12
再び地下鉄に乗り三駅目。北大路の駅近くに浅野邦夫が勤務する病院はあった。
加茂川に沿った道沿いに、古びた白い建物がひっそりと建っている。住宅街の中にありながら、廃屋にきたかと思われるほどの静寂があった。私は休診日なのではないかと疑う。
「何してんだ。行かないのか?」
私は二つの理由で躊躇していた。一つは今回の相手が浅野沙耶の兄であること、そしてもう一つは、今の自分の格好である。
「喪服で病院は、なんというか、まずいんとちがうかな」
そう言われ、御渦も自分の黒いネクタイを解く。彼のスーツは単に黒っぽいものというだけで、礼服ではなかった。従ってネクタイを解くとカジュアルなものにみえなくもない。しかし、私のそれは黒光りした本物の喪服であり、黒いネクタイを解いたところで、病院という医療現場における違和感は拭えないだろう。
「そんなに気にするなって。意外と人の目というやつは、他人に向けられてはいないものさ」
私の逡巡に構うことはなく、御渦は病院に向かう歩みを進める。
立ち止まることは、私の癖になっているようだ。だが、このときばかりは御渦を先に行かせ、好き勝手させるわけにはいかなかった。
「ちょっと待てって。さっきの葬儀は仕方ないかもしれへんけど、今度は相手が仕事中や。せめて、外来の時間が終わるまで待った方がいいんとちがうか」
高い位置にある御渦の肩を苦労して掴み、私は彼の動きを止める。
「僕だって、そんな非常識ではないよ。無論、診察時間が終わるまで待つつもりさ。でも、そうするには今からゆうに二時間は待たねばならない。その時間を無駄に過ごす必要もないだろ」
肩に乗せた私の手を埃のように払いのけ、御渦は病院の玄関に向かい歩む。
『京都府立相沢病院』という黒ずんだ木製の看板を横目に、私は御渦に追いついた。そして、肩を並べて玄関を通る。黒いネクタイは歩きながら解いた。
感度の悪い自動ドアを通ると、外から見えた静寂さは姿を消し、子供たちの喚声が耳に入った。とても医療現場とは思えない騒々しさだ。
「ここは、小児科なのか?」
「いや、一応総合病院のはずだよ」
鼻を突くアルコールの臭い、忙しく動き回る白衣の看護婦、これらを除けば保育園の感がある。
「総合病院だけれども、院長が小児科の権威だとかで、それが売りだということだよ」
待合室に並んだソファーの中に空きをみつけ、御渦は腰掛けた。所在無く立っているわけにもいかず、私もその隣に座る。子供の付き添いなのだろうと思われる母親達は、ほぼ例外なく週刊誌を捲るか、他の母親との世間話に熱中しており、我々の黒い服装に訝しげな視線をよこす者はいなかった。
「さて、どうしようかな……」
足を組み、落ち着いた格好となった御渦であるが、その目だけは忙しなく動いている。
目の動きが止まったかと思った途端、弾けるような勢いで御渦は突然立ち上がる。私も反射的に御渦の後を追っていた。そして御渦は、若い看護婦の前に立ち塞がった。レントゲンの写真が入っているのだろうと思われる大きな封筒を何枚も抱えていた看護婦は、目を丸くし立ち止まる。
「どうかしました?」
「あの、神経内科は、どこにあるのでしょうか……」
蚊の鳴くような声で御渦は訊ねる。普段、自信に満ち溢れた、張りのある御渦の声しか聞いたことのない私には、一瞬別人が発した声に思われた。
「こいつがですね、その……、ほら、自分で言ってみろよ」
御渦が突如私に話を振ってくる。全く準備をしていなかった私の舌は痙攣したように動かない。
「ああ、うあ、あの……」
御渦と私の顔を交互にみつめると、若い看護婦の顔から驚きの表情が消え、優しい微笑が浮かんだ。
「ああ、こちらです、ご案内しましょう」
看護婦は踵を返し、我々を先導して歩きはじめる。
当然のことだが看護婦は、白いナースキャップに白衣、白いストッキングから伸びた足の先には白いナースシューズ。白い女に連れられて、黒い二人の男が歩く。
「おい、神経内科ってどんな病気を扱うところか知ってるんか? 俺、聞いたことない」
私は小声で訊ねた。
「脳疾患、脊髄疾患、末梢神経疾患、筋疾患を扱う内科さ。具体的には脳梗塞や脳血管性痴呆、てんかんや脊髄炎、顔面神経麻痺。つまりは……」
「つまり?」
専門用語が御渦の口から滑り出る。私には殆ど理解できなかった。
「つまり、頭痛やめまい、記憶や意識がはっきりしなかったり、舌を動かし難くなったなどの症状を感じた人が訪れるところ。精神科や心療内科と勘違いされがちだけど、取り扱う病は明確に区分されるようだ」
御渦の話を聞いて分かったことが一つあった。前を歩く若い看護婦は、私のことを患者として見ているのだ。先ほどの優しい微笑みは、私を神経が病んだ者と見た哀れみなのであろう。
「精神科や心療内科が心の問題、つまり精神病やストレスを発端とする種々の疾病、躁鬱病やノイローゼを治療するのに対して、神経内科は神経の病気、アルツハイマーやてんかんの患者を治療する。要は、心か神経か、ということかな。今言った病は、それぞれ関連しているのだろうけど、原因が何かということに対して、治療のプロセスは大きく異なってくるのだろうね。僕も専門家じゃないから、この程度の知識しかないよ」
こそこそと耳打し合う我々に、看護婦は一度だけ振り向いたが、見てはいけないもの見てしまったという顔で、一応平生を装っている。
実際私は、彼女に患者だと勘違いされてもおかしくはないだろう。浅野沙耶に出会ったことをきっかけに、神経は磨り減っている。いや、本当は彼女と再開する以前から、私は病んでいたのだろう。いつも死を願っている男が、健康体とは言い難い。
「あの、浅野先生という方をご存知でしょうか」
エレベーターの前で扉が開くのを待つ間、御渦が看護婦に聞いた。
「ああ、はい、知ってますよ。私、去年まで神経内科にいてましたから」
「噂を聞いたんです。この分野では、とても腕のいい先生だって」
「そうですね。浅野先生は大変熱心な方です。だから安心してください」
看護婦は私を見て微笑んだ。唇が綺麗な逆三角形を描いている。
やはり、私は患者だと思われているようだ。
「ただ、変な噂も聞いたんです。なんでも他のお医者さんと、あまり仲が良くないって……」
ようやく開いたエレベーターに乗り込みながら、御渦は質問を続ける。幸い、他の患者が乗り込んでくることはなかった。
「ああ、そうですか。私の口から言うのもなんですが、浅野先生は本当に熱心な人でして、治療方針なんかで、他の先生と口論することもあります。けど、良い先生だからこそ、喧嘩してまで患者さんのことを思っているのだということですよ」
「声を荒げることもしばしばあるとも聞くのですが……」
「はい。私もよく怒鳴られました。でも、患者さんに対して怒鳴るようなことはないので、安心してください。自分にも我々看護婦にも、とにかく厳しい人なんです」
看護婦はまた、念を押すように私を見て微笑む。
しかし、御渦という男はいつの間に浅野邦夫についての情報を手に入れたのだろうか。昨日私と別れてから、今日の朝までの間か。それとも、あの喫茶『カンザス』で、我々が出会った後に調べ上げたのだろうか。とにかく、私は彼に驚かされてばかりだった。
三階に到着し、エレベーターの扉がゆっくりと開く。案内してくれた看護婦は開いた扉を押さえたまま、我々を箱から出す。
「神経内科の受付は、あそこに見える窓口でお願いします。それじゃあお大事に」
エレベーターの扉は閉まり、看護婦はそのまま一階へと降りていった。
三階の景色は、先程のものと一変している。先ず子供がいない。廊下の長椅子に腰掛けているのは老人だらけだ。会話を楽しんでいる者はなく、皆一様に俯き、苦悩の表情を浮かべている。
「おい、どないするんや? ホンマに診察を受けるんか?」
「診てもらったいいさ。君、顔色悪いから、ばれることはないぜ」
真剣な顔で御渦がこたえる。その後すぐに御渦の顔が崩れ、笑顔になってくれていなければ、私は本当に受付へと向かっていたことだろう。
「もう二三人の話を聞かなきゃならない。君はしばらくここで待っててくれないか。ここでは、独りの方が動きやすい」
そう言い残すと、私を待合室の長椅子に座らせ、御渦はさっさとどこかへ歩き去った。
神経内科の待合室には、全くというほど音が無かった。受付の事務員が紙を捲る音と、時折患者が放つ咳払い、そして低く響いてくる唸り声だけである。
私は突然の孤独感におそわれた。ふと、幼稚園に通っていた時分、百貨店で母親とはぐれて、広い婦人服売り場を彷徨った記憶が甦る。母だと思い飛びついたスカートの持ち主は全くの他人であり、女は汚いものを見る目で私を睨みつける。背丈の低い私にとって、ブラウスやジャケットが吊られたハンガーの列は壁に等しく、まさに迷路であった。泣きながら母を捜し、ついに疲れきってぺたりと地面に座り込む。床の冷たさが尻に伝わり、私は泣くのを止めた。これからはもう、一人で生きてゆかねばならないのだと考えた。
あのときの孤独感に似ている。
自分の目に、少しだが涙が浮かんでいることに気づき、あまりの馬鹿馬鹿しさについ笑ってしまった。鼻から抜ける笑い声を不快に感じたのか、隣に座る老人が私をちらちらと盗み見る。
本当に馬鹿みたいだ。私は、それほどあの男に依存してはいない。
自分一人でも、やれないことはないのだ。
ただ、御渦がいつも先に行動してしまっているだけだ。
そう自分に言い聞かせた。
病院に似つかわしくない下品な笑い声が廊下に響き、私は心の内に向かっていた目を外に向ける。げらげらと笑う声には覚えがあった。御渦宗茂のものである。
御渦の前には、体を折り曲げている若い看護婦が見えた。彼女は苦しそうな顔をしていたが、どうやら笑っているようだった。御渦が耳元に口を寄せ二言三言囁くと、爆発したように看護婦は笑う。
通りかかった黒ぶちメガネの医師が睨んだため、ようやく看護婦の笑いは止んだが、その目には余韻としての涙が浮かんでいる。その後看護婦は、名残惜しそうに御渦に手を振って仕事へと戻って行った。
一仕事終えた満足げな顔で、御渦が帰ってきた。
「君を待たせた甲斐があったよ。良い話が聞けた」
硬いソファーに身を投げて、御渦は足を組む。
「なんやねん。ねた仕入れたなら、俺にも話してや」
「今は止めておこう。それより、本来の目的の人と合うために、約束を取らなきゃならんね」
そうして、私たちは二十分ほど所在無くその待合室で時を過ごす。いや、所在無く過ごしたのは私だけで、隣に座る御渦は斜め上を凝視した姿勢で、何か思案にふけっているように見えた。いったい何を考えていたのか、私には想像もできなかった。
御渦がその姿勢を解き、すくりと立ち上がったときには、もう待合室には私たち二人しかいない状況だった。
「あの、浅野先生はいらっしゃいますか? 本日は勤務されていると聞いたのですが」
受付窓口に立って、御渦は中の女性事務員に向かい問う。
「はい、いらっしゃいますよ。あれ? まだ受付を済まされていませんね」
窓口に座る丸々と太った事務員は、笑顔を保ったまま慌てて帳面を捲る。
「治療にきたのではありません。浅野先生と、少しお話をさせていただければと思い参上しました」
途端、事務員の表情に懐疑の色が浮かび上がる。
「マスコミの、方ですか?」
声が冷たかった。彼女は、浅野邦夫の妹が起こしたとされる事件を知っているのだろう。この二三日中、数々の記者から質問を浴びせられたことがあったのかもしれない。また、病院経営者側からの緘口令が発せられている可能性も充分考えられる。
「違います。浅野さんの妹の友達です。是非、先生に話しておきたいことがあるのです。いいですか、これはとても大切なことなんです」
一言々々に力を込めて、御渦はゆっくりと話す。事務員は威圧されたのか、しばらくきょろきょろと目を泳がせていたが、重い尻を上げ診察室に向かってくれた。
「なあ、話しておきたいことってなんや」
「会えたら、そのとき考えるよ」
先ほど思案していたことはなんなのだろう。慎重なようで行き当たりばったりな御渦の行動に、私は心底呆れてしまった。
事務員が消えた診察室は、クリーム色のカーテンで遮られている。そのカーテンが揺れた。空気の動きによるものではない。明らかに、人の手が動かしている。カーテンを薄く開き、人の目が覗いた。はっきりとではないが、私には男の目が見えた。
「どうやら、会うことができるらしいぜ」
御渦が呟くと、カーテンの揺れが治まった。
動きが止まったかと思った途端、豪快にカーテンを開けて事務員が戻ってくる。太った顔はもう笑うことはなかった。厭な役を申し付かったと顔に書いてある。
「あの、先生はまだ患者さんを診てらっしゃるので、今から一時間後に、裏の駐車場にきてくれとのことです」
呟く声で邦夫の言葉を伝えると、事務員はさっさと奥へと引っ込んだ。
私は御渦と一瞬だが視線を交わし、互いに微笑むことができた。




