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四月十五日火曜日。沙耶が逮捕されたその翌朝、私は普段どおり七時五十分に家を出た。
会社へ行くためではない。勤め先には朝一で電話を入れておいた。幸い私の会社は有給休暇が取りやすい環境にあり、繁忙期でもない今は上司も快く了承してくれたのだった。
知り合いの葬式に行くと伝えた。全くの嘘ではない。
喪服を着て、昨日御渦と約束した場所である私のマンション入り口に立つ。ダブルの喪服は、二年前に叔父が亡くなったときに新調したものだった。クリーニングに出してからずっと、ビニールで覆われたままの姿で保管してあった喪服は、防虫剤のすえた臭いが染み付いていた。
通勤時間に黒尽くめでたたずむ男は異様なのか、通行人は皆私を見ているように感じる。あるいは、昨日の捕り物が起きた現場だからなのかもしれない。
天気はくもりだが、四月にしては蒸し暑く、脇の下に汗が流れるのを感じた。
御渦は時間通り、八時丁度に現れた。喪服ではない、ただの黒いスーツだった。長い髪は後ろで束ねられている。
「葬式は午前十時からだって」
開口一番の、彼の挨拶代わりの台詞であった。
「詳しい住所、勿論知ってるんやろな」
「ああ知ってるさ。でもその前にどこかで朝飯を食おう。その真っ白い顔を見る限りは、どうせ何も食べてないんだろ。あまり早く行き過ぎても具合が悪いしな」
私の了解を得る前に、御渦は先に立って歩き出していた。
御渦に先導されて、『カンザス』へ向かった。最も近い喫茶店がこの店であったからなのであろうが、私はあまり気が乗らなかった。なにしろ、沙耶と私の関係を引き裂くきっかけとなった店なのである。そして、その張本人の背中が、目の前にあった。
「ああ、一昨日の席しか空いていないな。仕方ないね」
そう言って、御渦は一昨日と同じ席に座り、私に対しても同じ席を勧めてきた。
口髭のマスターにモーニングセットを二つ注文すると、私は店の入り口近くに設置されているマガジンラックに向かう。比較的込み合う時間帯でありながら、幸いにも朝刊が一部残されていた。私は席に戻ることも忘れ、乱暴に紙面をめくる。
「二十四面だよ。その真ん中くらいさ」
テーブル三つを挟む距離を越えて、御渦が声をかけてくる。一瞬だが、別の席に座る一人の中年男性が怪訝な顔で御渦を睨んでいた。多くの人は、朝は機嫌が悪い。
私はともかく、御渦に言われたとおりの紙面を開く。写真こそなかったものの、太字のゴシックで、大きな見出しが出ていた。
『京都婚約者殺人事件、容疑者逮捕』
推理小説のタイトルみたいな事件の命名に呆れたが、その内容はまさに私の周りで起きた事件であった。
記事には、四月十日深夜に婚約者を殺害し、翌日逃亡した沙耶の行動が書かれている。逃亡後三日目の夜に、大阪市内で知人のマンションに潜伏しているところを逮捕、とある。彼女は京都市の下鴨警察署に移送され、現在動機などの取調べ中、として締められていた。
三度読み返したが、彼女が連れて行かれた警察署の名を除くと、何一つ新しい情報はなかった。
記事の中には私の名も、そして御渦の名も出てきていない。
ただ、被害者篠沢誠一(二九)と、浅野沙耶容疑者(二四)の文字だけがあった。
そのときはじめて、私は見ず知らずの篠沢誠一に対して明確に嫉妬した。
おかしな話である。彼はその経緯はともかく、何者かに殺された被害者であることに間違いない。そんな男に同情ではなく、私は嫉妬したのである。ただ、同じ記事に沙耶と名を連ねているだけで、だ。
「約束は守られていたかい?」
無意識のうち、私は席に戻っていたようだ。対面に座る御渦が、片方の唇を伸ばしていた。
「マスター、テレビ点けて」
店内に響き渡る声で、御渦が要求する。口髭のマスターはトーストを切る手を止め、テレビのリモコンを操った。
見慣れぬキャスターが現れ、悲痛な面持ちで〈では現場からです〉と語る。
画面は切り替わり、若い、ゆで卵のような顔をした女性レポーターが映し出される。春先にしては薄手と思われる紺のスーツの後ろには、古びたコンクリートむき出しの建物があった。
〈はい、浅野容疑者が連行されている下鴨警察署前にきています。昨日の夜に大阪市内で逮捕された浅野容疑者でありますが、今朝から取り調べが開始されるようです。現在のところ殺害の動機など、新しい情報は入ってきておりません〉
演出なのか、それとも機械的トラブルのためか、そこでようやく写真が画面左端に現れる。そこには、全く別人である浅野沙耶の顔があった。美人であることに変わりはなかったが、顔色は白く目つきが鋭い。何らかの意図的な加工が見てとれた。
〈結婚を間近にした被害者と浅野容疑者の間に、いったい何が起きたのか。何故、婚約者を殺害するに至ったのか。そして逃亡から三日の間、彼女がどこで何をし、そして何を考えていたのか。今後の取調べが注目されます。以上現場からでした〉
不自然な間をおいて、画面はスタジオに戻される。ニュースキャスターは暗い表情を保ちなから〈この事件に関しては、続報が入り次第お伝えしたいとおもいます〉と締める。そして、一転して明るい笑顔に衣替えし、地域の祭りの紹介をはじめた。
「マスコミ関係者も、大した情報は仕入れていないようだね。でも、君の名を把握しているところは、少なく見積もっても新聞で三紙、テレビて二局ある。この事件が、誰の目にも明らかな解決を得るまで、君は取材対象となり得るだろうな」
「そんなことはどうでもええ。なんやねん。新聞もテレビも、浅野さんが犯人やと決めつけとるやないか。彼女はまだ容疑者ってだけなんやろ」
「正確には『被疑者』だね。知ってるかい? 『容疑者』という言葉は、マスコミが勝手につくり出したものだそうだよ」
「そないなことはどうでもええ。もう、こんなところでグズグズしてられへん。はよ行こうや」
「まあまあ、先ずは座りなさい。早く行っても仕方がない。美味いコーヒーを飲もうじゃないか」
タイミング良く、口髭のマスターが盆を運んできた。コーヒーとバターがたっぷり塗られたトーストの芳ばしい香りが胃を刺激する。
周囲の目もあり、仕方なく私は席に座った。そんな私を満足げに眺めながら、御渦はさっそくタバコを取り出し咥える。そして、上着の内ポケットから携帯電話を取り出すと、素早くナンバーキーを叩き耳に当てた。私には、適当にボタンを押しているようにしか見えなかったが、電話は繋がっているようだ。
「おはようございます。御渦です…。はい……、はい……、分かりました。じゃあ、もうそちらにうかがわなくてもいいんですね。……了解しました。…ええ、伝えておきます。今僕の目の前にいますので。……なんだ、知っていたんですか。……はい、ではまた」
短い電話を終えると、御渦は私を見て微笑んだ。
「もう、警察には行かなくていいらしいよ。昨日の山根さんが言っていた。それから、君の尾行も止めてくれるそうだ」
そういえば、私は殺人事件の参考人として、任意同行された立場であった。また警察に呼ばれる可能性は高いはずだった。今日にも呼び出されても不思議ではい。今御渦は、その確認の電話をしてくれたようだ。警察は既に私には関心を持っていないのだろう。なにしろ私は、事件が起きてから登場する人物なのだから。
当然といえば当然のことなのだが、私は安堵していた。私が沙耶を思うあまり、その婚約者を殺害したという推測を、警察が立てなかったことに感謝していた。
そんな私の心境を見透かすかのごとく、御渦は微笑んでいた。そして、唐突な質問をはじめる。
「なあ、聞かせてくれないか。君がなぜ、浅野沙耶なんて女に執着するのか」
「執着って、俺はただ……」
「ただ?」
私は言葉が続かなかった。
微笑を保ったまま、御渦はタバコとコーヒーを交互に楽しんでいる。
「ならば聞き方を変えよう。このままいけば警察は浅野沙耶を間違いなく起訴するだろう。テレビや新聞も、あの女が婚約者を殺したものだと断定している。世界中が彼女を疑っているわけさ。なのになぜ、君は彼女を擁護するんだい。君が彼女に対して恋愛感情を抱いているということはみれば分かる。でも、それだけでは僕には解せないんだな」
「解せないって、なんでや。俺にはあんたが分からんことが分からへん。好きな人のことを信じるのは当然なんちがうか」
「まあ、世間一般の常識からしたら、君のほうがまともなのかもね。でもさ、事件の話を君も聞いたのだろう。彼女は、他殺体と共に、密室の中にいたんだぜ。これは誰が見たって、犯人は彼女さ。こんな明確な事象を目の当たりにしても、君は彼女の無実を信じるわけだよ。これってさ、凄く不思議じゃないかい?」
御渦がいったいどんなこたえを求めているのか、私には見当もつかない。しかし、彼の話を聞いているうち、本当に自分が不思議に思えてきた。
「僕はライターとして、記事のネタにするために、この事件を追う。では君は、いったいなにを得るのだろうね」
私は何をやっているのだろうか。何がしたいのだろうか。彼女を救い、彼女の感謝のキスを欲しているのか。彼女を、自分のものにしたいのか。
そのために、彼女の無実を得ようとしているのだろうか。
「僕が言いたいことは、『愛』なんていう曖昧なもので、君が何かしらの道徳的な行為を行うとしていると、そんな勘違いだけはしてほしくないということさ。僕は記事を書いて、自分の好奇心といくらかの金銭を得る。君は、これは成功したらの話だけど、彼女そのものを得るのだろう。これが我々の目的だ。異なる目的であるが、そのプロセスを共有するため、共に行動する」
「当然や。俺とあんたは、友達にはなれへんからな」
私は吐き捨てるように言ってやった。
「そんな話をしているんじゃないよ」
少々呆れたように、私を見下して御渦は声を張る。
「つまり、期待するなということさ。人は何かを得ようとする際、大義というものを持ち出すんだね。そして、大義というやつは正義なんだ。人生の中の苦しみにおいて、自分の正義が瓦解するというのは最大級の苦しみとなる。本当は、欲望の一つが姿を変えただけのものであるにもかかわらず、大きな苦しみを生み出すのさ。君は浅野沙耶の無実を勝ち取ろうとしている。しかしそれは正義ではなく、彼女を欲する欲望でしかないということ。これを認識していれば、失敗した場合もダメージはそれほど大きくはないよ」
御渦の言葉を理解するのに、私は数秒間を要した。何か大仰なことを言ったようだが、なんてことはない。彼は単に、沙耶を司直の手から解き放つことはほぼ不可能であると言いたいだけなのだ。
しかし、私は信じている。彼女の無実を信じている。
御渦の言葉は、私の意欲を削ぐことはなく、逆に確固とした決意を抱かせる結果となった。
目の前に置かれ、多少冷めはじめているトーストをほお張り、同じく冷めたコーヒーで流し込む。
「御渦君よ。君のつまらん哲学を聞いている暇はないんや。協力してくれるのはありがたいが、邪魔するようなら、俺は一人で動くからな」
そう言い残し、私は伝票を掴み席を立った。大股でレジに向かい、財布から小銭を探している間に、御渦も立ち上がり私の後ろに歩み寄る。
「一人で動いたとして、君にいったい何ができるのか見物だが、そう怒らず、一緒に行こうじゃないか」
伝票の上に自分の料金である五百円硬貨をパチリと置き、さっさと御渦は店から出て行った。私もすぐにその後を追う。このときはまだ、私は気づいていなかった。私はこの時点で既に、逃れられない歯車の中にいたのだ。御渦が与えてくれた警告を、私は尽く無視したのだった。




