぞれの仕事に向かったのだ。店内には、私と初老の男が残っている。初老の男は定年退職し、自由な時間を謳歌しているのだろうが、私は場違いな空気を感じていた。世の中の時間は動き出しているというのに、私の周りは止まっている感じがしてならない。取り残されているというよりも、傍観者の視点であろうか。おそらく御渦宗茂という男は、常にこのような視点に立っているのだろうと思われた。

 戸が開き、鈍い鐘の音が店内に広がる。長身の御渦が勢い良く入店した。私の姿をさがすのだろうと思われたが、彼ははじめからまっすぐに――私がその席にいることが、予め分かっていたように――向かってくる。そう、彼には『迷い』というものが一切ないのだった。

「何事も、慎重な男だね」

 店の柱にかかっている時計を指差し、御渦が言った。時計の針はちょうど九時を指し示している。私が時間より早く、待ち合わせ場所にやってきていることに対して言っているのだろう。普通に解釈すれば褒め言葉なのだろうが、私は素直に受け取ることができなかった。

「自分こそ、時間通りにきとるやないか」

 私の声には棘があった。自由に生きているように見える御渦から言われたことが、厭味に聞こえたのだ。たった一日二日の休みも、気軽に取ることができない身分が、その切欠だったのかもしれない。

「何を怒っているのか知らないが、仲良くしようじゃないか。多分、今日一日我慢すれば、僕たちの目的は達成されるからさ」

 事も無げに言った御渦の言葉が、私を再び混乱させる。私は未だ、この事件について何一つ分かっていない。それでも彼は言うのだ、今日解決すると。事件の真相を解明することが私の目的であるわけであるが、実際にその目的が目の前に迫っているといわれても、何も実感が持てない。実感が持てないにも関わらず、恐怖心だけは明確に生まれている。もしその結果が、私の目指すものでなかったとき、私はどうなってしまうのだろうか。私は全てを失う気がする。元々私は、何も持っていなかった。何も持っていなかったからこそ、手にしたものを失う恐怖がなかった。ただ単に、空虚な自分の人生を終わらせたいと考えていれば良かったのだ。しかし今の私は、僅かな時間ではあったが彼女を手にした。手にしたという表現は適切ではないのだろう。たった数日の間同じ部屋で過ごし、一度だけ体を合わせただけだ。たとえその数値が百倍になっても、彼女を手にすることなどできないのかもしれない。しかし、幻想であろうと、私は彼女を一度は手にしたと信じている。そして、もう一度彼女を手にするのだ。

 御渦は私と同じモーニングセットを注文した。そして、私と御渦の注文の品がテーブルに並べられたのはほぼ同時であった。御渦はジャムをたっぷり塗ったトーストにかぶりつきながら、私が持ってきた新聞を読みはじめる。否、読んでいるという表現は間違っていた。彼は眺めていただけだ。パラパラと紙面をめくり、次の新聞に手を伸ばす。二つの目玉がグルグル回り、一紙を二十秒も見ていない。

「それで、分かるんか? ちゃんと読めとるん?」

 コーヒーを浮かせながら、私は聞いた。

「いいや、読んでないよ。ページを記憶しているだけさ。内容は、後でゆっくり読むんだ」

 意味が分からない。好意的に解釈すると、彼は紙面を絵として記憶し、後からその絵に書いてある文字を読み取る、ということだろうか。しかし、そのような芸当が本当にできるとは到底信じられない。

 彼の話を言葉通りに受け止めていては、まともな会話が成り立たない。私は彼の記憶自慢を受け流し、御渦の格好に注目した。

 グレイのスーツに、胸が広く開いた純白のシャツ。襟がやけに大きく、胸元に金のチェーンが光っている。昨日は結ってまとまっていた髪を自由にしており、彼がトーストに食いつく度、揺れる髪の毛も一緒に食べてしまうのではと、見ていてヒヤヒヤさせられる。

 一見すると、梅田界隈にみられるホストのようであった。彼の黒髪を茶色に染め上げれば、このままホストクラブで違和感なく働けるだろう。

 御渦は私の視線を払いのけるかのように、トーストのカスがついた手をスーツの裾で払い落とす。

 御渦から視線を外した私は、沙耶の事を思い描いた。こうして私たちがのんびりとコーヒーをすすっている間にも、彼女は苦しんでいるのだろう。不安と恐怖に震えているはずだ。一度考えはじめると、腰の辺りがむず痒くなり、すぐにでも彼女の下へ駆けつけてやりたい衝動にかられた。

 沙耶の長いまつげが、涙で濡れる。白い頬は更に血の気を失い、人生に絶望している目には力がない。唇の色も薄く、肌も荒れて、光沢のあった髪も乱れている。そんな彼女の姿が思い描かれる。それでも、彼女は美しかった。

「それで、今日の予定なんだが、良いかな?」

 珍しく遠慮気味に御渦が声をかけてきた。まるで、私の夢想を見透かしていたようだ。

 私は返事の代わりに、御渦の涼しげな瞳をしっかりとみかえす。

「昨日も話したが、今日は浅野沙耶と邦夫の母親、戸田夏子に会いに行く。知っているとは思うけど、彼女は再婚して今の戸田姓を名乗っている。二人の子供は新しい父親の籍に入ることを拒否して、亡き実父の姓を名乗ったわけだ。その戸田夏子は、現在滋賀県の大津市に住んでいる。住所はある筋から聞いているから、今回も迷うことはないと思ってくれて良い」

 ある筋とは、どの筋なのだろうか。私には想像もできなかったが、彼の広い人脈からもたらされたものなのだろう。

 彼の人脈という言葉で、私は一人の大きな男を思い起こした。私を警察へと連れて行った、あの山根という刑事である。

「なんだい君、まるで、愛する女性が無実の罪で警察に拘束されているかのような顔をしてるぜ」

 彼流の冗談なのだろうが、私はクスリとも笑うことができない。私が睨みつけると、御渦はヘラヘラとした笑みを消した。

「あの、山根いう刑事から、なんか聞いてへんのか? その、浅野さんのこと」

「ああ、そのことね」

 昨日の晩に見た、再放送ドラマの内容を語るような御渦の口ぶりである。腹が立ったが、私は耐えて続く彼の言葉を待った。

「聞いているよ。元気だそうだ」

「それだけか?」

 つい声が大きくなり、店内に私の声が響いたが、私たち以外で唯一の客である初老の男は、スポーツ新聞から目を離す様子はみられない。

「もっとこう、なんか、具体的な様子は聞いてへんのかい」

 御渦はタバコを一本抜き取り火を付けると、急に真面目な顔に豹変した。

「彼女は、何一つ供述していないらしいよ。彼女が口にする言葉、それは『憶えていない』だそうだ」

 勢い良く煙を吐き出すと、冷めかけたコーヒーをすすり、御渦は話を続ける。

「兄である邦夫が自分をあの家に送り届け、十七時過ぎに帰って行ったことまでは憶えているという。しかしその後、犯行時刻を含む約十二時間、翌朝伊藤と篠沢伸子に発見されるまでの間、一切何も憶えていないと言っている。警察はこの供述を、虚言だと見ているがね」

「そんな、彼女はなんらかのショックを受けたんや。そやから、記憶が飛んでるんやないかな。虚言やなんて、あんまりや」

「しかし、考えてごらん。いくらショックを受けたと言っても、その大切な時間を都合良く失っているなんてことあるのかね。僕としてはあまりにも、彼女に都合が良いような気がするんだけどね」

 沙耶は現在留置所に拘束されているのだ。どこが都合が良いものだろうか。私には理解できない。彼女が記憶を完全に持っているのなら、今頃は自由の身になっているはずなのだ。

 そう考えた途端、私の灰色の脳みそに一筋の光が射した。そうだ。そうなんだ。

「そうや。分かった。浅野さんは、誰かをかばってるん違うか? だから、何も憶えていないなんて嘘を付くんや。彼女にとって、大切な人が不利になるから……」

「さっき君は、『虚言ヤナンテアンマリヤ』と言っていたじゃないか」

 御渦は私の口真似が上手かった。

 彼の指摘はもっともだったが、私は構わず話を進める。

「自分こそ言うたやないか。『時間を都合よく失っているのはおかしい』って。彼女が誰かを庇っているとしたら、全ての筋が通る。事件の後すぐに逃げださなかったのも、その庇いたい人物の罪を自分が被るつもりだったんや。でも直前になって、彼女は怖くなってしまった。だから逃げ出した。どうや。そして、その庇いたい人物こそ……」

「止めろ!」

 先に私が出した驚きの声に数倍する、御渦の怒声であった。今度はさすがに初老の男も顔を上げ、私たちの様子を窺っている。

 私は蛇に睨まれた蛙となり、吐きかけた言葉を飲み込むしかなかった。

「君の推測には何一つ根拠がない。それは推理ではなくて憶測だよ。自分の都合が良いように事象を構築してはならない。ましてこの事件は殺人事件だ。その犯人は重い罪を架せられることとなる。安易に人を疑うべきじゃない」

 御渦の気迫に一瞬圧倒された私であったが、彼の言葉には納得できない。彼や警察は、安易に沙耶を疑っているのではないだろうか。たんなる状況証拠で、彼女を貶めようとしているのではないだろうか。加えて、憶測と言われた私の説は、それほどおかしなものではないだろう。そうだ、あいつが真犯人なのだ。確たる証拠はないが、いずれみつけてみせる。

「そんな嘘でつくられた幸せは、どうせ長続きしないさ。結論を出すのはもう少し先で良いはずだ」

 何故か悲しそうな顔で、御渦は私を諭す。しかし私は、彼の言葉の意味が理解できなかった。ただ私は、自分ではじめて描いた事件の道筋に酔っていた。

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