闇の中のStarNight
朝の眩しい光が東側の窓から部屋の中に差し込んでいた。薄暗い部屋のどんよりとした空気の濁りは、層をなした光のきらめきとなって漂っている。深い静けさに浸された小屋の外では、鳥たちのさえずりや奇声が交錯している。
牧野秀一はその日差しを顔に浴びて、しばらくの苦痛なまどろみのあと目をさました。ぬらぬらとした汗の滲む額に手をあて、伸び放題の髭におおわれた頬を、深いため息をつきながらさすつた。そして充血した瞳を虚ろに開き外を眺めた。初夏の太陽が樹木の葉を通して痛いほど照りつけてくる。彼は漠然と焦点の定まらないまま目を開けている。存在感がつかめず、異次元で肉体と感覚が遊離してしまい、ただ目に映る小さい世界が全てであるかのように。
「ああ、もう朝か、つまんねえな」
彼は独り言をつぶやくと物憂げに腕をくんだ。そして丸太作りのベツドの下に放り投げてあるかじりかけの干し肉をつかんだ。ついで枕もとの木の台に置いてある飲み残しのコーヒーを、物臭に体をよじつて手にとつた。
彼は干し肉をかじりながら虫の死骸の浮いているコーヒーをすすり、そうして大きく深呼吸をくりかえした。しばらくすると口の中がべとついて不快になってくる。それでコーヒーと混濁された痰を吐き出した。茶色くにごつたゲル状の痰を無関心に眺めながら、彼は無味乾燥な朝食を終えた。
やがて擦り切れたGバンの下のおびただしい虫に刺された傷跡の痒みがゾツとするほど背中をかけぬけた。彼は無性にじつとしていられなくなり、すねを爪を立ててかきだした。また破れたTシャツの下には、垢にまみれてあからんだ胸がのぞいていた。
彼はようやくものうげに起きあがり、慣れすぎた部屋のなかを眺めた。そして埋めもせず、まるで話し相手にするかのように小屋の片隅の台にのせてある頭蓋骨をみつめた。
「あれは一体なんだったんだろう。俺を誘うように呼び寄せやがつた」たまにふとよぎる思いに彼はとらわれた。
彼は半年前、真冬のこの原生林に死に場所を求めてさまよってきた。無限の雪と樹木が広がる森は、氷ついたように透き通って彼の体を浸している。彼は、この大自然のなかに立ちつくし反問を繰り返していた。
「さあ今だ、―今こそそのときだ」
「怖いーたまらず」
「本当か、そうなのか」
「本当?いやー違うかも知れない」
「そうだ、ためらいなど、とうの昔に捨てたはずだ」
「だが、ためらいなど、とうの昔に捨てたはずだ」
「だがー」
「秀一よ、俺はこんなときいつもどうしていた」
「だがー」
「秀一よ、俺はどうしようもなく叫んでいた」
「そうだ、そしてこれが最後の叫びだ、さあ、いけ」
彼は狼のように咆哮しながら、やみくもに原生林を駆けまわった。全てが静寂に身をゆだねているなかで、彼の咆哮はただ消えていく生命の燃焼なのかもしれない。彼は森の奥へと体を深く雪にのめり込ませながら駆け続けた。そのやみくもな行為で立ちふさがれる枝枝は薙ぎ倒され、うずたかく積もつた雪は吹き上げられた。そして枝枝が熊笹が若木の枝の葉が頬や目をビシビシと打った。
「ハア、ハア、ハアー」
「まだだ、まだ足りない、進め、倒れるまで」
彼の意思は死を望むままに追い求めた。どれほどの時が流れただろう、すでに彼の表情には生気はなかつた。しかし、死んでいく人間には不自然なギラギラとする目が異様だった。しかし、力尽きなえるように彼は雪の中に深く倒れていった。
「ドサツ」これが生命のなんともあっけない最後なのか。森は静かで雪は暖かく、彼を安らぎへと導くのだが、彼は苦しみから抜け出せないでいる。喉元を切るような血さえ吐き出した口元からもれる激しい吐息は、死を拒む体の抵抗と言えるかもしれない。そして、もう一つの明らかな象徴は苦痛にまみれ充血した目だった。彼は自分の意志に抵抗する生の執着に憎悪をむき出しにした。自分の目を拳で続けざまに殴りつけたのである。だが、充血した目は殴られることで、逆にますます冴えわたってくるのだった。もうすでに生きることの限界を越えた戦いの中で、彼の魂は死を拒んでいた。そしてギラギラと光る充血した目は、朦朧と映る景色にある対象物を見とめた。粗い吐息を徐々に静め、心臓の鼓動を全身に感じながら、彼は全神経を集中して見つめた。
「小屋だ」彼は震える唇で呟いた。
彼は自分の意志を凌駕する力にうながされて立ち上がっていく。その緩慢な動作の中、枯渇したはずの生命力の裏でかすかな葛藤がおこった。
(なぜだ)
(わからん)
(死ねるんだぞ)
(わからない、しかし、あれは小屋だ)
(なにがお前にそうさせる)
(わからないものはわからない、だが目がはなれない)
そんな葛藤をこえて消耗しつくしたはずの全身の筋肉は、震えたゆみながらはいずっていくのだった。
雪に深く埋もれ、輪郭しか見せなかつた小屋は、近づくにつれて丸太の壁と白銀のコントラストによりくっきりと浮きあがってきた。小屋の近くに置いてあるドラムカンにすがりついて起きあがると、彼はドラムカンを押しのける反動を利用して小屋の扉にしがみついた。扉は開き、彼は中に転がりこんだ。そして一刹那突風が吹き抜け扉は鈍い音をたてて閉じた。彼は身を縮こまらせて体を抱き、激しく痙攣しながら体に温もりのかえってくるのを遠い記憶のかえってくるように待ち続けた。やがて筋肉が徐々にほぐれてくると、指を一本一本押し開き、ようやく座りこむと手足をさすりだした。自分の意志さえ凌駕した得体の知れない生命力に不気味さを感じつつ。
やがてこわばった体のまま火をおこそうとかすんで見える目で薄暗い小屋の中を見渡した。そのとき「コロツ」と手に触れて奇妙な音を立てた物を見つめると、そこにはほこりを被った不透明な濁りの中に人骨がよこたわっていた。シャレコウベがこの闖入者を疎ましげに空洞の眼で見つめていたのである。彼は発作的にとびのいたが、頬に痙攣がはしり薄ら笑いが浮かんだ。
「ここで死んだつてわけだ。大分前だな、俺もこうなるのかねーーー」
そしてゆっくりとたちあがると、木棚の上を無造作に手で払いボトボト落ちる小物の中にライターを見つけてニヤリと笑った。そして辺りの燃えそうなものを寄せ集めて石囲いの囲炉裏に火をおこした。煙が立ちこめひそかに炎がゆらめき、やがて焚き火になると彼は「ふう、助かつた」と独り言をいった。
「助かつたか、変なもんだな、人間なんてそんなもんかな」
冷えきった体は少しずつ癒され、やがて彼はこの薄暗い小屋を観察しはじめた。よく見ればみるほどこの小屋は住めるように設備が整っていた。正面の壁には罠とか斧、猟銃が掛けられて、錆びた包丁がぶら下げてあった。また土間の台にはヤカンやナベがあり、水場の下には大きな木箱に食糧がゴタゴタと蓄えられているし、油や醤油のビンさえあった。そう、もう一度いうが食糧があったのである。ほかはどうかしらと振り返ると、彼は意外なそして奇妙な気がしてしばらくその壁を見つめていた。そこには壁一面にわたる手製の本棚に、数百冊の本が並んであったのだ。ほこりを被ってたたずむ重く静かな本の群だった。その側面に木のベツトがあり、彼は腰をおろした。その時、ふと目に止まった柱の傷を眺めると、「アタラキシア」と深く刻んだ文字があった。
「アタラキシアーなんのことだろうー」
気にはなったものの、今の彼には安らぎが、深い深いまどろみと共に訪れるあの静かな闇が必要だった。
火をただひたすら燃やし続け、何日もの間彼は全くの虚脱感に陥っていた。一度は死のうとし冬山深く入りこみ雪の中に力尽きて倒れたものの、自分を凌駕した生への衝動にうながされてこの小屋に辿りついてしまつたのである。しかし、彼は退廃的な気持ちから抜け出せずにいた。そんな彼の脳裏を行き交うものは以前にはどうしようもないもどかしさと苛立ち、そして憤りを感じながらでしか思い出せない彼と関わった人々の姿だった。しかし今の彼は、彼らを空虚さと深い沈黙の中で思い流れていくにまかせた。「くそったれ」かれは深い静寂のなかでつぶやく。繰り返し繰り返しつぶやく。そして時は過ぎていった。
ある日、彼は頭の上の本棚に伏されてある変色し古びた一冊の文庫本に気をとめた.「地獄の季節」本の題名は彼のなにかと弦琴した。彼は好奇心にかられて手にとりページをめくっていった。不透明な自分の感覚が鮮明に浮かんでくる言葉の煌めきがあった。そう、その散文詩の一行一行から溢れ出る憤りの調べに心が震えている自分を知ったのである。閉ざされた彼の魂に曙光のように光が差し込んだのだ。世間を忌み嫌い悪魔をさえ愚弄した自意識のかたまり、その詩人ランボーの魂に彼は共鳴したのである。夕方までかかつて詩集を読み終えた彼は、この小屋の住人つまりシャレコウベの人に思いをむけた。
「人間嫌いの別荘暮らしか、それとも殺されたのか、しかしそれは不自然だ。俺は自由に選択できる赤の他人として、隠遁生活者として見てみたい。そうすれば大体のところ納得できる。」秀一は、そうして前提を推測した。
もうここの住人が死んで一年以上はたっただろう。白骨化した死体、分厚いほこり、張り巡らされたクモの巣、数冊の変色し腐っている本、それらが物語っていた。
火を焚きながら闇を見つめる彼には、この小屋の住人の人物像がおぼろに浮かび上がってくる。社会からの逃避者そして隠遁生活で生涯を終えた人間。この原生林の森深く一人ぽつねんと生きてーーー。彼の苦悩とはなんだったのだろう。
「彼はここでどんな日々を送ったんだろう。こんなところでーーーまてよ、この文字、アタラキシア、確か何かの本で読んだようなーーーそうだ心の平和、アタラキシアーーー」
古代ギリシャの思想の一つ、エピクロスによって説かれた快楽主義の思想、彼は仲間とアテネの郊外にコミューンを作り俗世間からはなれた生活をした。その精神を彼は実践したのだろうか。しかし彼には仲間がいたのだろうか。一つの変則的な行為、そしてアタラキシアとは象徴的な言葉なのだろうか。秀一は駆け巡る思考から感覚の糸を結び合わせてなにかを理解しようとした。そして、
「俺は死のうと思ったんだ、でも、コイツはすべてを捨てて心の平和を求めたんだ」
だがそれ以上は推論でしかなかつた。しかし確実に投げられた矢は彼をとらえていた。
「俺はまだきっとすべてに絶望していないんだ。生きることを体が望んでいる」彼は湧き上がる激しい感情に煽られて立ち上がった。
「でもお前になにができる、なにが、なにができるっていうんだーーー」
彼は燃えあがる炎のようにたぎり立つ混沌の苦しみのなかにいた。そのときポンと炎にはじける焚き火の音に反応するように後ろを振り返った。彼は目の前に群がる数百冊の本をみつめた。あたかも叡智の権化そのままに著作した哲人、作家、詩人たちが闇の中で静かにたたずみ、密やかに眠っているかのような本の群れ。彼はゴクリと生唾を飲みこんだ。
日々は走馬燈のように流れた。本は次々と読みこまれ、それにつれて彼の思考も徐々に深いものになっていった。だが彼の虚無と退廃そして胸倉をつかまれるような苦しみは依然として癒されなかつた。
冬の間、彼は小屋に閉じこもっていた。いやおうがなく、また自ら望んで。彼は本を貪り読みながら、食い入るような虚しさと寂寞の中で沈黙を守っていた。そして溢れ出るマグマのように突然叫ぶのだった。声がかれ喉に痛みが走るまで。そして夜の寒さのなかで充血した目を見開き、ぞくぞくと忍び寄ってくる冷気におののき身を縮めながら、彼は闇の中でなにかを探し求めていた。
やがて春が訪れ、陽光に誘われるように外へ出た彼は、万象のきらめきを感じた。新緑におおわれた森は芳香が流れ、その空気に誘われるようにさまよい歩く彼に、残雪は木漏れ日は、透明な光を投げいれた。ふと視界に飛び込んできたガマガエルの恐怖と驚きを抱かせる生気に満ちた姿、ヘビのするりするりとはっていく奇妙な違和感。鳥たちはさえずり、また奇声をあげ飛び回っている。
そして春の訪れとともに、食糧もかげりをみせ、彼はもともとあつた小屋の道具を利用して、罠を仕掛け狩猟をはじめた。また食べられそうな山菜を集めたりしだした。近くの渓流から運んできた水で、ほったらかしのドラムカンを洗い、水を入れて火を焚き、何か月ぶりかで風呂にも入った。そうして彼の生活が始まり月日は刻まれて行った。
「さあ、やるか」秀一は重いため息をついてつぶやいた。本を取り壁にもたれてページをめくり読み継いだ文脈の流れを追っていく。そしていつものように難解な文章があらわれる。それによって彼は集中していき、次第に文章のなかにのめりこんでいく。習慣になった一連の流れ。もう半年もこんなことを続けている。惰性と無気力にさいなまれ、いらだちを抑えながら言葉を咀嚼していく。時には感情的になり、唇を皮が破れ血が滲むまでかみしめたり、また文章をたどっていた指先が震え、紙をひきちぎってクシャクシャにしてしまう事もあつた。言葉は生き物のように印象深く喚起されもすれば意味さえわからずに読みすごすこともある。そして彼は充血した目で、心の言葉を求め続ける。緊張をたかめ理解しようとし、何度も反芻し暗誦しけばだった白髪のような精神にたたきこむ。
だが彼はこの数日、盲目的に本を読むということに重い戸惑いをおぼえていた。
「もう半年たっちまった。俺はこいつらから何を得た?―――確かに読むには読んだ、けれどそれが一体なんだっていうんだーーーこのいらだちはどこからくるーーー俺はなにかを望んでいるーーーそうだ、なにかをーーーなぜ、なぜなんだ」彼は首を振り続ける。ムズムズと神経の走る体は、激しい自分のすべてをかける行為を欲していた。自分をすべてのものから遮断し閉ざす鉄以上の壁に対して頭を血みどろになるまで打ち続けたいという、激痛の中の甘美な陶酔を求めていた。
「ウォーツ」彼は突然叫び声をあげて外へとびだした。彼はやみくもにかけていった。白樺の林を抜け、熊笹を踏み分け、体にまとわりつく一切を振り払って。激しい息ずかいと筋肉の疲労は生きていることを感じさせた。そして彼は渓流の岩場にぶつかるとようやく立ち止まった。それでも彼はためらいもせず流れのなかへズカズカとはいっていった。ゼエゼエという荒い息と水の心地よさが彼を充たしていく。だが彼はそれ以上のことを求めていた。ズカズカと渓流のなかを歩いていくと突然、水の流れが途切れ地鳴りのような音が響きわたった。滝だった。彼はそろそろと近づき、身を乗り出して水の落ちていくその果てをみつめた。ただただ病的なまなざしでもって。川底は深くすり鉢状に広がり流れ落ちてくる豊かな川水を受け入れていた。そして滝は岩肌を洗い、飛び散る飛沫は木々を濡らしてしていた。病的なまなざしで見ていた彼は、なにかが堰をきったように滝へととびこんだ。落下していく純粋な空白のときの後、彼は水中深くもぐりやがてもがきながら水面へ浮かび上がった。そして麻痺するような滝の轟と冷たさを通り越して痺れさす水の痛みのなかで充たされていた。
彼のこの常軌を逸した行動のうちに秘められた過去とは一体なんだったのだろう。気力も体力も失せ、滝から小屋へ舞い戻った彼は、放心したまま気持ちのたどるがままにまかせた。彼の過去、すなわち軌跡とは残酷な青春の彷徨であった。
第二章
あの日はいつもと変わりばえのない、ごくありきたりの朝から始まったんだ。あれが俺の過去に刻まれた何度目かの痛みだった。寝ぼけまなこに映ったシクラメンがひどく印象に残っている。毎朝水をやるのが、あの頃おそらくたった一つの習慣だった。そしてシクラメンが何個咲いたかを数えるのが数少ない楽しみだったし慰めでもあった。こんな事が慰めだなんて、俺の心はもうあの頃からすさんでいたのだろうか。
親父がいた。おぼろげにーーー。長年土方ばっかりやってるもんだから日焼けした皮膚が地肌になって年がら年中真っ黒い顔をしてやがった。筋肉質なのに小柄で猫背だから、おまけに髭面だしな、ありゃどこかの浮浪者と変わんないな。
「秀一、じゃ行ってくるからな。お前遅刻すんなよ」哲治は作業靴をはき、土方人足着に身を固めて景気よく言った。
「ああ、わかったよ。あ、そいでさあ、今日ぐらい酒やめてくれよな、それでなくても最近ちょっと飲みすぎだぜ」秀一は、けだるく万年床から身を起こして言った。
「わかった、わかったって、そう気にすんなって。あさっては給料日だからな、ちったあ頑張らねえとな、ええとツケも払ってな、ヘッヘッヘッ、そんときゃスキヤキやろうや、じゃあな、ちゃんとメシ食っとけ」そして哲治は手をあげて合図するとニヤニヤ笑いながらバタンと戸を閉めて出ていった。
「ありゃまた飲む気だ。愛想がよすぎる」うんざりして秀一は万年床から起き上がると学生服に着替えだした。
秀一の家族はもともと四人だった。小さいが亡くなった祖父母の残した家と土地もあった。豊かではないが、哲治の酒癖の悪さを除けば、温もりの通じあえる家族だった。
それをあの水害がすべてを破壊してしまったのである。町の中心を流れる川が氾濫し、堤の下にせめぎあって建っていた民家を押し流し呑みこんでいった。そのうちの一軒が秀一の家だったのである。家のみならず母の幸子と妹の由美の命まで奪い去って。生きていく意味を突然遮断されてしまったあの出来事からすでに五年になる。水害は、一度のうちに家族を破壊し、記憶でしか追えない二人の姿と癒しようのない傷を秀一に刻みつけた。
その頃中学生だった秀一は、身の縮こまっていくやりきれなさと虚無を抱えて、同じ心持ちの父と共に惰性にまかせた生活を送るようになっていった。そして二人のもとに残されたのは保険会社から送ってきた札束だけだった。無為に日々をすごす秀一にとっては、それは単なる紙切れだったし、また享楽に身をやつす哲治にとっては、厚化粧と脂肪ぶくれしたホステス達の胸間に流れていく色紙でしかなかった。
やがて保険金が底をついたとき、生活が彼等を襲った。哲治は自分が残されたもう一人の人間の親であることを思い出し、食っていかなければならない必然性から再び働きだした。秀一は進学を勧める父の意志にしたがって高校に入り毎日淡々と学校に通うようになった。しかしなんら彼等の心持ちが変わった訳ではなかった。哲治のとっては媚びを売るホステス達に取ってかわって、焼酎と二級酒が与えられただけの話だった。そして哲治の稼いだ金はギリギリの生活費を残して右から左へと酒代となって流れていったのである。哲治の幸子と由美への追慕は、残骸と化した自分の人生への懐古であり、今ある生活からの逃げ場だった。『酔いどれ哲治』は、顔見知りはもちろん、見知らぬ人にもからんだ。愛想よく昔話の相手をしてくれる人には、その同情の気持ちの隙につけこんで限度を知らなかった。しだいに迷惑がりはじめた相手をよそに、家にまでころがりこんでは昔話をくどくどと繰り返すのである。そのうえ、便所に行くのが面倒だといって、畳の上に小便をもらしさえした。そうして時には殴られ蹴られ血を流しながら路上にうずくまり。街路をふらつきながら妻と娘の名を呼び、嗚咽にむせんで酒をあおり。
仕事仲間や昔からの付き合いの人たちは、「哲さんも酒飲まなきゃいい人なんだがなあ」とか「まあ無理もないよ」とはいうものを、泥酔した哲治を眺めては嘲りと嫌悪を感じ、落ちていく人間の悲哀に目をそむけるのだった。
そうして、哲治と秀一は、無為の日々を延々とひきずっていった。醤油が布団に染みついてもクリーニングにも出さず汚れるがままにまかしていた。わずか四畳半と六畳の二間のアパートの中に、ゴミ溜めのように様々の生活用品を放り散らかしていた。端の欠けているお椀、ガラス窓が割れている食器棚、ぞんざいに積み上げられたエロ雑誌、傷だらけのテーブル、酒の空きビン---
秀一は発作的におこった怒りーーー死んだ母や妹への追慕をともなったーーーから、そのテーブルを蹴飛ばした。
秀一は痛みを抑えるように座りこんで、足の甲を手でさすった。そして起きあがろうと思ったとき、ふと窓際に置いてあるシクラメンに目がとまった。「ええと今日は、七つ八つーーー」咲いている花を数えている時のなかで、彼の心に痛みにも似た虚しさが走った。二人の面影に捕らわれたのである。秀一は放心してシクラメンを見つめ、二人の追想にまかせるがままにした。それは、どこか彼には心地よかったのである。
「ヤダ、お兄ちゃん、一人で食べないで」
「ハイハイ、まだタンとあるからね」
「この甘えん坊」
「マアマア、二人とも兄妹ゲンカはよしなさい」
「父ちゃん来てないの」
―――ありゃ、俺の中一の運動会だった。あの日はいろいろあったっけーーー。なんでだろう、もっと大きな出来事なら腐るほどあったのに、―――あの日が俺の中で生きてやがる。―――
「ハイ、麦茶ね、飲みなさい、さあさあ二人とも」幸子は笑みを浮かべて言った。
運動会の昼休みである。初秋の突き抜けるほど空気が澄んで晴れわたった日だった。
「午後の仮装行列のあとの第一種目は、借り物競争です。係りの人と二年C組は用意に入って下さい。」運動場の四方に取りつけられたスピーカーからアナウンスが聞こえ、次いで行進曲にアレンジされたヒット曲が流れ出した。
「ねえ、お兄ちゃん、こんなのみてもつまらない、お店まわろうよ」
「ガキだなお前、かってに一人で行けよ」
「イヤ、お兄ちゃん、とじゃなきゃーーー」
秀一はすねた由美にわざと知らん顔をした。
「まあ秀一、連れてってやんなさい。わたしはここで父さんを待っているから」幸子は冷えた麦茶を飲みながら言った。
「母ちゃんがそういうならーーーオイ、行くぞ」
「ヤッタア」由美は小躍りして秀一の手を引いた。そして、学校の塀沿いに立ち並んだ出店へと二人はたわいもない会話を交わしながら歩いていった。
金魚すくいやお面を並べた店、焼きトウモロコシ屋、たこ焼き屋―――テキ屋の掛け声がとびかい、ザワザワと人の波がうねるなかへ二人は入りこんでいった。由美は好奇心と怯えを感じながら、秀一に寄り添ってしっかりとその腕を握っていた。秀一がふと妹を見つめると、由美は安心しきった表情で目に映るにぎやかで活況を呈している色んなものや人を、子猫のようにパチクリしながら見つめている。秀一から思わず微笑みがこぼれた.そうして、一通り歩きまわっていい加減疲れた頃、秀一は「そろそろ戻ろうぜ」と妹に声をかけた。由美は「うん」と頷くと握っていた手をスーッと緩めた。二人は人波を縫ってグランドに戻ると幸子のいた場所をようやく捜しだした。しかしそこには置き去りにした重箱や水筒があるだけで、幸子は見あたらなかった。二人はしばらく途方に暮れて辺りを見渡していたが、やはり幸子は見つからない。そこへ人垣の向こうで騒ぎがおこっている。ぼんやりとその騒ぎを眺めていた秀一は、腹から喉へと抜ける寒気のような緊張を覚えた。それを感じとった由美も、その情景を見つめて立ちすくんだ。
泥酔した哲治が見知らぬ人にからみ、怒った相手とケンカ沙汰になっていたのである。お互いに口汚くののしりあい、そのうちに掴み合いにまでなっていた。見かねた周囲の人が仲裁にはいって二人をひきはなそうとしている最中、幸子は哲治の体にしがみつき、
「あんた、やめて、人様にそんなことやめて」と涙を流しながら懇願していた。
二人の兄妹は、父親の醜態と母親の無残さを見つめながら、どうしようもなく立ち尽くしていた。「あんなお父ちゃんなんかキライ」と由美は呟いて秀一の腕をよりいっそう強く握りしめた。妹の全身が震えているのを感じながら、秀一は軽蔑と羞恥の念で頰がひきつりこめかみに痙攣が走るのをどうしようもなかった。
やがて、仲裁にはいった人達のおかげで騒ぎはおさまり、哲治は幸子とともに群衆の中へと消えていった。そして、兄妹がしおれた気持ちで淡々とグランドの競技を眺めていると、幸子が物思いに捕らわれたように人の合間を縫って戻ってきた。幸子は二人の姿を眺めながら、そして母親に気づいて見上げるその瞳の虚ろさから、子供たちがさっきの出来事を見ていたことを察した。
「父ちゃんどうした」秀一は尋ねた。
「先に帰ったよ、隣の畳屋のセイさんが連れてってくれてね。お酒もほどほどにすればいいのに」と言って幸子は溜息をもろした。
兄妹はそのまま押し黙った。が、秀一は突然拳で地面を殴ると、
「あんなオヤジ、くたばっちまえばいいんだ」と唾を吐き出すように怒鳴った。そして立ちあがると、
「俺、騎馬戦が残ってんだ」といって、母親と妹を残してグランドへかけだしていった。
夕方運動会の終わった後、三人は帰り道の土手を歩いていた。
「ねえ、お兄ちゃん、いつまでそんなにだまっているの、お父ちゃんのことならもういいじゃない」由美は秀一の後から小走りについてきながら声をかけた。
「別に怒ってねえよ」秀一はぶっきらぼうに答えた。
「だってーーー怒っているよ、それにきっとお父ちゃんを恥ずかしいと思っているよ」由美はボソボソと呟いた。
「ああ、恥ずかしいね、あんな父ちゃん持ってさ、あんな奴地獄にオチロ」
「なんで、そんなこと言っちゃイヤ、お兄ちゃんイヤだよ」由美は泣きそうな声を出した。
その会話を黙って聞きながら秀一の前を歩いていた幸子は立ち止まると、
「ねえ、秀一、ちょっと休んでいこうか、由美も、さあ」と言って、土手の草むらにスカートを伸ばして座りこんだ。
兄妹は母親にうながされて無言のまま、その傍らに座った。そして川越しにのぞむ街並みと夕空をぼんやり眺めている母親の顔をみつめた。たおやかで優しい横顔だった。
「きれいな夕日だね―――こんな日は、いい気持ちで終わりたいもんだね」と幸子は深くゆっくりと吐息をつきながら言った。その時そよ風が流れ、束ねていた幸子の髪をなで、そのうなじに髪がまばらにまとわりついた。幸子はもう一度、
「こんなきれいな夕日の日は、いい気持ちでいたいね」と静かに言った。
秀一は、胸につまって何も言えなかった。由美は涙をポロポロこぼしながら、
「うん、今日はとっても楽しかったよーーーとってもーーー」と呟きつづけた。
「よりゃ父さんだって、普通はあんなじゃないだろう、一生懸命働くし、そこらのデクの棒にくらべたら、ずっと頼りがいがあるわよ」と幸子は静かに、そして力強く言った。そして膝を抱えて黙り込んでいる秀一にそっと手を差しのべた。
「お兄ちゃん、が許さなくたって、私が許したげる、だってお父ちゃん、由美大好きだもん」と由美は、涙を手で拭きながら一人でうなずくように言った。
幸子は笑みを浮かべると、
「ほら眺めてごらん、きれいな夕日だね、沈むまでずっと眺めていようよ」と言って秀一と由美を引き寄せた。母の温もりのなかで、秀一は空を透明に照らし出す夕日の静かな輝きに浸っていた。由美もまた、可憐な横顔に涙を浮かべた瞳でーーー。
突然、柱時計が金属音をたてて鳴り響いた。その余韻と共にシクラメンの中のメルヘンは消え去った。時計は八時を指していた。
「もうこんな時間か」秀一は呟くと、おもむろに立ち上がり無造作に学生服に着替えた。そして、このボロアパートから、不良のように学生服を着流して、片手をポケットに突っ込み片手でカバンを抱え込んで背中を丸め学校へ行った。
学校の門をくぐった時は、ちょうど八時半だった。
「ギリギリセーフ、おいらはハイスクールのあぶれ者」と虚しい冗談をとばすと秀一は校舎の中へ入っていった。
教室のドアをガラガラと開けると、一瞬クラスメートたちの視線がドアに集まったが、秀一だとわかるとすぐにそれぞれの関心事に視線は散っていった。教室の中は話し声や物音でざわめき、ピリピリとした緊張感が漂っている。秀一がいつも一日の最初に味わう違和感だ。三年の秋を迎えて、クラス全体は受験で必死になる者、いい就職先を見つけようとする者たちでひしめいていた。秀一は、いつものように彼等のかたわらを通り抜け、窓際の自分の席についた。そして、一時間目から放課後になるまで、ただ淡々と退屈をまぎらわすために置いてある雑誌や本を読みながら、彼等を白けたまなざしで眺めるのだった。
それは完全に傍観者の目だった。秀一は就職先などどこでもよく、担当の先生の勧めるところへそのまま就職する気でいた。そして血まなこになっている彼等を「ああ、小市民だね」とぼやきながら草野球の試合をガラガラの外野席から見るように眺めて時を潰していた。放課後になると、彼等は思い思いの行動をとりはじめる。受験組は職員室や塾に向かい、就職組は職員室へ職業指導を受けに行く。彼等は現実の中で戦っていた。そしてやはり秀一は傍観者でしかなかった。彼は古びたカバンに雑誌や文庫本を放りこんで抱え込むと、淡々と図書室へ向かっていった。クラスメートは、図書委員という時間を食う役目を暇のかたまりのような秀一に押しつけたのである。放課後なにをするわけでもなく、アパートに帰っても意味のない秀一は、何の抵抗もなくその役目を引き受けた。
放課後の図書室は大概カラッポだった。生徒の多くは昼休みに図書室を利用し、放課後は調べ物のある生徒がチラホラと顔を見せるだけだった。そして秀一はいつものようにカウンターの内側の椅子に腰をおろし、片足をカウンターの上に乗っけて、気の向くままに本を読み始めた。本の種類はなんでもよかった。週刊誌だろうが文庫本だろうがマンガだろうがーーー。
しばらくして、人の入ってくる気配がしたが、無頓着でいると、
「『変身』か、お前またそんな本を読んでいるのか」と聞き慣れた声がした。
秀一は本から目を移すと、
「ああ、明夫、どうしたんだ、塾じゃないのか」と不愛想に答えた。
「ああ、今日は休みなんだ。それにしてもカフカとはな、お前の国語力にだけは脱帽だな、でもカフカはヤバイって話だぞ、特にお前みたいな世捨て人には」
「さあ、よくわかんないけど、人間がイモ虫になるなんておもしろいじゃん、それにこの家族の反応―――ところでなんか用でもあるのか」
「あるから来たのさ、秀一、お前一緒に映画行かないか、名画座のタダ券が二枚手に入ったんだ。おごるぜ」明夫はポケットから招待券を取りだして秀一に渡した。秀一はぞんざいに、
「『ビートル.ジュース』、おもしろいの、コレ」と聞いた。
「前に一度見たんだが、それこそ最高のギャグ映画さ、お前どうせヒマなんだろ、いこうぜ」明夫はカウンターの上に頬杖をついて、右手で秀一の肩をつついた。
「タダってのがいいね、イイゼ」秀一は文庫本をカウンターの上におくと立ちあがった。
秀一はなぜかしら、この松田明夫という秀才と気が合った。中背でどことなく締まりのない秀一といると、明夫は長身の上に優男に見えた。度のきつい眼鏡をかけ、参考書をつめこめるだけつめこんだカバンをさげて歩くさまは、多少変人じみていてユーモラスでさえあった。クラスは違っていたが、一年生の時同じクラスで波長が合い、そのままつきあいが続いていた。奇妙な組み合わせだったが、秀一は不思議と明夫と一緒にいると安心できた。そして自分に染まっている陰気さや虚無感を、なにか無造作にやりすごす明夫の無関心さが心地よかった。明夫にとっては、秀一のひねくれたような言動の合間に見える、打てば鳴るような感性の純粋な響きがここちよかったのである。
映画は、繁華街の通りを抜けた角の名画座で上映されていた。二人は映画館に入ると、その日の最終上映が終わるまで館内に入り浸った。明夫は受験勉強の息抜きをじっくりと楽しみながら、秀一は無為の日々のなかで久しぶりに無条件に笑いながら。
二人が映画館を出たときには、もう夕闇がたちこめていた。明夫がひんやりした外の風に胸をふくらませた。
「な、ソンなかったろ」と言うと、
「よかったよ」と秀一は微笑んだ。
「コーヒーでも飲まないか」
「そういや、少し冷えるな」秀一は身震いした。二人は近くの自動販売機で缶コーヒーを買って一息飲むと、夕日を見上げた。
「あの世ってあるんだろうか、現世の浮世に身をやつしーーー」秀一は溜息をついた。
「悩んで恋して挫折して、人は生きていくんじゃないか」明夫は答えた。
「メシ食ってクソして働いて、なんでそこまでして人間は生きなきゃいけないんだ」秀一はコーヒーをゴクリと飲んだ。
「こればかりはな、解答のない永遠のテーマだからな」明夫は空を眺めた。そして二人は繁華街の裏通りへと映画の話をしながら歩いていった。
ネオンのちらつく裏通りの飲み屋の前を歩いていたとき、二人はちょっとした場面にでくわした。飲み屋の戸がいきなりガラリと開き、一人の浮浪者らしい酔っ払いが道端にころがりでたのである。
「この野郎、勘定も払えないくせに、飲むだけ飲みやがって」と怒鳴りながら飲み屋のオヤジが顔を出し、酔っ払いに唾を吐きかけると戸を閉めた。
「へっ、なに言ってやがんだ、俺は客だぞ」酔っ払いは作業服の袖で口元のよだれを拭うと、腰をふらつかせて立ちあがった。
その情景を見ていた秀一は、口をつぐみ視線をそらした。明夫は、秀一の様子を怪訝に思ったが思い当たったように
「おやじさんの事を考えているのか」と秀一の表情を見つめた。
「いや、そうでもないさ」秀一はポツリと答えただけだった。しかし、たぶん今頃はあの浮浪者と同じように酔いどれているだろう父親の姿を思い浮かべて、気がふさぐ一方だった。やがて秀一は、
「ここで別れようぜ」とポツリと言うと足早に繁華街へ通じる路地を渡っていった。明夫は、どんどん遠ざかっていく姿を眺めながら、
「明日、またな」と声をかけた。
秀一がオンボロアパートに着いた頃は、もう夜になっていた.部屋の灯りはついてなく、薄暗い街灯をたよりに時計を見ると、もう九時過ぎだった。
「やっぱりか」秀一は一抹の期待も失せてそうつぶやいた。のしかかるような重い気持ちのまま、秀一はドアを開けて灯をつけ、万年床の上にカバンを放り投げた。そして、おもむろに学生服を脱ぐと、冷蔵庫からありあわせの物を取りだし、お湯を沸かして粗末な夕食を食べた。
やがてフトンに寝転がって、ピーナッツをつまんでテレビを見ながら、「お父さんを連れに来るように」という、いつもの電話を待っていた。しかし十二時を過ぎても電話はかかってこなかった。万年床の中で「親父の奴、どこでどうしてるんだ」とつぶやきながら、うとうとしはじめた頃、電話のベルが鳴り響いた。
秀一は、睡魔と覚醒のはざまで受話器を取った。
「はい、牧野ですが」
「あ、牧野さん宅ですか、実はお父さんがねーーー」と、電話の相手はそこで言葉を切った。
「ああ、親父ですか、今どこにいるんです、すぐに連れに来ますから」秀一は、習慣になった返事をした。
「いや、違うんです、こちらは警察ですがね、よく聞いてくださいーーーお父さんがね、事故で亡くなられたんです」相手の言葉は静かだがはっきりしていた。
「―――」秀一は、脳天から腰にかけて神経のビリビリという走りをおぼえた。
「いいですか、もう一度言います、今しがた牧野哲治さんが事故で死亡されたんです」電話から伝わってくる言葉は、よりいっそう静かで、そして重々しかった。
「―――はい、わかりました」秀一は咄嗟に返事をした。
「とにかく警察署まで来てください、そこで詳しく状況をお話ししますから」そして警察署の場所をメモに取るように指示し、」秀一に説明して電話を切った。
秀一は、途切れてピィーピィーと際限なく鳴り続ける受話器を握ったまま、虚空を見つめていた。テレビや戸外のざわめきが、より一層秀一の混乱を極めた。秀一は「親父が死んだ、親父がーーー」という言葉だけをただ反芻しつづける。遠ざかる時間の経過のなかで、秀一は茫然としてアパートを出た。そして指示された場所へ淡々と歩き続けながら、「俺は一人になっちまった、とうとう一人に」とつぶやき続けた。ようやく着いた警察署で、秀一は事故の大まかな内容を知ることができた。とはいっても事情聴取をしながら、丁寧にじっくりと語りかける警察官の去来する映像と言葉が、秀一の中で明滅するだけであったがーーー。
哲治の死は実に呆気ないものだった。いつものように泥酔し、常軌を逸した歌とも叫びともつかない声を張りあげて、曲がりくねった海岸沿いの道を歩いていたというのだ。見通しのきかないガードレールに寄りかかったとき、大型トラックが不意にカーブを抜けて現れたのである。眩しいライトで目がくらんだ哲治は、そのままバランスを失ってガードレールからひっくり返るように落ちた。ガードレールの下は十メートル以上の断崖で、そのまま海岸の岩に哲治は打ちつけられた。
グシャという鈍い音、そして「ギャッ」という短い叫びーーーそれが一人の人間の命を奪い去った。意志の診断は全身打撲と頭蓋骨骨折だった。
秀一は、説明してくれた警察官とともに哲治の死体の安置されている市民病院に向かった。やがて病院の死体安置所で哲治だという確認を済ますと、その警察官は、秀一を家の近くまで送ってくれた。その間中、ただ沈黙が支配し秀一はただうなだれ、熱を持った心の赤光を消さないように、人間を失わないように耐えていた。
アパートに近くで車から降り、警察官に一礼すると、秀一は夜の闇の中へと歩いていった。車からアパートまでの数百メートルが奈落へ向かう傾斜のようにアングリとした穴をあけていた。彼はゆっくりと呑みこまれるように歩いていく。電柱につけられた街灯の光が涙流れる秀一の頬を照らしだしたとき、死への止め金が働いたかのように、秀一はひざまずいた。そして絶望的な孤独の叫びをあげた。
「オヤジ、親父、とうとう俺は一人になっちまつた。とうとうーーー」彼は頭を抱えこみ、溢れる涙に濡れ、ひっそりと静まり返った夜の闇の中で崩れるように叫び続けた。
やがて時の経過のなかで葬式がとり行われ、四十九日の法要も過ぎた。身を寄せるよう親戚からの誘いもあったが、秀一はぞんざいに断った。生活費は哲治の生命保険金でどうにかなったのである。秀一は残り少ない学生生活をこのアパートで、哲治、そして幸子や由美の追想に耽りながら暮らそうと思ったのである。そして卒業とともにすべてのしがらみを振り捨てて、都会へ出ていくことを決心した。
やがて冬を越え、すべてに決別する春が来た。秀一は荷物をバッグに詰めこみ、駅のプラットホームで列車を待っていた。明夫が一人見送りに来てくれて、秀一のそばのベンチに腰をかけていた。明夫は東京の有名私立大学に合格し、東京での学生生活が待っていた。零細企業のような印刷会社に就職が決まっている秀一とは、ひどく対照的な境遇の差だった。
プラットホームは列車を待つ人々でざわめいていた。時節柄、涙と笑いの入り混じった光景があちらこちらで見受けられた。学友たちに囲まれて盛大な送別を受けている者、また三、四人連れで談笑しながらたむろしている女子大生らしい娘たちーーー。すぐ横で成長した息子を眺めながら、別れを惜しんでいる母親の姿を見て、秀一の心は痛んだ。その和服の婦人は息子の晴れ姿を見つめ、服にとりついた糸くずを摘まんだりはたいたりしながらあれこれと気配りをしている。明夫は秀一の気持ちを察して
「都会へ出れば楽しいこともいっぱいあるさ、俺たちは今から青春を楽しむんだ」と笑みを浮かべて言った。しかし、秀一にはそれはひどく虚しい言葉として響いた。
やがてプラットホームに列車が着いて、扉が開いた。
「じゃ、これでお別れだな」秀一は静かに言った。
「ああ、手紙出すから返事くらいくれよ」明夫は秀一の肩に手をおいた。
「じゃーな」
「じゃーな」秀一は踵を返して列車に乗り込んだ。そして座席に座ると故郷のこの町を眺めた。瓦屋根の家々と古いビルの立ち並ぶ町。産業といってもとりたててなく、ただなんとなくその日の生計を立てている町の人々。雑木林と段々畑の連なる山々、そして貧しい漁しか望めない海が遠く望まれた。
「もう帰ってきても誰もいないんだな」そして外で手を振っている明夫を見た。やがて扉が閉まり、列車はゆっくりと動きだした。人波に交じって手を振っている明夫の姿が遠のいていった。
―――あれは夜行列車の中だったっけ、俺は運賃を節約するためにその列車に乗ったんだーーー
秀一は、今から生きていく自分を思い、寂寞と孤独感に包まれて、窓際のイスに寄り上着を被り自らを抱きしめて外を見ていた。闇の中に点在するする灯りが続いた後、列車はやがて、おびただしい光の洪水のような街の中へと向かっていった。秀一は、都会という巨大な光と闇の中へ呑みこまれていった。
第三章
原生林の黄昏は静かにやってくる。それは染み入るように、木々の狭間を浸して森全体を覆い尽くしてしまう。西の空の沈みゆく太陽が映える静かな空間の透明度は、森の胎動を徐々に和らげていく。
秀一は、その暮れゆく空を窓越しに眺めながら、体の温もりを確認するかのように溜息をついた。そして薄暗い闇の中で、心おもむくままに木造のベッドに座り、周囲の静寂に身をまかせた。鳥の鳴き声も、風に揺れる木立のざわめきも鳴りをひそめ、密やかさだけが充たしていく。
その時、つんざくように、部屋のどこからか時を刻む音が鳴り響いてきた。静寂の中でその機械音は存在と同質の響きをもって無機質に時を刻んでいく。彼は急に激しい嫌悪感にかられ、闇に浸されていく小屋の中を、時計を探して目を走らせ耳をそばだてた。時を刻む音は本棚のほうから聞こえてくる。彼は立ち上がり、本棚へと歩み寄ってまさぐるように見つめた。ほこりを被りベルトちぎれかけた腕時計が、もたれ合った本と本の間に生き物のようにあった。半年の期間をおいて突然動き始めた時計は、彼の無理やり閉ざしていた傷口をふたたびポッカリと押し開いた。
彼は、嫌悪感にかられたまま無意識に時計をつかむと力まかせに床に投げつけた。ビシャンと機械の砕ける音がし、再び静寂が小屋の中を充たしていった。
彼という存在は、時という無限軌道上の一地点にあるのだが、彼は無意識にそれを否定していた。現在形のその今に全てを昇華させる解答を自分に要求していたのだ。まるであらゆる記憶の帰納法的終結に達するような言葉を。そして社会的な存在観念の払拭を求めていた。そう、彼は意識的に自分の存在感の確信を求めながら、相反するものとして過去の自分を直視することから逃げていた。なぜなら、自分の過去は結局、主体者になりえなかった傍観者であるにすぎないと自らが認めはじめていたからである。
その心の動きのゆらめきを破るように、時計が時を刻んだのだった。
彼は回避できない過去の自分から、もはや目を背けることはできなかった。ポッカリと開いた心の傷口を、ただ、苦痛と羞恥心をもって眺めるしかなかったのである。そして、おのずとこぼれるつぶやきに心をまかせた。
「街かーーーマチ、パチンコ、飲み屋、ドブ川の流れる下町―――タイヤと鉄クズの山、油にまみれた整備工のオレ、気の合わない仕事仲間―――」彼は口をつぐんで唾をのんだ。そしてふたたびつぶやいた。
「人間、女、乳房、白い肌―――よくまあ、マスばっかりかいてたなーーー女か―――俺はあの人しか女を知らなかったーーー陽子さんかーーー」
「いらっしゃい」秀一がドアを開けると、中から少し物憂げな陽子の声が聞こえた。
秀一は、仕事を終えた後、この『キリン』という喫茶店に立ち寄るのが習慣になっていた。カウンターの内では、春物のセーターとジーンズを無造作に着こなした陽子がコーヒーをたてている。陽子は少し長めの髪が頬にかかるのを片手でゆっくりと払いのけながら、
「秀ちゃん、いつもの」と気の置けない口調で言った。
「ああ、頼むよ」秀一は上着を脱いでカウンターの一番奥のイスに腰をおろした。
ここは下町の喫茶店で、客の出入りは少なく馴染み客でもっているような店だった。こざっぱりとはしているが、安作りなのは明らかで、コーヒー以外とりわけ出すものもない。壁には陽子の趣味に合う数枚のパステル画やパネル写真が適当に飾られてあった。カウンターもせいぜい五、六個のイスしかなく、窓際に置かれたテーブルのシートには暇つぶしの常連がいつも数人たむろしていた。
秀一はこの店にいる時いつも、このカウンターの奥のイスに座るのだった。そしいてなんとなく頬杖をつきながら、少し緩慢にコーヒーをたてる陽子の姿をぼんやりと眺めるのだった。そのコーヒーを差し出されるまでのわずかなひとときが、一日の疲れを癒してくれる。陽子はいつもその視線を感じているのだが、全く無頓着に振舞う。その方が気楽だし、秀一もそれを望んでいるのがわかっているからだ。その陽子の横顔は、秀一の死んだ母親の幸子をどこかしら彷彿とさせるところがあった。なめらかに流れる額から喉元へかけてのラインは、優しさと強さを感じさせる。閉じた唇は儚いほど繊細だった。そして、幸子とは対照的にどこかしらけだるさを感じさせる瞳が長いまつげの奥にあった。
陽子がいつものように振り向いて、
「はい、秀ちゃん」と唇を緩めて微笑み、コーヒーを差し出した。
「今日もきつそうね」眠たげな秀一の顔を見ながら陽子は頬杖をついて言った。
「うん、なんだかね、最近仕事がつまってんだ」秀一は答えると、コーヒーに砂糖を入れてかきまぜた。
「ふうん」陽子はうなずいて、黙ったまま秀一を眺めていたが、
「ねえ秀ちゃん、今度の土曜さ、コンサート行かない、あたしの好きなロックバンドが来るのよ」と言って目を躍らせた。
「よせよ、陽子さんモテるから相手ぐらいいくらだっているだろう」秀一はコーヒーを一口飲んだ。
「友達はね、―――一応いるけど、でも秀ちゃんなんかかわいくてさ、あたし好きなんだ」そして陽子は秀一の目と鼻の先まで近づいてささやいた。
「コンサートが終わったら、あたしのアパートでお酒でも飲まない」
秀一が戸惑いの表情を浮かべていると、陽子は人差し指で秀一の額を軽くなでながら、「あたし、これでもバージンなのよ、純潔な乙女ってとこね」と言って微笑むと、その人差し指を軽く自分の口元に押し当てた。
秀一はなおも戸惑いをおぼえながらも、高鳴ってくる心臓を抑えて、
「俺なんかでいいの」とつぶやいた。
「秀ちゃんだからいいんじゃないの」陽子はけだるげな瞳に色気を漂わせて、秀一を見つめた。秀一はうなずいた。
二人は、その週の土曜日コンサートにいった。そしてその熱気がおさまらぬままに、夕暮れの街を陽子のうながすままアパートに足を運んだ。その夜、秀一は陽子によってはじめて女を知った。あどけない仕草をたまにみせ、物憂げな瞳を持つ陽子の体は、服を着ている姿からは想像もつかないくらい肉感的だった。下着を脱いで静かにシーツに横たわった陽子の体を、秀一は幻惑され、まるで夢のまどろみに誘われるように見つめた。横顔の繊細さと同じように、なめらかに流れる胸元から下腹部へのラインは、心臓の鼓動でかすかに波打っていた。
「そんなに見ちゃいや」陽子は恥ずかし気に笑いながら毛布を引き寄せた。そして半身裸の秀一を見ていたが
「好きにしていいのよ」とつぶやいた。
けだるい、そして考えることなど麻痺してしまう陶酔の中で、秀一は陽子を抱きしめ、その体をむさぼっていった。
「陽子さん、俺ずっと前からすきだったんだ」秀一はうめく陽子を充たしていった。陽子はこれまで、何人かの男たちにその体を委ねてきていた。しかし陽子の愛に対して、その男たちの求めたものは肉体でしかなかった。男たちの欲望は、まるで自分を蹂躙するように彼女の肉体の上を通過していった。陽子は、男たちに与える自分の愛が不毛であることに虚しさを感じながらも、かさついていく心を抱えながら成行きにまかせていた。
しかし、そんな男たちと秀一はどこかしら違っていた。一日の慰安を求めるような視線を感じているうちに、自分にも心の温もりが広がっていくのだった。陽子にとっても、夕方の喫茶店でのひとときは心地よいものだったのである。
地方からこの大都会に集まってくる若者たちは、そのほとんどが惰性化していく仕事、売春、ギャンブルそして女遊びなどで、大多数の中の無意味な一存在と化していく。そんな若者を少なからず見てきた陽子にとって、秀一は一種の驚きだった。なぜなら、風体や素振りはひどくすれているように見えるが、支えてやらなければ耐えられないようななにかの脆さが虚空のように垣間見えた。それに彼の瞳はやり場のない苦しみが宿っていたし、なにかを憧憬しているような青年の純朴さが感じられたからだった。そして陽子もまた、渇きを癒す潤いを必要としている女だった。そうして二人は恋におちたのである。
秀一の住んでいるアパートは、二階建ての雑居アパートだった。二階の入り口にあがる鉄製の階段を、彼は一日の疲労を抱え込むようにして上がっていく。たまに同じ二階の住人に出会うと、「やあ」と声をかける。住人は気のない乗りで「おかえり、今日も元気」と返事する。秀一は同じように気の乗らないまなざしを向けたまま「まあね、いつもの調子だよ」と無造作に言って「ダーティー、ワークは体だけ」などとつぶやいてすれ違う。そして自分の部屋に入って鍵をかけると上着を脱ぎ、ズボンをはきかえる。「ホーッ」と深い溜息をつくと、這うようにカラーボックスのラジカセに寄って、テープを鳴らす。ミュージシャンの名前はブルース、スプリングスティーン、アメリカンロッカーだ。テープを聞きながら歌詞カードをボロボロになるまで読みこんで、ほとんど訳詞を憶えてしまった。彼はそのまま仰向けに寝転がり一日の疲れを体中から吐き出すように、腹を膨らまして何度も大きく深い息をする。そしてテープの音に身を委ねるのだ。―――昼間は街でどうしようもないアメリカン・ドリームを待ちわび夜は自殺マシーンに乗って栄光の館を走り抜けるクロームのホイールをはきガソリンをつめ、ハイウェイ9でカゴから飛び出すそしてラインを越えて一歩を踏み出し ベイビィ この町はおまえの背骨をはぎ取っちまうぜそれは死のワナだおれたち 若いうちに抜け出さないとおれたちのような放浪者は突っ走るために生まれてきたんだからーーー
ビートをきかせてロックン・ローラーは歌いつづける。叫びと優しさが溶け合って希望へのメッセージに高まっていく。その激しさが秀一の呼吸と一致した瞬間なにかが弾けていく。『心の自由は誰にも奪われないぞ』彼は自分の空間の中で犯されない自分を抱きしめた。そしてその空間の中に体を投げ出し、音の中にどっぷりと浸り心を開放するのだ。
やがて高まった緊張感がゆっくりと引いていくと彼は起きあがり、なんとはなしにテレビをつけた。彼の部屋は哲治と暮らした頃のうらぶれた感じから抜け出そうという努力がうかがわれた。白木のベッド、プラスチックのテーブル、壁に貼ったアイドルのポスターーーー。
そんな日々の中で、時折明夫のことを思い浮かべることがある。明夫とは故郷を離れるときに駅で別れて以来もう二年以上がたっていた。そしてたまに届いていた手紙も途切れがちになっていた。郷里にも帰らず、手紙の返事もろくに書かなかったのだから仕方のないことだった。それに明夫の文面はだいたいにおいて大学生活の様子や、学生らしい問題意識投げかけたものだった。しかし秀一にとって重要なのは生活だった。秀一は手紙を読むたびに、二人の間の大きな隔たりを感じずにはいられなかった。そして返事を書こうとするときの気の重さはどうしようもないものがあった。結局秀一は、明夫と自然に遠ざかっていくのをあきらめていた。そう、おのずとフェードアウトしていったのである。
秀一の勤めている自動車整備工場は、『オヤジ』とその息子、中年の流れ者、そして秀一の四人でまかなわれていた。彼は職場を転々とし今の整備工場で働きだして、そろそろ三か月がたとうとしていた。仕事に追いまくられ、残業もはいる毎日だった。錆びたトタン屋根の工場で、秀一は見習い工として汗と油にまみれて働いていた。
「秀一、こっちへ来い、ほらそこだ、掃除しとけよ」
「そこのベンチ取ってくれ、早くしろ早く」
「なにボケッと突っ立てる、そこのタイヤ二十本ばかり、あっちに運んでおけ」
『オヤジ』はいつも怒鳴りつけた。最初それは秀一を一人前の整備工にしようという意志からだった。しかし肉体の疲労と苦痛の中で、秀一にとって労働は課されたノルマでしかなかった。そんないっこうにやる気を見せない秀一に愛想をつかしだした『オヤジ』は、給料分だけは働かせようという経営者の醒めた目に変わっていった。そして『オヤジ』は秀一を切るか残すかという微妙な判断を下そうとしていた。
他の二人は秀一に対して冷淡になっていった。話があわない、生意気だ、人を馬鹿にしているーーー。多くの場合、彼等は自分の持ち分を念頭に置いて働いていた。よほど機嫌のいい時でないと、秀一に整備工としての技術を教えようとはしなかった。しかし秀一は技術をマスターしようという意志さえなかったので、この好意にさえ無関心だった。当然、彼等は好意をないがしろにされるたびに態度を硬化していった。息子と流れ者は雑談をし笑いながら仕事をしているのだが、秀一と視線が合うと鋭い視線を送り口をつぐむ。「ふざけんじゃなえよ」秀一はうそぶきながら彼等のまなざしに傷ついていた。そして、まるで二人の会話から聞こえる言葉の響きは、心臓をなでる息臭い風のようだった。彼はこういう態度には馴れてはいたが、この鬱積した気持ちに捕らわれるたび、働く気力はいっそう失せていくのだった。『あいつらは俺がここをやめるのを待ってやがる。オヤジもうるさいだけだ』そう屈折したまま日々は緩慢に過ぎていった。
彼は休日になると街の中をあてどもなく歩き続けた。しいて『キリン』に行くのも白々しかったし、部屋の中に一日いるのは耐えられなかった。そして群衆にもまれビルの谷間を歩いていると、その膨大なまなざしと刺激してくるネオンライトや情報にさらされて、いいようのない疎外感をおぼえずにはいられなかった。まるで無防備な彼の心には、あらゆる刺激が容赦なく降りしきる雨のように感じられた。そのむきだしの感性は打たれるたびに心の痛みと弦琴して、苦痛の不協和音を響かせていた。
秀一もまた哲治のように幸子や由美の追想に浸って、ときには酒をあおった。ウイスキーの焼けるような熱さに身を委ねていると、いくらかでも癒されるのだ。そしてある日、閉店間際の『キリン』へと足元をふらつかせながら入っていった。
「秀ちゃん、どうしたの、そんなに酔っぱらって」陽子は秀一を眺めながら語りかけた。「酔っちゃいけねえのかよ、俺だってたまには酒ぐらい飲むさ」そして言いざまカウンターにうずくまった。
陽子はだまってその様子を見ていたが、
「そりゃ、あんたの身の上からすれば無理ないと思うわよ。でも体に悪いんじゃない」と静かに言った。やがて陽子は立ちあがり、
「ちょっと待って、お店閉めるから」と乾いた空間にサンダルの音を響かせてドアに行き、シャッターをおろした。そして陽子はそっと電気のスイッチを切った。ぼんやりと暗がりの中に浮き上がっている秀一に近づき、隣のイスに座ると、
「秀ちゃんいくつになったっけ、ええと私が三つ上だから二十一になるんだっけ」と語りかけた。秀一は押し黙ったまま顔を伏せている。陽子はタバコを一本取りライターで点けると、もの憂げな瞳でとりとめのない話を語り出した。彼女がタバコを吸うたびに静かな吐息と煙が広がった。夜のしじまが店内を浸しはじめ、酔いがさめだしたとき、胸を抉るような孤独感に襲われ、秀一は発作的に陽子を抱きしめた。陽子は突然のこの抱擁に手にしていたタバコを床に落とした。タバコは暗がりの中で、ほんのりと煙を立ち昇らせて、やがて消えた。
秀一は肌の温もりに欠如を埋めるかのように陽子を抱きしめ続けた。
「陽子さん、俺一人じゃないよね、一人じゃないよね」秀一は肩を震わせて泣いた。陽子は長い髪を無造作に垂らして、ただ秀一の髪を撫でつづけた。その夜二人は語り明かした。とりとめもなく哲治や幸子そして由美のことを語りつづける秀一に、陽子はうなずきながら、「強くなるのよ」と秀一の顔を自分の胸間にうずめるのだった。
梅雨の湿気を帯びた生臭い気の滅入る頃だった。もう仕事場は気まずくなっていて、秀一は整備工場でこのまま仕事を続けるかどうか迷っていたある日のことだった。その日、いきなり予約なしで得意先から今日中に大至急乗用車を一台整備してほしいと車が届けられた。なにかの事故でだいぶ車体やエンジンを痛めているが、頑張れば一日でどうにかなる、そんな車だった。『オヤジ』が指揮をとり他の三人は機敏に動いた。いつもとは違った緊張感が張りつめ、全員気が立っていた。
「秀一、新しいタイヤ二本持ってこい」『オヤジ』が怒鳴った。
「エンジンプラグの新しい奴そこにないか」息子が秀一に指示する。秀一は指示通りに動いた。
「秀一、そこのモンキースパナ取ってくれ」車体の下に入りこんでいる流れ者が声を荒げて言った。
「そう、それだ、早く渡瀬」流れ者はより声を荒げた。秀一は慌ててスパナを渡そうとして、思わず手元をすべらせてしまった。スパナは流れ者のすねに当たった。
「この馬鹿野郎、一体なにしてやがんだ」流れ者は車体の下から出てくると足を抱えこんだ。秀一は萎縮しきって、じっと流れ者を見ていた。流れ者は痛みをこらえながら、いい加減にがりきった表情で秀一をにらんだ。そして
「てめえのその腐った目を見ていると、よけいイライラすらあ」流れ者は頬を痙攣させた。
「悪かったよ」秀一は 肩をうなだれて言った。
「ヘドが出そうな奴だぜ」流れ者はツバを吐いた。
『こいつはこれをきっかけに絡んでくる』秀一は直感した。するとなぜだか秀一は鬱積した感情に火がついて、怒りがムラムラと湧き上がってきた。
「悪かったといってるだろうが」秀一は一瞬にらんだ。
「何だと、それが気に入らねえんだよ、お前は口で言うだけじゃわからねえようだな」流れ者は立ちあがると秀一につめよった。二人のやりとりに気づいた息子は、ボンネットの上に座ってどうなることかと好奇心にかられてニヤニヤ笑いながら見ている。『オヤジ』もまた事の成り行きを少し離れたタイヤ置き場から見ていた。秀一とほかの三人との煮詰まった人間関係がそこにあった。
「これ以上どうしろって言うんだ」秀一は一歩足を踏みこんだ。
「ああん、なんだその言い草は」流れ者は一層詰め寄ると左腕で秀一の胸倉をつかもうとし、秀一は弾くようにその手を払いのけた。
『もう逃げられない』
流れ者は、
「このガキが」と吠えると両腕で秀一をつかみ力まかせに体を揺さぶった。秀一は口の中が乾いて声がでず、頭が上気してクラクラと目まいをおぼえた。
『やらなきゃやられる』彼は拳を握りしめ、流れ者のみぞおちを突き上げた。流れ者は不意をつかれてうずくまった。蹴り上げるのに絶好のチャンスだと思った瞬間、秀一は背中から息子にはがいじめにされた。もがいてる秀一を息子はねじりあげた。
「そのままにしていろ、逃がすな」流れ者は呻きながら立ちあがった。そして秀一の顔面を二度三度と続けざまに殴りつけた。口が切れ頬に痛みが走り頭が脳震盪のように気が遠くなった。次の瞬間腹部に抉るような痛みが走り、秀一は膝を折って崩れ落ちた。息子は後ろからはがいじめにしていた手を放しうずくまっている秀一の腹を蹴り上げた。
「もう、それぐらいでやめとけ、秀一、お前はもう帰っていいぞ、お前がいたんじゃ仕事にならん」『オヤジ』は目を伏せて、二人を秀一から遠ざけた。
「もう、お前に用はないとよ、とっとと帰んな」息子は息をついている流れ者の肩をたたきゲラゲラと笑った。
秀一は胃の中の物をもどしそうに喘ぎながら立ちあがった。
「こいつら、よってたかって人のことを」秀一は歯をかんだ。そして、どうしようもなく血の流れる唇をかみしめてその場を立ち去った。
「さあ、仕事だ」と『オヤジ』の声が遠くに聞こえた。
その夜の事だった。秀一は昼間の出来事の憂さ晴らしに酒を飲んで酔っていた。梅雨の雨がたえまなく降っている。そして彼は陽子のアパートへおのずと足が向いていた。電車の停留所から陽子のアパートまで十分たらずだった。そのアスファルトの路面は、雨が激しく叩き付け水しぶきが立っている。彼は電車から降りると、傘もささず服が濡れるのもかまわないでうつむいたまま歩き続けた。昼間殴られた顔の傷が重く鈍く心を沈みこませる。何を考えている訳でもなかった。ただ陽子を抱きたかったのだ。やがてアパートの下まで来、顔をおこしてみると陽子の部屋には灯りがともっていた。彼は階段をのぼり、二階のその部屋の前にたどりつくと、ドアをノックした。服はビショビショに濡れ、体は熱を持ったように肌寒く、雨水がしたたり落ちている。しばらく待ったが返事はない。気を吐いて強くドアを叩こうと思うのだが、虚脱感でそんな力さえ沸いてこない。彼はノックの音に陽子が気がつかないのは、この激しい雨音のせいだろうと思い、以前貰っていたスペアキーでドアをあけ中に入った。靴を脱ぎ玄関で立ち尽くしていると、二間の部屋の閉じられた奥の部屋から音楽が聞こえてくる。そしてかすかな呻き声も。女の呻き声は徐々に高くなり喘いでいるように聞こえてくる。
『一体なんなんだ』秀一はなにか体を突き抜ける予感で頭がクラクラした。
「いいぜ」男の声が息を吐くように聞こえ、女の喘ぎ声は高まって息を激しく呑みこむ声をあげて途絶えた。そしてロックの音だけが秀一の耳に響いてくる。
『なんなんだ一体、俺はどこにいる、ここは陽子さんの部屋だろう』秀一は混乱したまま奥の部屋の戸を開けた。そこにはタバコを吸っている半身裸の男と、裸のまま四つん這いになって息をついている陽子がいた。幾度か自分を充たしたその滑らかな肉体は男に抱かれた汗で濡れていた。秀一は生唾をごくりと呑みこんだ。行為の後の放恣の表情を浮かべ、もの憂げな瞳でうつむいていた陽子は、秀一に気づくとギョッとして目を開き、咄嗟にそばにあったショーツで体を隠して座りこんだ。そして口元をこわばらせ秀一を臆病そうに見つめている。男はひとごとのように秀一に一瞥すると寝ころんだままタバコを吸い続けた。秀一は立ち尽くし、息をする事さえできない。そして一瞬、秀一の瞳に怒りにも似た嫌悪感が走った。途端に臆病そうに秀一の瞳を見つめていた陽子の瞳が大きく見開かれ、陽子は小刻みに体を震わせながら笑い出した。徐々に激しくなるヒステリックな笑いのため、透けたショーツから見える乳房が踊って見えた。それが、男の吐き出すタバコの煙とあいまって陽子に娼婦のイメージを与えた。秀一は無言のまま、こわばった体をゆっくりと動かし陽子に背をむけた。玄関に向かう秀一の心に、陽子の甲高い笑い声はつんざくように響き続けた。そして秀一は靴をひきずるように履くと、激しく振り続ける夜の雨の中へと消えていった。
秀一は全身ずぶ濡れで自分のアパートへ戻ってきた。一種の帰巣本能みたいなものだったのだろう。どこをどううろついたのか、昨夜からの記憶が残っていない。ネオンライトの眩しさと、自動車の行列が生き物のように蠢いていたのが脳裏にこびりついている。その空白の画面に、瞬間瞬間、陽子の裸が映し出されては消えるのだった。
「女、おんな、おーーーんーーーな」彼は固くむすんでいた唇を開いた。アルコールが焼いたように喉を乾かしている。その空白の場面に微笑んでいる陽子の顔が映り、その残像が消えていくにしたがって現実に戻っていった。アパートの塗装べニアのはげた後や、何度か殴りつけたくぼみのある壁を見つめ、彼は静かにドアをあけ、身の置ける唯一の空間の中へと入っていった。部屋の中にぽつ念と立ち尽くしている彼に、夜明け前の冷気は食い入るような冷たさで襲ってきた。
彼はベッドに横たわり、枕元のカセットのスイッチを入れると毛布にくるまった。
―――有名なダンサーたちがボロをまとい 街路を離れて涙をかき落とす おわりのないジュークボックスのある店とグァレンティーノ・ドラッグ 闇へ走りこみ ある者はひどく傷つき ある者はいまにも死にかけている 夜 時にはきみにはひどい街全体の泣き声が 聞こえているようだ ぼくらを殺したウソのせいだ ぼくらをダメにした真実のせいだーーー。
彼は部屋に満ちあふれた歌声に浸りながら何も考えまいとした。そう、完全に空白になって、自分の手が拳を握って震えていることも、口元が痙攣していることも忘れ。そして夜が明け、薄日が部屋に差し込んできた頃、彼は眠りに落ちた。
目を覚ましたのは夕方だった。睡眠からくる充足感が通りすぎた頃、耐えがたい現実が彼を襲った。「ウォーッ」彼は、自分を呼吸困難へと追い込むこの苦しさのすべてを履きだそうと叫び声をあげた。だが、彼の叫びは自分を取り巻く無機質な物体の中へと吸いこまれていく。そして新たな苦痛が心に沁みわたってきた。『なんでもいいんだ、そう、なんでも―――』彼は気をまぎらわそうとして放りっぱなしの週刊誌を手に取った。そしてグラビアのヌード写真をひろげ、なめつくすように見つめ、しだいに熱くなってくる下腹部に手を差し込み、自慰行為をしだした。しかし、快楽が頂点に達しようとしたとき、突然男に抱かれた陽子の裸体が浮かび、どうしようもない無力感に打ちのめされ、その行為をやめた。
無為の日々が数日続いた後の、ある夕方だった。テープをかけっぱなしに鳴り響かせている秀一に、ドアをノックする音が聞こえてきた。二度、三度、その音はしだいに強くなってくる。彼は物憂げにベッドからおり、ふらつく足取りで玄関に向かった。
「秀ちゃん、いるのね」陽子の声だった。彼は慄然となった。そしてとっさにカセットを止め、耳をそばたて高鳴る心臓を静めようとした。雑居アパートのざわめきの中に、ともすればかき消され兼ねなかった。しかし、耳をそばだてた秀一には、一言一言が心の底まで響き渡ってくる。
「ねえ、返事してよ。いるのはわかっているのよ。管理人さんに聞いたの、一日中音楽鳴りっぱなしだってね。気味悪いから、どうにかしてくれってーーー秀ちゃん、私泣いてるのよ、本当よ、ほんーーー」陽子の声はきれぎれで震えていた。
「だって仕方なかったのよ、あの人、ヤクザでーーー人の気持ちなんかーーーどうしようもなかったのよーーー」秀一はドアの内側で膝をついて黙っていた。その頬に涙が静かに伝わっていく。二人の間になおも沈黙があった。
「そりゃ、私にはなにも言う権利なんてないわ、でも、でもね、私を好きだったら抱きとめてほしいのーーーお願いーーーねえ、聞いているのーーー」陽子はかみしめる思いで返事をまちつづけた。今にも秀一が目の前に現れ、自分を抱きしめてくれることを願いながら。しかし、ドアの向こうからは何の反応もなかった。秀一はドアの内側で頭を抱えて首を激しく振り続けていた。あの光景がよみがえってくる、そう、あの男に抱かれた裸体の陽子が、どうしようもなく。突然、陽子は抑えきれない感情に襲われた。
「そうよ、私は不潔よ、淫売だわ。だけど、生きていかなきゃなんないのよ。そうよ、私はーーーあんたはそうやって逃げて黙ってるんだわ、そうやってーーーそうやって逃げていればいいんだわ、自分からも世の中からも」陽子は廊下に崩れ落ちながらも、あがくようにドアを叩きつづけ、
「開けてもくれないのーーーせめてーーーなにか言ってよ、なにかーーー」と叫んだ。
秀一はドア越しに伝わってくる陽子の心にふれながら泣いていた。だがこめかみをつかんだまま、
「だめなんだ、どうしようもないんだーーー頼むよ、帰ってくれ」と叫んだ。
それから長い沈黙が訪れた。夕日のなごりが薄闇のなかで秀一の体を照らしだしていた。陽子は、やはり薄闇の中で、アパートの住人の好奇の目に無残にさらされていた.やがて陽子はゆっくりと立ちあがり、涙で濡れた頬をさすりながら静かに語りかけた。
「秀ちゃん、いいわ、帰るわ、でも待ってる、許してね、許してくれるわね」そして陽子は靴音を響かせながらアパートから去っていった。
それからの秀一の思考の移り変わりは、アパートの部屋の中という外界から隔絶した空間の中での耐えきれぬ心の疲労と鋭敏化した感性、そして人間性の麻痺がもたらしたものだと思いたい。
彼は盲目的に陽子の愛を信じようとした。自分が、この大都会で生きていく上での唯一の土台を失うことを恐れて。
「あの人は優しい、そう母さんのように」あの、いつもカウンターで見つめていた幸子を彷彿とさせる横顔を、夜通し語り明かしたことを、抱きすくめた肌の温もりをーーー思い浮かべられる限りの愛の証をたぐりよせた。しかし、電光のように心を引き裂くあの光景―――男に抱かれた後の汗に濡れた体、そしてその放恣の表情を、また透けたショーツに踊る乳房の娼婦のイメージーーーこれらが押さえつけた想念の下から浮かびあがるたびに彼は激しく動揺した。そして崩れ落ちかねない信頼感をつなぎとめようと、妄信する努力をまた始める。崩れかけた壁から絶え間なく吹きこんでくる風にわなないて消えるローソクの火を消えたらまた灯す、そんな苦痛だけが積み重なっていくだけの努力だった。そうして緩慢に一日一日と過ぎていったのである。
アパートに閉じこもりっきりの彼の感性は、そのただなかで必然的に過敏になっていった。
「信じろ、信じるんだ、信じろーーー」あたかも念じるように、その言葉を繰り返すのだった。一点に絞られ張りつめた思考の糸が、なんらかの衝撃で断ち切られる時ほど脆いものはない。そう、ちょうどそんな状態で、ある日の『キリン』の常連たちが交わしていた会話が、彼の記憶に浮かび上がった。
「陽子さ、いい女だね、あんな女を落としてみてえな」
「あいつなら落ちるよ、バッチリ決めてよ、ちょっとつついてみな、うまくいくぜ」
「本当かよ、あんないい女がね」
「ああ、俺のダチがよ、この前スナックで口説いてホテルに行ったって話だぜ」
その時から、彼の心に陽子に対する不信と疑惑がはっきりと生まれた。不信感は日増しにまし、自制心では抑えきれないほどまでなっていった。
「あの女は誰とでも寝るんだ」
「あのヤクザだけだったなんてわかったもんじゃない」
「陽子は自分から求めたんだ、そうメスのように、きっと他の男たちにしたように」
「なんであんな女が、母さんなんかに似てるものか」眠っている時でさえ、次から次へと男を変え快楽に浸っていく陽子の体が夢の中に現れ、彼はうなされ続けた。
「なんて世の中だ、ヤクザ、娼婦―――あの流れ者は、あいつは血へどを吐いている俺をバカにした目で見てやがった」顔に手を当てると殴られた目の周りが鈍く傷んだ。なにもかもがねじれていく。
「―――世の中の奴等はクズばかりだーーー陽子は、あのオンナはーーーいったいなんだってんだ、俺が悪いのか、ああん、俺が悪いのかーーー」彼は自分が叫んでいることさえ気づかなかった。すでに陽子がアパートを訪れてから十日余りが過ぎ去っていた。その中で彼の心を支配してしまったのは、人間へのどうしようもない不信感だった。彼は全てから逃げだしたかった。
「もう、どうでもいい、どうだっていいよ、疲れちまった」彼の生きることへの緊張はゆるみきってしまった。
数日後、秀一はリュックを一つ持ってアパートを出た。街を去って旅に出ようと思ったのである。そして駅へ行く前に、立ち去っていく者が往々にしてそうであるように、はっきりとした意図もなく『キリン』に立ち寄った。ドアを開けるとカランと鈴の音が響き、陽子の姿が見えた。いつものようにカウンターの内側でコーヒーをたてて常連の相手をしている。秀一に気づいた陽子は、笑っていた頰をこわばらせた。
「陽子さん、俺、旅に出るよーーー街はきらいだから」彼はリュックを背負ったまま、かすかな作り笑顔をうかべて言った。
陽子は無言のまま、秀一の深く沈みこんだ瞳を見つめていた。すべては終わったのである。秀一は瞳をおとして陽子に背中を向けると店を出た。外へ出た秀一の耳に、崩れ落ちるようにコップがくだける音が聞こえた。しかし彼のすさんだ心には、なんのうしろめたさも沸かなかった。
そして駅へと向かう彼には、歩道にひしめく群衆や、巨大な建造物、そして無尽蔵に道路をうめる車がなまめかしい生き物のように感じられた。
第四章
風が流れていく。大小様々の樹木を縫って涼風がくぐり抜けていく。灌木や熊笹の群れがざわめき、秀一を取り囲む原生林から伝わる生暖かい生命の息吹が感じられる。秀一は、小屋とそして滝へと続く渓流から遠くはなれ、いまだに分け入ることを恐れていた原生林の奥へと足を運んでいった。頭上を仰ぐと、無数の枝枝に群がる青葉が陽光に照らされてきらめき、木漏れ日が自分の体に降り注いでいるのがわかる。ふいに鳥の奇声があがり、熊笹の群れから山鳥が飛び立ち、連鎖反応のように野兎が駆け抜けていった。やがて彼は、苔でおおわれた傍らの岩に腰をおろし、周囲に溶けこんでいった。夢幻の感覚の中で、彼の旅の追想は、この柔らかな埋没感と共にふくらんでいった。
草原、それは眩いばかりの緑の敷物、そう、渇ききった心に水を注ぎこむ清純な香り。一株きりでは取るに足りない雑草が、無限の繁殖をもって作り出す暖かい広がり。豊かな大地の恵みを受けて、陽光の下で生命を輝かせている。そして、その草原にのんびりとくつろぎながら果てしなく散りじりに点在する牛の群れ。そして草と牛の糞があいまって草原特有の生臭さをかもしだしている。
森林、それは木々が緑一色に装い、また重なり合って作りだす生命の温床。赤茶け黄ばみ濃厚な配色に身を染みこませた朽木は、何百何千となく重なり合って、次の世代の肥やしとなっていく。
山塊を仰ぐと、巨大な風貌を押し出し、草や土までも剥ぎ取られた裸岩が、人を寄せつけない壮麗さで屹立している。
彼は海の豊潤よりも山々の静寂と芳香のような生気を愛した。そして虚脱した精神を慰めるように自然の中へ埋没したかった。ナルシズム『ああ、なんて心地いい言葉だろう、ぞっと身震いがする、もう誰も心に立ちいってはこれない』彼は大きく呼吸しながら詠嘆した。
着の身着のまま旅立ったまま、日々は走馬燈のように駆け抜けていった。彼が求めた世界は、望み通り自分をおおっていた。そこには欺瞞も虚飾もかけひきもなかった。そして、人間の営みの嫌気から解き放たれ、自分の内に残っている純粋さを抱きしめることができた。ふいに起こる心を濁す後ろめたさは、自分のどこかに逃避があるのではないかということだった。しかし、山塊が、峡谷が、渓流がすべてを払拭してくれる。『そう、安らかだ、安らかだ』同じようにリュックを背負った旅人に出会うたび、彼の顔に自然な笑みが浮かぶ。そして忘却の中に隠しこまれていた少年時代の感情がよみがえってくる。そう、無邪気に、生きることに疑問符すらわかず命を呼吸していた日々を。さざめく竹林、なびく稲穂―――。夜を迎えればシュラフにくるまり、降り注ぐ星屑に身を委ね、夜明けと共に流れ行く朝の香りを呼吸しながら歩き続けた。
だが、彼の旅は自分の心からの逃避でしかなかった。安息と逃避は別ものだろう。逃避を虚飾すれば安息を感じられるかもしれない。でも、そんな安っぽい自己欺瞞が本来の彼の心を、甦らせようはずもないではないか。
今、秀一は原生林の中にいる。そう、彼の旅の鮮烈な記憶と同じ世界に包まれている。そして周囲と同化できたときに味わえる心の高揚も同じだ。だが、彼の深い内部での転換、その一点においてすべてが違っているのだ。逃避者と希求者。彼はこの原生林の中を徘徊した。むろん迷わぬように目印をつけて。渓流のせせらぎは遠のき、熊笹や灌木のざわめきとまどろむような腐葉土の臭い、生息する動物たちの無気味とも活気ともとれる肌に伝わる温み、そして通り抜けていく風が肌をなでていく。岩の苔が足をさらい、敗れたGパンを汚して脚を生ぬるく黒ずませ傷つける。いばらやシダが、かき分けようとする腕や脇腹を無残に掻き切っていく。足元に注意を払い、彼は闇の中を手探りするように歩いていった。
そして突然、秀一は視界をおおう巌の如きものに出会った。それは巨大な樹だった。自分の心を瞬きさせた存在の全貌を見ようとしたが、そのそそり立つ巨木は無尽蔵に茂っているだろう枝葉のかけらさえ見せない。彼に見えるのは、ただその巨大な生命の脈打つ幹のみだった。甲羅のように分厚い表皮、その表が剥ぎ取られたところは、肉塊のように木肌がせりだしている。かずらが樹の幹にまといつき、苔が地面からせりあがっている太い根元にへばりつき濡れたように湿っている。秀一は畏敬の念に打たれ、立ち尽くしていたが、しだいに膝がガクガクと震えてくるのだった。そして静寂の中でのしかかるような圧迫と緊張。今、秀一の目の前には、巨木が自然そのものの清楚さでその幹を晒したたずんでいる。これからもそうであろう。今までの何千年という時と同じように。秀一は巨木を見つめた。膝の震えはしだいに収まり、清められるような樹の香りに包まれていく。そして脈打つ心臓が、漲る血液が、しだいに生暖かく胸を浸してくるのだった。そう、やっと自分に備わっているものを知ったのである。自殺を決意し、雪の中に埋もれ、死への安楽へと墜落しようとしていた自分を粉砕してしまった生命力を。
風が流れていく、無数の原生木を縫って密やかに、漂うようにどこへでも。
帽子をかぶらぬ頭に、夏の陽射しが激しく照りつける。延々と続くジャリ道は陽炎のようにゆらめき、崩れかけた土塀をあらわにした村の家並みを縫っていく。どんよりと濁る空気に家畜特有の臭気がまじりあって、耐えがたい疲労感と虚脱感が重くのしかかってくる。左右の家並みをけだるく見やると、なかば露天の小屋の中につながれている牛が、間延びした呻き声をあげている。そこへ、ほし草を背負った農夫が半袖シャツを汗で濡らしながら小屋の中へ入っていき、無意味に牛を怒鳴りつけた。老婆が日差しをさえぎる家の陰に座りこんで、フキの皮をむくんだ指先で規則的に、そして無造作にむいていく。秀一の埃にまみれた頬に汗が幾筋も流れていった。その傍らを数人の子共たちが遊びに夢中になって、喚き声をあげながら走りぬけていった。秀一はうつむいたままどれほど歩いただろう。家並みは少しずつ途切れだしてきたが、ジャリ道はいぜんと陽炎のなか、はるかに続いている。うつむいて歩き続ける秀一に、そのジャリ道の横にセメントで舗装されている自動車が通れるほどの間道がふと目に入った。頭をあげると、5メートル程もある大きな白い立て看板に『医療法人、池ノ内療養所』と書かれてある。そして、その下に矢印が書いてあり『車で十分』とも。その立て看板に『アルバイト求む、性別、年齢不詳』と書かれたビラが貼られていた。
「アルバイト求むかーーーナイス。タイミング」と秀一は中身の軽くなった財布の入ったポケットを叩いて呟いた。そして、おもむろに山間に登っていく間道の方に歩いていった。陽に照りつけられたセメント道は蒸気を発するほどほてっていたが、山間に入るにしたがってこの延々と続く間道が、いつしか遊歩道に変わっているのに気がついた。後方の村の臭気は洗い流され、陽射しは風にざわめく木々の葉にさえぎられて、汗ばんだ体を癒すように涼風が吹き抜けていく。急カーブのガードレールの下には、抜けるような谷に川水が白く泡立ちながら流れている。山間深く入りこんで秀一の心に不安がよぎったとき、ようやく視界が開けた。そのつきだした山の斜面から下の方を眺めると、前面に澄みきった広い池をたたえ、三方を山に囲まれながらも広々とした敷地を持った建物が立っていた。それがたぶん『池ノ内療養所』だろう。建物は内庭を囲むように四棟あり、そろそろ陽射しがかげりはじめた空の下、水彩画の彩を持った池面に映えていた。秀一は遠目にその建物を見ながら山道を降りていった。そして入り口の看板に『池ノ内療養所』とあるのを確認してホッと息をついた。そこから眺めると、涼しげな池の畔の芝生に数人の軽装の人々がベンチにたむろしていたり、散歩していたりした。たぶん、この療養所で静養している病人なのだろう。彼等の傍らには付き添いらしい看護婦の姿も何人か見受けられ、建物の渡り廊下を白衣の男が彼等に声をかけながら急ぎ足で通り過ぎていった。秀一は門をくぐると、建物の中へと入っていった。そうしてフロントの事務員にアルバイトの件をたずねると、その事務員は秀一を事務室に案内した。面接はいたって簡単に終わった。差し出された履歴書に、秀一は略歴を書きこんでいき、それを見ていた事務員は、
「ああ、それでいいです、厨房の皿洗いですから、ええと時給は五百円です、なに、妊婦の人がいましてね、産期休暇を取っているんです。その間に合わせってわけですよ」と手短に説明して、履歴書を秀一から受け取ると、受諾のサインをした。そして、
「ちょっとこの療養所を一回りしてみますか」と誘った。彼は秀一と並んで歩きながら、出会う人たちに適当にあいさつをしながら、
「なに、のんびりしたもんですよ」と、無造作に言って笑った。秀一は色々の所で見受けられる光景、つまり車椅子に座って看護婦に付き添われている老人や寝間着姿のまま痩せた体を陽光にさらしている青年、そして売店のおばさんと冗談を言いながらチョコレートを頬張っている少女などに気が引きつけられた。彼にとって遊歩道から療養所が見えて以来、すべての光景に違和感があった。余りにも透明すぎるのである。数時間前に歩いてきた、あのひなびた村の、臭気と喧騒ともつかない濁りがないのだ。
『そうだ、生活まんだ』秀一は事務員と一緒に歩きながら、目の前の光景に欠如しているものに、やっと思い当たった。だが、はたしてそうだろうか。人々の営みがたとえどのような形態をとろうが、生きている以上生活なのだ。さらに療養所という生と死との間で確執している人々、またその患者たちを救おうとする人々の営みになにが透明感などありえようか。あえて秀一が感じたものが、生活感の欠如だとすれば、それは彼のたどってきた生活と異質であるかでしかあるまい。
翌日から厨房の熱気のなかで、皿洗いのアルバイトが始まった。さすがに数百人の食事を受け持つ厨房はあわただしく、食後の後、つまり十二時過ぎと、夕方四時以降は皿洗いに忙殺された。
晩夏の残暑が薄れる頃、厨房の仕事はひと段落する。秀一は疲れた体を癒そうと、売店へ缶コーヒーを買いに散歩道を歩いていた。前日見かけたように、芝生のベンチに淡い陽射しを浴びながら数人の『人々』がたむろしている。どこが悪くて療養しているのやら、見たところなんでもない人々である。一緒にいる看護婦たちとの、穏やかな会話の中に、にこやかな笑いがこぼれる。彼等はやはり透明だった。秀一は彼等を見ながら、汗まみれのTシャツが肌にまとわりつく不快感そのままに口元を醜く歪めた。そして鉛のような視線を『人々』に走らせながら、喉元に湧き上がってくる濁りを口いっぱいに膨らませて唾を吐いた。『人々』は黙りこみ、顔を上気させて秀一を睨んでいる。そして白衣の看護婦たちは、鋭い視線を秀一に走らせると、すぐにとりつくろった笑顔で『人々』の心を鎮めようとした。秀一は自分の衝動的な行為のもたらした極端な反応に戸惑い、逃げるようにその場を去った。
夕方七時過ぎ、それぞれの病棟に電灯がつき、外の庭に『人々』の姿はもう見えない。晩夏の陽はまだ落ちず、山間に太陽は隠れても空は透明に蒼い。秀一は仕事を終えて、一人芝生のベンチに座り、タバコを吸いながら目の前に広がる池や山々、そして空を眺めていた。そこへ
「あなた、ちょっと」と厳しく張りつめた声が響いた。秀一が声のしたほうを振り向くと、背後の病棟のドアから一直線に秀一を見据えて歩いてくる白衣の姿が見えた。よく見ると先程の看護婦たちの一人である。だが、あのにこやかさはなく、固く閉じられた口元に怒りを表し、眉を寄せた厳しい目で秀一を見ている。秀一は狼狽した。そして、
「なんですか」と平静を装ってタバコをもみ消した。看護婦は秀一を見下ろす位置までくると立ち止まり、唇を開いた。
「あなたは入ってきたばかりで、おまけにアルバイトだから大目に見てやれって婦長は言ったけどね、私は許せないわ。あなたのとった態度は、患者さんたちへの侮辱だわ」その声は鋭く、看護婦は肩で息をついていたが、精一杯冷静であろうと努めていた。
「患者さんたちはみんな懸命に生きているのよ。覚えているでしょう、ベンチに座っていた青年を、彼は脊椎カリエスなのよ。歩こうと思っても歩けないのよ。それにあの老人は結核だわ。そりゃ、治っていく人が大概よ、でもね、この療養所では、そうでない人達が何人も苦しみながら死んでいくのよ。あなたにはわからなかったの、あの人たちの笑顔が希望の一点にすがりついているってことが」こう一気に言い放った看護婦は、秀一を蔑みの目で見ると病棟へと戻っていった。
その夜、秀一は寝起きする職員用の建物の一室で、あの毅然たる看護婦の一言一言を反芻していた。きっとここでは、秀一のこれまでの生活感からは到底理解しようもない生活が脈打っているのであろう。その一断面をあの看護婦は投げつけたのである。確かに顰蹙を買うだろう自分の行為が、しかしなんであそこまであの看護婦を怒らせたのか。あれぐらい自分にとっては日常茶判事ではなかったのか。しかし、その反問も懐疑も労働の疲れからくる睡魔が、水中に拡散していく血液のように意識をしびれさせ、秀一は深い眠りへと落ちていった。
翌朝、秀一は眠い目をこすりながら厨房へ向かっていった。その彼の傍らを看護婦や職員たちが急ぎ足で通り過ぎていく。病棟中の扉と窓が開けはなたれ、ラジオ体操の音が響き渡るなか、患者たちが思い思いに体を動かしている。肋骨のまる見えする体をくねらせている痩せぎすの男や、関節を動かすたびに顔を歪め苦痛に耐えながら体操をしている少年。ラジオ体操に声を合わせてたからかにかけ声をはりあげている太り気味の中年男、パジャマ姿で欠伸をしているとこを秀一に見られて、あわててカーテンをサッと引いた若い女。笑いとざわめきの中で動き回る職員や看護婦たちからは、仕事への緊張感が伝わってくる。秀一はそれらの光景を眺めていた。
そしてようやく昼休みになった。昨日と同じようにベンチにたむろす『人々』の表情は穏やかで、なごやかな会話の中に笑みが通い合っている。そしてあの毅然たる看護婦の深く落ち着いた微笑みがあった。秀一は、彼等から見えない木陰から彼等を見つめていた。そして彼女のいう『希望にすがりつく笑顔』とはなんなのかと。その時、秀一は今まで通り自分が傍観者であることを思い知らされた。あいも変わらず自分の居場所を見いだせないでいる自分を。秀一は口の中に湧き上がってくる苦い唾液をゴクリと呑みこんだ。やがて二日目の夕方になった。秀一は、職員用の建物に設置されている風呂場へと、サンダルのかかとを引き摺りながら入っていった。けだるい気分でドアを開け、電灯の消えている薄暗い室内をぼんやりと眺めると、すぐ目の前になにやら大きな箱が何個か積まれてある。秀一は無頓着に電灯のスイッチを入れた。明るい照明に照らしだされたもの、それは真新しい棺桶だった。その数個の棺桶は、古い木机の上に無造作に積まれてあった。
次の日、秀一はやはり、なごやかな会話を交わしながらたむろす『人々』と、微笑みをたやさない看護婦の姿を見つめていた。そして、風呂場への通路に積まれてあった棺桶が一個減っていた。秀一の表情がこわばり、戦慄が背中を走り抜けた。秀一は擦り抜けるようにその場をかわし、奥の風呂場の暖かい湯の中へ怖気だつ気分でもぐりこんだ。
小枝を飛びまわりながらさえずる小鳥のような、音色の澄んだ笑い声が聞こえる。秀一は昼休みの時、外庭でたまに話をする雑務のおばちゃんと、木陰のベンチに座ってくつろいでいた。笑い声の主は、陽光の中をスカートをひらめかせながら跳ねまわっている。年の頃は十二、三才と思われる美しい少女である。人を魅了する顔、そう、天からの授かりもののように他人には望むべくもない輝く容姿をもった人間はいるものである。彼女の周りには『人々』がくつろぎ、その娘の清純な香りに酔っている。
「あの娘さん、かわいそうに精薄でね、本当は十五なんだけど幼く見えるでしょ。全くあれだけの器量をもってるのにねえ、かわいそうな話だよ」と、雑務のおばちゃんはしんみりと語った。秀一は少女の姿にみとれながらうなずくと、深い吐息をもらした。
数日後、秀一はあの看護婦が小田という名前であることを知った。彼女は、ここに勤めだして五年になるという。勝気ではあるが、患者たちの間での評判は、その屈託のない気性と繊細な気配りでもってすこぶるよかった。彼女は二十代後半だったが結婚はまだしていなく病院の独身寮から通勤していた。秀一は、昼休みにはいり、職員食堂から出てくる彼女に声をかけた。
「小田さん」彼女は秀一の方を振り向いた。
「俺、アンタに謝ろうと思って、どうもあの時はーーー」と言おうとする秀一に、小田ナースは上乗せするように、
「そう、あのことね、やっと謝る気になった」と、言った。秀一は憮然としたが、小田ナースは優しい瞳を向けて口元を緩めた。そして、
「私もあの時、少しカリカリしてたみたい。ちょっときつかったでしょう」そう言って微笑んだ。
「まあ、立ち話でもなんでしょう」と小田ナースは言うと、秀一をうながして芝生のベンチにに座った。秀一は少しためらったが、やがてたどたどしく語った。
「俺、あれからここの人達を見てたんだよ。そしたら、あんたの言った言葉がわかったような気がしたんだ」
「そう」小田ナースはうなずくと、秀一を見ながら、
「私もあなたを見てたのよ、なんかいつも独りぼっちで、あんまり人と話さないのね」
すでに秀一には、その言葉に反発する感情の波はなかった。どこか素直になれる波長が合う心地よさがあった。
「ひょっとしたら、あなたも苦しんでいる人なのかな」小田ナースは、芝生の上で小踊りしている精薄の少女を眺めながらつぶやいた。
「あの子、かわいいでしょ、天稟てやつね、純粋で、人を理解する以前に、人をすべてを愛しているのよ。この療養所の可憐なお姫様」
秀一の心に鋭い痛みが走った。そして『人々』の微笑みに包まれて、幸せそうに漂っている少女を眺めていた。
「俺にも妹がいたんだけどーーー、小学生のとき死んじまった」
小田ナースは、ふいに漏れた秀一のつぶやきに動揺して、その横顔を見つめた。
「ほかに兄弟はいないの」
「いや、俺一人さ、親父もお袋も、みんな俺をおいて死んじまった」
「そう」小田ナースは深いため息をついた。そうしてそこには戸惑いと、心を開いてくる人へのおのずと沸いてくる親しみがあった。秀一はといえば、少女を瞳で追いながら、遠い憧憬を見つめていた。そう、あの誰も傷ついていない遠い過去の感触に浸るように。
「でも、あなたは生きているわ」小田ナースは静かに言った。
「俺、本当に生きているのかな」秀一は絶え入るような溜息をもらした。
こんな言葉があるだろうか。人の最も深い感情に触れたとき、もしなにか語りうるとしたら、それは多分、自分の信じられる自分だろう。
「私は生きているわ。精一杯、そう看護婦として、あの人たちのために」秀一は強い意志を肌に感じて、そう言い切った人の顔を見つめた。そこには己の心の中を見つめる深いまなざしと、引き締めた口元があった。
二人とも話に気を取られているうちに、昼休みが終わったらしい。目の前を重い医療器具をひきずるように運んでいる数人の看護婦を見て、それに気がついた小田ナースはすばやく立ちあがった。そして、
「ちょっと、私も手伝うわ」と声をかけると駆けだした。そして、秀一を振り返り手をあげながら、
「あの子に恋でもしたら」と笑って去っていった。秀一は溜息とも覇気ともつかない曖昧ないきをついて立ちあがると、厨房へと歩きだした。
雑務関係の職員に一人欠員ができた。日頃から神経痛を訴えていた掃除婦がやめたのである。
「俺、掃除婦やってみようかな」秀一は小田ナースと夕方ベンチに座っていた。
「どういう心境の変化かな、世捨て人と縁を切ろうってわけ」小田ナースは秀一の顔をマジマジと見た。
「そうかもしれない」秀一はうなずいた。
彼は、この療養所にべつになんらかの意図を持ってやってきたわけではない。ただ金がなくなってアルバイトをするために来たのだ。金が貯まれば、また旅を続けるつもりだった。ところが、ここで働いているうちに、人間のなにか崇高なものに出会ったような気がしたのである。彼の退廃的な心に起こったその微妙な心の揺れを、大きく揺らすかのように、小田ナースは半ば無意識に彼をうながしていった。
数日後、全く人というものに冷淡な例の事務員に秀一は呼び出された。廊下で待っている秀一に、事務室から出てきた事務員は、
「あんたも物好きだね」と口元を緩めて冷笑し、すぐに無表情になり口調を変えて、
「まあ、おばさんの仕事ですから適当でいいですよ」と書類を渡し、
「ええと、雑務関係の更衣室は病棟の奥ですから、一応案内しましょう」と言って歩きだした。事務員は秀一が後ろからついてくるのを確認すると歩調を早めた。そして更衣室につくとドアを開け、秀一にロッカーをさし、
「それでは」とその場を去っていった。秀一といえば、事務員のあまりに手早くそっけない対応に呆気にとられて、その後姿を眺めていたが、やがて廊下の角に消えると、
「遅れてすいません、新しく入った牧野といいます。よろしくお願いします」と、覇気をこめていった。でも秀一の意気込んだ大声も、あわただしい病棟内のざわめきに掻き消されてしまった。何人かの気に留めた掃除婦が、秀一を振り向いて
「まあ、よろしくね」とか、曖昧な返事をしただけだった。気を挫かれて突っ立っていた秀一に、以前からたまに話をしていた例の『おばちゃん』が近寄ってきて、
「ホラ、気にしないで、あんなふうにシーツをはがしていくんだよ」と秀一の背中をポンと叩いた。そして『おばちゃん』は見本をしめすようにシーツや屎尿便をかたずけていくのだった。秀一は緊張しきってぎこちなく動き、何個かのポリ容器を乗せた手押し車を押そうとした。
「ようよう落ちついて、まったく、いつものあんたとは別人みたいだねえ」と『おばちゃん』は苦笑いをすると、
「このじいさん動かすから、ちょっと足をもっとくれよ」と、ベッドの上の老人の肩に手をやりながら言った。
物質的に重い老人のしなびた体を、三人がかりで巧みに動かしながら汚れたシーツをすべりこませた。
「ホイ、次だよ」『おばちゃん』は秀一に指示しながら次から次へと老人の寝ころがるベッドを渡っていった。腐敗したような臭気の染みついたシーツには、大便がところどころこびりつき、よだれが糊のように貼りついている。秀一は苦い顔をしながらシーツを丸めこみ、ポリ容器の中へつっこんでいく。そして検査用の尿を取り終わった小便の溜まった屎尿瓶をかき集めていった。雑務の仕事の最初は、老人病棟の清掃だったのである。
そうして順繰りに、いくつかの病室をまわりながら老人たちの世話をしているうちに、病棟のなかほどから霧がかかったような不透明な空間が広がっていることに秀一は気づいた。異様な温みと濁りが秀一の肌を撫で、全身に鳥肌が立ってきた。防火壁の横に貼られた紙には『動けない人々』と書かれてある。秀一は好奇と恐怖をともないながら、その両目を開いて霧の中を見つめた。秀一の瞳に映ったのは、数十人の老人の群れだった。彼等は、ベッドにはりついたまま、手足に針をさしこまれ点滴を受けている。そして、痩せこけて筋があらわになった首を緩慢に動かしながら、歯の抜け落ちたぶよぶよの歯茎をこすりあわせ、同じくぶよぶよの濁った目で世界を眺めている。内臓から漏れるような密かな呼吸と死臭とが、不透明な空間を一定に保たせているのだった。
秀一は、その空間の中へと引きこまれるように歩み出した。その時、『おばちゃん』が、
「あの人たちはいいんだよ、シーツ交換は二週間に一遍なんだから」と言って引き止めた。それまで、心臓にまで届く透明なガラス管のようだった秀一の瞳は、突然眼球の機能を取り戻した。
もうすでに他の掃除婦たちは、次の病棟へと移動している最中だった。二人は、あわただしくそのあとを追った。
四棟からなる病棟のシーツ交換は、午前中にすべて終わった。養老院のような意味合いで作られた老人病棟を除けば、静養する『人々』は、おのおのが清潔さを保つぐらいの気持ちの張りは持ち合わせていたのである。しかし、そんな『人々』の中にあって、病状ゆえ、もしくは怠惰ゆえに掃除婦たちの手を必要とする患者たちがいた。前者は暖かい援助と世話がほどこされ、後者は厄介者のように疎ましがられた。そうして、自堕落に陥った患者たちは、そのほとんどがエゴイストと化していた。もっとも、そのような患者たちも、元来無精な者、死を虚無的に眺めている者、自暴自棄になっている者など様々であったが。その中の一人に、まだ二十歳にもならない青年がいた。長髪で痩身のその若者は前島という名前だった。前島は、自暴自棄の心のままに、自分より弱者にたいして動物をいたぶるようにサディスティックな眼差しを送り、人間にたいして敵意しか抱いていなかった。前島のいる病棟へ清掃にはいった掃除婦たちの中に一緒にいた秀一は、彼のその眼差しを感じて一瞬不快な緊張を覚えたが、目を伏せたまま黙々と掃除を続けていった。シーツ交換などの作業を掃除婦たちに混じって不器用に立ち回る秀一を、前島はいたぶる動物を見つけた子供のように残虐な心持ちのまま、小踊りして眺めていた。その態度を感じとった秀一は、怒気をはらんだ感情のくすぶりを覚えたが、そのまま黙殺して掃除を済ますと病室を出た。秀一の背中に前島の嘲りが残った。
秀一がくすぶった気分で掃除婦たちの後について廊下を歩いていると、後ろほうから廊下をかける靴音と自分を呼ぶ声が聞こえた。小田ナースである。振り返った秀一に
「どう、調子は」と手をあげて合図した。
「どおって、なんかーーー」秀一は口をつぐんだ。
「どうしたのよ」近寄ってきた小田ナースはたずねた。
「あの五号室のやせてひょろひょろした奴、いったいなんなんだよ」と、秀一はぼやいた。
「ああ」小田ナースは溜め息をつくと、
「前島君ね、彼ちょっと問題児でねーーー色々あってわかるんだけど」と、声をおとしたが、
「まあ、あんまり気にしないでがんばりなさい」と言って微笑むと、ナース・ステーションへと戻っていった。秀一は気を取り直すように
「まあ、そうだな、相手は病人だからな」とつぶやくと、次の仕事場へ掃除婦たちの後ろを追った。
雑務の仕事は色々あった。便所掃除、窓拭き、廊下の清掃などなど。そして、それらは通常、特別の知識もいらず、筋力もさしていらない、いわゆる持久力がものをいうような例の事務員が言ったような仕事だった。だがその仕事は、医療関係者でない者が、最も療養所の『人々』に親しく交われる機会のもてるものだった。そして、緩慢に流れる日々の中で、秀一はようやく療養所の中で日常性を持ちつつあった。
そんな生活の中で、秀一に怒気をはらんだ不快感をいつも味わわせるのが前島だった。彼は自分が保護されている立場を利用して、秀一にも解しがたい執拗さで秀一を軽視し挑発しつづけた。秀一としては立場上黙殺するより他なかったが、傍観者としての意識が薄れはじめた秀一にとって、単に限界に達するのを待つだけでしかなかった。
それとは裏腹に、秀一の気持ちを潤わせてくれるのが、あの精薄の少女だった。療養中の『人々』は、世間話やテレビをネタに退屈と不安をまぎらわせているのだが、どこかしら療養中にけだるい、そして沈痛な雰囲気が漂うことがある。そんな時『人々』の諸々の思いを慰めるように、あの少女―――名前を果穂というーーーが『人々』に無邪気にたわむれるのだ。その芳香のように、少しだらけた口元と夢幻の瞳を持つこの少女の存在自体が、その場を和らげるのだった。余りにも繊細で美しいその容貌と顔立ちは、人間の本来持っている情愛の気持ちを醸し出すものらしい。秀一は、その果穂のたわむれる姿を見ながら、遠い憧憬を追っていた。この少女は、人間というものに対して全く無垢であった。それゆえ、豊潤な感情と恣意性を持ちえたが、反面醜悪さに対して全く抵抗力を持っていなかった。そして秀一にはどこか『守ってやりたい』という無償の愛が芽生えはじめていた。そんな秀一の気持ちを感じるのか、果穂は秀一へビクッとするほど素直な瞳を開くのだった。
すでに秋を迎えていたそんな日々のある日、とうとう一見平穏に見える病棟内の調和が崩れた。秀一が他の掃除婦たちと一緒に前島の病室を清掃していた時のことだった。毎日のように秀一の挙動に軽蔑の眼差しを向けていた前島が、秀一に毒舌を吐いたのである。
「へっ、五体満足な男が女の仕事かよ、へへ」前島はベッドの上で小踊りしている。それは、秀一についてまわっていた感情のくすぶりに火をつける言葉だった。秀一の体が硬くこわばったのに気づいた『おばちゃん』が宥めるように、
「気にしないでさ、あの男は誰にだってそうなんだから」とささやいた。しかし、次の言葉は、前島の口から吐き出されてしまった。
「老いぼれのクソッてのは臭いのかね、思うに消化不良でメシのままじゃねえのかい、ねえ、シーツ交換の兄さんよ」
秀一の中でヒューズが切れた。シーツをまとめていた手を止めると、ビニールの手袋を脱ぎ『おばちゃん』の制止も聞かず、前島の前に向き直った。
「言うことはそれだけかよ、ああん、ノッポ野郎」
二人は向かい合って睨みあっていた。秀一にはただ凝視する相手の顔だけが見え、全身から血の気の失せた体に、新たに心臓から全身へと熱い血液がみなぎっていく。前島の顔が痙攣しニヤついた瞬間、秀一は前島江おどりかかった。二人はベッドの上でからみあい床へとなだれ落ちた。前島はおおいかぶさるように秀一の顔面へ頭を打ちつけた。秀一はズンと響く衝撃を受けて、気の遠くなるような目眩を覚えたが、そのままかまわず力まかせに前島を組み伏せ態勢を逆転させた。前島は下から突上げるように秀一の脇腹を殴った。秀一は呻くと前島をつかんでいた手を緩めた。このチャンスに前島は秀一の首を左手でつかんだが、秀一は無我夢中で前島の顔面へと一発二発と拳を振り下ろした。前島は、筋肉の削げ落ちた体をバタつかせながら喘いでいる。なおも殴りつける秀一は、前島の顔が苦痛と恐怖に歪んでいるのにやっと気づいて殴るのをやめ肩で息をし、そして見おろした。赤く濁った血が逆流したようだった。
その時、
「それまでよ、二人とも」と鋭い声が二人の耳に響いた。小田ナースだった。秀一は、小田ナースを見つめた。二人をとりまく空間は、空気が濁ったように膨らんでいた。前島は秀一がもう攻撃をしかけてこないのを感じとって、小田ナースを見つめながら、痙攣するようなニヤ気笑いを浮かべた。
いつのまにか病室の周りには人だかりができていた。『人々』は、だまって窓や扉にひしめいて好奇と恐怖のまなざしを向けていた。ようやくその中から男の職員が何人か割って入り、二人を引き離した。堰を切ったように笑い声やヤジが飛び交い一瞬病棟全体が騒然となった。そのとき群衆の中で身を震わせながら二人のケンカを見つめていた果穂が、突然痙攣しはじめたのである。それに気づいた主任ナースが、
「発作だわ、はやくタンカを持ってきて」とナースたちに指示した。
輪をかけたように騒然となった病棟でタンカが持ってこられ、精薄の少女は救急治療室へと運ばれていった。そして前島は数人の職員に抱えられるようにして傷の手当をしにナース・ステーションへと去っていった。
秀一は主任ナースから
「許可がおりるまで、この病棟に出入りしないように」ときつく申し渡され、『おばちゃん』に付き添われて病棟をあとにした。病棟内は、とりとめもなくざわめいていた。
夕暮れ時、秀一はいつものように芝生のベンチに座って空を眺めていた。問題を起こしてしまった事への悔恨と、果穂があの後どうしているかを気に病んでいた。
「秀一君、やっぱりここだったのね」秀一が振り返るとカーデガンをはおった小田ナースの姿が見えた。
「やあ」秀一は気のない返事をすると、持て余しぎみの感じをまぎらわすかのように深い溜め息をついてうつむいた。
小田ナースは、ゆっくりと秀一の傍らに腰を下ろした。
「秀一君、この時間帯、いつもここにいるのね、何か訳でもあるの」
秀一はうつむいたまま、
「いや、ただ一日あったことを考えているんだ」と呟いた。
「ふうん、じゃ今日のことも」
秀一は顔をあげて、
「ああ、そうだよ」と言葉を返した。
「じゃーさ、どう思ってるの、彼のことや、ケンカの事を」と小田ナースは笑みを浮かべたまま秀一の瞳をのぞきこんだ。
「そりゃ、ケンカは別にしても、果穂ちゃんがあんなふうになった事の原因だってのは心が痛むよーーーねえ果穂ちゃんどうなってるんだ、小田さん」
「心配ないわ、あの子ならもう発作が治まって寝てるわーーーああいうふうに生まれてきた人ってのは、色んなものを背負いこんでるのよ、今日の癲癇の発作もそのひとつだわーーー気の毒だけど仕方がないのよ、ともかくあの子はもう大丈夫よ」小田ナースは静かに語った。
「そう、大丈夫なんだな」秀一は静かに吐息をついた。
「それはそれとして、もう一度聞くけど、今日の事はどう考えてるの」と小田ナースは語気を強めて言った。
秀一は大きく息を吸うと、
「俺は悪くない、それだけは言える」と、はっきり言った。
小田ナースは秀一を見つめたまま、
「でも君は前島君のことなんにも知らないでしょ、知ったうえでもそう言えるかしら」小田ナースの声は静かに深くなっていった。
「それ、どういう意味だい、あいつは俺をバカにして遊んでいたんだ、それだけで十分だよ」秀一の語気も強くなった。
小田ナースはふと空に視線を移して、
「でも、なんであんなふうな行動をとったのかな、なんであんなふうになったのかな、誰にだって嫌がられるのはわかってるのにさ」と呟いた。
「じゃーさ、知ってるならいいなよ」秀一は憮然とした。
「彼、ガンなのよ、もう手遅れでね、親が面倒を避けたのよ、そういう家庭ってやっぱりあるのよ、冷たい親って。入院当初は結核って事にしておいたんだけど、いつのまにか本人にわかっちゃったのよ」小田ナースは静かに息をもらした。
「それで他人に当たっているのかよ」秀一は受け入れたくないものをはねつけるように口をはさんだ。
「話は最後まで聞きなさい」秀一の肩にかけていた小田ナースの手に力が入った。
「もう前島君がここに来てから四か月ぐらいたつかしら、恋人が付き添って入院してきたの、とても痛々しいくらいーーーまあここに来る人はみんなそうなんだけどーーーそうねえ、よく三人で遊んだわ、この池のほとりとかでね、私、担当ナースだったのよ、いまじゃ別の人になっているけど。恋人は彼と同じ大学の学生でね、退院するまで休学してでも看病するっていってたの、そりゃとても可愛く思えるくらいけなげだったわーーー前島君には結核で療養が必要だってことで入院させたんだけど、本当はガンでね、もう手遅れだったの。親が面倒を恐れて、マア、簡単に言うと見放したのね、そういう親ってのもいるのよ。でも、ふとしたことから恋人に事情がバレてね、その子可愛そうなくらい悩んでたわ。私のとこに来ては、いつも夜一人で泣いてたわ、私耐えられないって。どうしようもない成り行きってのかな、前島君は全部知っちゃったのよ、その子もう自制できなくてね、彼と一緒に死ぬなんて言いだして、そりゃーひどかったわーーー結局、恋人は精神的に不安定になって親が引き取りに来てここを去ったわ。私が呼んだのよ、二人ともダメになるって思ってーーー前島君は、いつのまにかあんなふうになっちゃってーーー」小田ナースは静かに語り終わった。
秀一の内部から形容しようのない静かな気持ちが広がっていき言葉にするのがはばかれた。二人は、そのままベンチに佇んでいたが、風がくぐりぬけ、病棟には電灯がともって夜の気配が漂ってきた。小田ナースはカーデガンを引っぱってくるまると、
「もう秋ねえ、夜は冷えるわ」と言って立ちあがると、
「私、帰るわ、期待してるからね、秀一君」と、歯切れのいい声を残して病棟へ戻っていった。一人残された秀一は、その複雑な気持ちのまま、星のきらめく夜空を眺めていたが、ようやく、
「俺も戻るか」と呟くと宿舎の方へと歩きだした。
秀一は自分の部屋の電灯を点け、布団を敷くと、その上に寝転がった。そして天井を眺めながら、小田ナースの語ったことを一つ一つ丹念に思い返してみた。
「あいつ、可愛そうだな」そして唇を閉じて、ため息をついた。前島をめぐるいくつかの断片の映像や言葉が意識の上に浮かんでは消えていく。そうして少しずつ淘汰され、純化された感情が彼の心に応じていった。同情と反感。この相反する感情は秀一の中で苦痛なまま向かい合うより他なかった。
「これでいいのか、これでーーーいったい何だってゆうんだ」いつのまにか怒鳴り声をあげた自分に気づいて、彼はまた溜め息をついた。
「こんなかと忘れてしまえ、寝よ、ねてしまおう」そしておもむろに立ちあがると服を脱ぎ、電灯を消して布団にもぐりこんだ。
秀一が前島のいる病棟に出入りを許されたのはそれから十日ほど後だった。その日に見入りられるように廊下の角で前島とばったり出会った秀一は、面食らったままなにを言えばいいのか戸惑ってしまった。前島は、そんな秀一を横目で見ながら無視して通り過ぎた。秀一はなにか悪いことをしたようなバツの悪さを覚えた。
そして日々は日常性を取り戻して緩慢に流れはじめた。前島はどういう心境の変化か、あのケンカ以来秀一に無関心を装うようになった。それが本当なのか秀一にもうかがいしれないほどに。秀一は前島に対する気持ちの変化をはっきりさせていなかった。それは、前島が絡まなくなったからだし、本人の気持ちの変化がとても緩慢だったためだろう。
そんな秋の徐々に深まるある日の夕方、宿舎にいる秀一を小田ナースが訪ねてきた。
「秀一君、いる、今夜ねパーティーやるのよ。出てこない、果穂ちゃんの誕生日の」とドアを半開きにして顔をのぞかせた。秀一がドキッとしたのを見て、
「案の定ね、私が君の果穂ちゃんへの思いを見抜けないとでも思ったの。君、この頃ずっと前島君にばかり気をとられてたんじゃないの、大事な人の事忘れてさ」と笑みを浮かべた。
「あんたがこだわらせたんだろうが、前島はさ、でも果穂ちゃんの誕生日かーーーやっぱりかなわないよ、あんたには」そう答えると秀一は立ち上がった。
「第三病棟の娯楽室よ、先に行って待ってるからね、じゃあ」小田ナースはドアを閉めた。秀一はいそいそと着替えはじめた。とはいっても結局Gパンをはき、ヤッケをかぶるだけだったのだけど。ともかくも、秀一にとって気のせく事だった。
秀一が第三病棟の娯楽室に着いたときには、すでに五~六人の『人々』が集まっていた。多分、みんな小田ナースに集められた果穂と馴染みの深い患者たちなのだろう。秀一はソファーの片隅に腰をおろした。ケーキがテーブルの上に置いてある。やがて、小田ナースに連れられて、果穂が病室から出てくるのが見えた。髪を束ねて、パジャマの上からトレーナーを着ている。
「さあ、みなさん、今日の主役のお出ましよ」小田ナースは、果穂をソファーのまんなかに座らせるとあたりを見渡した。そして娯楽室と向かい合っているナース・ステーションの前においてあるラジカセのスイッチを入れた。映画音楽の静かなメロディーが流れ出した。小田ナースは果穂の横に座ると、
「今日の夜は、あなたのためのものよ、まわりにいる人はみんなあなたを好きな人達、そしてケーキもね」と、ゆっくりと語りかけた。
「私のための、本当―――」果穂は戸惑いの表情を浮かべた。
「そう、今日はあなたの生まれた日、十六回目のね、もう立派なレディーよ」
「私、レディーなの」果穂はしばらく間の抜けた表情を浮かべていたが、それがとろけるような微笑みに変わっていった。
「そうよ、果穂ちゃん、誕生日おめでとう」
「おめでとう」
「誕生日おめでとう」
「療養所のお嬢さん」
集まっていた『人々』から口々に声が飛び交った。そして、何人かが持ってきたプレゼントを果穂に渡し始めた。秀一はバツ悪げにそれを見ていたが、やがて気おくれ気味に、
「これ、旅してまわった駅や名所のスタンプ帳、俺の記念品だけど、あげるよ」と、手帳を果穂に手渡した。ボーっと見ている果穂に、
「外に出られないあなたには最高の贈り物ね、やるわね、君」と小田ナースがフォローして言葉を添えた。果穂の瞳が秀一を見つめ、大きく開いた。そして、
「ありがとう、大切にするから」とたどたどしく言った。
「では果穂ちゃん、ローソクの火を消してくださる」小田ナースがケーキを指した。
「うん」とうなずいて、果穂は床に膝をつきテーブルの上のケーキを抱きこむように手を差しのべた。そして大きく息を吸い込むとローソクの火を一本一本消していった。
全部消し終わると「ハアー」と気抜けした溜め息を漏らしてソファーに乗っかり丸く膝を抱え込んだ。いっせいに改めて拍手が起こり、お祝いの言葉が送られた。そうして、なごやかな雰囲気のまま、秋の宵が静かに過ぎていった。
秋の深まりとともに池ノ内療養所は、ひっそりとしたたたずまいをかもしだすようになった。すでに芝生で日光浴を楽しむ『人々』の姿もまばらとなり、付き添う看護婦の姿も見かけなくなった。そんな閑散とした療養所の外庭を、秀一と果穂は散歩するようになっていった。池の辺りのベンチに座って池面の乱反射や生き物たちの姿を眺めたり、遊歩道から眺められる木々の紅葉に目を奪われたりしながら。果穂はよく秀一の旅の話を聞きたがった。もらったスタンプ帳を開いては、駅の名前を言って、秀一の話を聞いては、その見知らぬ土地のことを空想したりしながら。そして、秀一に無邪気に甘えたがった。たとえば、「池のカエルさんをつかまえて」とか、「秀ちゃん、あのコスモスとってもいいかしら」とかーーー。紙ヒコーキを飛ばすと、その気紛れな飛行の後をたどたどしく追いかけていく。秀は妹の由美に甘えられていた遠い過去の感触を思い出していた。
夕方、前島は病棟の娯楽室にブラリと現れた秀一をみとめた。おそらく果穂に会いに来たのだろう。前島はテレビを見ているふりをしていたが、秀一が近づいて来るのをじっと待っていた。そう、ストレスを発散させようとうずうずしながら。秀一は果穂が見当たらないので、帰ろうかそのままいようか決めかねていた。
「やあ、掃除のにいさん」前島は秀一を振り向くと、
「あんた、今暇かい、ひまなら俺の相手をしてくれないかい」前島は少し興奮してそう言った。『君に期待しているから』と言った小田ナースの言葉がふと浮かんで、秀一は、
「ケンカ売らなきゃいいよ」と答えて、テーブル越しのイスに座った。
ナース・ステーションで仕事をしていた事務員は、このおもしろい取り合わせに興味をもって二人の様子を見ていた。
「あんたもちょっと聞いてくれよ」前島は、事務員にも声をかけた。
「この人は冷静な観察者なんだ」
事務員は、一瞬目を光らせてナース・ステーションから出てくると、前島と同じテーブルの端のイスに座って、静かに耳を傾けた。前島はどこからきりだそうかと迷っていたが、いきなり本題に入っていった。
「今、ここに二人の人間がいるとしよう。二人とも男で、置かれている状況は同じだ。二人とも、もう助からない段階のガンだ。あんた方、俺が今からなにを言おうとしているかわかるかい。俺は、この問題が頭に浮かんできて以来、回答を得ようと必死なんだ。なんたって俺はその当事者なんだから。俺は二人のどちらでもありうるんだ。要は、俺が存在をかけて、なにを選びとるということなんだから。二人は全く反対のベクトルをとっていく。一人は絶望している。まだ青春の最中だっていうのに、刀で真っ二つにされるように死が生きていくルートを断ち切るんだから。しかし、そいつには希望がない訳じゃない。万が一助かるかもしれないと、心の最も深い部分で生きのこることに執着している。恋人が戻り、家族が暖かい愛情でふたたび自分を充たしてくれることを、心のどこか、そう片隅でもいい、それが可能ではないかと思っている。一人は希望を失っていない。バカげた楽天主義のように生きろ、生きろと自分をはげます。しかし彼は死という奈落が待ち構えているのを知っている。それでも彼は生きようとする。そこに自分の全ての意志をかたむける。恐ろしいほどの努力と忍耐をもって。全てはアンビバレンツなんだ。わかるかいあんた。両価性って言うんだよ、一つの物事、思考には両方の価値があって、多くの場合、一つは良い方、一つは悪い方の価値を持っている。あんた大学行ってないみたいだから解説してやってるのさ、アンビバレンツって奴を」前島は軽蔑のまなざしで秀一を見、そして用心深げに事務員の様子をうかがいながら話を続けた。
「一人は悪い方にとっていくんだ。これはもう、転げ落ちる石のようなものさ。一つ一つの考えが連鎖のようにつながって、悪いことは悪いことを呼んでいく、そしていじけていくんだよ、そう、今の俺がそうさ。そうしてもう一人はよくとっていく。なぜだか彼には希望の火が消えないんだ。困難な状況と選択が常に彼を屈服させようとするんだが、彼はそれを乗り越えていく。どうせ死んじまうのにけなげなもんだ。人はそういう姿には感動するらしい。どうも、そうらしい、こんな病院にはいってりゃ、いやでもわかる。そして少しずつ生の深淵へと入っていく。死と生は一人の人間の中で自然にあるもの、死は生のあるかぎり自分の一部としてあると思うようになっていく、そして生きることを肯定し、その死まで懸命に生きる。ガンと闘う男さ、勇者のように生命の尊厳を人々に知らしめる、まあヒーローだな、こんな奴らがヒューマニズムという奴を、そんな幻想を人に抱かせる。そう涙って奴だ。すぐに死んじまうのによ、苦痛になぶられて、どう生きようが同じなんだぜ、死はすぐそこなんだ。そして始めの一人はこう選んでいく、そう選ぶんだ、思考なんて気楽なレベルの話じゃない、俺は死んじまうんだよ、この俺が。そう、俺にとって死とは、ひどく恐ろしい現実なんだ。自分が死ぬ、そのイメージが夢に現れると、寝汗をびっしょりかいて、夜中に目がさめる。そしてどうしようもないほど恐くなるんだ。病室の他の連中を見渡すと、どいつもグースカ寝てるんだ。俺は身のやり場がない。しかしだ、ここに一つの寛容があってもいいんじゃないか。何十年という後の人生を打ち捨てられた者は、その短い、まだ苦痛にのたうっていない今、死んでいく者は、生者によって多くのことが許されるべきではないのか。俺は他人に対して自分のエゴを許容しろと強制しているわけだが、それは許される事ではないのか。そりゃ俺の中にグチャグチャとした感情はある。そんなことを要求することに純粋でありえるなんてことはないさ。でも、それは許されることではないのか。俺はあんたが俺を許容するかどうか、それを知りたい、まあ、もっとも俺には、あんたはもう関心の向かない人間になろうとしてるんだが、俺は欲望をみたしたいのさ、欲望を」
前島は興奮したまま、秀一がどんな反応をしるしたかをさぐるように、その目をうかがっていた。前島は、どこか勝ち誇るような心のゆとりが沸いてきた。『こいつは、この話で俺に一目置くようになるだろう』それは、秀一の目に批判する険が見えなかったからだ。
「こういう考えを、どう思うかい」前島は、秀一から目を離し、挑発するように事務員を見た。
「あんたのようなわがままは通用しないよ」事務員は冷ややかな目でそう言った。
「ああ、あんたはそういう奴だよ、最初からそう予想していたよ」『えいクソ、なんでこんな奴に聞かせようなんて思ったんだ。このバカだけでよかったんだ、まあいい、憂さ晴らしにはなった』前島はイスから立ちあがり、娯楽室から自分の病室へ、ゾクゾクする快感を憶えながら去っていった。
「あいつの言うことはわかるが」秀一は重い溜め息をついた。
「わからなくていいですよ。結局自分のエゴで周りに迷惑をかけてるんだから。こっちとしては、よその病院に移ってもらいたいとこだが、私にはあいにくそんな権限はない」事務員は冷めた笑いを浮かべて、ナース・ステーションに戻っていった。
秀一は、消灯のなる前に病棟を出た。そして宿舎の自分の部屋に戻ると、布団を敷いてその上にドサリと寝ころんだ。
「あいつが死んだあと、俺はどう、あいつの事を思うだろう。ただの他人の死か、それとも青ざめて笑う、そんな外道の気持ちに襲われるだろうか。おそらく涙はでないだろう。そんな乾いた感情を、俺はあいつから受け取っている。だが、死と向かい合っている人間には、確かに多くの事が許されてもいいと思う。しかし、なぶられるように悪口を叩かれていた時、俺にあったのは怒りだけだった。確かにあの頃は事情を知らなかった、だが知っていたとして違っていただろうか。濁った感情を押し殺して、同情の気持ちが沸いただろうか、俺にはよくわからない」秀一は、薄ぼんやりとした意識空間の言葉の浮沈を、焦点に結びつけるように拾い続けた。
「あいつを見ていると、人間の暗澹とした部分を見せつけられているような気分になる。生に裏切られ、予定された死に落ちていく、それが不条理だと言っているんだろう。自分の運命は、もっと輝いたすばらしいもののはずだ、とあいつは叫んでいるかのようだ。でも、奈落へ落ちた時でさえ、自分のその状況が現実ではないのか。たしかに状況から抜け出すことは可能な場合はあるだろう。だが、その代償は、まるで確かにあった自分の影が消え失せて、放浪者に落ちていくような無残さがある。あいつの言った通り、生はシュミレーションじゃない。置かれた状況をあえて受け入れ、この繰り返される果てのない毎日を、敢えて来いと肯定する、この事が大切なんじゃないのか。明日はわからない、しかし今は生きられる。果穂ちゃんの素晴らしさは、そんなとこにあるんじゃないか。今ある生を純粋にただ生きている、いや、生かされているといってもいいと思う。しかし、あの事務員の冷ややかさはなんなんだ。まるで茶番劇のように俺たちの現実を眺める、あの冷ややかさはーーーあれはなんだ、欲望―――女のことか」
秀一は理解しようとした前島の現実に、うまく焦点が合わず曖昧な影を残したことをもどかしく思いながら目を閉じた。すれ違った二人の距離は、理解し合うには遠くなりすぎてしまっていた。もう、すでに。
そんな前島は、実は小田ナースに目をつけていたのだった。この自分に対して寛容であり、なおかつ誰に対しても愛情のまなざしを送る女を。そして自分は、その中でも特別な愛情が向けられていることを前島はじゅうぶんに知っていた。小田ナースが自分の病室を通り過ぎるとき、またなんらかの機会に話しかけて去っていくとき、前島は小田ナースの後姿を舌舐めずりして見ていた。ひきしまった腰、すらりとした脚、そして肉ずきのよさそうな上半身―――。前島は、小田ナースの裸体を想像して体が熱くなる自分を知った。そして、それは情欲として抑えがたいまでにたかまっていったのだった。
そして平穏さの裏側にあった人間の醜さと脆さが露呈し、すべてが崩れ落ちる日が来た。
それは冬の或る一日の出来事だった。
秀一と果穂が小春日和の中、紙ヒコーキを飛ばして芝生の上でたわむれている時、小田ナースが姿を現した。
「へえ、まるで子犬のジャレ合いね」
秀一は笑いながら
「一緒に遊ばない、楽しいぜ、小田さんも一日中病棟じゃうんざりだろう、たまには息抜き、息抜き」と答えた。
「そうね、じゃベンチに座って二人を眺めるとするか、小犬のジャレ合いを」と言って小田ナースはウインクするとベンチに座った。
「果穂ちゃん、そんなに薄着してると風邪ひくわよ」と小田ナースがカーデガンを脱いで渡そうとすると、
「うん、平気、秀ちゃんいるから平気」果穂は微笑みを浮かべた。
「うん、やるもんね、秀一君、この子の心をとりこにしたってわけだ」
「安あがりなデートだろ」
「まあ呆れた」
そうして三人は陽光の中でくつろいでいた。紙ヒコーキは流れる風に乗って、ゆらめきながら方向も定まらず飛んでいく。
そこへ、ふらりと前島が現れた。にじるように三人に近づいてきて、伏し目がちに、
「看護婦さん」と小田ナースに声をかけた。
「なに」振り向いた小田ナースに前島は一瞬たじろいだが、ぎこちなく、
「あんたに話したいことがあるんだよ、ちょっとつき合ってくれないか」と言った。
秀一は当惑と猜疑の目で二人のやりとりを見ていたが、それを察したように小田ナースはサインを送ると、
「じゃ、ちょっと遊歩道にでも行こうかしら、先へ行ってて、すぐ追いつくから」と小田ナースは前島に言った。
「遊歩道でいいんだな、そいじゃ、まってるよ」前島はうつむいたまま一瞬目をギラリと光らせて小田ナースを見ると去っていった。。
「大丈夫かよ、あんな奴と」秀一は語りかけた。
「なに心配してんのよ、前島君はもともといい青年なのよ、それに心境の変化があったのかも知れないじゃない。この頃は、もう前のように君に絡まないし、心配ないって」小田ナースは微笑を浮かべると立ちあがった。
「そうかなーーーそうかも知れないな、あいつだって色々考える事があるだろうし、誰かに聞いてもらいたいことだってな」秀一はなんとなくうなずくと、二人をすねて見ている果穂に気づいて、
「ああ、ゴメン、紙ヒコーキどこいったっけ」と話しかけた。
「池の中へ落ちちゃった」果穂は池に浮かんでいる紙ヒコーキを指さした。
「また新しいのを作るから」そう言うと、秀一はノートの紙でヒコーキを折りだした。
それを見ていた小田ナースは、
「じゃ、行ってくるわね」と遊歩道へと歩いていった。
秀一は、一瞬よぎった不安―――前島のメスを見るような小田ナースへの視線―――が頭にこびりついて離れなかったが、果穂の相手をしているうちに
「まあ、取越し苦労かな」と呟いて、遠のいていく小田ナースを見送った。
小春日和の午後は、二人を包んで静かにまどろむように流れていった。すべてがいつものように、療養所全体が時間から解き放たれて。誰もかれもが砂糖水に浸っているようなぬるま湯の陽に包まれてーーー。
突然、悲鳴が響き渡った。山間深い遊歩道の方角からだった。秀一は、全身をハンマーで殴られたような衝撃を受けて、とっさに遊歩道へと駆けだした。果穂は、唖然として秀一の後ろ姿を見送り、そして手を指し伸ばしたが、指先は宙に浮いたまま途絶えた。
秀一は、山間深く続いている遊歩道を全力で突っ切っていった。そして時空間が停止したような山林の中へ、悲鳴の聞こえた辺りを小田ナースの名を呼びながら、やみくもに捜しまわった。その秀一の声の響き渡る雑木林の、遊歩道の、かたわらの茂みの中から、突然小田ナースがはいつくばって現れ出た。その姿はーーー血糊のべっとりついた制服をひきずりながら、引き裂かれた下着から乳房や太股をあらわにしている。そして全身を震わせながら、行場のない子供のように完全に狼狽しきっている「ようやく秀一の姿に気づくと、小田ナースは飛びつくように秀一に抱きついた。なにがなにやら判断できずに抱きとめて見つめている秀一に、
「あたし、どうしよう、どうーーーあんまりひどいからーーーだって私をメスみたいに扱ってーーーああ、どうしよう」小田ナースは慟哭しながら、とりとめもなく泣きむせんだ。秀一は、小田ナースの肩をしっかりとつかみ、
「一体どうしたっていうんだ。なにがあったんだ、前島はどこだ」と、その肩を揺すって見つめた。そして打たれたように、なにかに気づくと自分の着ていたジャンパーで小田ナースの背中をすっぽりと包みこんだ。小田ナースはそのジャンパーの襟をしっかりつかむと全身をわななかせたまま地面に座りこんだ。そしてオロオロと視線を定められずにいたが、やがて後ろにそらして、
「あそこよ」と自分の出てきた雑木林の茂みの方をさした。秀一が立ちあがって、その方へ行こうとするのを、小田ナースは足元から抱きすくめて、
「私が悪いんじゃないわ、彼が私を犯そうとしたのよ、無理矢理、まるでけだもののようにーーーそうよケモノよ」とヒステリックに叫んだ。秀一は全身に寒気を覚えながら、その手を振りほどき、雑木林の方へと入っていった。その閑散とした枯れ葉のジュータンを敷きつめた木々の間へと注意深く足をすべり込ませていった。程遠くない一本の大きな木立ちの影から全く動かない剥き出しの足が二本見える。秀一は息を殺しながら遠巻きに近寄っていった。そして、やはりそこにいたのは前島だった。頭部と口元から血がドクドクと流れており、ズボンもパンツもはいていない下半身剥き出しの姿で倒れていた。凶器らしい血糊のついた大きな石が、鈍い色をしてころがっている。秀一は足をガクガクと震わせながら、前島のかたわらに座りこんだ。そして恐る恐る自分の顔をその顔に近づけると、瞳孔が開き、呼吸が切れているのが感じられた。秀一の全身に突き抜けるような恐怖が走った。前島は死んでいたのである。秀一は自分のこわばった体を無理矢理動かして前島から離れ、意識をしっかりさせようと前方を凝視しながら、雑木林を抜けて小田ナースの方へと戻っていった。小田ナースは秀一が戻ってくるのも気づかずになにやら呟き続けている。
「私をレイプして、メスのように扱ってーーー私の献身は一体なんだったの、献身はーーー、こんな女として扱われるためのものだったのーーー犯そうとした時の、あの男の欲望のかたまりのような顔はなんだったのーーー私を見て、私の裸を見てニヤついていたわ、吐き気のするような顔をしてーーー」
秀一はそっと近づいて、その痛ましい姿を見かねて抱きすくめようとした。すると小田ナースは発作的に飛びのいてヒステリックに笑いだすと、
「私が殺したのよ、私がーーーどうせ死ぬ人間でしょ、殺したっておなじことよーーーハハハハハ」と唇を震わせた。小田ナースは完全に自分を失っていた。秀一は胸を引き裂かれるような耐えがたい気持ちに陥っていた。慟哭にむせび、全身をたゆませながら息をついている小田ナースを、どうしようもなく見つめながら、憐れみと人間に対する絶望的な言葉が脳裏で反芻するのをどうしようもなかった。
『これが人間を信じた結果なのかよ、これが、人間を信じた結果なのかよ』秀一自身も理解不能なカタストロフのただなかで、この場の惨状が、今まで育んできた人間への信頼を木端微塵に破壊していくのを感じていた。
秀一は、ともかく人を呼ぼうと立ち上がったとき、二人を見つめて身じろぎもせずに突っ立っている果穂に気がついた。どれだけの間、そしてどれだけの事を果穂は見つめていたのだろうか。その瞳は虚ろに開き唇はゆるみ、腕が小刻みに震えている。
「見ちゃだめだ」秀一は叫んだ。しかし、すでに果穂は、小田ナースの無残で赤裸々な姿を全身で受けとめていた。果穂の痙攣はしだいに全身へと拡がり、口から泡を吹き出して耐えきれぬ緊張の中で崩れ落ちるようにその場へと倒れこんだ。秀一は、なす術もなく癲癇の発作に襲われた果穂の姿を、そして小田ナースの姿を見つめているしかなかった。どうすればいいのかという叫びをかみしめて、魂が抜けていくような虚脱感に打ちのめされてしまった。そしてようやくやって来た『人々』の声が交錯し、足音やざわめきが耳や目を通り抜けていくただなかで、秀一は打ちのめされたまま、その場に座りこんでいた。群がり集まった『人々』や職員たちによって、事後の処理が喧騒の中で行われているその傍らで、秀一の空洞の感覚は、望遠レンズのような瞳と、今にも破裂しそうな鼓膜だけが動物としての機能を果たしていた。そこに誰にも注意を向けられないように『事務員』が木立ちにもたれて立っていた。彼はこの惨状を静かに見つめていたが、やがて批判するように口元を歪めた。まるでお前たちのヒュウマニズムのなれの果てはこんなものか、とでも言いたげに。そして、
『こんな時にオロオロして、それでもお前は男か』と秀一に一瞥を向けた。
小田ナースはナースたちに付き添われ足を引き摺りながら立ち去っていった。そして前島と果穂はタンカに乗せられ、毛布にくるめられて運ばれていった。
騒然とする病院では内部者による会議がすぐ持たれた。理事長の発案で、この一件を警察に通報するのを一日延ばしにすることになり、警察へは手をまわして『事務員』の方からトップに金を握らせることになった。
「俺が後始末かよ」と『事務員』はぼやいたがうなずくしかなかった。そしてこの事件がこの病院にとってどんな不利益をもたらすか病院幹部によって慎重な検討がなされた。秀一は、第一発見者として、また三人の共通の知り合いとして事情を細かく聞かれた。夕方ようやく解放された秀一は、果穂のいる集中治療室にかけつけた。
秀一はその夜、激しい発作の収まらぬままベッドに横たわって治療を受けている果穂の付き添いをしていた。酸素マスクをつけられた果穂は、ゼエゼエと洗い吐息を繰り返している。秀一はなす術もなく、この美しい精薄の少女を見つめながら、死ぬのを予感した。ナースたちが行き交い、担当医が三十分毎にこの集中治療室へ現れる。しきりに病状の経緯をたずねる秀一に担当医は、静かに肩に手を置いて、
「とにかく休みなさい」と答えるだけだった。
小田ナースは親しいナースに付き添われ、見守られて自分の部屋に拘置されていた。ドアの前と窓の外には自殺を警戒して、職員が交代で待機していた。秀一は小田ナースとの面会を謝絶されていた。前島の遺体は、ナース・ステーションの中の治療ベッドの上に横たえられてあった。証拠隠滅を防ぐため無残な姿そのままに、ただ上からシーツがかけられてあっただけだった。
時が夜の空白を刻んでいくその中で、秀一は果穂が命を引き止める事にすべてを託していた。人間が持つ美しさへの儚い憧憬を、果穂の命に託していたのである。それは、無残に打ち砕かれた人間性への信頼への最後の絆であった。秀一に残されたものは、もはや無垢な魂に生命の灯火がふたたび与えられることだけだったのである。
そうして時の緩慢な流れのなかで、秀一はめぐりめぐる様々の映像の中で色々のことを少しずつ理解していった。そして前島というどうしようもなく悲劇的な人間のことを思った。死という契機を叩きつけられ、家族に見捨てられ、ついには恋人にさえ去られ、すさんでいった人間のことを。死に至るまで魂の救済はなにもおこなわれず、単に女をモノにしたいという動物的な充足を得ようとして殺された人間を、そう、一人の人間の全く無意味な存在の否定を。
そして、また小田ナースのことを思った。あの優しさは、人を引き付けてやまないあの魅力は、確かに無償の愛だったといえる。しかしいくら身を守るためだとはいえ、衝動的であるにはせよ殺してしまうとは。そこには精神的な強さや豊かさの裏側にある暗いプライドがアングリと口をあけているようだった。そして、殺人者、それがどのように考慮されようと、そのレッテルを貼られた後の人生は、奈落に落ちていく暗澹としたものだろうと。
そう、無際限な映像と思考の交錯の中で、夜の空白は埋めつくされていく。そしてベッドの傍らでは夜の静寂の中で、果穂の息づかいが荒くなっていく。その憔悴していく果穂を見つめながら、秀一は最後の希望を断ち切られるのではないかという危惧にさいなまれ続けた。そして膝間づいて手を握りしめ、生まれて初めて祈りを捧げたのである。生あるものを生かし続ける存在があるものなら、この無垢な魂を救ってくれと。
しかし、秀一の祈りは虚しく、果穂の吐息はかぼそく途絶えがちになっていく。そうして、ついに待機していた担当医とナースたちによって緊急処置が施され、最後の人工呼吸が試みられたのである。しかし、やはりそれは儚い希望だった。担当医とナースたちが見守る中、果穂はその短く不幸な生涯を終えた。
そう、果穂は死んだのである。それと同時に、秀一の人間への最後の絆も途絶えた。秀一は果穂の美しく儚い横顔に白い布がかけられるのを虚ろな瞳で見ながら、静かに立ち上がりよろめきながら病室をでた。
秀一は、生への意味を全く失った自分を知った。『人生は生きるに値しない』と。『死だけがこの苦痛から解放してくれる』と。そして、廃墟と化した自分を抱いて、すべてのものから離れようと決意した。すでに冬の寒風が吹きすさぶなかを、秀一は死に場所を求めてこの療養所を去った。
第五章
追憶の痛みはなまめかしく流れ、ようやくフェードアウトした。あたかもこれまで通過した自分の歴史を、あらためて刻印するかのように。夜明け前の薄明の中で、秀一は自分の人生を恥じて、逃避者と傍観者でしかなかった、挫折した過去の自分を責めた。そして冴えた瞳で自分の弱さを見つめ、本来的な自分を求めた。全ては新生のために。
にわかに戸外の静けさが破られ、雷雲がたちこめ嵐の様相を呈してきた。生暖かい風が樹木の間を吹き抜け、辺りが暗くなっていく。風がうねり樹木はあおられて、大きく揺れ、そうけだってき、鳥たちが奇声をあげながら飛び立っていく。そうして大粒の雨がなぐるように降りだしたのである。
彼は窓と扉を開け放った。突風が吹きつけ、小屋の中は狂ったように全てのものが躍り上がった。彼は窓の桟を握りしめ、その切り裂くような風雨を浴びながら、荒れくれる原生林の雷雲に覆われた、夏の濁った空を見上げた。その瞳の記憶は、冷たく冴えた冬の空を浮かべていた。全てに絶望し、自殺を企図し、この原生林の雪の中をのたうっていた半年前の自分を。多くの人の死に打ちひしがれて、死にその救いを求めた哀れな寄るべない自分を。しかし、あの雪の中に埋もれ死に墜ちていこうとしていた自分を粉砕した生命力の強さを、今の秀一は体で感じていた。
雷鳴が響き渡り、閃光が太陽の隠れた空に切り裂くように走る。神羅万象が暴風雨の中で、その野生の鼓動を増幅させる。巨大な闇の中の生命。秀一は、この嵐の中で、全身がゾクゾクするような快感に浸っていった。恐怖と同時に自分の奥に眠っていた野生が目覚め、感覚が研ぎ澄まされて高揚してくるような。それは自然の狂気のようで、しかしそれなしには何ものも成立しえない、そんな生命力のもつ暗く重い、しかし純粋な姿だった。暴風雨は不意の来訪者のように現れ、森を呑みこみ、そして通りすぎていった。原生林の森を、この嵐が通り抜けたあとには、おびただしい雫が樹木の葉から果汁のように振りまかれ、日差しにきらめいた。そして徐々に森は静まり返っていった。鮮やかに、深く、そして密やかに。
秀一はベッドに横たわった。そして、嵐のあとの虚脱感のまま、しばらく眠りについた。やがて昼下がりの夏のうだった陽の中で目覚め、秀一はゆっくりと大きく息を吸いこんだ。そして、おもむろに立ちあがると、いつものように本棚の中から気の向く本を捜し出そうとした。しかし、時折訪れる感覚で、それらの本がひどくしらいだものに思われた。一冊一冊抜き出して眺めるそんな動作の中で、ふと手にしたハードカバーの本の傍らから一冊のノートが床に流れ落ちた。ノートの表紙には『日記帳』とかかれてあり、昭和五十三年十二月十一日よりと日付が記されてあった。
パラパラとめくると、空白の多い紙面の中に、二三行、時には五六行の走り書きが一ページごとに書かれてある。秀一はゆっくりとベッドに腰をおろすと、その変色して黄色味がかったノートを最初からめくりはじめた。
十二月十一日
雪原は輝かしい程に白い。ここで私の第二の人生が始まる。一人とはこんなにも快いものか、ここには金も物欲も淫らな欲望もない。なんと澄み切った平静さがあることだろう。感無量だ。
十二月十五日
家庭の人としての自分の役目は全うした。子供たちは独立し、妻は私の意志を尊重してくれた。これから私は自分のために生きられる。
十二月二十六日
会社勤めの頃の煩わしさが脳裏を横切っていく。定年まで勤め上げて一体なんだったのだろう。社会の連中は群畜だ、エゴイストの群れだ、そして私は、いわば変人だ。
一月十日
社会の成長の原動力は欲望と競争だろう。人よりもっといいものを、もっと富を、そしてブルジョアになるんだ。そう、みんなが欲望をたぎらせて、子供の頃から競争していくのだ。厳しい淘汰の中で生き残る者が、この社会の勝者になる。私は自らそんな社会をどうにかくぐり抜けた老人だ。
二月七日
話し相手がほしいと切実に思うことがある。孤独はまるで病気のように私の精神をめいらせる。これがエピクロスの園のように、仲間のいるコミューンならどれほどいいだろう。
二月十五日
やはり一人は、こたえる時がある。夜、焚火をして闇の気配を感じていると、獣の息づかいや恐怖が忍び寄ってくる。しかし、その自然こそが私を包んでくれる母なのだ。
二月末日
私のこの試みは失敗なのだろうか。しかし結論を出すのはまだ早い。
日付に意味はない。人為性による生活のリズムはいらない。夜明けと共に起き、日没とともに眠る。食物は飢えないだけあればいい。自然は大きなリズムをもっている。そう、春夏秋冬という、そして春が訪れた。輝かしい陽光よ。
読み進んでいく秀一は、大きく脈打つ血潮のように共感と受けつけがたい感情がまじりあっていく。日記帳の言葉は、認識をこえて、一つの存在として秀一に向かい合い、逃げられない拘束力をもちだした。
私は自然の静寂と胎動の中でまどろんでいる。ああ、至福の時よ。生を得て静かに生を送り、そして死ぬ。大地と自然とが私を抱いてくれている。
心の平和『アタラキシア』ギリシャの哲人エピクロスよ、あなたは私の父だ。私は幸せなのだろう、黄昏は美しい。あなたの目指したものは、まるで仏教が煩悩を捨て去れと説くかの如くだ。快楽とは苦痛がないということなのだろう。
『労働は人間における根源的な想像行為』であるはずなのに、誰も彼もが疲れきっている。まるで人間が人間に強いる暴力のように。
持病の血圧が思わしくない。吐き気、目眩、虚脱感―――
人間の血肉を売る過剰な労働が資本を膨らませていくのだ。会社のために生きる人間が社会から歓迎されるのももっともだろう。
美こそが人間の創造しうる至上のものだ。芸術とは人間の作り出した美なのだ。詩に溢れる叙情的な感性は、心を清めてくれる。そして私の周囲は、すなわちこの原生林は、美そのものに満ち溢れている。
秋の訪れだ。全てが無尽蔵の色彩に彩られている。夜になるとおびただしく星が降るほど空が近い。私は宇宙を感じる。大いなる存在よ。
やはり体の具合が思わしくない。冬を前にしてこの体の不調は生死にかかわる問題になりかねない。
人はなんで生きるのか、冬の冷気に晒されながらそう思う。
日記帳大分残して、この断片的な手記は終わっていた。秀一は叩きつけるようにそのノートを閉じた。隠遁生活者の精神に引きつけられるものを感じながらも、その精神の有り様を受け入れてはならない、否定すべき自分であることが確かにわかっていたのである。だが、それが言葉として発せられない。自分の望む自分をおぼろに感じながらも、それを明確にすることができずにいるのだった。秀一は憤りと精神の苛立ちをどうすることもできずに、燃焼している自分を抱きしめるしかなかった。そして、どうしようもない体の要求が、またしても彼を突き動かした。小屋の外へと駆け出し叫びまわったのである。
「俺はなんだ、俺は一体何者なんだ、俺は」
散乱した断片が一つにまとまっていく精神の深い融合のなかで。
「この苦痛はなんなんだ。地獄の底から呼びかけてくる声のような、まるで天空のはるか彼方から幻が立ち現れるような。自分の中の神聖さと、悪魔が、どちらかにしろと選択を迫るような、この顕現化すべき毒とも酒ともつかない俺の中のかたまりはなんなんだ」
彼は、この苦しみを希望の媚薬に託しながら、叫びころがりつづけた。
「俺はどこにいるんだ。どこに、この俺は」声が枯れても叫び続ける彼の中で、何かがふと沸きあがった。
「永遠、宇宙、安息」そのいくつかの言葉は彼の心を透明に引きつけた。
「星の近くへ、空の近くへ、大地を見おろせる所へーーー」無意識に呟き続ける秀一は、あるひらめきを得た。
彼は空を見つめるように遠くを見つめた。そこには原生林を芝生のように拡げてそそり立つ山があった。そう、頂には岩と土が露呈して褐色がかっている大いなる山が。
「あそこへ登ろう」彼は小屋に戻って靴を履き、冬場のヤッケを引っつかむと、原生林の中へと駆けだしていった。荒い吐息とたわむ足の筋肉、それだけが彼を浸す全てのものだった。原生林の中をとにかく上へと、傾斜を登りつづけていく彼は、何かを望んでいるのだが、そのイメージさえ浮かばない。そんなやみくもな足取りで登っているうちに、登山道へ出会わせた。彼は誘われるように、その登山道を登りつづけた。原生林を越え、その繁茂する枝葉が途切れたとき、眼下を見下ろすと、原生林は絨毯のように拡がっていた。上を見上げると山の頂上がかすかに望まれる。熊笹や高原植物の生い茂るよりいっそう険しい斜面を、彼はただひたむきに登っていった。日没は近かった。太陽がその一日の終焉を飾ろうと紅に輝き、大空を秀麗にそめて透明な空間が拡がっていた。はるか原生林の向こうに沈みゆく夕日は、まるで懐かしい憧れのように彼の心に沁みた。彼は傍らの岩に腰をおろすと、この光景に見入られ、ひととき忘我の感覚に浸った。それは確かに永遠を感じさせたのである。日没とともに一陣の風が吹き抜けたとき、秀一はある種の生存の恐怖にかられた。辺り一面に闇とスモッグ、そして冷気がたちこめだしたのである。彼は頂上を急いだ。膝から下は熊笹の露で濡れ、疲労と冷気でたわみ、ヤッケに身を包んだ上半身からは汗が吹き出しては冷たく乾いていく。そうして薄暗がりの中を登りつづけた彼は、頂上を見上げる傾斜面のゆるやかなふくらみに山小屋があるのを見いだした。おそらく登山者のためのものだろう。彼は最後の力をふりしぼると、その山小屋へと歩いていった。山小屋は無人だった。吹き抜けの二階建ての建物で、その中央が土間になっており、石造りの暖炉が置かれてある。彼は中へ入ると、辺りに見える燃えるものをかき集めて暖炉に火をともした。静寂と闇の中で、炎が舞い上がった。
彼は板張りの床に腰をおろすと、欄干にさらしてある毛布をひっつかみくるまった。全身が冷え、震えが止まらない。しかし、ようやく火と毛布の温もりが全身に沁みとおってき、そのまどろみの中で、彼はいつしか眠りにおちた。
目が覚めたとき、辺りは漆黒の闇だった。炎は燃え落ち、その残骸すらない。彼は起き上がると、何か不思議な力に誘われるように扉を開けた。
外へ出て空を仰いだ秀一は、声にならない溜息を洩らした。そこには、洪水のように星々が降り注ぎ、きらびやかに明滅し、生命のように生きづいていたのである。彼はなおも誘われるように歩みを進めた。そして、傍らの盛り上がった高山の草地の丘によじ登り、その斜面に身を投げ出した。そのまま刻印し、沈み込んでいくような大地との一体感、そして命の呼吸を許している。そこには闇と静寂と光のみだった。そして、それらは彼へと何かをもたらしていった。確かに時を超え、意識を超え、肉体を超えて。おびただしい星の洪水は、生命そのもののまま彼の存在に降り注ぎつづける。この大地への柔らかな埋没感の中で、彼は陶酔していた。「永遠、至福、安息」ひとりでに言葉が流れ出た。彼は宇宙という大いなる母体に抱かれていたのである。そのただなかで、感性のおもむくまま彼は全てを理解していった。瞬きつづける光が、彼の自我を照らし出したのである。そう、ついに彼は自らを知ったのである。カオスの苦しみは流れ出で、言葉が彼自身を表現していった。
「宇宙は偉大な存在の母体だ」
「人との共感には温もりがあるのではないか。一人は大きな欠如だし、虚しさのかたまりだ。人には愛がある、そして人間は意識を宿命として持った。言葉による拘束だ。人間は社会から逃げられない。むしろ思考し、社会の中で生きることを求めるべきだ」
「人間は危険な一つの賭けだ。戻ることも、そのままとどまっておくこともできない。ならば前へ進むんだ。生物としての人間が進化してきたように、より深く実存としての人間もまた進化しているのではないか。そう、それはそう、ただ危険な賭けをつづけるのだ」
「人間は、なにかに投企しつづけるべきなのだ。それがたとえなんでもいい。社会秩序からはみだしたものでさえいいだろう。俺がもっとも惹かれるものに投企すればいい。その一つは美だろう。人間が創り出した至上のものは、やはり美かもしれない。そのベースにある創造に身を置くのもいいだろう。それ以上に、俺は自分を解放するものに投企したい。そして多くの強いられることを『我欲す』のもとに引き受けよう。俺はそう意志する」
「豊かさとはバランスを保っていること。アンビバレンツを認識することだろう。狂気と陶酔の両極をしなるような鋼の強さで保つもの、それが豊かさではないか」
「苦痛は自分が癒さなければ永遠に俺をむしばみつづける。虚無という苦痛は俺をだまらせ落ちこませる。『心の平和』は、そこに虚無が入りこんでくる以上、精神と肉体を腐らせる。だが、ついに俺は知った。虚無から抜け出して満たされることを。生の躍動から生まれる陶酔という次元のあることを。俺の情動がうながすものを知り、忠実になることだ。そう『我欲す』という大いなる情動を知ったんだ。そして俺は、この陶酔を逃したくない」
中枢がコアが、宇宙の光と呼応して、宝石のように純化された一つの石のように、彼の存在を明確にしていったのである。それは体系だった緻密な思考ではないが、一つの明確なイメージを持って彼自身を表現する言葉に成長していた。彼は二度と同じことばを繰り返すことはできないが、リアルな現実に応える感覚の理解とイメージの創造を手に入れた。
「体で感じることが真実なのだと詩人は語った。エゴや意識の認識よりも、もっと深く自分を知っている者、それこそが自分そのものだと。その大いなる存在は、今、俺を包み込む宇宙と呼応している。体がまるで熱を帯びたような、むきだしの裸で光を浴びているような、無垢にもどるような」
「なにかが俺を動かそうとしている。俺の中の深い海が、全てを呑みこんでしまうほどの深い海が。そして、その無意識の海から沸いてくるものが、今までの自分には思いもよらなかった力を発揮して、俺の意志を超えて、なにかあるものに向かわせようとしている。集中し、誘導されていく自分を感じる。イメージとして俺に理解できるなにかが」
久遠の時を刻む星々の、その光が届くこの大地の頂上を包みこむ宇宙は、彼の心の闇に光が降り注ぐ小宇宙の顕現化した光景のようだった。
「この繰り返される毎日、どうしようもないジレンマと疲労と救いのなさ。それは死ぬまで続くのだ。自分を破棄することはできる。欲望の奈落へと落ちていき、酒と女に溺れるのも一つだろう。しかしだ、そこにもし意志があるのならば、欲望を肯定し、その自動的な回復装置の働く間『我欲す』のもとに、今日を受けようじゃないか。恐ろしい姿で現れる、この救いのない毎日を、あえて能動的に」そして彼はさらに声を高めた。
「俺は逃げた、全てから、自分からも、でももう逃げられない、逃げて死んでしまうほど、俺は弱くないんだということがわかってしまったのだから。そう、闘うんだ」
そうして最後に彼は、かみしめるように呟いた。
「俺は欠如のかたまりなんだ、だから満たされなくては」と。
その夜、彼は山小屋に戻って、毛布にくるまりながら眠った。何年かぶりに味わう、深い深い眠りだった。そして夜明けと共に目覚め、大地をしっかりと踏みしめて山を降りていった。それは新たな放浪だった。深い原生林の森を顧みず通り抜け、果てしなく続く道路をひた歩きに歩き、街をめざしてーーー。
明夫への手紙
前略、松田明夫様。もう大学は卒業したかい。俺から便りが来るなんて思いもしなかっただろう。俺は元気にしている、そっちはどうだい。俺はお前と別れてから、ずいぶんと長い間放浪をしていたんだよ、もしかしたら、お前と出会う前から俺の放浪は始まっていたんじゃないかとも思う。長い長い旅だった。とても人に言えないような、言っても伝わらないような。俺はあの頃とは変わってしまった、お前はどうだ。
今、俺は燃えているよ。昼間バイトをして、夜劇団で芝居をやっている。もう演劇の世界に飛びこんで二年もたっちまった。この前、演出家に「お前に才能なんかない、やめてしまえ」って怒鳴られたけど、俺は自分を通そうと思っている。そんなこと、この世界じゃありふれたことだから。劇団の連中は仲間ともいえるが、まあライバルたちだな。この二年間に何人やめていったろうか。舞台にあがって、お前は一体それがなんだっていうんだ、と思うかもしれないが、それはそれ、俺なりに理由にがあるんだよ。
人間ってのは鍛えれば強くなるんだな。俺にはクラブ活動の経験がないから、体はたいして強くないと思っていたんだよ。でも、こうやって毎日芝居をやってると、体がタイトになっていくんだ。それに、お前はヤバイ奴だって周りの連中からよく言われるよ。それがどういう意味なのかは、敢えてお前に説明しようとは思わないが、この世界で生きていくには、それが武器のなるようだ。
心ってのは不思議なもんだな、まさに自分の中心なのに自分じゃどうにもなりゃしない。分かりきっていることなのに、それが思うようにならない。現実が思うようにならないっていうのは当たり前だと思うけど、自分の心までどうにもならないなんてさ。そうして、俺は自分との闘いを繰り返してきたんだ、ようやく辿りついたのが今の生活だと思うよ。納得できるんだ、そう、舞台に立っているとき、俺の中を快感が通り抜けていく。一瞬の陶酔感、そいつが全てだと思える。
今度、劇団で『欲望という名の電車』って奴をやるんだよ。T・ウィリアムスの戯曲だ。俺もキャスティングされてある。脇役だけど、自分じゃ気に入っている役どころさ。チケットを二枚同封しておく、暇で気が向いたら観にきてくれ。
P・S
手紙は、宛先は郷里にしてあるが、お前に届くように走り書きをしておいた。では。