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歩いて駅に戻る途中、我々は小さな店構えの蕎麦屋に入った。御渦が空腹を訴え、遅めの昼食を取ることとなったのだ。
「おい、なんで伊藤さんを怒らせたんや。あれも、何かの目論見があってのことなんやろ。俺には分からへんけど」
「目論見なんてないよ。僕はただ、真実を突きつけただけさ」
日焼けで黄ばんだお品書きを真剣な眼差しで吟味しながら、御渦はこたえる。
「真実って、ほなら、伊藤さんは本当に、意図的に沙、浅野さんを逃がしたっていうんか」
「そうだって言ってるだろ。君もあの家を見ただろう。立派な一軒家だけども、大きな家じゃない。家の真ん中に廊下があり、二階へ登る階段に繋がっている。家の中ならどこにいても、あの廊下を通る者が分かるはずだ。彼女を犯人だと思っていたのなら、そこを通り逃げ出そうとする彼女を、見逃すわけがない。最愛の息子を失い、混乱しきっていた篠沢伸子ならばともかく、伊藤さんはある程度の冷静さを保っていたはずだ」
「じゃあ、伊藤さんも浅野さんが無実だと思って、彼女を逃がしてやったんか」
「無実と信じたかどうか分からないが、結果として逃がしたことには変わりがない。そうでなければ辻褄が合わない。僕は確信しているよ。彼は篠沢伸子の目を盗み、浅野沙耶を逃がした。伸子は警察に電話をしている間、頭は混乱を極めていただろう。伊藤さんはその隙に、浅野沙耶を逃がしたんだ。『逃げなさい』ってね。また、そうでなければ、浅野沙耶はその場から逃げ出そうとしなかったはずだ。話を聞いた限り、彼女は一晩中呆然として過ごしたようだからね。自分から逃げ出そうと思っていたのなら、いくらでもその機会はあったんだから」
しわくちゃな顔をした老婆が注文を取りにきた。御渦は天ぷら蕎麦定食を頼み、私はざる蕎麦を注文する。依然として食欲はなかったが、お茶だけをすすっているわけにはいかなかった。
「なんであの伊藤さんは、浅野さんを逃がそうとしたんやろか」
「その理由を聞こうと思ったんだよ。でも、あんなに頭に血が上った状態じゃ、まともな話はできそうもないね」
「もし、もしもあんたの話が本当なら、浅野さんの無実が証明できへんかな。彼女は逃亡しようという気はなかったが、伊藤に無理やり逃げるように仕組まれた。混乱する意識の中、いつの間にか逃げ出した格好になってしまった」
「そして、君の家に辿り着いたのか」
一瞬、御渦はニヤリとした下品な笑みをみせる。
「浅野沙耶が意図的に逃亡しなかったからといって、彼女の無実を証明する手立てにはならないよ。ただ、減刑の要素になる程度かな。ま、伊藤さんの考えを最終的に知らなければならないとは思うがね」
私は温い茶を飲み、気になっていた一つの疑問を口にする。
「なあ、伊藤は確かに怒っていたけど、どこか驚いたようじゃなかったか? 俺の気のせいかも知れへんけど、怒りと同時に困惑したような顔、してへんかったか?」
「ああ、確かに。それは、僕の指摘が的を射ていたということだろうね」
御渦は汚れた窓から曇りがかった空を見上げ、一方的に会話を打ち切る。私との会話で、得られるものはないという、そんな顔をしていた。
やがて老婆が、愛想笑いもなしで注文の品を運んでくる。食べたくもないざる蕎麦を無理やり喉へと流し込んだ。味は殆ど分からなかった。
しばしの間、私たちは黙々と箸を動かす。御渦が蕎麦湯を使い、残ったつゆを飲みはじめた頃、ようやく会話は再開した。
「この後、行きたい場所はあるかい?」
私は何も考えていなかった。この御渦の問いに対しても、ただ首を横に振ることしかできない。
「じゃあ、僕が案内しよう。今度行く場所は病院だ」
「病院?」
私はオウム返しに問う。口に出してから、自分が馬鹿みたいに感じられた。
「そう、病院だ。浅野沙耶の兄、浅野邦夫が勤める京都府立相沢病院。ここに行って、お兄さんに話を聞くんだ」
私には、この調査を進めるに当たり、全くというほど当てというものがない。ただ、御渦の提示する場所に、コバンザメのように付いてゆくことしかできないのだ。しかし、沙耶の兄の勤め先に赴き、事件の話を聞きだそうということには抵抗を感じた。
「そんな、急に押しかけてもうたら、迷惑やないか……」
「迷惑? 君は浅野沙耶の無実を証明しようとしているんじゃなかったか? 自分の妹を助けるため、彼が君に協力するのは当然ではないかな」
「しかし、アポイントも何もない状態では、やっぱり迷惑になるんちがうかな」
「いいんだぜ。じゃあ、僕一人で行ってくるさ。君の名前は出さないようにする」
御渦はタバコを咥え、苦しそうな顔で火を点ける。深く吸い込み、大きな煙を吐き出すときの、右側の眉毛がゆがんでいた。私はその表情を、何度も見た記憶があった。小学校低学年時の、クラス担任の顔だ。クラスの面々がわがままを言い出したとき、担任は決まってその顔をするのだった。
「あ、やっぱり、俺も行く」
無意識のまま、私は言葉を発した。
「なんだい? 無理しなくてもいいんだよ。昨日も言ったが、君がこの調査の主役だ。僕の役目はその手伝いさ。僕は情報を仕入れてくる。それは正確に君に伝えてあげるよ。君は、それから考えてもいいんだ」
御渦の言葉は、私を労わっているようでいて、暗に私の逃げをけん制していた。もう、片足を突っ込んでしまったのだ、今になってその足を引き抜くことはできない。御渦の大きな手が、私の足首をしっかりと握っている姿が連想された。




