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 JRと地下鉄を乗り継ぎ、私たちは京都市の北に位置する国際会館駅に到着した。

 岩倉と呼ばれるその地域は、同じ京都でも色が違う。碁盤の目と呼ばれる町並みから一転し、宝ヶ池公園を代表に緑が景色の主役となる。そもそも京都の町は、同規模都市と比較すると、点在する寺社や御所の御蔭で緑が多い。しかしそれは、あくまでつくられた緑である。狐坂以北は自然の緑が多くみられた。

 無意識のうちに私は、国際会議場の陰にみえ隠れする桜並木を眺め、深呼吸を一つしていた。大阪に住むようになり、久しく忘れていた澄んだ空気で肺を満たす。

「観光にきたわけじゃないぜ。さっさと行こう」

 相変わらず、御渦は率先して歩いている。ここにくるまでこの男は、地図やメモの類は一切見ていない。それでいて、悩んだり、考えたり、思い出したりという仕草がない。まるで、毎日通う通勤路のごとく、迷いなく歩き続けている。電車の乗換えの際にも、駅員に尋ねないことはもとより、ホームを探す素振りもみせなかった。地図と駅の構造が、全て頭の中に入っているようだった。

 おそらく彼は、『迷う』という感覚を知らないのだろうと思う。どちらの道を行けばよいのか分からなくなり、足が竦むという経験がないのだ。迷いとは恐怖であると思う。未知の事象に対して、何らかの決断を迫られたときに臆することを恐怖と呼ぶのだ。御渦という男は、自信という細胞が寄り集まって形成されたような人物だ。声の張り、まっすぐに伸びた背筋、指先まで計算されつくされた仕草、それら全てが主張している。俺が一番だ、俺以外は劣等だ、と。

 そんな思いに耽っている間に、私は御渦に十歩ほど遅れてしまっていた。彼は立ち止まり、普段の表情で私をただみつめていた。その切れ長の瞳が、私の思考を読み取っているようで不気味だった。

「何か問題があるのかい」

「なんもあらへん。その、篠沢の家は近いんか?」

 御渦はこたえる代わりに、歩いている道の先を指差す。その先には、白地に力強い墨の文字が書かれた看板が見えた。文字は『篠沢家葬儀場』と書かれている。

 私はようやく、自分が葬式にきたことを思い出した。

 そして同時に、自分の失敗にも気付く。葬式に必要なもの、数珠と香典を準備していない。

「おい……」

 蚊の鳴くような声で、私は御渦を呼び止める。しかし御渦は、歩みを止めようとしない。

「ちょっと待てって。俺……」

 ようやく御渦の肩を掴み彼の動きを止めたときは、もう受付の前まできてしまっていた。

 そこは私が想像していたような民家ではなく、豪勢な門を構えている寺であった。

「ありがとうございます」と、受付の男が頭を下げてきた。黒縁の眼鏡に、べっとりと固められた七三分けの頭が見事に光っている、三十前の痩せた男だ。その落ち着いた物腰から、親戚の者ではなく葬儀屋だろうと思われた。

「この度は、突然のことで……」

 御渦は蒼白となっている私に構わず、紋切り型の挨拶を交わす。そして、内ポケットからちゃんと香典袋を取り出した。

 私の惨めさは増す。社会人として有るまじき姿である。「すいません。香典忘れました」などという言葉は恥ずかし過ぎ、この上なく間抜けだ。

「社を代表して参りました」

 御渦の差し出した香典袋には、『株式会社アプラス』という達筆な文字が書かれていた。御渦についての情報を全くといっていいほど持っていない私だが、そんな企業が存在しないことは容易に想像できた。御渦は、一匹狼というイメージを抱かせる男なのだ。

「篠沢さんには、大変お世話になっておりました。まさか、こんなことになろうとは……。特に私たちは、個人的にも親しくさせてもらっておりまして」

 私は斜め後ろから目を大きくして、すらすらと嘘っぱちを吐き出す御渦を眺めていた。私もその、あるはずもない会社の一員にされている。

 この場は逃れられるが、この嘘がばれはしないだろうかという、新しい不安要素が私に圧しかかった。

 受付の男は慇懃に頭を下げると、我々を屋内へと導いた。

 既に弔問客は集まっており、焼香の順番を待って並んでいる。寺の中に全員が入りきらず、外に立った状態だ。

 客は三十名前後。我々がその最後尾に並んだときに、ようやく読経が始まったようだった。つまり、それが集まった客の全てであろう。弔問客の平均数など知るすべも無いが、少なくとも篠沢誠一の死を惜しんでいる者がそれだけいるのだ。しかし、私は違う。篠沢誠一を見たことも、声を聞いたこともない。

 唐突に、自分がとても汚らしい存在に思えてきた。静かに涙を浮かべる初老の男は、故人の学生時代の恩師だろうか。前途ある青年が不遇の死を迎えたことに対して、怒りの感情を隠そうとしない中年男性は、彼の上司なのだろうか。ハンカチに嗚咽を漏らす太った女性は、近所に住むおばさんで、誠一の少年時代を思い出しているのだろうか。しかし私の目的は、彼の死を悲しむことではなく、彼の死の理由を暴くことだった。

 読経をかき消すほどの大きな泣き声が屋内から響いてきた。獣のような咆哮であり、子を産む妊婦の苦しみに似ている。

 その声の主が、誠一の母伸子のものであることは容易に想像できた。一人息子を、しかも殺されたのであれば、その悲しみの大きさは計り知れない。弔問客達もこの声につられ、次々にハンカチを目や口に当てた。

 狂ったような伸子の嗚咽は、絶えることなく続いていた。悲しみの満ちた重い空気の中、弔問客の列はゆっくりと動きはじめた。焼香なんてものは、さほど時間を必要としない。中には長い間手を合わせる女性もいるが、それは少数派だ。三十名ほどの列は見る間に減り、意外に早く我々の順番が回ってきた。右側には喪主の席があり、悲しみにふける篠沢伸子が泣き崩れたままの姿勢で、尽きることの無い悲しみを吐き出している。弔問客に対しての挨拶など全くなかったが、喪主というやつはそれでよいのだと思う。

 菊の花に囲まれた白木の棺が横たわり、その上に笑っている青年の写真があった。

 それが、私がはじめて見る篠沢誠一の顔だ。目が細く、団子鼻。二枚目とは言い難いが、優しさが顔に滲み出ているような青年だった。

 数珠は無かったが、私は手を合わせ彼の冥福を祈る。写真の男は、私にとって恋敵に当たるのだろう。心のどこかで、彼が死んでくれていることを喜んでいる自分がいることを感じ取り、それに恥じた。

 弔問客の大部分は、焼香を済ませると次々に帰路につく。会場に残るのは親族と、ごく親しい友人知人のみである。私より先に焼香を済ませていた御渦は、その親しい知人が座る席に、平然と腰かけていた。御渦と私はワンセットである。一人先に帰るわけにはいかず(それこそきた意味がない)私は御渦の隣に小さくなって座った。

「これから、どないするんや?」

 殆ど口を動かすことなく、私は御渦に問いかける。

「もちろん、犯行現場をみせてもらうよ。全てのこたえは、そこにあるはずだからね」

 映画を観るためにはチケットを買わねばならない、というような御渦の口調だ。

 その後、更に二組の弔問客が訪れた後、読経は終わった。会場に響く音は伸子の叫び声のみとなり、空気は一層重たく感じられる。しばしの間、この伸子の悲壮な嘆きだけが会場を支配した。本来ならば、喪主の挨拶が行われる段階なのだろう。しかしその喪主が泣き崩れ、回復の見込みがなかった。進行役であろう葬儀屋も新米なのか、落ち着きなく親族を眺め回すのみで、動くことはなかった。

 そうした中、一人の壮健な男がすくりと立ち上がる。

「本日は皆々様、お忙しい中、篠沢誠一の葬儀に足を運んで下さいまして、まことにありがとうございます。ご覧のとおり、喪主が挨拶をできる状態にありませんので、私が代わってお礼を申し上げます。誠一君は、本当によくできた息子でした。真面目で、優しく、母親思いで、いつも彼女の体のことを心配しておりました。そんな誠一君が、あのような恐ろしい事件の被害者となってしまったことに、私は憤慨しております。納得ができない。おそらく、今日お集まりになった皆々様も同じ思いでしょう。彼は殺されたのです。既に、容疑者が警察に逮捕されてはおりますが、事件が全て解明されたわけではありません。誠一君の無念が、少しでも晴らされるよう、祈るばかりであり……」

 男の張りのある太い声は、伸子の喘ぎをかき消して会場に響く。最後には、男も感情の高まりに耐え切れず言葉がかすれてしまったが、そのときには会場にいる半数以上が頬を濡らしていた。

 面識が無いはずの私も、つられて涙を浮かべている。

「今挨拶をした男、あれが伊藤重信だ。篠沢伸子の恋人。そして、伸子と同時にではあるが、死体の第一発見者でもある。僕も見るのははじめてだが、なかなか立派な人物だね。普通、突然あんなにすらすらと挨拶をすることはできないよ。予め、準備でもしていたんじゃないか。しかし不自然だな。喪主が挨拶できないような場合は、他の親族がするべきだ。伊藤は恋人であって、戸籍上は赤の他人なんだぜ」

 私の耳元で御渦がささやく。

 御渦は全くその場に飲まれることはなく、平然と分析をはじめていたのだ。

 伊藤の助け舟により、ようやく普段のペースを取り戻したのか、葬儀屋は最後のお別れとして親族一人一人に花を持たせ、棺に入れるよう促す。葬式の中で最大のクライマックスとなるその作業も、伸子は終始泣き崩れ、嫌だ嫌だと繰り返した。その隣には、伊藤が絶えず寄り添っている。

 ようやく出棺の段となり、葬儀屋の顔に安堵の色が伺えた。私は運び出される木棺を、御渦と並んで見送った。脱力していた伸子もなんとか車に乗ることができ、霊柩車はクラクションを高らかに鳴らし火葬場へ向けて出発する。その後を、十名弱の親戚が乗り込んだ小型バスが追っていった。

「ほんにたまらんな」

「若いもんの葬式だけは、かないませんなぁ」

「しかも、殺人やなんてなぁ。あのお袋さん、大丈夫やろかなぁ」

 最後まで見送った弔問客も、ぱらぱらと帰っていく。その中に、霊柩車をいつまでも見送る男が一人たたずんでいた。伊藤重信だ。喪主の代わりに挨拶まで行ったものの、火葬場には親族のみと聞かされていたのか、彼が自ら遠慮したのか。ともかく、伊藤が残っていることは、私にとって意外であった。

 すると、客の間をスルリと抜けて、伊藤に近づいていく長身の男が見える。私の連れ、御渦である。落ち着きかけていた私の心臓は、再びテンポを上げて胸をたたきはじめた。

 私はなんとか、がっちりとした伊藤の肩に御渦が手をかける瞬間に、彼らの傍にたどり着くことができた。事件が動き出そうとしている。そう、私の肌が感じていた。

「あの失礼ですが、誠一さんのご親戚の方でしょうか?」

「……いえ、違いますが」

 唐突に声をかけてきた長身の男を、伊藤は訝しげに睨めこたえた。

「でも、先ほど喪主の代わりに挨拶をされていましたよね」

「はい、確かに代わって挨拶をさせていただきましたが、私は親族ではありません。ま、なりかけてはいるのですがね。ところで、お宅様は?」

「ああ、申し送れました。私達は、誠一さんと仕事で懇意にさせていただいた者です。仕事の場を離れても、何度か個人的な相談も聞いていただいたこともありまして、よい友人としてお付き合いさせてもらっていました。この度は、本当に無念で……」

 御渦は語尾を震わせ、俯く。上手い演技ではなかった。大根もいいところである。しかし、伊藤は見事に騙されたようだ。その場の雰囲気というやつが、御渦に味方したのだろうか。

「それは、わざわざきてくれてありがとうございます。誠一君も、喜んでる思います」

 御渦に触発され、伊藤は再び目に涙を浮かべた。

「先も言うたとおり、私は親戚の者やないんです。あの子のお母さんと親しくさせてもらってましてな、それで、誠一君とも仲良うさせてもろうてたんです」

「もしかして、伊藤さんですか?」

 緩みかけていた伊藤の顔に影が差す。警戒心が高まっていた。おそらく、喫茶店で見ず知らずの男から名前を呼ばれた、そんな気分になったのだろう。

「なんで私の名前を?」

「誠一さんに聞いたことがあります。新しいお父さんができるって。とても、頼りになる人やって言っていました」

 ついに、伊藤の目から涙が溢れ出した。しかし、伸子のように自分を失うことはなく、毅然と前をみつめていた。ハンカチを取り出し、ゆっくりとした動作で伊藤はその瞳を拭う。

「そうですか。私のことを話してましたか、あの子は」

 鋭かった伊藤の瞳が、穏やかな線に変わってゆくのを私は見た。御渦に対して彼が最初に築いた不信という名の壁は、完全に取り除かれたように思われた。同時に私は、御渦の嘘により勝手に罪悪感を感じていた。いままでは偽名を使い香典を渡しただけであるが、今は一人の人間を騙している。御渦は故人の名を語ることで、その尊厳を踏みにじっていも同じだと感じた。

「それで、私に何か用ですか? 親戚ではないが、あの連中よりも私の方が誠一君をよう知っていると自負していますよ」

 伊藤の言葉には刺が感じられる。泣き崩れる伸子の代わりに、他の親族が挨拶に立たなかった理由があるのかもしれない。

「実は私たち、誠一さんの最後の場所を見ておきたいんです」

 御渦の言葉はあまりにストレート過ぎるのではないかと、私は不安を憶える。案の定、伊藤の眉間には深いしわが刻まれていた。

「誠一さんが、どのような最後を遂げたのか、知りたいのです。誠一さんがどれだけ無念だったか、どれほど苦しかったか。私たちがそれを知ることで、誠一さんの痛みを分かち合える、そんな気がするんですよ。こんなの、おかしいですかね……」

 やはり御渦の演技は拙い。横にいて、つい噴出してしまいそうなほど下手くそだ。

 しかし、伊藤は嘘のように騙される。

「ええやろ。伸子は火葬に行って、しばらくは帰ってこうへん。私が家の鍵を預かっていますんで、案内しましょう。家はすぐ近くですわ」

 男三人連れ立って、篠沢の家に向かい歩き出した。

 御渦と伊藤が並んで歩き、その後を私が追う。前を歩く二人は共に長身で、私は普段より一層自分が矮小に感じられた。

 御渦は歩く間も、絶え間なく口を動かした。その御蔭で、僅か五分ほどの移動の間に、篠沢伸子が親戚の間から疎まれる存在であることを知ることができた。伸子自身の両親は既に他界しており、親戚もいない。今日きていた親族連中は、皆誠一の父方の者であり、この葬儀が済めばもう二度と会うこともないのだという。もともと水商売をしていた伸子に対して、親戚一同ははじめからよい顔をしていなかった。誠一の両親の結婚は、そうした周囲の反対を押し切ってのものであった。悲しみに押しつぶされた伸子の代わりに、この伊藤という男が挨拶に立たねばならなかった理由がようやく分かった。

「この家ですわ」

 伊藤は、小さな二階建てを指し示し、ズボンのポケットから鍵束を取り出した。

 私は一歩下がり、先ずはその家を眺める。

 元が何色であったのか分からない古びた壁には細かなひび割れが入っており、玄関の四隅には赤茶けた錆が見えた。それでも、雨樋に蜘蛛の巣はなく、窓ガラスも磨かれている。形ばかりの門扉には黒光りする大理石の表札がかかっており、『篠沢』と太い白抜きの楷書で書かれていた。裕福ではなかったのだろうが、亡夫が残した家を大切にする伸子の姿が思い描かれた。

 家には小さいながらも庭がある。誠一のものと思われるホンダの青いセダンを囲むように、松の枝が茂っていた。

「人の目がありますさかい、早う入ってくれますか」

 伊藤に促され、私は門を潜る。だが、戸の前に立った瞬間、私は再度自分の心臓の小ささを悟った。私は、殺人事件が起きた家に入ろうとしている。当然、これまでの人生で経験したことのない場面だ。肩の辺りの産毛が逆立つ。

「何してんだ」

 と御渦に背中を押され、ようやく私は薄暗い家に入ることができた。

 屋内の暗さに目が慣れず、視力は一時的に失われる。玄関で何かに躓いた。まばたきを繰り返すことで回復した目に、白いスニーカーが映った。御渦と伊藤の大きな皮靴は、別にそろえて置かれている。一回り小さいそのスニーカーは、故人篠沢誠一の物であろう。私は慌てて足を引く。死人の所有物に対し、無意識の内に私は穢れを感じていたのだ。

「現場は二階ですわ。すんまへんけど、それ以外の部屋は覗かんでやってくれますか。私の家ではありまへんからな」

 階段に片足を乗せ、伊藤は声をひそめて言った。彼は私たちの希望を聞き入れてくれたが、主に無断で家の中へ招待することに後ろめたさを感じているのだろう。

「あの、事件の当日は、誠一さんとあの、容疑者の女以外、誰もこの家にはいなかったんですよね」

 階段を登りながら御渦が問う。

「そう、とちがうかな? せやから、警察も彼女を逮捕したんでしょ」

 伊藤の言葉は、どこか歯切れが悪いように私には聞こえた。

「伊藤さんは、浅野沙耶を知っていたのですか?」

「ああ、誠一君に紹介してもろうたことありますよ。うちの店にもきてくれたことあったな……」

 先ほど見事な挨拶を行った者と同じ人物とは思えないほど、伊藤の口調は淀んでいる。彼が勝手に他人を家に招き入れている後ろめたさとは別に、何かしらの迷いが感じられた。

「この部屋や。私、法律のことよう分かりませんけど、部屋の中に入るのは止めといてもらいます。この廊下から、覗くだけにしといてください」

 伊藤は体を横にし、我々に道をつくった。大人二人がすれ違うには狭い廊下である。部屋の中を覗くにも、二人同時にはできない。

 先ず、御渦がその部屋に頭を入れる。扉は開きっぱなしになっていた。それは、目の前の伊藤という男が蹴り破った、そのままの姿なのだろうと想像される。

「伊藤さん、あなたが第一発見者なんですよね」

 カマキリのように首を動かし、部屋の隅々までを御渦は確認しているようだった。

「そうですな。私と伸子、ほぼ同時にみつけましたな。戸は私が蹴り破ったんです。こうやって」

 伊藤は右足を上げ、戸に向かって一振りする。

「そのときの様子を、詳しく教えてもらえませんか?」

「なんやあんた、刑事さんみたいやな。まあええ。何度も警察に話したことやけど教えましょ。この家の主、つまり誠一君の母親やね。そいつと私は朝にこの家に帰ってきた。といっても、私はこの家に住んどるわけやないよ。伸子が泥酔しとってな、送ってやっただけや。ようやく家に帰りついたと思ったら、伸子のやつ、狂ったようにこの部屋の前で騒ぎ出したんや。そんで私、どないしたんやと二階に駆け上がった。そしたら息子が部屋から出てこないという。私は最初、どこかへ出かけてるんやと思うたが、伸子は靴があるから絶対にこの中にいると言い張る。あの女も一緒にいると言う。確かに私も靴を見た。もしかしたら、二人で部屋の中で具合を悪うしたのかもしれへん。ついに私は体当たりをはじめたんや」

 一度喋りだすと、伊藤は饒舌だった。伊藤の言葉に、目を見開いたり、小さく相槌を打ったりする御渦のせいかもしれない。最初話していた丁寧語も止めたようだ。

 質問する役を御渦に任せ、私は問題の部屋を覗く。血の匂いでもするのではないかと一瞬躊躇したが、御渦に押されて頭を突っ込んだ。

「何回か蹴りつけて、ようやく鍵が外れた。もう何年も開けていない納戸みたいな空気が流れ出たようやった。今思うと、血の臭いやったんやろか」

 私は篠沢誠一の部屋を見た。長方形の六畳間。扉から眺めて正面と右側に窓がある。クリーム色のカーテンが閉じられたままになっていて、真昼だというのに薄暗かった。その二つの窓の間となる角に机があり、その上にデスクトップのパソコンが置かれていた。机にはキャスター付きのチェアが収められており、そのチェアの後ろ側に、シングルサイズのパイプベッドがある。白いシーツに若干乱れが伺えた。そのまま視線を下ろしていくと、灰色の床の上に、バスケットボール大の黒いシミが見えた。先ほど葬儀で見た写真の顔がその上にあることが眼に浮かび、私はつばを飲み込んだ。

「部屋の中で、誠一君がうつ伏せで倒れとった。彼女、浅野沙耶はそのベッドの上に座っとった。遠くを見る目で、意識がないように見えたな」

 私は、乱れたシーツの部分に座る沙耶を連想する。私の頭の中の沙耶は、視点の定まらぬ瞳で、髪の毛は乱れ、そして何故か微笑している。

 強く目を閉じ、頭を振ってその映像を振り払った。

「警察に通報したのは、あなたですか?」

「いや、伸子が自分でしよった。といっても、あいつ、まともに立つこともでけへんかったから、電話のとこまで私が支えながら連れて行った」

 直接の死因ではないというが、鈍器として使われたといわれる貯金箱はみあたらなかった。証拠品として、警察が持ち去ったのだろう。

「浅野沙耶は、その隙に逃げ出したのですね」

「さぁ、いつ彼女が出て行ったのか。私には分からんのや。見た感じ、彼女はボーとしとったから、すぐに逃げ出すようにはみえんかった。ちゃんとみはっとたらよかったと思う。そしたら、警察に手間かけさせることもなかったのにな」

 心底伊藤は後悔しているようだった。

「しかし、彼女は捕まった。伊藤さんも、さぞ安心したことでしょう」

「ああ、まあ、な……」

 伊藤の言葉は再び歯切れが悪くなる。

「さ、もう十分やろ。私、怒られてしまうわ」

 私たちは追い立てられ、階段を降り玄関に立った。

 私が急いで靴を履こうとしているのに対して、御渦はやけに緩慢とした動きになっていた。ようやく片足を革靴に収めたところで、御渦は体を捻り伊藤を見上げた。

「本当に無理を言って申し訳ありませんでした。誠一さんの最後を伺い知ることができました。最後に一つだけ質問してもよろしいですか?」

 伊藤は八の字に眉をゆがめ、困惑気味な表情をみせる。

「何度も言いますが、ここは私の家やないんですわ。そやさかい、本当にもう帰ってくれませんか」

「何故あなたは、浅野沙耶を逃がしてやったんです?」

 御渦の言葉に、伊藤の身体は硬直した。

「……何を言うてるんや」

「ですから、何故あなたは、意図的に浅野沙耶を逃がしてやったのか、とお尋ねしているのです」

「おい、御渦……」

 私がこの家にきて、はじめて口にした言葉だった。

「変なこと言うなて」

「教えてください伊藤さん。何故逃がしてやったんですか?」

 暗い玄関においても、伊藤の顔が赤く染まっていくのが分かった。

「なに馬鹿なことゆうてるんや。なんで私が、沙耶ちゃんを逃がしてやらにゃ……」

「沙耶ちゃん。そんな呼び方をするとは、相当親しかったんですな」

 私の印象では、伊藤がこのとき、御渦を殴り飛ばしたとしても不思議はなかった。しかし伊藤は怒りよりも、困惑している様に窺えた。その目は真っ赤に充血していたが、どこか悲しげで、御渦に救いを求めているような、そんな憂いが感じられたのだ。一方御渦はといえば、伊藤をまっすぐに睨みつけていた。

「そ、な……、わ、訳の分からんこと言い腐りよって、早よ出てかんかい」

 御渦の鋭い視線を浴びて、伊藤は全てを投げ出すようなパニックに陥った。

 私たちは結局、伊藤の剣幕に押されるように、篠沢の家から転がり出たのだった。

 親しい者を失ったばかりの人間に対して礼を欠く結果、怒りを買ったのならば納得もいく。しかし伊藤のこの狼狽振りには、別の何かしらの要因があるように感じられた。

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