8
御渦という男は実は不動産屋であり、遠まわしな方法で私に空き物件を紹介したかっただけなのでは、と疑いたくなるほど、その部屋には何もなかった。
隅に置かれた小型の冷蔵庫。そして、ソファーベッドが一つ。それ以外はなにもない、六畳ほどの狭い部屋だ。テレビも本棚もなく、壁にはポスターもカレンダーもみあたらない。ただ白い壁が四方を囲っている。
「本当にここに住んでんのか?」
正直な感想を、私は問いとして口にした。
「住んでいるよ。一年以上前からね」
一年も住めば、たとえ身一つではじめた生活であっても、様々な物が増えているはずだ。本や雑誌、食器や雑貨、家具や家電など、普通に生きていく上でいつの間にか増える物は多い。ここが仮に御渦の名前で契約されていたとしても、仮眠場所としてでしか利用されていないことは明白であった。
「生活のにおいが全くせん部屋やな」
私の言葉は聞こえなかったのか、御渦は据付のクローゼットを開き、ジャケットをハンガーにかけている。御渦の脇から覗けたクローゼットの中身は、仮眠場所にしては思いの外充実していた。
「適当に座ってくれよ。座布団なんて気のきいたものはないけどね」
私は先ずベッドを見たが、他人のベッドに座ることに気が進まない。仕方なく、私はフローリングの床に座った。
「何か食うかい?」
私に倣ってか、御渦も同様にフローリングに座っている。
私は夕飯をとっていないことを思い出したが、食欲は全くない。御渦の問いに対してただ首を横に振った。
「じゃあ、コーヒーは?」
喉は渇いていた。顔色を見ただけでそれを判断し、御渦は薬缶を火にかける。どこから取り出したのか、白いコーヒーカップが二つ、揺れるガスの炎の隣に置かれていた。そうした最低限の食器は用意されているようだ。
「君、気が付いていたか?」
ガスの青い炎を眺めながら、御渦は言った。
「気付くって、何を?」
「君、尾行されてるぜ」
「ビコウ?」
御渦は顔だけを私に向ける。私が彼の言葉を理解できないでいる様子を確認すると、自ら説明を加えた。
「勿論、警察のだよ」
「何で、俺を?」
「さぁ。山根さんの指示だろうけど、君にはそれほど期待しているわけじゃないだろうね。期待していないというのは、新しい情報を得られないという意味だよ。気にしなくても良いさ。二、三日の辛抱だ。早ければ明日にも煙のようにいなくなるから」
御渦はガラス製の灰皿を持って床に戻った。胸のポケットからタバコを出して吹かしはじめる。
御渦の姿を見て、私もネクタイを緩め上着を脱いだ。脱いだ上着は床に放る。御渦にハンガーを借りようとは考えなかった。よく見ると、私のスーツはぼろぼろにくたびれている。一日二度もアスファルトに転がれば、仕方がないのだろう。
くつろいだ格好にはなっているが、私の緊張はほぐれない。警察からここまでの暗い夜道を、私の後ろからドラマに出てくるような二人の刑事が尾行していた様を思い描いた。二人の刑事はトレンチコートをはおり、頭は角刈りだ。
既に私は、事件の関係者なのだろう。漠然とした恐怖を感じたが、そのような尾行を気にしていては、本当に何もできない。始まらない。私は頭を振り、思考を切り替える。
そして目の前の人物も、私はしっかりと見極めねばならない。彼の存在は、沙耶を解放できるかできないかを左右している。信頼するに値するのか、私は判断しなければならなかった。
「なぁ、御渦さん。事件を分析する言うてたけど、その前に、あんたの名刺か何かみせてくれへんか」
少し目を大きくして、御渦はタバコを吸う動作を止めた。
「あれ? まだ信用ないの?」
「信用ないというか、念のために、な。俺、君がどんな人間か全く知らんもの」
私は御渦を観察する。ジャケットは既にハンガーにかけられていたが、その下に着ていたシャツは紳士服売り場ではみかけない形をしている。ホストと呼ばれる職業の人たちがよく着ているタイプのものだ。また、スリムで背が高く、足も長い。ファッション雑誌など見たことないが、モデルとして登場していてもおかしくはないような人物だった。どう見ても私のような普通の会社員とは思えない。
「名刺なんて気の利いたものは持ち歩いていないけど、これで良いかな」
御渦はズボンのポケットから、くたびれた文庫本を一冊取り出す。
「それの、三八から四八までのページは、僕の記事が掲載されているよ。あまり満足している内容ではないけれど、薄いでしょ、それ。名刺代わりに持ち歩いてるんだ」
手帳のような文庫を捲り言われた項を開くと、確かにそこに『御渦宗茂』の文字が読めた。タイトルは『蟻の声』。数名の著者が書いた記事を一冊にまとめた本である。その一人として御渦の記事が確かにあった。その内容を斜め読みした結果、自衛隊を退役した後の、数人の人生が扱われているドキュメンタリーであると分かった。様々な資格を持つことで、職には就くことができるが、世間から向けられる白眼視が耐え難いという内容だ。とび職人、警備員、廃品回収業者として第二の人生を歩んでいる人々の苦悩が書かれていた。意外なほど硬派なき記事である。裏表紙を見ると、バーコードも印刷されており、名の通った出版社名も記載されていた。私は背表紙などに細工がないかも確認する。
「自分の名前は、ホンマに『御渦』いうん?」
この問いに対し、御渦は財布から運転免許証を取り出し私に示した。そこには、多少顔色が悪いが、確かに眼前の男の写真が貼り付けてあった。
「少しは安心したかい?」
ここで、湯が沸いた合図として薬缶が悲鳴を上げていた。御渦は立ち上がり、コーヒーの準備をはじめる。コーヒーフィルターを取り出したのが見えた。インスタントではないようだ。
隙なく動く御渦を観察するうちに、コーヒーのよい香りが部屋に充満していた。
私は深呼吸し、気持ちを落ち着かせる。どうやら、ナーバスになり過ぎているようだ。
「改めて、協力を頼むよ。御渦さん」
背筋を伸ばし、私は御渦に頭を下げた。
「さん、はよしてくれ。呼び捨てで構わないさ。言い辛いなら、せめて君付けにしてくれ」
御渦はコーヒーカップを二つ運んできて、それを床に置いた。そして、新しいタバコに手を伸ばす。
「事件の概要は聞いたんだね」
湯気が立つコーヒーカップを口に運びつつ私は頷いた。
「ならば知っているのだね。浅野沙耶が、いわゆる密室の中で篠沢誠一の死体と共にいたことを。部屋は完全に施錠されていたという。客観的に見て、彼女の容疑を覆すことは困難だろうね。彼女が今後の取調べの中で、どのような供述をするのか分からないが、容疑を否認するならば、それ相応の理由が問われることになる」
「その話は聞いた。でも、先ずは、浅野さんが確かに、その部屋の中にいたのかを明確にすべきや。聞いた話では、殺された、篠沢さんか? その母親は、浅野さんのことを嫌っていたそうやないか。だとすると、その母親と、母親の恋人が共謀して、浅野さんを容疑者に陥れたとも推測できる。まだまだ、果たして、篠沢っていう人が本当に殺されたのかも、俺ははっきりと説明されていない。不確定要素が多すぎる」
私が喋る間を利用し、御渦はタバコを吸う。そして、煙を吐くと同時に喋った。
「他殺なのか自殺なのか。この辺から片付けようか。篠沢誠一の死因が絞殺による窒息死であることは聞いているか? その直前に、鈍器による頭部への一撃も受けている。この一撃で意識を朦朧とされ、とどめに首を絞められたわけだ。鈍器とは、部屋の中にあった貯金箱だそうだよ。五百円玉が一杯に貯まった、人の頭大の貯金箱なんだって。アルミ製の円柱型の貯金箱だ。不憫だと思わないか。篠沢誠一は自分を殺すきっかけをつくるため、長年こつこつと貯金していたのだよ。金額で三十万円ほどにもなるらしい。その中身が盗まれているようなことはなかった。それから指紋の件だけど、室内には被害者篠沢誠一と浅野沙耶の指紋以外は検出されていない。そして、普通は付着するはずのドアの取っ手や机の上、その類の箇所は丹念に拭取られていた形跡があった。貯金箱にも指紋はなし。だが、血糊も付着していたから、これが凶器になったことに間違いはないとみられている。実際に誰が被害者の頭へその凶器を振り下ろしたのはか別にしておこう。殴られた瞬間に血が飛び散った形跡はなく、被害者は倒れた後、じわじわと出血し、カーペットにシミをつくっている。直接の死因となった頸部圧迫は、皮のベルトが使われた。これは、篠沢誠一が普段使用していた、スーツ用の地味な黒いベルトだ。首にくっきりと残されている絞められた跡と、ベルトの形状が一致している。自ら頭を殴り、窒息するまで首を絞めるなんて芸当は不可能だと思わないか?」
急に問われても、私はこたえる準備ができていない。金魚のようにパカパカと口を開け閉めしていただけだった。御渦は構わず話を進める。
「もう少し細かく話すと、篠沢誠一は頭を入り口に向け、うつ伏せの状態で絶命していた。頭からの出血状態を考えると、殴られ、倒れた場所で首を絞められたというのが検死官の出した結論だった。ベルトは部屋の一番奥に当たる、窓の下に落ちていた。もしも篠沢誠一が、類稀なる強靭な精神の持ち主で、自ら首を絞めて自殺を図ったとしたら、彼は絶命の瞬間にベルトを放り投げたということになる。同室にいた浅野沙耶が首から外し、窓の下に置いた若しくは投げ捨てたというのが妥当だろう。彼女が首を絞めたか否かは置いておくとしても、篠沢誠一が何者かに殺された、というのは疑いようのない事実だ」
時間をかけて、私は御渦の話を理解した。確かに、彼の話を全て信じるとしたら、篠沢誠一が何者かに殺されたという事実は疑いようが無かった。
私が納得したのを認めると、御渦は満足げに話を続ける。
「順番に片付けてゆこう。部屋の中は荒らされた形跡がなく、無くなったものもないことから、物盗りの犯行とは考え難い。必然的に怨恨など、被害者をよく知る者の犯行が推測されることになる。先ず、この事件の関係者それぞれの、死亡推定時刻である四月十日の二十三時三十分から二十四時にかけての所在証明、いわゆるアリバイについて確認しよう。関係者を挙げてゆくと、先ず婚約者である浅野沙耶、そしてその兄浅野邦夫、被害者誠一の母篠沢伸子、伸子の恋人伊藤重信の計四名。これ以外にも勿論被害者には友人知人、親戚が多数存在している。しかし、物盗りではないとして見た場合、怨恨や保険金目当てが考えられる。そうした深い付き合いとなると、この四人に絞ることができる。そして、この四人の中で確実なアリバイを持っているのは篠沢伸子一人だけだ。伸子がスナックを経営してるのは知っているかい? この店の名は『故郷』。全国に一千件はありそうな名前だね。経営時間は夜八時の開店から客のいる間。ときには朝まで開けている。その日、つまり四月十日から十一日にかけても、朝まで客が途絶えることがなかった。従業員は一人いるが、これはいつも午前二時に帰ってしまう。伸子の古い女友達であり、小遣い稼ぎ程度で働いている人だ。ともかく、この従業員が、犯行時間の伸子のアリバイを証明している。二、三分であれば、従業員や客の前から姿を消すこともあったが、基本的にはカウンターの中にいて、馴染みの客と馬鹿話を続けていた。この従業員の他に、三人の馴染み客が証言したそうだ。これら全てが共謀してるとは考え難い。そうそう、店の場所は祇園だ。篠沢家の場所は、京都市の北、岩倉にある。伸子の店から家までは、信号無視で車を飛ばしても十五分はかかる。つまり、母親が何らかの理由でその息子を殺害するというケースは有り得ない。まあ少なくとも、自分の手によることは、不可能だと言える」
そこで一息つくと、御渦は根元まで灰になったタバコを揉み消す。
「第一、僕が調べた限りにおいて、この母親伸子に息子を殺さねばならない動機がない。これ以上ないほど溺愛して育てた息子だ。保険金などもかけられてはいなかった」
「でも、その伸子は浅野さんを嫌っていたんやろ。そない溺愛しとったなら、自分の思い通りにならないことで、可愛さ余って憎さ百倍っちゅうやつで、殺意も芽生えたんと違うか?」
私としては思い切った発言であった。見たこともない他人であったが、殺人の疑いをかけるには勇気が必要だった。
「まぁ、そう焦らず、一つずつ事実を確認してゆこうじゃないか」
御渦はぬるくなったであろうコーヒーにようやく口をつけた。
「篠沢伸子以外に、この殺人が起きた時刻の前後に関わった人物は、浅野沙耶、浅野邦夫、そして伊藤重信の三人。では、伊藤重信から片付けよう。彼は現在四十五歳。元プロボクサーで自衛官だった経歴も持つ。スナック『故郷』の常連だ。伸子との関係は三年ほど前から続いているようだ。関係というのは無論、肉体関係だよ。これは常連客の間では公認のようで、二人の間を茶化すことが、一つの日常だったようだね」
既に御渦のコーヒーカップは飲み干されていた。
「話を当日に戻そう。伊藤がスナック『故郷』に現れたのは、十一日の午前一時過ぎ。これはほぼ毎日のことだそうだ。伊藤はいくつかの職を経て、現在は木屋町のラーメン屋で雇われ店長をしている。これが二十四時に閉まる。そこから掃除と明日への仕込み準備を一時間で済ませ、伸子のスナックへ向かうのが彼の日課なんだ。ただ、店は伊藤一人で切り盛りしているため、彼のこの日の行動を証明する人物がいない。最後の客が帰ったのが閉店の二十四時ぎりぎりだったというが、その客はみつかっていない。一見客だったため、伊藤も顔まで憶えていないそうだ。つまり、犯行時刻の伊藤重信には、全くと言って良いほどアリバイがないのだね。店を二十四時にたたみ、急いで篠沢家まで車で向かい、誠一を殺害し、『故郷』へ到着することは不可能じゃあないな」
「ほなら、その伊藤ちゅう男が犯人違うか? ほら、伸子との付き合いを息子の誠一に反対されたとかして、殺意を覚えた。筋はとおらへんかな」
「君は安直過ぎる、というより、浅野沙耶以外の人間ならば、誰が犯人であっても良いのだろう。憶測だけで話を進めてしまうと、とんでもない迷路に迷い込むぞ」
御渦は、私のコーヒーカップも空になっていることをみつけ、勝手に二杯目の準備をはじめていた。再び薬缶を火にかけながら、話を続ける。
「君は伊藤を標的にしたが、彼に関しても全く篠沢誠一を殺害する動機がない。篠沢誠一と伊藤は以前から見知った間柄で、仲も良かった。伊藤のラーメン屋にもよく顔を出し、談笑する様が目撃されている。誠一の方から伊藤に対し、早く母と結婚してくれと催促していたくらいだそうだ。伊藤は二度の離婚暦があって、それが故に新しい妻を娶ることを躊躇していたそうだ」
御渦は最初に大量の湯を沸かしたようだ。改めて火にかけた薬缶はその余熱ですぐに鳴きはじめた。
「その上、伊藤重信は自動車免許を持っていない。勿論、車も持っていない。電車はもう動いていない時間だ。バスもない。伊藤が使うことのできる唯一の手段はタクシーということになる。しかし、タクシーを表で待たせて、人殺しを行うだろうか。僅かな時間で往復するためには、必ずタクシーを待たせる必要がある。篠沢家のある辺りは、京都駅周辺や四条河原町じゃない。深夜にはめったにタクシーなんて拾える場所ではないんだ。これは大変リスクが高いね。運転手に顔を覚えられる危険も伴う。他に協力者がいない限り、実質伊藤には無理だろうと僕は思うよ。自転車や走って向うという手段も困難だね。その日の京都は午後十時過ぎから、豪雨とも呼べる大雨となっている。瞬間最大風速も二〇メートル程あり、傘を差すのも難しかった。雨は翌日の午前三時ほどまで続いた。そんな悪天候の中、自転車でも徒歩でも、限られた時間内に篠沢家に向うことはほぼ不可能だ。実現できても、相当目立っただろうね」
てきぱきとそれぞれ二杯目となるコーヒーを注ぎ、御渦が私の前に戻ってきた。
「次は浅野沙耶の兄、浅野邦夫だ。実は、彼についてはそれほど詳細な情報を僕も得ていない。でも、当日の動きは知っているよ。彼は十日の午後五時前後に、自分の車に沙耶を乗せて篠沢家に到着した。何故彼が妹を送ったのかは聞いているかい?」
「ああ、篠沢伸子に気に入られていたんやろ。彼が医者やから、伸子は邦夫さんを信頼してたって、刑事が言ってた」
私が沙耶の兄に『さん』を付けたとき、御渦は僅かに目を大きくしたが、その点に関して特に追求してくることはなかった。
「そう、医者だ。ちなみに病院で担当しているのは神経内科。彼がいると、伸子の機嫌が良かった。だから、浅野沙耶は毎回兄に送り迎えを頼んでいた。邦夫の仕事が忙しく、妹を送ることができないときは、篠沢の家へ沙耶が行くことは殆どなかったというほどだ。兄と妹、それぞれお互いしかいない家族だからこそ、兄は妹に協力してやったのだろうかね」
二杯目のコーヒーを飲もうとする私の動きは止まった。兄と妹だけの家族とはどうゆう意味だ。
「なんだ、知らなかったのか。浅野邦夫と沙耶は、二人だけで暮らしているんだよ。父親は三年前に他界し、その後母親は再婚して別の姓を名乗っている。そのときには邦夫も沙耶も成人していて、二人とも姓を変えること、つまり、新しい父親の養子になることを拒んだんだ。それ以来別々に暮らしているというわけさ」
私は、本当に彼女のことを、何も知らなかったのだと悟らされる。確かに彼女は「兄に養ってもらっている」という旨の発言をしていた。あのとき私は混乱気味で、彼女の言葉を深く理解してやる余裕がなかったのか。普通、それだけで両親がいないことは分かるはずだった。
「まあ良い。話を戻そう。浅野邦夫は妹を車に乗せ、夕方五時に篠沢家に到着した。しかし、普段いるはずの母親伸子は既に店の方へ出勤しており留守をしていた。通常は七時を過ぎてから出かけるらしいが、その日は手間のかかる仕込みがあるとかで、早めにでかけたのだね。伸子がいないのなら、邦夫の役目はない。コーヒーを一杯飲む間に世間話をしてから、邦夫は自分の車を運転して一人で帰宅した。家に帰った後はテレビを見て、日付が変わる前には寝たそうだ。先も言った通り、邦夫と沙耶は二人暮らしだ。片方がいなければ当然一人。よって邦夫のアリバイを証明できる人物もいない。翌日の十一日朝、警察から沙耶が逃亡したことを電話で知らされるまで、一歩も家を出てないと主張している」
「なら、その邦夫さんが、夜中に篠沢の家に忍んできて、誠一を殺すことも可能だったんやな」
「もちろん、邦夫が篠沢家に深夜やってこられるという可能性はあるよ。篠沢家は比較的密集した住宅街にあり道も狭い。車を家の前に停めると、他の車が通れないほどに狭いんだ。彼が車を使ったとすると、隣人に気づかれないようにどこかで車を降りて、徒歩で行かなければならないけどね」
「しかし、なんか希望がみえてきた。沙耶の他にも、十分犯人がいる可能性があるやないか」
私は、さぞ目を輝かせていたことだろう。しかし御渦は、悲しげな視線を向けている。
「君は浅野沙耶以外の人間が犯人であれば、それで良いのだろうけど、そんなに甘くはないよ。そりゃあ、単に犯行時刻に篠沢の家に向かうことのできる人間は、関係者の中に二人いる。伊藤に関しては協力者が必要となるけど、全く不可能ではないね。でも、これは単に家へ行くというだけの話だ」
「犯行時刻に現場に行けるゆうことは、そいつらにも誠一を殺すチャンスがあったゆうことちがうか?」
「ちがうね」
御渦は強い口調で断言した。
「彼らには無理なのさ。動機やアリバイなんてものは、今回の事件では余り意味をなさない。何故なら、浅野沙耶以外に犯人は有り得ないからだ」
御渦の声には怒気さえ感じた。それほどの断定的な口調である。
「良いかい。彼女は、浅野沙耶は篠沢邦夫の死体と共に、施錠された部屋の中にいたんだよ。犯行時刻から母伸子が息子の死体を発見するまで、実に七時間。彼女は死体と共に、狭い部屋で過ごしたんだ。これは異常だよ」
「それは、ショックやったからやないかな。目の前で、恋……婚約者が殺されたんやから、放心状態になったのかもしれへん。気を失ったとも考えられる。刑事も言うてた。沙耶は発見されたとき、呆然としとったって」
被害者篠沢誠一を恋人、婚約者と呼ぶことに抵抗があった。その時点から、私にはこの事件を実感として掴みきれないものがあったのだ。
「よし。なら、彼女が無実であると仮定してみよう。犯行時刻、何者かが篠沢家に侵入してきた。そして、篠沢誠一を絞殺する。同室若しくは極めて近い場所にいたと思われる沙耶は、その犯人に対して抵抗したかもしれない。又は、トイレか風呂かでその場にいなかったかもしれない。だが、彼女が篠沢誠一の死体と同じ部屋にいた所を発見された以上、恋人が殺された、若しくは死亡したという認識はあったわけだ。ここが重要だ。彼女は婚約者が死んだことを知っていた。何しろ彼女は部屋に鍵をかけたのだからね。良いかい。何者かが篠沢を殺害した場合にも、彼女はその死体を一度は見ることとなる。死体を見てから、部屋の鍵をかけるんだ。しかし、彼女はそれ以外何もしなかった。浅野沙耶は職歴こそないものの、二十四歳という立派な大人だ。ごく普通に大学も卒業した。目の前で、それが例えとても現実として捉え難い光景であったとしても、人ひとり死んでいるのを見て、七時間もの間呆けているといのは異常だ。寝てしまうのはより異常だ。普通ならば、救急車を呼んだり、警察を呼んだりするはずさ。少なくとも泣き喚いたりするだろう。でも彼女はそれをしなかった。それどころか、部屋に鍵をかけ、自分と死体を封印しているんだ。翌朝伸子が嵐のように戸を叩いても、無視をした。ショック状態となっていたとしても限度がある。どう考えても、この点が納得いかないんだな僕は」
一気に話終えると、御渦は深呼吸するようにタバコの煙を吸い込む。そして、大きな紫煙の塊が吐き出された。
確かに、彼女の行動には納得の行かない点が多いように思われる。
「しかしそれは、浅野さんが犯人であった場合でも、話の筋が通らないんとちがうか。もし彼女が本当に犯人なら、なんでわざわざ、密室をつくって、自分が犯人だと分かってしまうような状況にしたんや。本当にまともな頭をした人間なら、犯行を隠そうとするんとちゃうか?」
「いや、彼女が犯行を隠す意図がなかったと考えた場合、話の筋は通る。彼女は警察が駆けつけるまでに逃亡してしまっているが、この点は土壇場で怖くなったからだと推測することができるだろう」
「それは違う。それだけは、絶対に違う」
私の断言に対して、御渦はまばたきもせず私の顔をみつめた。次に続く言葉を待っているようだったが、私には論理的に説明することができなかった。ただ、あのときの沙耶の目だけを信じているなど、言えたものではなかった。
「ま、なんだ。予測してはいたことだが、ここで話をしていても、結論がでるわけがないな。どうだい中井君、明日僕は篠沢の家に行こうと考えているんだが、一緒に行かないか? 君も見ておきたいだろう。犯行現場というやつをさ。ちょうど、葬式も明日行われるんだそうだ。関係者に話を聞くよい機会になるだろう」
歯をみせずに、御渦は笑っていた。
笑って、私を誘っている。
現場へ行く。人殺しがあった場所へ行く。このことが、まだ現実味を帯びてこない。
しかし、その場に行けば何かが分かるかもしれない。
「ああ、そういえば君はサラリーマンだったね。そう簡単に休みはもらえないか。いいさ、僕一人で行ってくるよ。ちゃんと報告もしてあげよう」
「俺もいく。仕事は、なんとかする」
私のこたえに、御渦は更に唇を左右へ伸ばした。
「ならば、明日の朝八時に、君の家の前で待ち合わせよう。そうそう、ちゃんと喪服を着てくるんだぞ。なければ、黒っぽいスーツでも良いよ」
何でや、という疑問の言葉がとっさに口から出かけたが、私はそれを抑えることができた。そうだ。私は、人が死んだ家に行こうとしているのだった。
そんな当たり前のことが、最初から思いつかなかった自分の精神が危ぶまれる。
私は壊れかけているのではないだろうか。
御渦は既に何本目か数えられなくなっているタバコを揉み消し、山となっている灰皿に投げた。
それを合図にしたように、御渦はシャツのボタンを外しはじめた。私は男同士であるにも関わらず、そんな御渦を見て気が動転する。
「な、なに急に服脱いどるんや」
「なにって、もう寝るんだよ。君も、もう帰れ」
そう言うと、御渦は一人でベッドに潜り込んだ。
なんて横柄で身勝手な奴だと考えたが、私たち二人は友達でもなんでもないことを思い出した。私はごちそうさんと呟き、上着を着て部屋を出た。




