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 住所は知っていたが、この場に立ったことはない。浅野沙耶の家。床面積百五十平米はあると思われる大きな家だ。比較的密集した住宅街にあるが、邦夫は構う事無くエンジンを吹かしながら、スムーズに車庫に入る。

 大学生になって免許を取得してから、父の車を借りて二三度、この家の前を通ったことがある。その都度、無意識の内にアクセルを緩めてしまい、後続車両があったときはクラクションを鳴らされた。私はいつも、奇跡的な幸運に期待していたのだ。私が車で走りぬけるとき、彼女が家から出てくる。私が求める幸運とは、そのとき、一瞬であっても、沙耶の顔を見ること、ただそれだけだったのだ。勿論、彼女が東京へ引っ越していたことは知っていた、その上での話しである。

「誰もいないから、遠慮せず入ってくれ」

 現在の世帯主であろうと思われる浅野邦夫が、我々を招き入れる。

 外壁は全てレンガで覆われており、モダンな雰囲気を漂わせる家だ。私は緊張しながら、玄関へと足を踏み入れた。

 この家に入ることを、何度も夢に見た。私は沙耶に手を引かれ、家族に紹介される。そして、ぬいぐるみがたくさん並んだ、女の子らしい彼女の部屋へと通されるのだ。彼女は子供っぽい部屋を恥じて赤くなる。そして、沙耶の母親がケーキと紅茶を出してくれる。しかし現実は、私は得体の知れぬ男と行動を共にしており、沙耶は留置所の中にいる。大きな違いだ。

 夢との違いは状況だけではない。思い描いていた景色とは色が違う。屋内に入って先ず感じたものは、家具の少なさである。家具ばかりか、装飾品の類が全くといっていいほどない家であった。まるで、モデルハウスである。モデルハウスならば見栄えを考え、観葉植物のひとつやふたつはあるものだが、そうした飾り気が一切ない空間である。

 十坪はある広い居間へと通される。ソファーセットとダイニングテーブル、そして重厚な食器棚が一つ置かれただけの、やはりシンプルな家である。本棚もオーディオも、テレビすらない。生活臭というものが全く感じられなかった。

「ソファーにでも腰掛けて待っていてくれ。私は上で着替えてくるから」

 御渦と私を残し、邦夫は二階へと上がっていく。私は言われたとおり、おとなしくソファーの一つに座った。黒い革張りのソファーで高級感はあったが、座り心地のよいものではなかった。一方御渦は座ることなく、居間の中を歩き回っている。長い体を折り曲げて、壁紙から床板まで、舐めるように眺めていた。

「すごいすごい。こんなおかしな家ははじめてだ。君、見たことあるかいこんな部屋。何もないじゃないか」

 御渦の声が以上に響く。物のない部屋は、音が吸収されることなく反響するのだ。私は今のワンルームマンションに引っ越したばかりの頃を思い出していた。はじめての一人暮らしで、まだ家具をそろえていない時分は、今のように声がよく響いていた。

「なに失礼なこと言うてるんや。自分の部屋も似たようなもんやったやないか」

 何もない部屋ならば、御渦のアパートも負けてはいなかった。

「僕の部屋は、最低限の物に囲まれて暮らしたいという、僕の特殊な事情からだよ。僕以外の人間がこんな何もない部屋に暮らしてるのは異常だね」

「勝手なことばっかり言うてるな自分。これだけ大きな家に二人きりで住んでいたんや。実際の生活の場は二階にあって、ここは殆ど使っていないせいやないかな」

 私なりの解釈を披露するが、御渦は私を無視して、フローリングの床を丹念に調べていた。

「三年前にここの父親が亡くなるまでは、親子四人が暮らしていたんだろ。見てみろよ、家具が置かれていた跡がいたるところに残っているよ」

 凡そ一畳分のスペースが、日焼けしたように変色していた。実際は、それ以外の部分が長い歳月によって変色したものなのだろう。

「使う人がいなくなったから処分した。そのどこがおかしい?」

「ならば君は、親が死んだからといって、その親が使っていた家具や家電を処分するかい? そりゃ、多少は捨てるだろうけど、その痕跡が全くみえなくなるほど、徹底して片付けるかね。見てごらん。ここには何もないんだよ。まるで、最初からなかったみたいにね」

 御渦に言われ、私は改めて部屋の中を見渡した。よく見ると、カーテンすらかけられていない。食器棚の中身も、空いたスペースが目立っている。どうやら本当に二人分の食器しか揃えられていないようだ。この家は本当に、邦夫と沙耶だけの、二人だけの空間なのだ。

 漠然とした気味悪さを感じつつ部屋を見回しているうちに、視界の中に黒い人型のシルエットが入った。私がビクリと体を痙攣させて立ち上がると、人型はゆっくりとこちらへ進んできた。カーテンのない窓からの直射日光を受けて、浅野邦夫の姿が浮かび上がる。

「お待たせした」

 スーツから紺のポロとジーンズに着替えた邦夫が、私の隣にどさりと座った。

「疲れているんだ。すまないが、さっさと質問とやらをはじめてくれないか。ああ、先に言っておくが、もちろんこたえられない内容もあるよ」

 御渦をみつめ、邦夫は言う。交渉相手は御渦のみであり、私はその付属品であると認識しているようだった。そしてそれは正しい判断だ。

「では、さっそく聞かせてください。あなたにとって、妹の沙耶さんはなんですか」

 唐突に質問をはじめた御渦の言葉に、部屋の空気が淀んでいくのが感じられた。

「なんですかって、どういう意味?」

 邦夫が問い返す。

「あまりに漠然とした問いかけでしたね。言い方を変えましょう。沙耶さんはどのような女性なのでしょうか。この中井という男は彼女をよく知っているようですが、私は一度しかお話したことがないのです。できればお兄さんから、沙耶さんという人物を教えて欲しいのです」

「それを君に語ることで、事件は解決するのかね」

「おそらく……は」

 曖昧な御渦のこたえであったが、その口調は自信に満ちている。代わりに私が同じ言葉でこたえていれば、すぐにでも我々はこの家から追い返されていることだろう。

 しばしの間天を見上げてから長いため息を吐き、邦夫は話しはじめる。

「あいつは、一言で言えば『子供』だ。いい年をして職にも就かず、私の扶養家族になっている。家事手伝いが肩書きとして通用したのはうん十年も前の話なのにね。今の言葉で言えば、ニートというやつだな。ただ単に社会的に自立できていないだけじゃない。沙耶は、本当に子供なんだ。わがままでいい加減。駄々をこねれば誰かがなんとかしてくれると考えている。概ね、その役目は私が負っていたのだがね。半年くらい前にこんなことがあった。私の車で沙耶がドライブへ行くと言い出した。あいつはペーパードライバーでね、私は反対したんだ。でもあいつは私が寝ている間に、勝手に鍵を持ち出して、車に乗ってでかけてしまった。まあ、玄関に鍵を置きっぱなしにしていた私にも責任があるのだろけどね。案の定、五キロ走った程度で事故を起こしたよ。他の車との軽い接触事故だったけど、沙耶は全てを相手の車のせいにしようとした。警察が下した責任分担は八対二、当然こちらが八だ。実際沙耶が、無謀な割り込みを行ったようだよ。私の自動車保険から慰謝料も払った。そのくせあいつは、私に詫びの一つもしていない。信じられるかい?」

 私が思い描いていた沙耶とは、全く異なった人物が邦夫の口から語られた。

 一度口を開くと、邦夫は饒舌だった。一気に語り終え、ソファーに深く座り直す。そして、次はなんださっさとしろ、といわんばかりに、掌を上にした右手を御渦へ伸ばした。掌が白くなるほど、邦夫の手には指の先まで力が入っている。

「そんな具合では、沙耶さんが結婚をしようとしていたのは、お兄さんとしてはさぞご心配だったのではないですか」

「勿論さ。家にいたって家事なんて全然していなかった女が、結婚なんて信じられんよ」

「お兄さんは、結婚には反対してらしたのですか?」

「まぁ、当初はね。だけど結局は、あの二人に押し切られる形で認めたさ。結婚式の費用も、誠一君が全部出すと言ってくれたしね。そこまで言われたら、私にはどうしようもない。厄介者が一人片付くと思えば、それもいいかなって思ったよ。誠一君には気の毒だけどね」

 邦夫は自虐的な笑いをみせる。見ていて不快になる、頬が引き攣った笑い顔だ。

「気の毒? 愛し合っている二人が結ばれるのに、気の毒なんですか?」

 問いを続ける御渦の顔色は全く変わらない。私には、カウンセラーと相談者のような様子に見えた。勿論、御渦がカウンセラーの役である。

「そうだ。気の毒だね。二三ヶ月はいいだろう。でもね、沙耶は家事をするような女じゃない。料理だけは多少うちの母に仕込まれていたが、それ以外は全く駄目だ。一度あいつの部屋をみせてやりたいよ。散らかっているなんて言葉じゃ生易しいね。それに……」

「それに……?」

 早口でまくし立てていた邦夫のトーンが急に落ちる。

「君たちは、沙耶の無実を証明しようとしてくれているんだったね。なら、こんなことは言わない方がいいかな……」

「教えて下さい。プライバシーは守りますよ」

 御渦が促すと、邦夫は長く息を吐いてから口を開く。

「あいつは、アルコール依存症だったんだ」

 兄の声は空虚なリビングに冷たく響いた。

「ほんの一週間だが、入院したこともあるくらいの重症だよ。医者である私が傍にいながら、まったく恥ずかしいかぎりだけどね」

 そう言って、邦夫は再び引きつった、自虐的な微笑みを浮かべた。

 アルコール依存症。沙耶と過ごした時間は短かったが、これが思い当たる節は多々ある。彼女の手には常に酒があったような気がする。しかし、入院しなければならない程進んだアルコール依存症とは、思いもよらない重症だ。あの明るく輝いた存在である沙耶が、酒を切らすと手を震わせ、ベッドに縛り付けられてしまうのか。そんな姿が、どうしても私には想像ができない。

「それは、完治していたのですか?」

 喫茶店で出会ったとき、御渦は彼女がビールをぐいぐい飲んでいる姿を見ている。彼は、こたえを知っていながら質問しているのだろう。

「いやいや、全然さ。何より本人に治す意欲がない。私が酒をどこに隠しても、いつの間にかみつけ出して飲んでいるんだ。完治には長い時間が必要だ」

 まるで他人事のように、淡々と邦夫は語った。

 この兄と妹は、いったいどのような関係なのだろうか。世には様々な兄弟・姉妹があるが、邦夫と沙耶はどの種のものか、今の段階では判断できなかった。

「その話、篠沢さんはご存知だったのですか?」

「誠一君は知っていたよ。あの母親はどうか知らないがね。多分誠一君は話していなかったんだろう。知っていたら、もっと強固に反対していたはずだよ」

「母親の伸子さん。彼女はあなたに対して好意的だったようですね」

「ああ、私に対しては猫なで声で接してくれたよ。あんなタイプの女性は苦手なんだがね、あいつのためにずいぶん我慢したよ。それが、こんな結果になってしまって」

「こんな結果とは、つまり」

「それを、私の口から言わせたいのか?」

 噛み付きそうな勢いで、邦夫は私たちを睨み付けた。

 膝の上で組んだ手を、邦夫は落ち着きなく動かしはじめる。

「話を変えましょう。沙耶さんの経歴を教えてくれませんか。大学を出てこの家に帰ってくるまで、今ひとつ不透明なんですよね」

 邦夫の手の動きが止まった。

「大学は無事に卒業できたんだ。だが、就職はできなかった。私はすぐに帰ってこいと言ったのだけど、あいつは横浜か東京に住みたがった。あのまま放っておいたならば、風俗で働きかねなかった。だから私は、半ば強制的に、この京都へ連れ帰ったんだ」

「学生時代から、沙耶さんはアルコールに溺れていたんですか」

「いや、その頃はたんに、酒が好きなだけだった。明確に中毒症状になったのは、こちらに帰ってきてからかな」

「あなたは、妹さんがアル中になった原因はなんだと思います? 医者としてではなく、兄としての立場でお聞かせください」

 邦夫は天井を見上げ、言葉を選んでいるようだった。

「やはり、就職に失敗したことが一番の原因なんだろうな。あいつは人一倍自尊心の強い女だから、周りの友人が次々に社会人として自立して行く中、自分が取り残されたと感じたんだろう」

 私からみれば、一点の曇りもない完全な存在であった沙耶が、劣等感にさいなまれたとは、にわかには信じられなかった。

「今度は医者の立場としてこたえてくれますか? アルコール依存症が殺人事件のきっかけとなる可能性は高いのでしょうか」

「おいおい、君たちは沙耶の無実を証明しようとしてるんじゃなかったのか? まあいいけどね。可能性は皆無じゃあない。でも、あいつの場合には考えられないかな。先ず女の力じゃ、暴れても押さえつけることができる。沙耶は飲んで暴れるようなことはなかったが、そうならないとも言い切れない。でも、例え大暴れしたとしても、人を殺めるほどの力がだせたとは思えない。あの誠一君は毎朝のジョギングを欠かさないようなスポーツマンだ。沙耶が殺すことができたとは考え難いね」

「そうだ、一番大事な質問を忘れていました。邦夫さんは、妹の沙耶さんが無実だと信じていますか?」

 突然に声のトーンを上げ、御渦は聞く。目を丸くし、邦夫はまっすぐに御渦を捕らえる。

「正直に言うと、信じてないよ。今私には、肉親と呼べる存在は沙耶だけなんだ。その肉親を信じてやらねばとは思っているが、状況から判断してそれは難しい。沙耶は、内側から施錠された部屋の中に、誠一君の死体と一緒にいたのだからね。あいつがアル中だということも警察はとっくに知っている。まぁ、私が話したんだけどね」

 私は、再び邦夫の重ねあった指が動き出すのを見逃さなかった。

「私なりに、色々なシチュエーションを考えてもみたさ。強盗が押し入ってきた。誠一君を何者かが恨んでいた。女関係でもいい。遊ばれて捨てられた、とかね。でも、誠一君が死んだ後の数時間を同じ部屋で過ごし、発覚した途端に逃げ出してしまった沙耶は、自らの犯行だと訴えているのと同じじゃないか。こうして君たちの相手をしているが、実は私はもう、とっくに諦めているよ。あとはよい弁護士をつけてやり、少しでも刑を軽くしてやることしかできないね」

「ならば、沙耶さんが犯人だとすると、どのような動機が考えられます? 警察が掴んでいる情報では、沙耶さんと篠沢誠一さんの仲は良好だったようです。先ほど伺った話からも、母親の伸子さんとの問題があったことは分かりましたが、沙耶さんが抱く殺意の理由が全くみえてこない」

「そんなこと、私に聞かれても分からないよ。それこそ、本人に聞いてくれ。いくら血の繋がった兄妹だといっても、結局は他人なんだからね。あいつが何を考えていたかなんて知らないさ」

 いい加減うんざりしてきたのだろうか、邦夫の口調には投げやりな匂いがした。

 ここまでの印象として、この邦夫という沙耶の兄は、妹を救いたいという気持ちがないように思われる。それどころか、厄介者がいなくなり清々しているという態度だ。次第に、私の精神は黒く塗りつぶされてゆく。

 あの美しい沙耶が、冤罪で拘束されているというのに、実の兄であるこの男が、何故にこのように落ち着き払い、我々の問いに面倒くさげにこたえているのか。

 一言意見してやろうと腹に力を入れた途端、横から御渦がまた喋りはじめる。私は文句を言うタイミングを失った。

「ところで、あなたは犯行時刻、十日から十一日にかけての時間帯、どこにいらしたのでしょうか?」

 一瞬で、邦夫の顔に影が射す。

「まさか、私を疑うのか? 不愉快だね」

 と言いつつも、邦夫は私たちを家から追い出すような気配をみせなかった。大人ぶっているのか、それとも後ろめたいことでもあるのだろうか。私は後者に期待する。

「警察にも聞かれたよ。質問はしきたりみたいなもんだと言われたが、私に寄せる関心は高いものだったよ。いいさ。同じことをこたえてやろう」

 顔は険しいままだったが、何かしらの余裕が伺える表情だった。邦夫は目を閉じ、記憶の整理をはじめた。

「篠沢さんの家を出たのが、夕方の五時三十分前後だったと思う。家に帰ったとき、テレビで六時のニュースが始まっていたから、多分そのくらいだろう。そのニュースの中身も、警察に話したよ。君たちにも話そうか?」

「6チャンネルのニュースでしょ。開始六分三十五秒、女性キャスターが読む原稿を間違えて、画面に出ている映像と一致しなかったシーンが印象的でした」

 と、御渦が合いの手を入れる。

「ああ、その話を警察にしたよ」

 微笑を浮かべて、邦夫は続けた。御渦の細かすぎる記憶は、聞き流したようだ。

「それからは、ずっと家にいたよ。自分で夕食を用意し、一人で食べた。六時のニュース以外はテレビもみず、音楽を聴いていた。それから風呂に入り、あの日は早めに寝たんだ。十二時にはベッドに入っていた。刑事さんが言っていたが、私が音楽を九時過ぎまで聴いていたということは、隣の人が証言してくれている。勿論、そこに私自身がいたかいないかまでは、立証してくれないけどね」

「あなたが寝るまで、誰とも会っていないのですね」

「ああ、誰とも会ってはいないが、電話はかかってきたよ。十一時を過ぎたあたりかな。母からだった。知ってるかな、私たちの母は再婚して、別の姓を名乗り別の家で暮らしてるんだ。たまに思い出したように、電話してくるんだよ。携帯電話ではなく、家にある固定電話にかけてきたんだ。そのときの通話記録は、警察が調べてくれたみたいだよ」

 邦夫の自信に満ちた言動は、どこからきているのだろうか。今聴いた話の内容では、邦夫は犯行時刻における自らの所在証明が全くできていない。彼は二十三時あたりに家にいた。ただそれだけが立証されたに過ぎない。この家から岩倉にある篠沢の家まではほぼ京都市を縦断する距離があるが、彼のアウディを使えばなんの問題もない。時間帯も考慮すれば、三十分もあれば確実にたどり着ける。邦夫の荒っぽい運転を考えれば、二十分、否十五分も可能だ。

 つまり、電話を切ってから家を出ても、午前零時前の犯行時刻に間に合う時間は余るほどにあったのだ。

「電話では、どんな話をされたんですか。その、お母さんと」

 御渦が聞いた。

 違う。そんなことはどうでもいいことだ。彼に言うんだ。電話は全くアリバイ立証に役立たないと。

「そうだな、確か金の無心だったよ。新しい母の男は、大きな会社の役員で金も持ってるんだが、とにかくケチらしい。母は自由にできる小遣いが少なく、足りなくなると私に訴えてくるんだよ。全く困った女だよ。この家にはろくな女がいない」

「何分くらい話していたんですか?」

「五分も話してないよ。いつもの口座に入金してやるよと言って、さっさと切ってやった。疲れていたからね」

 ほらみろ。一時間も話し込んでいたなら別だが、たったの五分だ。私は邦夫が電話を切るとすぐに黒い皮手袋をはめ、あのアウディのタイヤを鳴らして走り出す姿が頭に浮かんだ。そのときの彼の表情は虚ろで、自分がこれから何をしようとしているのか分かっていない。

「お母さんとの会話は、いつもそんな感じなんでしょうか」

「まあ、そんな感じだね」

「最後にお母さんと会ったのは、いつごろです?」

「母と? そんなこと事件に関係あるのかい? ま、いいけどさ。半年は会ってないかな。もう、会う必要もないだろうし。なんだろう、別の家庭に行ってしまうと、他人のような気がするね。昔から、頼りにならない母親だったよ。父に頼りきり、父が死んでからは私に頼りきりだ。その日の晩御飯のメニューすら、自分で決められない人なんだ。沙耶があんなふうにアルコールに逃げ出したのも、母親の影響なのかもしれないね。まあ、私がその分だけしっかりしなければとも思うがね」

 彼の母親の話など、どうでもいいことだ。御渦は何を気にしているのだろう。何も考えていないのではないのか。私の忍耐は限界に近づいていた。

「その後は、誰かから電話があったり、直接会って話をしたりしていませんか?」

「そうだ、母の電話の後、間違い電話が一件あったけど、別に話はしていないね。無言で切れた。あの日は、そのまま寝たよ」

「ア、アリバイは証明されていませんよ」

 ついに私は口を開いた。広い居間の空間に、私の声はよく響く。自分の声の木霊に促されるように、私は持論を披露する。

「さ、先程あなたは、十一時過ぎに電話を受けたとおっしゃいました。しかし、死亡解剖の結果推定された犯行時刻は、十一時三十分から十二時の間です。つまり、五分で電話を切ったあなたは、犯行現場の篠沢さん宅へすぐに出発すれば、十分辿り着ける計算になります。よって、あなたにはアリバイがないんだ」

 出だしこそ声が震えたが、最後には自分の声に酔っていた。まるで、サスペンスドラマの名刑事にでもなった気分だ。私の指摘を受けた邦夫は、青白い顔でうつむく。アリバイが証明できないことに気付かなかった御渦は、驚きと羨望の眼差しで私をみつめる。そうなる筈だった。しかし、御渦と邦夫は、同じような表情を私に向けている。一言で表すと『呆然』である。

「走って、かい? どちらかといえば足は速い方だと思うけど、とてもじゃないが無理だよ。多分、ここから十キロ近くあるんじゃないかな。篠沢さんの家までは」

 邦夫は声を出して笑い出した。

「しかし……」と反論しかけた私を御渦が遮る。彼の表情は呆然から哀れみに変わっていた。

「浅野さんが乗っていた車を思い出してみろよ。夜中に出発したら、近所の人が気づかないわけないだろ」

 私はアウディの排気音を思い出した。あの重低音は、脳の奥に手を突っ込み揺さ振られるようなものだった。あんな車が隣の家で、夜十一時過ぎにエンジンを吹かせば、多少耳が遠くなった年寄りでも目を覚ますだろう。まして、この辺りは住宅が密集している。気づかないわけがないのだ。当日は大雨だったということだが、邦夫のエンジン音は、台風がきていても、隣近所には十分聞こえる音量を吐き出す。

 私は耳まで赤くして黙り込む。家を忍び出てからタクシーを拾うという手もあるが、人を殺すためにタクシーを拾うのはどうかという、昨日の御渦のアパートでの会話を思い出した。走るなり、自転車を漕ぐなりしても、不可能な時間ではないが、そんな時間に必死で駆ける人物は、人の目に留まりやすいだろう。殺人者としてはあまりに危険な手段でのアリバイづくりとなる。

 私は、もう口は出すまいとソファーの上で小さくなった。

「彼が言いたいことは、ともかく邦夫さん、あなたには明確なアリバイがない、ということですよ。たとえ自分の車が使えなくても、協力者が一人いれば済むことです。だが、僕はアリバイなんてものに興味はない。そんなことは無意味だからです。アリバイがあろうがなかろうが、篠沢誠一さんを殺害することができたのは、ただ独り、あなたの妹さんだけだからです」

 御渦の言葉に対して、私は山ほど言いたいことがあったが、沈黙を守った。

「沙耶が犯人だと分かっているなら、なんで君たちはこの事件を引っ掻き回すんだい? 単なる面白半分で首を突っ込んでいるなら、こちらとしてもそれなりの対応をさせてもらうよ」

 邦夫は医者だ。法曹界に知人の一人や二人はいるのだろう。もう潮時だ。私は縋る思いで御渦の顔を窺った。

「僕が知りたいのは、沙耶さんの気持ちです。どうして婚約者を殺さなければならなかったのか。どうして殺した後、あの部屋で死体と共に時を過ごしたのか。どうして朝になって逃げ出したのか」

「おかしいな。君は先に、私が君たちの質問にこたえることで、真犯人を捕まえる、とか言ってなかったか?」

「確かに言いました。しかし、あなたが何一つ隠さずに、私たちの質問にこたえてくれた場合の話です。あなたは語っていない。私がはじめにした質問を憶えていますか? あなたにとって、沙耶さんはなんですか、という質問ですよ」

 邦夫の顔色が、見る見る変わってゆく。

「もういい。いい加減にしてくれ。付き合った私が馬鹿だった。もう帰ってくれ。遊びに付き合うのはこれまでだ。でなければ、警察を呼ぶよ」

 私の勇み足を笑い飛ばしてくれた邦夫は、もうそこにはいなかった。顔は真っ赤に茹で上がり、頭からは煙が出そうだ。

 御渦が先ず立ち上がり、すぐに私も続く。追われるように廊下を進んだ。

 靴を履き表に出た途端、私の後ろで扉が乱暴に閉められた。そして、施錠する音が響く。二度と来るな、と怒鳴られるほうがましだろう。無言で追い出された私は、やり場のない寂しさを感じていた。

 一方御渦はそんな仕打ちにも動じることなく、先に立ってすたすたと歩きはじめた。

彼の記憶の地図には、この辺りの情報も記されているのだろう。私もこの区域には明るく、駅に向かってまっすぐ向かっていることは分かっていた。

 私が不用意な発言をしたせいで、御渦が考えていた質問事項を省く結果になってしまったのでは、と不安になる。歩く速度を速め御渦に並び、彼の顔を覗き込む。そこには、満面の笑顔があった。まるで、こうして家を追い出されることが、全て予定通りであったかのような、満足した顔である。

 私は先程話した限りでは、浅野邦夫という人物が理解できなかった。実の妹が殺人事件の容疑者として逮捕されたからなのだろうか。情緒は不安定で、掴み所がない感じだった。何より、肉親の無実を信じてやれない兄、というものが理解できない。

「あの人、おかしいと思わんか?」

「どこが?」

 御渦は振り返りもせずにこたえた。

「どこがて、普通、実の兄妹やったら、妹の無実を信じてやるもんやろ。なのにあの人は、人事みたいにしとった」

「兄妹だと、何で無実を信じてやらなければならないんだい?」

「何でて、そんなん当たり前やろ」

 不思議そうな顔で、御渦は私の顔を覗いていた。

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