第4章 ナザレン施療院
1
結局のところ、ミュシアとセンルとシンクノアは、煉瓦町リムレアで年を越し、再びミッテルレガントへ向けて出発したのは、新年を迎えて七日ほどが過ぎてのことだった。
その間、ミュシアはターナと感動の再会を果たし、彼女の運営する治療院で、隔離病棟にいる結核患者たちを集中的に看病することにした。実際、のちにミュシアがナザレン施療院へ到着した時、リムレア治療院で経験したことが、おおいに役立つということにもなったのである。
「なんにしても、あんたが実在する人で、本当に良かったよ」
ターナはミュシアに出会い、ひとしきり涙を流して彼女と抱擁を交わしたのち、そんなことを言ったものだった。
「あの時、わたしの元にやって来たのは、てっきり天上の神が使わした天使か、エルフ界からやって来た妖精かと思われてならなかったからねえ。ほら、あんたの様子ときたら、あんまり世俗の垢にまみれてなくて、びっくりするくらいだったろ」
「そんな、おばさん……恥かしいです」
ミュシアにしても、今のターナの姿を見ていて、その生き生きとした様子に驚くほどだった。あの時確かにミュシアは、彼女のことをおばさんではなく、おばあさんというように感じていた――それというのも、ターナの姿があまりに生気がなく薄汚れており、やつれ果てているように見えたそのせいだったのかもしれない。
けれど今は、娘の元へ身を寄せたことが幸いしたのだろう。治療院を運営するという生き甲斐にも恵まれているせいか、彼女はミュシアが出会った当時より、何十歳も若返って見えるほどだった。
「でも、あの……どうしてもっと早くにこちらへ移って来ようとされなかったんですか?あの山小屋でひとり暮らされるより、お金があるかどうかは別として、娘さんとそのお婿さんと暮らされたほうが、ずっと良かったような気がするんですけど……」
ターナは首を振ると、台所で客をもてなすための料理に没頭している、娘のほうを振り返った。
「ミュシア、もしかしたらあんたにはわからないかもしれないけど、金があるかどうかっていうのは、実際とても大事なことなんだよ」
食堂には、細長いテーブルが置かれおり、そこにはウィルトーシャ織りと呼ばれる、精緻な模様を編みこんだ、レースの織物が敷かれていた。中央には銀の燭台の上に蜜蝋が掲げられ、あたりの闇を明るく照らしている。
室内は壁だけでなく、暖炉もまた煉瓦作りで、マーラの夫のオーガスが、職人としての自分の技のすべてをかけて作ったのであろうことが窺えた。この屋敷内には、客用の寝室が五つもあり、一介の煉瓦工が持つ家の水準としては、ありえないほどの広さを持っていたといっていい。ゆえに、近郊に住む人々はみな、この屋敷のことを「オーガスの赤煉瓦屋敷」と、親しみ、あるいは妬みをこめて呼んでいるほどだった。
「娘のマーラも、あんたがあたしに置いていった金でこの家を建てる前までは――共同住居に住んで、汗だくになって毎日働いてたんだよ。そこへ厄介な荷物でしかないババアがひとり、やって来れると思うかい?あたしがマーラの元へやって来る気になったのは、一重にミュシア、あんたがあたしに置いていったお金のお陰なんだよ。最初はね、いくら金があるからって、娘とその夫と一緒に住めるだなんて思わなかった。でもせめて近くに住めるといいなと思っていてね……ミュシア、わかるかい?あんたが置いていった金を初めて銀行なんてもんに預けに行った時、書類にサインするのに手が震えたよ。そのうちに、マーラとオーガスの暮らしがわたしが思ってた以上に苦労の多いもんだってことがわかって――土地を買って家を建て、一緒に住むっていうことにしたんだ。これもあれもみんな、うちにあるものは全部、あんたのものだって言ってもいいくらいなんだよ、ミュシア」
涙ぐんだ眼差しで、ぎゅっと手のひらを握りしめられ、ミュシアも胸が熱くなった。
センルとシンクノアは、そんなふたりの向かい側に座して、ただ黙って話に耳を傾けながら、料理の皿が運ばれてくるのを待っている。普段はメイドをひとり雇っているらしいのだが、たまたま今日は暇をとっているため、食事の下ごしらえは、マーラとターナのふたりが行うことになったらしい。
やがて、夕食の席には、派手に飾りつけられた七面鳥の丸焼きをメインディッシュに、サラダやマッシュポテト、雛鳥のゼリー寄せ、コンソメスープといった品が順に並べられていき、テーブルに皿がいっぱいになるまでそれが続いた。
「食後のデザートはプディングですから、お楽しみに!」
マーラはセンルの隣に腰かけると、何やかやと彼に話しかけていたが、ターナとミュシアは互いの話にあまりに夢中になっていたため、そんなふたりの様子については大して気にかけなかった。そのうちにターナが、シンクノアがひとり黙って食事をしていることに気づき、彼に対してあれやこれやと世話を焼きはじめる……そんな感じでデザートまで進んだ時、センルがふと、機会を捉えてクレイトン卿のことに初めて触れた。
「カルディナル王国のブリンク、エリメレク殿に、例の件についてはすでに連絡をとってあります。おそらくすぐに事態が好転することはないにしても――これで流血沙汰は避けられるのではないかというのが、私個人の考えです。ゆえに、労働組合のお仲間たちには、血気に逸らず、今暫く辛抱して待つように、あなたから説得してもらえませんか?」
「そうだね。ミュシアが煎じてくれたあの薬のお陰で、隔離病棟にいる患者たちもきっと良くなるだろうから……オーガスが元気になりさえすれば、他のみんなもオーガスの言うことだけは聞くんじゃないかと思うよ」
「本当に、一時はもうこの人は駄目なんじゃないかっていうくらい、容態の悪い時もあったんですよ。結核だなんてねえ、ほんとに……」
マーラが、エプロンの裾で、しきりと目尻の涙を拭う。
「でも本当に良かったですわ。すべてが丸く収まりそうで。クレイトン卿の奥方のモナさまは、お優しい方で、カルディナル王国の王様のお従妹でもあるんですもの。もし王様から一言、ここの煉瓦工場のことをお耳に入れてさえもらえたら――きっとなんとかなるんじゃないかしら。クレイトン卿はごうつく張りな領主として有名な方でも、唯一奥様にはお弱いっていう噂だから……」
「まあ、エリメレク殿がその路線で攻められるかどうかはわかりませんが、とにかく彼に任せておけば大丈夫だと思いますよ。なんといってもあの方は一筋縄ではいかぬ、策士ですからね」
そう言って不敵に微笑むセンルに対し、ターナは心強いものを感じた。最初に出会った時、ミュシアが男の格好をしているので驚いたが、今はその理由もわかるような気がしていた。また、彼女が本当は何者なのかについても……口にだして言うつもりはなかったにせよ、ターナにはわかっていたのである。ミュシアが間違いなく<姫巫女>当人なのだろうということが。
ゆえに、ミュシアたちがリムレアという町を去る時までに、隔離病棟の病人たち全員が全快したというわけではなくても――彼らのうちの多くが次期必ず良くなるだろうことをターナはなんの疑いもなく信じることが出来た。また、暴利を貪る横暴な工場長、オレインの天下が、もう間もなく終わるだろうということも……。
「本当は、治療院にいる人みんなが良くなるまで、見届けたかったんですけど……」
ミュシアはセンルに誕生日プレゼントとしてもらった、漆塗りの箱に、一枚だけ金銀の葉の残った<神葉樹の枝>を収めながら、そんなことをぽつりと呟いていた。
「老婆心から言わせてもらうならな、ミュシア」と、センルは宿場町ごとにある貸し馬屋で借りた、鹿毛に飛び乗りつつ言った。シンクノアは、あまり見た目のパッとしない粕毛の馬を選び、それに跨っている。
「仮に<神>とやらが、人間のためにあれもこれもどれもそれも面倒を見るとしたら――それは人間自身のためにあまり良くないことだというふうに思わんか?ミュシア、おまえは時間の許す限り、出来るだけのことをした。あとのことはターナやマーラやオーガス、あるいは他の人々の力を信じて、任せておけばいいんだ。次期、エリメレク殿から連絡が入って、あの方がどんな手を打ったのかがわかるだろう……そしたらいの一番におまえに教えてやる」
「はい。でもセンルさん……一言だけ言ってもいいですか?」
ディアトレドに跨ったミュシアを左右から守るように、彼女の右手にセンルは馬を進め、シンクノアは左後方を灰色の馬で進んでいった。ここから次の宿場町までは三十エリオンもないが、その町はほぼ無視するような形で、夕方までに一行は百エリオン以上走破する予定であった。リムレアの町での滞在が思った以上に長引いたため、先を急がねばならない。
「あの……センルさんは、神に祈ってそれが何になるんだって言うけれど、わたし、ターナおばさんと再会して、初めて気づいたことがあるんです。祈りっていうのはたぶん、<種>みたいなものなんだって」
「<種>?」
ミュシアはセンルの機嫌がまた悪くなるのではと気遣い、またシンクノアも後ろのほうで、雰囲気がまずい方向へ流れた場合に備え、その際には適当に茶化そうと身構えている。だが、この時ばかりはセンルも、もはや不機嫌になるということはなかった。
「わたし、あのあとあのおばあさん……いえ、ターナおばさんがどうなったかと思って、ずっと彼女のためにお祈りしていました。心の中ではもう二度と会うことはないだろうと思いながらも……でも本当に、おばさんが初めて会った時以上に幸せになっていて、嬉しかったんです。それどころか、あの時に置いていったお金を元に、治療院まで開いていて……わたしはたぶん、ただおばさんのために、種を一粒播いただけだったと思うんです。でも、それをおばさん自身が活かして、大きな花が咲くくらいに育ててくれたっていうか……うまく言えないけれど、わたしにとって神さまに祈るっていうのは、そういうことなんです」
「ふむ」と、センルは少しの間考え深げに目を閉じていた。それから、こう答える。「おまえのその論理でいくと、湯治町リディマにいた、あの賭博好きのインチキ神父はどうなる?ミュシア、おまえの授けたヒソプの枝で、今ごろ前以上に大金を儲けているかもしれん。それでもおまえは、あれはあれで良かったと、そう結論づけるか?」
「えっと、わたしはあのおじさんはきっと、今ごろ心を入れ替えて、本当に心から神さまの名において癒しの業を行ってくださっていると、そう信じます。でも、もしセンルさんの言うとおりだとしても……それはそれで仕方のないことなのかもしれません。その場合には、わたしの播いた祈りの種が実を結ばなかったという、そういうことなんですから」
「そうか。なるほど……」
シンクノアは、センルが不機嫌になるでもなく、珍しくミュシアの言った説明に満足したらしいと、彼の理知的な横顔を見ながら思った。それはミュシアも同じだったらしく、彼女はどこかほっとしたような表情を顔に浮かべている。
「なんにしても、先を急がなくてはな。無駄話をしている暇はないぞ」
そう言ってセンルは、自分の乗る鹿毛と、シンクノアの青粕毛、それにディアトレドとに、<加速>の呪文をかけた。これは一種の筋肉強化の魔法でもあり、馬たちはそれぞれ、自分の身内に精力的な力が漲ってくるのを感じると、エシュタリオン街道を一目散に駆けだしていった。センルのこの呪文のお陰で、一行はその日の夕方までに楽に百二十エリオンほどの距離を走破することが出来たといっていい。ただし、この呪文は魔法の効果が切れたのちに、馬に多大な疲労のかかる呪文でもあった(ちなみにこれは、人間にかけた場合も同じである)。ゆえに、センルとシンクノアは宿場町ごとに存在する貸し馬屋に一レーテル支払っては馬を乗り換える必要があったが、ディアトレドにはセンルの魔法に耐えるだけの力が最初から備わっているようであった。
(試しにと思ったが、やはりそうか)
リムレアの町を出る時に、再びわずかばかりディアトレドの角が成長しているのを見て、センルは並の馬などよりよほど、魔法に対する耐久性がおそらくあるだろうと直感していた。その読みが当たって嬉しい反面、やはり人間のほうが先に馬の速さについていけなくなるというのは、いかんともしがたく――その日到着した宿場町では、三人とも旅籠ですぐ眠りに落ちるという体たらくではあった。
やがて、ミッテルレガントとの国境のオレガント峠を越え、一行はミッテルレガント領内へと入り、そこから次の宿場町にある両替商で、貨幣をレガント金貨に替えた。ミッテルレガントでおもに流通しているのは、レガント銅貨にレガント銀貨、それにレガント金貨の三種類のみである。どの貨幣にも、表にミッテルレガント王国の祖と言われる伝説の魔導騎士の顔が彫りこまれ、裏にはミッテルレガントの国旗でもある獅子の顔が刻まれている(ちなみに、ミッテルレガントの国旗に獅子が使われているのは、ミッテルレガントの初代国王ロムレス=ミッテルレガントが、姫巫女を守るために素手で黄金の獅子を絞め殺したという伝説に基づくものらしい)。
センルもシンクノアも、ミッテルレガント王国へ来るのはこれが初めてではなかったため――さして新鮮な驚きのようなものはなかったが、ミュシアは何か真新しい感銘のようなものを受けたようだった。
ミッテルレガントの領内に入って以来、どこの宿場町も碁盤の目のように区画がきちっとしており、店はどこもまるで定規で計ったように並びが一緒であった。つまり、法律で金細工職人がギルドを構えていい位置、鍛冶屋が店を構えていい場所などが決められているために――自然どの町でも、そのように一目でわかる店並びとなるのであった。
「なんだか、すごいですね。初めてミッテルレガントへ来たわたしでも……町を五つか六つも見れば、大体どこにどんな店があるのかがわかる気がします」
「まあなあ……俺も最初に来た時にはある意味便利だっていう気がしたけど、長くいるとどこも似たりよったりの町ばっかで、そのうち飽きてくるんだよな。なんかこう、空間に遊びがないっていうかさ。その点カーディルの城下町は良かったよ。変なところに袋小路の行きどまりがあったりとか、隠れた名店みたいなところが、意外な場所にあったりしてさ」
「確かにな」と、センルがシンクノアに相槌を打つ。「革なめし職人の店からは産業廃棄物がでるし、鍛冶屋はうるさいといったような理由から、ひとつの場所にそいつらをまとめてしまおうといった意図があるのはわかるが……そもそもミッテルレガントではギルドに加盟しない限り、どんな個人も商売が出来ないことになってるからな。自由競争力を高めるためとかなんとか、表向きはそういうことになっているようだが、あれもいいことなのかどうか、私にはよくわからん。それとミュシア、シンクノアはともかく、おまえに限って公共の場にゴミを捨てるようなことはないと思うが――ミッテルレガントのどの町でも、それをやってしまうと罰金を取られるか逮捕されるかのいずれかだからな。一応、気をつけておけ」
「あと、公共の場でトイレ使う場合にも、金かかるんだよな。一回につき、一レガント銅貨。結構痛いよな、あれ……俺、この国に来るたびに思うぜ。一レガント銅貨より低い貨幣単位がなんでねーのかなって。それと、聖書に書かれてあることは別として、この国を見る限り、姫巫女がなんでふたりとも聖竜の盾の守護者を振ったのかってのも、よくわかる気がする。なんか、やたら金にうるさいっていうか、何かにつけ細かい男ってゆーかな」
「べつに過去の姫巫女はふたりとも、聖竜の盾の守護者を振ったわけじゃないですよ、シンクノア」と、ミュシアはくすりと笑って言った。「単に、どちらの方のことも、最初から最後までそういう対象としては見ていなかったという、それだけだったんだと思います」
「そうかねえ……ま、なんにしてもミュシアにとってのアスラン王子はそうなんだってのはわかる気がするよ。どっかの誰かさんが嫉妬する必要もないくらいさ」
「誰が誰に嫉妬してるって?」
ミュシアがどう答えていいかわからず、黙りこむのを見て、センルは怒るでもなくそう切り返した。
「なんにしても、あの方が<姫巫女>の後援者になってくれたことで、私は自分の財布がこれ以上痛まなくて良かったと思っているがな。これから我々の向かうナザレンという町は、上ナザレンと下ナザレンとに分かれていて――ナザレン施療院というのは、下ナザレンのほうに位置している。上ナザレンというのは富裕層の市民が多いんだが、下ナザレンのほうには貧しい市民ばかりが暮らしているというのは有名な話だ。<蝕>という病いが発生したのは下ナザレンからだとは、断定できないらしいんだが……とにかく、王都ミガレントにある中央議会では、とりあえず施療院を下ナザレンに作り、厄介な傷病者はみなそこへ放りこんでしまおうと決定したんだな。以来、近郊にある町々や村々から、<蝕>という病いに認定された者は全員、厄介払いとばかりそこへ送りこまれるというシステムが確立したらしい。当然のことながら、下ナザレンというのは治安は悪いし、上ナザレンで強盗や犯罪が起きると必ず下ナザレンの人間のせいにされることから――その市民性のほうも自然、卑屈なものになっていかざるをえなかったという話だ。ミュシア、おまえがこれから行こうとしているのは、そういう場所だぞ?それでも行くのか?」
センルはミュシアの答えなど聞かずとも、彼女がどう答えるのかはよくわかっていた。
「はい。神さまが<行け>とおっしゃるのですから、行かなくてはなりません」
「……………」
シンクノアとセンルは、この時珍しく同時に顔を見合わせていた。互いに、相手がおそらく自分と同じことを思っているに違いないことを、眼差しだけで確認しあう。
以前までのセンルであれば、その<神>とやらと、祈りを通してどうコンタクトをとるのかだとか、それが何故<神の言葉>だと断定できるのかといったことを、ミュシアに突き詰めて質問していたに違いない。
けれど、今は――センルにもシンクノアにもわかっていた。自分たちはただ、<姫巫女>が神がそうせよとか、ああせよと言った言葉に従う姿にならい、ただ同じように従いつつ、彼女のことを守ればいいのだということが……ただし、センルに関してのみ言えば、彼は<姫巫女>であるミュシアの言う言葉を信じているのであって、<神>のことを同じように全面的に信用しているわけではなかった。<神>はどんな信仰深い者ですら、裏切ることがある、というのは、センルの譲れない信条だったからである。
なんにしても、オレガント峠を越えて、最初の宿場町――ハイディンにようやく辿り着いたとはいえ、ここからミッテルレガント王国の王都ミガレントまでは、約二千エリオン近い距離がまだ残っていた。ここまでの旅で、約半分ほどの旅程を消化したという計算になるだろうか。ミュシアとセンルとシンクノアの三人は、カルディナル王国領を通過していた時とは違い、大体のところ似た雰囲気の宿場町を次々と通過していき、とにかく先を急いだ。
おそらく、センルの加速魔法にも慣れ、ミュシア自身ディアトレドに長く騎乗していても次第に疲れを覚えなくなっていったせいだろう――ミッテルレガント領に入ってからは、旅の足が以前以上に速く進むようになったとミュシアは感じていた。
もっとも、あとになってから彼女は、それこそが一角獣という生き物の持つ不思議な力なのだということに、気づくことになるのだけれど。
2
ナザレン施療院は、それまでミュシアが見てきたどの町や村の救貧院よりも、うらぶれているような雰囲気の場所だった。
上ナザレンの人間が軽蔑する下ナザレンの、さらにその下ナザレンの人間ですら唾棄するゴミ捨て場の近く――それがナザレン施療院の建っている場所であり、施療院とは名ばかりの、文字通り捨てられた孤島のようなところだった。
上ナザレンと下ナザレンとを隔てる、ソリス川という大きな川があるのだが、この川はやがて上ナザレンと下ナザレンの西の外れで、南に下っていく……またその川辺は下ナザレンの人々の洗濯場や憩いの場所ともなっており、さらに南下したあたりで、川の間に<浮島>と呼ばれる大きな中州が見えるようになる。
ここには以前、下ナザレンの罪人がまとめて収容されていた刑務所があり、受刑者があまりに増えすぎて場所を移転せざるを得なくなったのち、人々が自然この島にゴミを捨てるようになったという場所であった。
ナザレン施療院というのはつまり、元はその刑務所だった場所を、少しばかり体裁よく改造したという、貧民窟よりも衛生状態が悪いところに最初から建てられていたといって良かっただろう。
シンクノアは赤い瞳を有していることから、何かと因縁を吹っかけられ、リンチにあう危険性があったため、センルは彼にこのまま上ナザレンを抜けて真っ直ぐ王都へ向かえと指示した。魔法をかけてハヤブサを捕え、そのハヤブサの足につけた書簡に、<姫巫女>が無事王都の近くまでやって来たこと、数日中にナザレン入りすることなどについては、すでに申し伝えてあった。その中に、マゴクのことを心温かく迎え、また彼と彼の剣匠であるリキエルを出会わせてやって欲しいとも、センルは慇懃なほど丁寧な文面によって書き記しておいたのである。
「どうした?いざとなったら、怖くなったか?」
濃紺のマントをばさりと広げ、その中に匿うようにミュシアのことを抱きながら、センルはそう聞いた。シンクノアと別れたのち、下ナザレンで一応はもっとも格が上なのであろう宿を出てからというもの、ふたりは数人のごろつきに尾けられていたのである。
ミュシアとセンルの身に着けているものからして、それらを剥ぎとれば、そこそこの金になる……後ろにいる五~六人の男たちがそう踏んでいるらしいのは、明白だった。ただし、彼らにとって不幸だったのは、人を見抜く目がなかったことだろうか。
あまり繁盛しているとは思えぬ店の前をいくつか通り過ぎると、人が住まなくなった廃墟跡にミュシアとセンルは出た。<鷹の目強盗団>と自称している、実質無職の男たちは、町に上ナザレンの者、あるいはよそからの流れ者がやって来るたびに――似たようなことを何十回となく繰り返してきたのであろう。互いにちょっとした身ぶりによってそれぞれの配置につくと、早速とばかりセンルとミュシアのことを取り囲んだ。
「へへっ。格好いいなあ、兄ちゃん……その顔で、一体何人の女をたぶらかした?俺たち、今財布の中がカラッケツでなあ。娼館に行く金もねえって有様よ。良かったら、ちっとばかし都合してくんねえか?出来れば、六人分」
「それで、六人の女を買うのに、いくらかかる?」
センルは、マントの下に隠れているミュシアの肩を、ぎゅっと握りしめながら男たちにそう聞いた。こうした汚れた俗人どもの会話というのは、進んでミュシアに聞かせたいような内容ではない……かといって、彼女の耳に<沈黙>の魔法をかけている時間も、センルにはなかった。
「そうだなあ。俺たちが夢の楽園、上ナザレンの娼婦に相手してもらうには、ひとりにつきレガント金貨二百枚は必要かもな。向こうじゃ娼婦ですら、俺たち下ナザレンの人間にはお高くとまってやがる……だからこの間、向こうから来た女をひとり、俺たち六人で相手してやったよ。言ってる意味、わかるだろ、あ?」
「つまり、短くまとめると、おまえたちは六人いる。六×レガント金貨二百枚=合計千二百レガント金貨が必要だという、そういう話か?」
「随分物分かりがいいようだが……そんな金、てめえの一体どこにあるっ!!」
鷹揚なセンルの態度に痺れを切らしたのか、強盗一味のリーダー格らしい男が、腰から剣を引き抜いた。それを合図とするように、他の手下たちもナイフや広刃の長剣など、思い思いの武器を手にとった。
「せ、センルさ……っ!!」
身長が軽く二エートルを越す男が、最初にセンルに向けて切りつけてきた。ギィン、と青い火花が散り、センルが右手で持った魔石の杖でそれを受け止める。
次の瞬間、大男の手からは、広刃の長剣がポトリと落ちていた。おそらく、まわりにいた人間の目には誰も、何が起きたのかまるでわからなかったに違いない。
「ぐ、ぐおっ……!!」
男が涙目になりながら、剣を持っていた右手を、左の手で必死に握りしめる。
「おまえらのような知能の足りない馬鹿どもは知らんかもしれんが……この世界には、鋼よりも硬い物質が存在する。たとえば、竜の鱗とか、ジルコンドという鉱石などがそれだ」
残りの五人の追いはぎは、センルが樫の杖に物質変換の魔法をかけたと知る由もなく――一味の中で一番の巨体を有した仲間が倒れるのを見、一様に動揺していた。
「く、くそっ……!!こんな、見てくれだけの優男っ!!」
ネズミに似た顔の、浅黒い肌の男が、気が狂ったようにナイフを振り回す。だが、センルはただ冷静に事に対処すべく、男の足に<拘束>の呪文をかけた。途端、男は何もない場所でつんのめり、顔を土埃の中へ埋める結果となる。
「な、なんだ、こいつ……!!気味が悪リィぞっ!!」
最初にセンルに話しかけた、リーダー格の男が、(おまえ行け)というように、右の手下に合図を送り、そいつが金縛りにあったように動かないのを見ると、今度は左の手下に(じゃあ、おまえはどうだ?)というように合図する。
だが、<鷹の目強盗団>のメンバーのうち、ふたりの男は文字通り、センルの魔法により金縛りにあっていた。リーダーの顔に傷のある男は、やがて仲間の様子がおかしいと気づき、残りの部下ひとりに目をやったが――彼もまた、急な睡魔に襲われたように昏倒しているといった有様だった。
「さてと、残りはおまえひとりか。まあ、せいぜい、追ってきたくば追ってくるがいい。おまえにそれが出来るならな」
さあ、行くぞ、というように、センルはミュシアの肩をもう一度抱いた。<鷹の目強盗団>のリーダーは、センルの無防備な背中に向け、腰の剣を振るおうと猛然と襲いかかろうとする。だが、彼もまたやはりどこかおかしかった。つまり、一秒の間に手が一ミリほどしか、上に持ち上がらないのである。
これは、センルが馬の足にかけた<加速>の呪文とは逆の、<減速>の魔法であった。男はこの魔法の効果が切れるまで、おそろしくのろい動作でしか、動くということが出来ない。そしてそれが、男に対し「追ってきたくば追ってくるがいい」とセンルが自信ありげに述べた、何よりの理由だった。
「あ、あの……センルさん、今のは………」
「まあ、ちょっとした魔法の初級呪文といったところだ。物質変換の魔法は別だが、それ以外のものは、魔導院の中等科か高等科で教えているようなものばかりだな。もっと手荒い攻撃魔法を使って奴らをとっちめても良かったが、ミュシア、おまえがそんなことは望むまいと思ったから、適度に加減しておいた」
「そう、ですか。ありがとうございます」
(あんなザコどもに、火球や雷撃の呪文を使ったり、あるいは氷魔を召喚するなど、魔力の無駄というものだ)というのがセンルの本音ではあったが、その部分はミュシアに黙っておく。
あんな強盗のような連中にも、「そうならざるをえなかった理由」とやらがあり、彼らが悪いのではなく、彼らを養った貧しさが悪に走った原因だのなんだの……ミュシアが自分に対して並べそうな御託なら、センルは即座に百も思いついた。
ゆえに、ミュシアから文句が出ない程度に、地味な呪文のみによって片をつけるということにしたのである。
「さて、と。<蝕>という病いが伝染性だという噂が本当かどうかはわからんが、<浮島>近くの町並みがすべて、ほとんど無人になっている光景を見る限り――少なくとも、人々がその噂を恐れているということだけは、本当らしいな」
「そうですね……」
いざとなれば、今のようにセンルに守ってもらうしかないのに、<神>について色々と偉そうなことを言ってしまったことを思いだし、ミュシアは自然言葉数が少なくなった。もちろん、今出会った強盗団のように、この近辺の人々の心は荒みきっているのだろうということも、ミュシアの心を重くしていたのだけれど。
「どうした、元気をだせ。この橋を渡った向こうにあるのが、例のナザレン施療院だ」
センルはミュシアのことを励ますように、彼女の肩を抱いて、その元は白かったのであろう、薄汚いだけでなくヒビ割れも入っている白亜の橋を、ゆっくり渡っていった。橋は短く、またその下を流れる川も急ではなかったが、ミュシアの足は素早く進んでいかなかった。
まだ建物から遠く離れているにも関わらず、橋を渡っている途中からでさえ、異臭の漂ってくるのがわかったからである。
「きゃあっ!!」
むにり、と何か柔らかい感触をブーツの裏に感じ、ミュシアは思わずセンルに抱きついていた。
「馬のフンか。やれやれ。ミュシア、神に感謝するといい。冬でもこれだけ臭うからには……夏場になったらおそらく、発狂しそうになるぞ。それがどんなに徳の高い、お素晴らしい神官さまであったとしてもな」
ミュシアは地面に足をこすりつけ、ブーツの裏から必死に馬糞をこそげ落とそうとしている。この時ミュシアは不思議と、センルがいつもと同じ嫌味を言っているようには感じなかった。というより、今が真夏でなくてよかったと、本気で心から神に感謝したい気持ちでいっぱいだったのである。
橋を渡りきり、さほども行かぬところにナザレン治療院は建っていた。元は刑務所だったというとおり、壁は灰色で、陰気なオーラが建物全体からは放たれている。
「ごめんください……」
あまりにひっそりとしていて、ミュシアは最初、本当に人がいるのかと疑いたくなるほどだったが、玄関の薄暗い通路に、仰向けになっている患者がおり、ミュシアは危うく彼の体を踏みそうになっていた。
「大丈夫か、ミュシア?」
前につんのめったミュシアの腕をつかみ、センルが支える。
「は、はい……」
ミュシアは通路に倒れている患者に、何か一声かけようと思ったが、言葉が喉の奥から出てこなかった。そのくらい、彼は陰惨な様子をしており、顔の半分は包帯に包まれ、もう片方の目は瞬きするでもなく、空中をじっと凝視している。
「アポリネール、アポリネール……」
その中年の男は、黄ばんだ包帯に包まれた手を差しだし、何かを訴えかけるように、そう呟いた。だが、やがて手を持ち上げているのが億劫になると、再び死んだように横たわっただけの状態になる。
「アポリネールっていうのは、ティヴリス語で、「帰りたい」っていう意味だ。ミュシア、おまえ、ルーシュの指環を持っていたろう?もしかしたら中には、聖五王国でない国からここへ流れついて病気になった者もいるのかもしれん。そういう時には指環をはめて話をするといいだろう」
「はい。センルさん……」
またミュシアは、「あの男はおそらく船乗りだな」と、センルが中年の男の職業まで言い当てるのを聞いて、驚いていた。
「ティヴリスから、サフィニア海を渡ってミガレントまでやって来る船は多い。<蝕>という病いが今のところ、ミッテルレガントのみで発生していることを考えると……外から誰かが病原菌を運んできたというよりも、あの男は運悪くこちらで荷を下ろして休んでいる時に、あの病いにかかったんだろう。気の毒なことだ」
「……………」
今さらなことではあるのだが、ミュシアはセンルのこの一言で、あらためて自分がいかに世間知らずの小娘であるかを思い知っていた。また、世事に通じているセンルのことが羨ましくさえあったが、今は落ちこんでいる時ではなく、<姫巫女>としてなすべきことをなさなくてはと、そう気を取り直す。
以前は牢屋として使用されていた場所には、一部屋につき十人以上もの人間が鮨詰め状態で横たえられていた。刑務所の独房として使われていた場所や、死刑囚の囚人に刑を執行していた区画には、またさらに別の隔離が必要な病人たちが集められている……疥癬などの明らかな伝染病を持つ者、あるいは精神の病いなどで手に負えない重病患者などがそれだった。
センルとミュシアは一通り病院内を見てまわったあと――「軽く千人は病人がいるな」、「最低でも千人は患者がいますね」と、溜息とともに、互いに呟きあっていた。
途中、薄汚れてはいるが、白い介護服を着ている女性を見つけ、センルがここの責任者の名前を聞くと、「Dr.ロイスのことですか?」と、ぶっきらぼうな返事が返ってきた。そしてミュシアとセンルがそのロイス博士のことを探しだしてみると、彼は胸も悪くなるような、<蝕>という病いの治療中だったのである。
「あ、あの、わたし……この病気を治すために……」
ミュシアはロイス博士が<瀉血>――つまりは、体内に宿る悪い血が<蝕>という病いを進行させると信じられていた――しているその横から、勇気をだしてなんとか話しかけようとした。だが、若い男が口にさるぐつわをかませられ、目を見開いて唸る様子に度肝を抜かれるあまり、途中で言葉を失ってしまう。
「一体なんだ、この邪魔な小娘は……誰か、その女を外へ連れださんか」
「はい。Dr.ロイス」
どこか機械的な声音で看護婦が言い、有無を言わせずミュシアのことを治療室の外へ連れだそうとする。流石にセンルも、今この場でロイス博士に何か意見しようという気にはなれなかった。
「ま、待ってくださいっ!!こんなことをしていても、この病気は治りませんっ!!わたしは特効薬のようなものを持っていて……」
硬い木の手術台に横たわる、若い男の体がびくんびくんと痙攣したように跳ねはじめた。治療室にいた他の看護婦ふたりが、慌てて男の手足を抑えたり、拘束具の緩みを直したりしはじめる。
ロイス博士はミュシアの言葉に耳を貸すでもなく、今度は注射針に薬液を浸すと、なんの慈悲も持っていないかのような手つきで、ブスリと男の肩にそれを刺していた。
「特効薬だと?なんの話かね?」
そんな与太話に興味などない、というように、ロイス博士は冷たく言い放つ。
Dr.ロイスは、短く刈り込んだ黒い髪に、左右それぞれ異なる瞳の色をした、壮年の医術士だった。若い頃には、少しばかり魔導の道を噛んだこともあったのだが、自分にその種の才能がないとわかると、異国の(というのは、聖五王国以外の国という意味)呪術士に技を習うようになり、それがいい金になるとわかってからは、腕利きの医術士と自称するようになったという、そのような経歴の持ち主であった。
「えっと、あの、神さまが病気の治る葉っぱをくださって……それで、それを使えば……」
ロイス博士は、オッドアイの瞳をぐるりと回すと「誰か、この気違いを外に連れだせ」というように、看護婦たちに合図する。診療台の上の男はすでに意識を失っており、ふたりの看護婦は左右からミュシアの腕をとると、手術室から追いだそうとした。
「ミッテルレガント王国のアスラン王子より、優秀な医療者が来るという話を、聞いておられませんか?」
センルがDr.ロイスにそう問いかけると、ロイス博士のぐるりとした視線が、今度はセンルの前で止まる。
「ああ、そういえば……そんな話を聞いたような気もしますな。なんでも、ここのクズどもに献身的な介護を施してくれるとかなんとか、そんな寝言を聞いたような記憶がある。悪いが、この<蝕>という病いに特効薬なんぞ存在しませんよ。わたしはその昔、船医をしていたことがあるが、体のどこかに原因不明の瘤が出来たり、伝染性の皮膚病が生じたような場合には、まずは患部の肉をごっそりこそげおとしたもんです。そしてそれでもまた新たに盛り上がってきた肉に同じ症状が現れた場合は――その患部の根元から切り落とすっていうのが一般的な治療法でね。言うなればこの<蝕>も同じですよ。ただ、この病気の厄介な点は、右手が腐ってきたから、右手首を切り落とせばいいってものじゃないってことです。不思議なことには、そうしたらそうしたで今度は、体のどこかが同じように腐ってきはじめるんですな。それがこの病気が一度罹ったら決して治らないと言われている所以です」
「あの、<蝕>という病いは、らい病に似ていると聞いていたのですが……」
ミュシアがそう言葉を差し挟むなり、Dr.ロイスはいかにも馬鹿にしたように、「ハッ」と鼻で笑った。
「わたしに言わせれば、この<蝕>に比べれば、らい病などまだしも可愛い病気ですよ。おそらくあなた方はミッテルレガントの人ではありませんな……遠くの国に、この恐ろしい奇病がどう言い伝えられているかは知りませんが、この<蝕>は別名<腐蝕病>――体が徐々に腐っていき、やがて患者は断末魔の苦しみとともに息を引き取ります。医術士のわたしに出来るのはせいぜいが、こうして悪い血をメスで抜くことと、あるいは苦しみの極地にある患者たちに麻薬をあてがうという、その二種類くらいしかありません」
「この病気は、その……どのくらいの確率で伝染するものなんですか?」
今度はセンルが聞いた。彼自身にはエルフの血が流れているため、滅多なことで人間と同じ病気に罹ることはまずない。だが、センルはミュシアの身を案じてそう聞いたのである。
「まあ、あなた方がわたしの言葉を信じるかどうかはわかりませんが」Dr.ロイスはセンルの発言を自己保身と感じたのであろう、大仰に肩を竦めている。「この病気に関しては存外、感染率は低いのではないかというのが、わたし個人の結論ですな。だったら何故この病院には千人もの患者がいるんだと、そう不思議に思われるかもしれませんが……今のところ、ミッテルレガント中に<蝕>の専門病院というのは、ここしかないからですよ。それと、<蝕>ではないが、この機会に厄介払いとばかり、放り込まれた患者が多数存在する。ですが、この<蝕>という病気の患者とそうでない患者とをいちいち分けている余裕が我々にはありませんでな。そこで全員いっしょくたの生活を送らせていたところ、偶然ではありますが、<蝕>というこの病気は伝染性が低いということがわかりました。何故といって、<蝕>でない別の疾患を抱える患者に、この病気が移ったケースはほとんどありませんでしたからな。いても、五~六人、また我々介護者からもひとりだけ犠牲者が出ましたが、その程度の感染率であると考えていただいて結構でしょう」
「なるほど……」
ふたりの中年の看護婦が、男が気を失っている間に手足の包帯をほどき、黄ばんだそれを洗濯した包帯で綺麗に包みはじめる……その過程で腐った患部に蛆がわいていることがわかると、片方が顔をしかめ、ピンセットで蛆を膿盆の上へ摘み上げた。
「はっきりおっしゃってくださって結構ですよ。まったくひどい臭いだ、とね。というより、あなた方おふたりの顔に、はっきりそう書いてある。べつに我々は、理想に燃えた献身的な介護者を必要としているわけじゃない。以前にも、あなたたちのように身なりの立派な方が来て、わたしの横で治療方針をあれこれ指図したことがあったが、まあ十日ともたずに去っていきましたからな。この凄惨な様子を見て、あなた方にもわかったでしょう……自分たちの手になど、とても負えるものではないと」
「でも、わたし……本当にどんな病気にも効く薬を持っているんです。ここに来るまでの途中にも、その薬で多くの人が癒されました。だから、どうせ治らないとおっしゃるなら、せめて――この方法を試してもらえないでしょうか?」
センルはふと、隣のミュシアの決然とした顔の表情を見、Dr.ロイスの頑なな心が動くのを感じた。以前ミュシアは、自分に対してもまったく同じ凛とした眼差しを向けてきたことがある。そしてそういう時の彼女には、不思議と逆らえないような威厳が備わっていたものだった。
「ふむ……」
次の患者を手術室に運び入れるため、ふたりの看護婦は気を失ったままの男性患者を治療台ごと廊下へ運びだしている。そしてまた別の患者を滑車付きの木の台に乗せ、手術室へと運び入れた。
「まあ、なんといってもアスラン王子直々の勅命ということでしたからな。あなたはあなたで、お好きなようになんでもおやりになるといい。そのかわり、わたしもまたわたしのやり方を変える気はありません。ようするに、そのことに口出しして欲しくないということですよ。<瀉血>の効果というのは、まったくないというのではなく、これでも病いの進行を遅らせるのに少しは役立っているとわたしは考えている……それと、もしあなた方がミッテルレガント中央議会のやんごとなき方々とお知りあいだというなら――麻薬を買う量を出来るだけ増やしてここへ送ってくれるよう頼んでくれませんかな。この麻薬が足りないがために、瀉血する時でも、患者は気を失うまで苦しみ抜かなくてはならないもので」
「あの、先ほどの注射は……」
別の患者が手術室へ運ばれてくると、Dr.ロイスは煮沸消毒した別のメスを手にし、さるぐつわを噛まされている患者に向かい、先ほどと同じように容赦なく血抜きの作業を行おうとする。
「あれは一種の筋肉増強剤のようなものです。腐った筋肉組織にかわり、新しい組織が生まれるのを助ける働きをする薬液ですよ……それと、あなたがもし本気でこの病気が完治するなどと、気違いじみた妄想を抱いているなら、この病気に関する基礎知識をまずは教えて差し上げましょう。この病気の正式名称は<腐食病>ですが、我々は一般に<蝕>と呼び慣わしています。何故といって、この病いは進行速度が不思議と月齢に支配されているからなのですよ。新月の頃には、病状が比較的静まり、やがて月が満ちてくるにつれて――腐蝕の進行度が目に見えて早くなっていきます。まあ、次の満月の夜がなんとも楽しみですな……病棟中が耳を覆いたいような、苦しみの呻き声の大合唱ですよ。是非、その凄惨な様子を見たあとの、あなたの心弾む感想を聞いてみたいものだ」
Dr.ロイスの左手で(博士は左利きらしい)、メスが閃くと、患者の患部に繋がる血脈から、血が迸りでた。ミュシアはそのどす黒い血の色に眩暈を覚え、隣のセンルの体に思わず寄りかかった。彼の濃紺のマントを、震える手でぎゅっと握りしめる。
「とりあえず、ここから出よう」
小声でそう囁き、センルはミュシアの肩を抱きながら、一旦手術室前の廊下へ出た。
隣で見ているだけでも、ミュシアの顔色が蒼白で、彼女の心臓が早鐘を打っているだろうことが、センルにははっきりとわかる。
「大丈夫か?」
センルがミュシアの額の汗を拭おうとすると、<姫巫女>はそんな魔導士の優しさを拒むように、一歩身を引いていた。
「大丈夫です。このくらい、本当に平気ですから……」
「そう強がるな。まだ、足が震えているだろう」
聖五王国内ではないが、遠い異国を外遊中に、センルは黒死病が猛威を振るっているのを見たことがある。その時にも(ひどいものだ)と思いはしたが、まさか<蝕>という病いがここまで猖獗を極めているとは、思ってもみなかった。
「それにしても、随分ここは寒いですね。建物が石造りのせいもあるのかもしれませんけど、何かこう、底冷えがする感じというか……」
「おそらく、気温が高ければそれだけ、腐蝕の進行が速くなるといったような理由ではなく、単に建物全体を温めるだけの燃料がないんだろう。この浮島のもう一方の側の橋を渡れば、森に通じているから――ちょうどいい薪を切り出して来れそうな気もするが、人員が足りないあまり、そんなことにまで手が回らんのだろうな」
ミュシアとセンルは、廊下の端にある、火の入っていない暖炉に自然目をやりながら、そんな会話を交わした。センルにしても、以前であればおそらく「<神>がいるなら、何故こんなに悲惨なことが起きるのか、説明してみろ」とでも意地悪く言っていたかもしれない。
けれど今は、「それはおまえがこの場所へやって来て、この<蝕>という病いを癒すためだ」と、むしろ彼女を慰めてやりたいような気持ちしか湧いてこない。
「さて、これからどうする?ロイス博士は、自分の治療方針に口を挟むなと言っていたが……<神葉樹の葉>を使えば、とりあえずこの不治の病いも癒えるだろう。だが、問題はどの病人から取りかかるかということだ。重病人から順にというのは簡単だが、ここにいる人間の大半がそれなんだからな。嫌味で言うわけではないが、こんなことを神にいちいち祈って、その順番を決めるというわけにもいくまい?」
センルの最後の言葉に関しては、ミュシアも反論したいことがあるにしても――とにかく今は、彼の言ったとおり行動を起こすべき時だった。聖書に『行いのない信仰は、死んでいるも同然である』と書いてあるとおりに。
「あの、まずはわたし……ここへ来て、最初に出会ったあのおじさんのことを治してあげたいと思うんです。まわりのうちの誰とも、言葉さえ通じないだなんて、病気でつらいっていうだけじゃなく、心のほうがもっと孤独なんじゃないかって、そんな気がして……」
「そうか。わかった」
ミュシアが首の鎖からルーシュの指環を外し、それを左の薬指に嵌めるのを見て、センルがそれを人差し指にはめ直す。
「薬指に嵌めていると、もしかしたらいらぬ誤解を受けるかもしれないからな」
「えっと、でもわたしは……」
「とりあえず、ルシアス王国の修道院からやって来た尼僧だということにでもしておけ。尼僧のくせに、何故指環をはめているのかと誰かに聞かれたら、母親の形見だとでも答えればいい。おまえは演技が下手だが、身分のほうは他でもないアスラン王子が保証してくださっている。だから多少嘘をついても問題はないだろう」
「……………」
<それが仮に<神>のためであったとしても、嘘をつくのは正しいことかどうか>――という神学的論議はともかくとして、元は刑務官たちの休憩室だった部屋を通り、ふたりは階段を下りていった。
一階の、受刑者たちが集まる広いホールを抜けて、玄関へ続く通路に出ると、ティヴリス国出身らしき男が、やはり何か異国の言葉を呻き声とともに吐きだしている。
「ヨンデツカネッカ、ルシオス、アッカ、イアド……」
今度はミュシアにも、男が何を言っているのかがはっきり聞きとれた。
「<ルシオスの神は、偉大にして、ただひとりの神>か」
センルが溜息とともにそう呟く。ティヴリス国では、ルシア信仰はそれほど盛んではなく、国のほぼ八割の人間がまったく別の偶像神を信奉していると、センルはよく知っていた。
だが、どこか胸を打たれた様子のミュシアの姿を見てしまうと――口にだしてそう言うことは、流石の彼にも憚られるものがある。
「しっかりしてください。今、すぐに治してあげますから……」
ミュシアはいかにも船乗りらしい、日焼けした黒い顔の男を抱きあげると、その口元に前もって準備してきた<神葉樹の葉>の薬液を注いだ。それから、黄ばんでいる包帯をはがし、腐った体の組織の上に、残り八枚の金銀の葉を貼りつけていく。
センルが自分の濃紺のマントを破ると、包帯のかわりにそれで患部を順に包んでいった。
「ミュシア、今日おまえに出来るのは、ここまでだ。明日またここへ来て、この男がどうなっているかを見よう」
「駄目です。センルさん……センルさんは宿のほうに戻ってください。あと、出来ればアスラン王子と連絡をとって、出来るだけ早く包帯とか、その他必要な備品とか……そうしたものを送ってくださるよう、頼んでいただけませんか?」
「だが、おまえはどうするつもりだ?まさかとは思うが、一晩中この男のそばについていてやるつもりではあるまい?」
そんなのは駄目だ、というように、険しい顔の表情をセンルはして見せる。
「あの、病気というのは多分……ただ治せばいいっていうものじゃないと思うんです。ミッテルレガントへ来るまでの間、随分色々な救貧院を見てきましたけど、あの人たちが本当に欲しかったのは、病気が治る以上のものでした。たとえば、ただそばで手を握っていてくれるとか、そういうことが必要なんです」
「……………」
センルとしてもそれ以上、ミュシアに対して何も言えなかった。異国の男が「グランマレス(ありがとう)」と、掠れ声で言っているのを聞いてしまっては、尚更だった。
「わかった。ただし、一度宿へ戻って、アスラン王子に使いの鳩を飛ばしたら、すぐに私もここへ戻ってくる。第一、あのドクター・ロイスという男が、信用の置ける男なのかどうかも、まだ判断がつきかねるからな。こんな危険な場所におまえをひとりで置いていく気はない」
それだけはわかるな、というように、力強く見つめ返され、ミュシアも黙って頷いた。
本当のところを言えば、ミュシア自身も怖かったのだ――この<ナザレン施療院>という場所や、患者たちの苦痛に呻く声、ひどい臭い、それと時折擦れ違った介護者たちの顔に浮かぶ、能面のように無表情な顔、そういった得体の知れないもののすべてが。
「いいか?私はすぐに戻ってくる……それまでは、何があっても絶対にここにいろ。わかったな?」
「はい」と、短く答えたミュシアに対し、センルは彼女の腕を引き寄せて、その額にそっとキスした。
唇を額に押しつけたセンルの動作が、あまりに自然なものだったので、ミュシアは暫くの間、そのことを疑問にすら感じなかったけれど――船乗りの男が「ラ・マルス?(恋人?)」と小さな声で聞いてきた時に、初めて真っ赤になって否定したのだった。
「ち、違いますっ!!センルさんはそんなんじゃなくて、わたしにとってもっと大切な……」
男は何度か咳きこんだが、ミュシアがその胸をさすろうとすると、その手を押し留めようとした。その動作自体は弱々しく、震えているものの、彼が自分ともっと話をしたがっているらしいことだけは、はっきりと感じとれる。
それで、男の囁くような小さな声を聞くために、その口許へより近くミュシアは耳を寄せた。
「プリアシェラ・ディズ・イッティ・ザン・ラ・マルス?(恋人よりも大切なものが、この世界にあるのかい?)」
「恋人よりも、大切なもの……」
おそらくそれは、ミュシアにとっては<神>を置いて他になかっただろうが――この時のミュシアには、不思議とその答えがすぐ思い浮かばなかった。
ミュシアの話している言葉は、当然ルーシス語だったが、ティヴリスの男の耳には、母国語に翻訳されて聴こえている。彼はもう長く聞いていないティヴリス語が懐かしくて、今度は全然別の、自分の身の上話をミュシアにし始めた。
その中でミュシアは、彼の名前がオーファン・レニスと言い、ティヴリスの貿易船に乗る荷役人夫であること、年齢は三十五歳で、結婚してはいないが、結婚しているも同然の恋人がいる……といったことを、順に知っていったのだった。
やがてレニスは、話し疲れたのか、ゆっくりと目を閉じて眠りはじめた。彼の横たわる床は冷たく、また彼自身の体もほとんど感覚がないくらい、冷えきってもいたが――目を閉じる前のレニスの瞳には、少し前までなかった生気が戻ってきていた。そして、体は冷たくとも、心は何故か温かいと感じながら、彼は眠りの世界へ落ちていったのである。
3
「一体あの小娘を、どうなさるおつもりですか、ドクター・ロイス?」
病院内にいる、三十名ほどの看護婦を束ねる、ミランダ婦長がそう聞いた。
彼女は、手術室で患者の若い男の体から、ピンセットで蛆虫を取っていたほうの女性である。ミランダ婦長は四十七歳だったが、この病院内で彼女の実年齢を知っている者は誰もいなかったに違いない。
<ナザレン施療院>では、看護婦として正規の訓練を受けたことのある者は、ミランダ婦長を入れて、ほんの五~六人しか存在しなかった。あとは「それらしい経験」のある貧しい未亡人や若い娘などが、介護の任に当たっていたといっていい。
あとは、食事作りの住みこみのメイド、薪割りなどの労役に就いている侍僕などが数人おり、その他の雑用係としては、<蝕>以外の病気であるにも関わらず、ここへ送りこまれることになった知能の足りない不具者などがいる。
「どうもこうもせんよ」
ドクター・ロイスは、療院長としての一日の長い責務を終え、疲れを癒すためのワインに、麻薬を少々混ぜているところであった。
「暫くの間は、好きに泳がせておくがいい、ミランダ。不治の病いを癒す薬がどうの、寝言をほざいていた気がするが、おそらく十日もしないうちに、泣きながらすべてを投げだし、ここからいなくなるだろうからな」
「……………」
年齢不詳の、冷たい美貌の持ち主であるミランダは、自分の上司に当たる人物に対し、柳眉をひそめて見せた。以前、ミガレント医術学校出身の、理想に燃えた若い医術士がやって来た時――ドクター・ロイスが<何か>をして彼を追いだしたらしいことを、彼女は知っていた。
若い医術士がここ<ナザレン施療院>に十日もいられなかったのは、惨憺たる現状に諸手を上げて降参したからでなく、おそらくはドクター・ロイスがある種の幻術を彼に見せたからなのだろうと、ミランダは見当をつけていた。すなわち、蛆虫に自分の全身が覆われる幻影を見せたりといったような、そんなことだ。
結果として、その若い医術士は患者の患部からポトリと蛆虫が一匹落ちただけで――過敏に反応して怯えるようになり、実家のある王都へ、荷物をまとめて逃げ帰ったというわけだった。
「でももし、<蝕>という病いが本当に治るとしたなら……」
そんな夢のような話はありえないと、ミランダにもわかってはいる。だが、慢性的に人手不足であることを考えると、ど素人でも訓練すればそれなりに使えるようになるだけに――若い医術士が追いだされた時のようには、せっかくの人員を失いたくないのである。
(それじゃなくても、こんな場所で働いてもいいなんていう奇特な人間は、早々見つかるものじゃないっていうのに)
この医術士は、自分たち看護婦の苦労を何もわかっていないとの、常日頃から感じている鬱憤が、ミランダの豊かに膨らんだ胸に盛り上がる。時には殺意さえ覚えることもあったが、元は刑務所であった場所で殺人を犯すなど、笑えないジョークであるようにしか彼女には思えない。
「ははは。この<蝕>って病いは、誰が何をどうしたって、治るわけがない。心配はいらん、ミランダ。我々はここで永久に、この<腐蝕病>と闘い続けるのだよ。永遠にな……」
酒に混ぜた麻薬がまわり、黒革の椅子の上で、ドクター・ロイスが船を漕ぎはじめる。ミランダは、療院長室にある隠し金庫の中から、ロイス博士が溜めこんでいる麻薬を一部抜きとると、その部屋を忍び足であとにしていた。
その麻薬をミランダが盗みだしたのは、彼女自身がそれをたしなむためではなく――麻薬が痛み止めとして必要な患者に投与するためであった。といっても、看護婦の半数以上が、すでにこの麻薬に汚染されていることを、ミランダは婦長として知ってもいる。
だが、そんな「ささやかな」楽しみでもなければ、この悲惨な病院で働くことは、正気の人間には難しいということも、彼女にはよくわかっていた。ゆえに、勤務中は能面のような顔をしている看護婦たちが、隠れて正気を保つための薬に手を出していたとしても……ミランダは見逃すということにしていたのである。
「まったく、なんのかんのといちいち、うるさいババアだ」
ドクター・ロイスは、ミランダが療院長室を出ていくなり、寝た振りをやめて即座に起き上がっていた。もちろん彼は、自分の隠し金庫から、ミランダ婦長が麻薬を抜きとっていったことを知っている……彼女自身がたしなむためか、それとも部下と分けるのかまでは、ロイスにはわからない。
「なんにしても、あのババアはともかくとして、看護婦連中の半数以上は麻薬に汚染されているからな。そのうち、この粉をちらつかせただけでも、人殺しをしかねないっていうくらい……」
ロイスは歪んだ笑みを顔いっぱいに浮かべると、もしミランダが自分の邪魔になった際は、その方法で片付けようと考えていた。年増であるとはいえ、滅法美人で胸が大きかったため、これまである程度のことは黙って見逃してきたが――そんな彼にも、やはり譲れない一線といったものはある。
「まあ、ミランダが死体として転がったとしたら、わたしのコレクションのひとつに加えてやることにしよう」
舌なめずりしながら両手を擦りあわせると、ロイスは書棚の奥にある隠し通路を開く呪文を唱え、地下へ通じる階段を下りはじめた。当然のことながら、療院長室には魔法によって鍵がかけてある……ゆえに、ロイスがかけた以上に強い<開錠呪文>によってしか、その扉が開かれることはない。
真っ暗な闇の中でも、ロイスは光を必要としなかった。闇の女神アシェラとその配偶神アルゴルに魂を売った彼には、光の中でよりもむしろ、闇の中でこそ視力がよくきいた。彼の片目は緑、またもう一方は灰色に近い青をしていたが、この青い瞳のほうは、生来のものである。そしてもう一方の、闇の中で金色がかった緑のように見える目のほうは――闇の女神アシェラに忠誠を誓ったしるしとして、ある魔導士に抉りとられたのであった。
その断末魔の苦痛と恐怖がアシェラ神に捧げられる間、ロイスはいっそのことこのまま死んでしまいたいとすら思ったが、儀式がすんだ今では、ああしておいてよかったと、つくづくそう感じる。その魔導士はロイスの抉り取られた眼球のかわりに、もっとよく見える素晴らしい邪眼を与えてくれたからだ。
罪人たちに拷問が加えられた地下牢では、ロイスが丹精こめて作り上げた闇の戦士たちが、自分の出陣を待っているところだった。<蝕>という病いにかかった患者たちの死体は、すぐ近くのゴミ山で荼毘にふされることになっているが――その前にロイスは、その死体から比較的健康な臓器や皮膚等を取りだし、不死の戦士として作り上げるための材料としていたのである。
「まったく、我ながら素晴らしい出来映えだ」
岩の窪みに安置された、命のない人形をロイスはうっとりと眺めやった。そのほとんどは性器を切りとられた男性の姿であり、人間というのは本来、両性具有であるべきなのだとする、ロイス自身の理想を体現するものであった。
「だが、待てよ」
ロイスの心に、ミランダ婦長の姿が思い浮かび、彼女のことをこのコレクションに加えるべきだとする案が、強い誘惑とともに、再び彼の心を占めはじめる。そうなったとしたら、生意気なあの女は、もはや瞬きすることのない眼差しで、主君である自分を見上げてくるだろう。そして自分の命令どおりに動き、どんな淫らなことでもやってのけるに違いない……。
そう考えるとロイスは愉快だった。ミランダが、自分の勤務態度について、面白くないものを常日頃から感じているらしいというのは、彼自身が一番よく知っていることである。
何分、院内は千人以上もの患者でごったがえしており、ロイスは毎日、その中の何人かの患者に<瀉血>を施すだけなのだ。ロイスは昼間、センルとミュシアに瀉血にも多少は効果があると信じている……といったように説明していたが、ロイスは自分の治療方針に関し、実際はなんの根拠も持っていないというのが本当のところである。
ただ、そろそろ死にそうだと思う患者、あるいは体のパーツとして自分が気になる患者を適当に選び、体の状況等を確認するために、<瀉血>と称して治療を行っている振りをしているに過ぎない。
「それにしてもまた、余計な邪魔者が来てくれたものよ……」
ロイスが今ここにいるのは、自分が仕える闇の魔導士――アビメレクの仰せを伺うためであった。暗闇の中で、ロイスが魔法陣を描くと、蒼い炎の中に五芒星がぼんやりと浮かび上がってくる。
途端、地下牢内にある壁の燭台すべてに、熱のない緑や紫といった炎が踊るようにともされはじめた。またそれと同時に、ロイスの作りだした不死の戦士たちに命が吹きこまれ、一斉にギョロリとロイスのことを睨みつけてくる。
『我を呼んだか、ロイスよ』
声の主は、黒いローブの奥から、直接ロイスの頭にそう思念を送りつけてきた。
「はい。アビメレクさまのおっしゃっていたとおり、例のハーフエルフがやって来ました。<姫巫女>によって蝕という病いは収束する……そのシナリオに沿って動けとは聞いておりましたが、あいつらは実際、何をするつもりなのでしょうか?」
『それは我にもわからぬ』
重い沈黙が流れ、ロイスの額からは脂汗が滲みはじめた。ロイスが窺い知ることの出来ない<不死の世界>――そこに魔導士アビメレクは属していた。彼に忠実に仕えるならば、自分もまた、その不死の世界について、いくばくかの秘密を知ることが出来るだろう。だが、今はまだ傀儡人形を試作品として十数体ロイスは造ったに過ぎない。その功績をどの程度アビメレクが評価しているのか、彼にはわからなかった。
『いずれにせよ、おまえの造りしこの不死の器としての人形は、すべて我が元へと連れてゆく。あのハーフエルフは鼻が利くからな……特に邪悪な暗黒世界に属するものについて、あの者はその存在自体を許すことが出来んのだ。ロイスよ、おまえも我が元へと来い。さもなくば、よほど用心しない限り、あのハーフエルフに尻尾を掴まれるであろう』
「は、ははっ。で、ですが……わたしがここにおりますのは、死の腐臭と人間どもの断末魔の苦しみを、闇の女神アシェラさまに捧げんがため。その任務につきましては……」
『構わぬ。人間どもには十分、我ら闇に属す者の力を見せつけられたろうからな。次は光のほうに勝利を譲ってやらねばならん。だが、これもまた我々の用意したシナリオ通りだという、それだけのこと……』
ロイスは、自分の主が喉の奥で笑う声を、初めて聞いた。それは身も凍るような、背筋のおぞけだつ声ではあったが、徐々に闇の力に耐性の強まっているロイスには、快いものとして聴こえてもいる。
『行くぞ』
どこへ、とは聞かされぬままに、ロイスは異空間の彼方へ飛び立っていった。
そして、彼のいなくなった地下牢からは、緑や紫といった炎がすべてかき消え――あとには、ひっそりとした静寂と闇、人間になんの害も及ぼさぬ、自然の深い闇だけが残されていたのである。
4
翌日、正午を過ぎてもドクター・ロイスが診察室に姿を現さなかったため、ミランダは療院長室へ怒りながら駆け上がっていった。あんなヤブ医者でも、いなければいないで困る……それがミランダ婦長の本音であった。ドクター・ロイスの言い分としては、夜遅くまで<蝕>を治すための治療研究を行っているとのことで、そんな状態で朝早くになど起きていられるかとのことだったが、ミランダ婦長以下、他の介護員は全員、夜明けから日暮れまで――あるいは、日が暮れてからも一晩中――働きどおしなのである。
何より、ミランダ婦長がドクター・ロイスの指示を仰ぎたかったのは、きのう施療院へやってきたばかりの娘が、自分で言っていたとおり<奇跡>を起こしたということについてであった。
言葉が通じないため、何故なのかはわからないが、とにかく施療院の玄関脇に居続けようとする患者のことなら、ミランダも一応承知していた。だが、誰がなんと言って連れ戻そうとしても、彼がそこから動こうとしなかったため、自然彼のことは誰も構わず、放置するようになっていたのである。
ところが、自分の足ではろくに立てないはずの男が、突然二本足で歩きだし、顔の包帯を取ってみせると、その下からは真新しい皮膚が腐った組織にかわろうとしているのを見て――ミランダは我が目を疑った。というより、男が異国の人間で、こちらの聖五王国とはまた別の隠れた身体能力でも持っているのではないかと、ミランダにはそのようにしか思えかった。
「ルシオス・アッカ・イアド!!」
「ルシアスの神は偉大なるかな、とレニスさんは仰っています」
ミュシアがレニスの言葉を翻訳すると、牢屋番号1から順にはじめて、患者の治療を行おうとしていた看護婦の全員が、驚きに目を瞠っていた。
「病気・治る・みんな……俺と同じ………」
レニスがたどたどしいルーシス語でしゃべりながら、しきりに自分の患部を指差して言う。
「心配いらない、まかせてオーケー……」
ティヴリスの船乗りが何を言いたいのかは、その場にいた全員によく伝わっていた。
看護婦や介護員だけでなく、何よりも苦痛に呻いていた患者たち自身が――異様なまでの期待をこめて、レニスとその隣の<姫巫女>のことをじっと眺めやる。もちろん彼らにはミュシアが実は<姫巫女>であるだなどと、知る由もないことではあったろう。
にも関わらず、よく説明されもしないうちから、彼らにはこの<奇跡>の原因が、どこかか弱いようにさえ見える少女にあると、わかっていたのである。
ミランダは、周囲の人間の眼差しが自分に集中しているのを感じると、牢屋の鉄柵の外に出、ミュシアとレニスに話しかけた。ミランダは小声でふたりに話しかけたものの、看護婦・患者含め、まわりの者が全員、自分たちの会話に耳を澄ます強い気配を感じた。
「きのうも同じことをお伝えしたのですが、<神葉樹の葉>という、どんな病いも癒す葉っぱがあるんです。それをきのう、レニスさんの体に貼ったら、自分の力で立てるまでに回復されて……」
<神>の奇跡にまだ胸がいっぱいで、喜びに溢れるような眼差しで、ミュシアはミランダのことを見上げてくる。
ミランダはそのミュシアの無垢な瞳に、何故か嫉妬に近い感情を覚えた。「喜び」……この施療院へ自分がやって来て以来、そんなものを誰の目の中にも見た記憶が、ミランダにはなかった。
「そう。じゃあ、あなたが持っているその神葉樹のなんとかを使うと、この<腐蝕病>ですら癒せるということが、これで立証されたというわけね。で、次にわたしたちはどうすればいいの?」
ミランダ婦長は現実主義の実際家だった。<神葉樹の葉>とやらに効果があるとして、目に見える回復を見せたのは、まだたったの一名にしか過ぎない。それがたまたま異国の船乗りにだけ効いたものなのか、そのあたりについては詳しく検証していく必要がある。
「す、すみません。レニスさんが良くなられたことが、わたし本当に嬉しくって……きのう、レニスさんの傍らで神さまにお祈りしていたら、<御託宣>があったんです。神葉樹の枝についている葉は全部で十枚。それを千人の患者さんにゆき渡らせるにはどうしたらいいかをお聞きしたら――一枚の葉を水かお湯に浸せば、効果が薄くなることなく、すべての人に薬液を十分いき渡らせることが出来るそうです。それを患者さんの口から飲ませるのと同時に、その薬液をガーゼや清潔な布に浸して患部に塗布すると、少しずつ腐食した部分が新しい皮膚組織にかわっていくだろうって……」
「……………」
目の前にいる小娘の言うことを、ミランダも頭から信じたというわけではなかった。ミランダはもともと、それほど信仰深い性格ではなかったが、それでも町の学校で小さな頃から宗教教育を受けて育ってはいる。何より、どうせ打つ手など最初から何もないのだとの、投げやりな気持ちが――ミュシアの言うことをとりあえず実践してみようと、ミランダに思わせたのかもしれない。
だが、なすべき作業は多いにも関わらず、やはり相変わらず人手が足りなかった。
オーファン・レニスにしても、腐りかけた皮膚の上に真新しい皮膚が生じているとはいえ、完全にそれが元のとおりになるまでには、随分長い時間がかかるに違いない。そうしたことを考えあわせると、ミランダはじれったいような気持ちになるあまり、一度など廊下で発狂したように叫びだしたくなるほどであった。
そしてミランダが療院長であるドクター・ロイスのことを彼の部屋に訪ねたのは、猫の手も借りたいような忙しさの中、遅い昼食を食べる時間を削ってのことだったのである。
「よくやったな、ミュシア」
施療院の台所で湯をわかし、それに<神葉樹の葉>をひたして、患者に飲ませるという作業が、その日の夕方までえんえんと続けられ――また、患者の<腐食病>の患部に薬液をしみこませたガーゼを貼るという治療も、同時進行で怠りなく進められていた。
ミュシアがそうした作業を、ミランダ婦長や他の看護婦、介護員に指示する姿を見て、彼女がいかにも姫巫女らしく振るまう姿を、センルは心から誇らしく感じる。
「外のゴミ山は川向こうの<王領直轄地>だとかいう森に、瞬間移動の魔法で移しておいた。そのうちアスラン王子に適当な人夫でも派遣してもらって、埋め立ててもらうことにしようと思う。まあ、これで色々な臭いの元は、ある程度去ったと考えていいかもしれんな……どうした、ミュシア?」
「い、いえ。なんでも……」
ミュシアが夕方まで働きづめなのを見かねたミランダが、彼女の手におにぎりを持たせ、少し休むように言ったのは、つい先ほどのことであった。今はハゼルの月の中旬だが、聖五王国中、もっとも西に位置するミッテルレガントでも、陽が沈むのは早く、第Ⅳの刻ともなれば、あたりは暗闇のヴェールに包まれる。
自分の仕事に没頭するあまり、センルがどこでどうしているのかなど、ミュシアは気にかけている余裕がなかったのだが――大量のゴミの山を移動させるようなことをしていたのかと思うと、彼女は途端に胸が苦しくなった。
(センルさんは、もともと高貴な人で、そんな作業をするような人じゃないのに……第一、ここにセンルさんがいなくちゃいけないような理由も、本当はないんだわ。センルさんとゴミ山なんて、太陽と月、天空と地上っていうくらい、イメージ的にかけ離れてるような気がするのに……)
「どうした?すべておまえの――というか、おまえに言わせれば神の、ということになるが――思惑どおりに事が進んでいるのに、嬉しくないのか?」
「わたしの力じゃありません」と、ミュシアは断言するようにきっぱりと言った。「第一、センルさんがいなかったら、わたしひとりの力でここまで来れたかどうか……それに、<神葉樹の葉>には確かに効き目があるとわかってからの、みなさんの働きは目覚しいものでした。今も、寸暇を惜しんで誰もが汗を流して立ち働いてくれています。あとは、<神葉樹の葉>さえあれば、わたしなんていなくても……」
「だが、そうであってもおまえは、この気の滅入るような場所に居続けるつもりなのだろう?最後の患者の病いが癒えて、このナザレン施療院が閉鎖されるようになるまで」
「えっと、センルさん、どうして……」
自分の考えをすっかり読まれていることに驚き、ミュシアは隣のセンルのことを見上げた。
「ほら、ついてるぞ」と、センルがミュシアの頬についた米粒をとってやる。そして彼は何気ない仕種で、自分の口までそれを持っていった。「しかし、なんとも言えないまずい茶だな。それはそれとして、おまえの考えていることなど、とっくに私は見通していたさ。ここには<蝕>にかかった重病人だけでなく、厄介払いとして放りこまれた身障者などが数多くいるからな。おまえは彼らのこともどうにかしなくてはと思っている……違うか?」
「あの、でも……変なふうに聞こえるかもしれないけれど、わたしは病気が治ることだけが<すべて>ではないと思ってるんです。看護婦や介護員たちよりも、彼らがより一番、誰よりも「何かの役に立てる」ことを喜んでいるような気がするし……」
「そうか」
センルは短く肯定しただけだったが、彼にはミュシアの言いたいことが言葉以上によくわかっていた。
今、ふたりは一階の、火の入っていないほうの暖炉の脇へ腰掛けている。一応、こちら側と対になるように配置された暖炉には、申し訳程度の火がちろちろと燃えてはいた……その間の空間には、ベッドというよりは、一続きの木のテーブルが何十台となく並び、その上に患者たちが寝返りを打つ余裕もなく横たえられているといったような有様である。
その中を、看護婦や介護員たちに混じって、斜視の知恵遅れや、かたわの男、あるいは片目のない女性など、この時代の農村社会では締めだしの対象となるであろう何人もの身障者がつき従っている。センルの見る限り、誰よりも最初に<姫巫女>としてのミュシアの権威を認めたのは、彼らであるように思えてならなかった。
患者たちの中には、ドクター・ロイスの<血抜き>の作業同様、この新しい治療がどの程度の効果を上げるのか、不審に感じる者も少なくなかった。けれど、そのたびに彼らが、そうした不信心な患者の額をピシピシ叩き、「神さまの葉っぱの効果」について、たどたどしい口調で説教をはじめるのである。
センルはメアリーという名の、吃音のある少女が、絶えずミュシアの後ろをついてまわる姿を見ていた。センルの見たところ、明らかな知的障害者で、おそらく体は十六、七の娘でも、知能のほうは七、八歳ではないかと思われる、やぶ睨みの少女だった。
他の看護婦や介護員の命令のままに、彼女たちは「ちょっとした手伝い」をしているのだが、むしろその彼女たちのほうこそが――ある意味、直接的な治療者である看護婦たちよりも、心理的な面で役立っていたといえるかもしれない。
「か、か、神さまの葉っぱ、やや、役に立つ、使わない人、わわ、わたしよりも馬鹿……」
などと、どこかひょうきんにメアリーに言われると、この施療院では随分長く聞いたことのない、大きな笑い声さえ生まれることがあった。
「なんにしても、私は近いうちに、一度王都のほうへ行ってみることにする。ドクター・ロイスがどこへ行ったのかは知らんが、ここにはもっと人手が必要だろう。ミガレントには王立の医術士学校や看護学校があるから……<蝕>という病いが巷で言われているほど伝染性が高くないということがわかれば、もう少し色々な働き手を増やせると思う。きのう、伝書鳩で必要な物品についてはリストにしてアスラン王子の元へ送っておいたが――この分だと、どうやらもう麻薬は必要なさそうだな」
「そうですね」
メアリーがある患者の額にデコピンをくらわせ、その患者が笑っている姿を見て、ミュシアは我知らず微笑みが浮かんだ。おにぎりを食べ終わり、どろりとした沈殿物のあるまずい茶を飲むと、再び立ち上がる。一日かかっても、まだ半分以上の患者に薬がゆき渡っていない以上……今夜は徹夜してでも、なんとかこの仕事をやりおおせなければならない。
「ミュシア、その……」
論理的思考の彼にしては珍しく、自分が頭の中で考えていることを、この時センルはうまく表現できなかった。実をいうと、ミュシアにもう少し話したいことがセンルにはあった。だが、それは単に<姫巫女>の心配の種を増やすだけのことではないかと思うと、センルはこれ以上彼女の心を煩わせたくないようにも感じていた。
「いや、なんでもない。あまり無理はするなよ」
「はい。センルさん!!」
そう言って、最上級の笑みを見せて、ミュシアは患者たちの並ぶ寝台の間を通り、自分がなすべき<姫巫女>としての仕事へ戻っていく。右にメアリー、左にレニスのことを従えるような形で、早速包帯の交換をはじめるミュシアのことを――真夜中に輝く星のように眩しいというふうにさえ、センルは感じた。もし自分が小賢しい言葉数を並べることで、<姫巫女>の――引いては<神>の――意志を挫いていたとしたら、この悲惨な施療院に、今ある希望の星が流れ着くことはなかったに違いない。
「レニスさん、無理せずにベッドの上で休んだほうがいいですよ。わたしにはメアリーもいますし……」
「いや、気にすることはねえ」レニスは松葉杖をついた格好のまま、ティヴリス語で言った。「きのうからこっち、ろくにメシも食ってねえのに、妙に体の調子がいいんだ。それよりもミュシア、俺は少しでもあんたの手伝いになることがしたいと思う。病気のほうは完全に治ったわけじゃねえが、それでも俺にはわかるんだ――そのうち必ず全部良くなるっていうことがな」
「ミュ、ミュ、ミュシア、でで、出来た……ガ、ガガ、ガーゼ……」
ミュシアは「ありがとう」と言って、薬液に浸されたガーゼを、患者の患部に当てていった。最初は蛆虫の存在に肝を冷やしたミュシアだったが、今はもうそれを素手で摘めるくらい、どうということもなくなっている。
実際、レニスがミュシアのあとをついて歩くことにも、患者たちに心理面で良い影響を与えていたに違いなかった。自分の腐りかけの体を見る限り、状況は絶望的としか思えない――だが、<神葉樹の葉>の効果で、劇的に回復したレニスの姿が、多くの患者たちに新しい希望の芽を生じさせていたのだった。
センルはそんなミュシアたちの姿に安心し、とりあえず自分は他の仕事をしなくてはと、その場から姿を消した。ミランダ婦長に「ドクター・ロイスはどうしているか」と聞いた時、「あんなヤブ医者、知りませんよ」と彼女は呆れたように答えていたが――センルは当然、そのことが気になっていたのである。
なんでも、ちょっとした時間の合間に療院長室を訪ねたところ、そこには誰の姿もなく、二階から地下へ通じる隠し扉のようなものがあるきりだったという話である。センルは彼女から許可を取ってあったので、一度ドクター・ロイスの部屋を訪ねることにした。
最初にこの建物内へ足を踏み入れた時から、センルは「何かがおかしい」と感じてはいたのだ。ロイス博士の右の目にも、ある種の違和感を覚えていたといっていい。だが、センルにとって人間界で初めて出来た友人が、同じようにオッドアイを持つ男であったため、センルはその違和感を深く追求しなかったのかもしれない。だが、今にして思えば間違いなくあの男は<黒>だったのだろうと確信する。
先ほどセンルがミュシアに言いかけたのもそのことで、ある種の<暗黒>の力、邪神にその源を発する力については、彼女にも自分と同じように、鋭敏な探知の力が備わっていることをセンルは知っていた。そこで、「重い石がとりのけられでもしたように、最初にあった圧迫感が消えたと思わないか?」と、センルはミュシアに聞いてみようと思ったのだ。
もちろん、<神葉樹の葉>の劇的な効果により、療院内にはきのうと打って変わった明るい雰囲気が生まれていたのも事実である。だが、意識の触手をもう少し注意深く伸ばしていくとしたら……もっと深いところで胎動する<闇の力>の源へと辿り着いていたに違いない。
施療院の二階にあるドクター・ロイスの部屋の入口には、魔法により施錠された痕跡があった。ミランダ婦長の口ぶりから察するに、なんなく部屋へ入れたのだろうことから、センルはここであるひとつの仮説を立てる。
つまり、隠し扉を開いたままロイス博士が逃げるように消えたからには――そこには相応の事情があったに違いない。センルがまず真っ先に思ったのは、闇の者どもには光の側の存在を恐れる本能的な性質があるということである。ゆえに、ミュシアを<姫巫女>と見抜き、病魔を蔓延させて邪神へ供物を捧げるのを断念したのではないかということだ。
(あるいは、ドクター・ロイスの仕える闇の側の存在が、彼にそうした助言を行ったかの、いずれかだ)
過去に行われた<姫巫女>の探索行の過程を見ても、この千年に一度行われるという探索行が、光と闇の戦いでもあるということはよく知られているところである。ゆえに、センルとしてはいつ向こうの存在が現れてもおかしくないとは思っていた。だが、煉瓦町リムレアで、ナザレン施療院で起きていることのヒントがすでに存在しながら……自分は敵をひとりみすみす逃したのではないかと思い、センルは複雑な気持ちになる。
煉瓦町リムレアで起きていたことというのは、センルの推測によれば次のようなことであった。工場内がふたつの勢力に割れ、どうやら正しい主張を行っているほうが勝ちそうである――そこで、旗色の悪い側が、闇の魔導士を雇い、ある特定の区域に限り、病魔を蔓延させようとしたのであろう。病気の感染経路等についてセンルが検証してみる限り、その可能性は限りなく濃厚だった。
二階から地下室へと続く階段は長く、下へいくにつれて、黴臭い匂いが強くなっていく。また、地下牢へ通じる入口へ到着してからは、奥から黴と湿気の匂いに混ざり、腐敗臭が漂ってもきていた。昼間、移動呪文でゴミ処理を行っていた時にも、「鼻がへん曲がりそうだ」とセンルは感じていたが、今地下牢に満ちている臭気は、それ以上にキツいものだったと言っていい。
センルは熱量を発しない、魔法の青い光を発生させ、自分の周囲五エートルほどの範囲を照らしていたのだが――その岩牢の並ぶ廊下の窪みに、己の性質と相反するものが安置されていたであろう痕跡を感じた。<探知>の魔法を使い、そこに何が置かれていたのかを探ると、生命を吹きこまれる前のアンデッドであったことがわかる。
(なるほどな……)
さらに廊下を奥へ進んでいくと、五芒星の魔法陣がセンルのことを出迎えた。おそらく、もう数時間もすれば、この魔法陣自体がなんの痕跡も残さず消えていたに違いない。だが、ここに現れ出でた存在が強い魔力を帯びていたがゆえに――センルにこのような手がかりを残す結果となったのだ。
(今ならまだ追えるな。もっとも、そのこと自体が相手の罠であるというのは、よくある話なんだが……)
なんにしても、ドクター・ロイスの後を追うという選択肢は、センルの中にはない。何故といえば、シンクノアが今ここにいない以上、センルには<姫巫女>であるミュシアを守らねばならないとの、至上命題があったからである。
そこで蒼い炎を吹き上げる魔法陣には背を向け、センルは元きた道の脇にある通路――そこから腐敗臭の源を探りあてるような形で、ドクター・ロイスの不死の研究室とでも呼ぶべき部屋を発見した。
壁には一面、人間の体の様々な臓器や皮膚などが、特殊な薬液に漬けられてずらりと並んでいる。センルが察するには、患者たちの体の中で比較的有用な臓器をドクター・ロイスは蒐集していたのであろう。
「それにしても、悪趣味な……」
思わずそう洩らしてしまってから、(一体どうしたものか)とセンルは思案する。<腐食病>の患者たちに混ざって、片目がなかったり顔に痣のある女性がいたことを思いだし――ある魔術式を用いれば、ここにある眼球や皮膚を移植することが、確かにセンルには可能なことには可能であった。
(しかし、そもそも<神葉樹の葉>というのは、万病に効くのだろうからな。レニスの片方の側の目は、半分とけて腐りかけていたのが治ったのだ。そう考えれば、まずはそちらの可能性を試してみるべきという気がするが……)
ドクター・ロイスの仕える<闇の者>が何者で、どんな存在なのかについては掴めぬまま、センルは気の滅入る地下牢を後にした。そしてのちに彼が今考えたようなことをミュシアに相談してみたところ、顔に痣のある女性も、左に眼球がない女性も、あるいはかたわの男もみな――センルが提案したことを拒否してきたのであった。
彼らはみな一様に、「生活に不自由を感じない」といったことをミュシアに言ったという。確かに、顔に痣のあるゼルダという女性は、若い男性患者と恋をしていて幸せそうだったし、左目のない女性にも将来を約束する恋人がいた。隻腕の男はといえば、片側の腕だけで、二本分の筋肉と握力を持っているような、筋骨隆々たる大男だったのである。
まだ、かなり先のことにはなるが、ナザレン施療院は一度閉鎖されることが決定したのちに――ミランダ婦長がアスラン王子の命を受けて、ナザレン救貧院として再開するということになる。そしてその時に、<神葉樹の葉>によって癒された多くの元患者たちが、なんらかの形でこの救貧院に協力するようになり、のちには<姫巫女が奇跡を起こした場所>として、ここは歴史に名を残す名所となるのであった。