第3章 煉瓦町リムレア
1
マザルの月の中旬頃、ミュシアとセンルとシンクノアは、一路ミッテルレガント王国へ向けて旅立った。
といっても、シンクノアが真っ直ぐ王都のミガレントを目指すのに対し、ミュシアは王都から南へ約十キロほど下ったナザレンという町へ滞在する予定であった。そしてセンルはといえば、ミュシアのナザレン施療院での様子をある程度見守ってから、王都のほうへ向かい、あの大いに気に障るところのある王子と、<隕石落としの術>のことで話しあいをせねばなるまいと考えていた。
(もし、神がこの世にいるのなら……また、一般市民の声にはさして耳を傾けないが、姫巫女の祈りにだけは必ず答えると仮定するならば、だ。ミュシアが<蝕>という病いをかの地で鎮めるまでは、あの竜騎兵団や飛空艇は襲ってこない……などと考えるのは、流石に目算として甘すぎるだろうか?)
可能性として、次に戦争が起きうるとすれば、それはやはりセンルの予想によればミッテルレガント王国を置いて他になかった。ゆえに、五人一組の魔導隊を「ちょっとした訓練」ののちにミッテルレガント王国へ派遣するということで、エリメレクとアスラン王子の間では話がついている。
だが、実際に<隕石落としの術>の訓練をするとなると――カルディナル王国内には、それにちょうどいいような場所がなかったため、この点はセンルが一肌脱ぐということになった。すなわち、シグムント王に直接その旨について書き記した密書を送り、カルディナル王国とロンディーガ王国の国境にある、アクラヴィム砂漠をその練習場として使わせてもらえまいかと、打診することにしたのである。
アクラヴィム砂漠というのは、猛毒を持つ蠍が出没することで有名な砂漠で、隊商でさえも、この砂漠だけはなるべく避けて通ると言われている場所である。なんにせよ、シグムント王のカルディナル王国ブリンクに対する返事というのは、センルには聞く前からわかっていた――何分、このシグムント王というのは、センル自身が幼い頃より帝王学や魔術の基礎を教えこんだ、愛弟子といっていい王なのだ。そうした経緯があることから、<ロンディーガを影で操るハーフエルフの傀儡王>などという讒言を避けるため、彼が王として即位してからは、センルはなるべく王宮を留守にするようにしている。
とはいえ、シグムント王とセンル自身の結びつきは強固なもので、シグムント王はセンルがロンディーガのために最後まで尽くしてくれると信じているし、センルのほうでも大抵の自分の頼みは聞いてもらえるだろうという強い信頼感が王に対してあった。
本来であれば、その五人一組の魔導隊の訓練も、センル自身が引き受けたいと思っていたのだが……何分、一歩間違えば大惨事になりかねない危険な業であり、またその提案を最初にしたのも、蒼の魔導士であるセンル本人なのである。だが、エリメレクの「我ら大魔導士団の力を信じなされ」という言葉に後押しされ、センルは自身がまず先にミッテルレガントへ向かうということにしたわけだ。
そしてミッテルレガント王国へ向かう旅の三日目――センルはネリスという宿場町の旅籠から、真夜中に南東の方角でいくつもの蒼い流星が夜空を横切っていく姿を目撃していた。
(やっているな)と、センルは満天の星空を眺めながら思ったが、シンクノアはともかくとして、ミュシアにはそうした軍事的計画については伏せてある。もし彼女がそんなことを知れば、自分の力ではどうにもならないことで、また色々と小さな頭を悩ますことは明白だったし、何よりミュシアには、ナザレン施療院での医療活動に専念してほしいと、センルはそんなふうに思っていたからだ。
(<神葉樹の葉>があれば……まあ、大抵の患者の病気は治るだろうからな。唯一、その病いで死にゆく定めの者以外については)
けれど、どんなに神に祈ろうとどうしようと、すべての人間が癒されるわけではないと知った時――ミュシアがどれほど深い絶望感と苦い失望を味わうことになるかを想像すると、センルは気が重くなるのを感じた。仮に十人の者が神葉樹の葉によって癒されたところで、十一人目の者がなすすべもなく死んだ時、ミュシアは「あんなに祈ったのに」と神を責めるでもなく、己自身に責任を帰して苦しむだろうことが、センルにはよくわかっていた。
(だが、神よ。これもまあ姫巫女としての修行なのだよ、ハーフエルフ、とかなんとかあなたは言うのだろうな。まったく、これだから私は神とかいう抽象概念が嫌いなんだ)
センルがそんなことを考えていたのは、カルディナル王国の王都、カーディルを出発したちょうど一週間後、リムレアという煉瓦作りで有名な町を訪れた時のことだった。もし、聖都ルシアスへ向かうのであれば、ここから進路を北にエシュタリオン街道を上っていくのが早道となるが……<神葉樹の葉>が手に入った時点で、ミュシアの頭の中から聖都ルシアスへ立ち寄るという選択肢はどうやら消えていたようだった。
「ほーう。そういえばおまえは、湯治町リディマへ向かうことに決めたのも、神に祈っていてそう語られたからだとかなんとか言っていたな。城下町カーディルを出発して、今日で七日にもなるが――我々は恐ろしい一つ眼の怪物にも出会わなければ、白蛇の化物にも遭遇していない。私が思うにミュシア、あの時もおまえは今のようにエシュタリオン街道を通って王都を目指すべきだったんだ。それをわざわざあんな遠回りするようなことをしたから、無用なトラブルに巻き込まれることになったのだと、そうは思わんか?」
「……そうかもしれません。でもわたしは――きっとセンルさんは、自分やシンクノアがいなかったらどうなっていたかと言うかもしれないけれど、わたしはやはり神さまのおっしゃったことは正しかったのだと思っています。あのシロンにいた人たちの縛られた魂が解放されること、それがきっと神さまのお望みだったに違いないと、今もそう感じていますし……」
「ふん。私もシンクノアもおまえも、もしかしたらあそこで死んでいたかもしれないとは想像してもみないということか。エシュタリオン街道には、どんなに遠くても三十キロと道をあけずに、必ず宿場町が存在している。街道沿いの町は大体どこも栄えているから、それなりの金額でなかなかいい宿にも泊まれるし、娯楽にも事欠かない上、うまい食事にもありつけるといったような按配だな。それに引きかえ、湯治町リディマに着いてからの我々の惨状と来たら……守銭奴の宿の親父に足許を見られたり、その次の町へ辿り着くのは遠い上、ヴァリアントには遭遇する、ようやくナルム村に着いたかと思えば、ケチな食事にしかありつけないだけでなく、さらには馬一頭売ってもらえないという、なんとも呪われた境遇だった。私はこの時てっきり、自分がマゴクの呪いに巻きこまれたのかと思ったほどだったが、なんのことはない。今にして思えば、すべておまえが祈って聞いた神の言葉に従ったという、そのせいだったというわけだ」
「……………」
言い返せるなら、言い返してみろ、というように、ホテルの一室でセンルはふんぞり返るようにして両腕を組んでいる。
(センル先生、それは流石に言いすぎですぜ)と、そんなことを思いながら、シンクノアは内心溜息を着く。この時も彼は長椅子に腰かけて紅茶を飲み、ミュシアとセンルの会話のやりとりを、ただ黙って心配げに見守っていた。
確かに、合理的思考法でいったとしたら、センルの言うことは正しいだろうとは、シンクノアも思いはする。だが、<鬼蜘蛛>という魔物を倒したことで、付近の村の住民が助かったのも本当のことなら、シロンで双頭の白蛇を退治したことにより、あの場所に囚われていた多くの人々の霊が解放されたのも、ミュシアが姫巫女として為さなければならぬ大切な仕事ではなかったかと、シンクノアは思うのだった。
「確かに、センルさんの言うとおりかもしれません。でも、もしそうしたわたしのやり方が気に入らないなら……センルさんはセンルさんで、好きなようになさってください。わたしはセンルさんのお力がなくても、神さまが助けてくださると信じて、自分に関わることは自分でなんとかしようと思いますから」
(こいつ……!!)
センルが静かに怒りのオーラを発するのを見て、シンクノアは内心(あーらら)と思う。とはいえ、彼らは互いに「本気で」そう言いあっているわけではないのだ。ミュシアにしても、一見つーんと顔を横向けているように見えるが、結局のところ、よほどのことでも起きない限り、センルが離れていかないとわかっているからこそ、彼女も今のようなことが言えるのである。
「そうか。だったら私は私で勝手にするさ。悪いが、ディアトレドを少しの間借りていくぞ」
「どうぞ。ディアトレドはわたしより、センルさんに懐いているみたいですから……もしセンルさんがミッテルレガント以外の場所へ行かれるのだとしても、そのままお連れくださって構いません」
「ふん。生意気な小娘め!そのうちぐうの音も出ないほど言い負かしてやるから、覚悟しておくがいい」
そう言い残し、センルはバターン!!と大きな音をさせてドアを閉め、<金の雄獅子亭>という旅籠から足早に出ていった。シンクノアが両開きの窓から外を眺め、センルがディアトレドに乗り、町の大通りを行く姿を見送る。
「……あの、わたし、センルさんに少し、言いすぎてしまったでしょうか?」
センルが部屋から出ていくなり、ミュシアはどこか不安げな顔の表情をして、シンクノアのほうを見返した。
「いんや。今のセンル先生には、あのくらい言ってやるほうがむしろ、ちょうどいいんじゃねえか?ようするにセンルはさ、ミュシアにとって神が一番で自分は二番だっていうのが気にいらないっていう、ただそれだけなんだから」
「え……?」
シンクノアの言っている言葉の意味がわからず、ミュシアは首を傾げた。将来は巫女となるべく、生まれた時から<神殿>という俗世の穢れとはほど遠い場所で育てられた彼女にとっては――どの人間にとっても、神が一番大切であろうとの思いが真っ先にくる。ゆえに、神と人間を比べること自体が、不敬なことでしかないのだ。
「あの、聖書には、神を第一に思えぬ者は、むしろ神を憎めと書かれている箇所があります。この箇所の解釈は、神学者の間でも諸説あるようなんですけど、わたしはこう思うんです……神さまのことを一番大切にするなら、二番目以降に必要なものは自然と与えられるっていうことなんじゃないかなって。なんていうか、最初に思考に据える土台を間違えてしまうと、その上にどんないいものを建てたとしても――それはやがて崩れ去ってしまうっていう、そういうことなんじゃないかって……」
「神の国と神の義を第一とせよ。さすれば他のものはみな与えられん、か」と、シンクノアは柄にもなく、聖書の一説を口にした。「でもさあ、ミュシア。この世っていうところはとかく、誘惑と穢れが多い場所なわけよ。んで、人ってのは神よりも金、神よりも女、神よりもいい暮らし……みたいに、流されやすいってこと。俺はそういうの、単にその人間の意志の弱さだとか、性格の弱さだとかで片付けられないんじゃねーかなって、そう思うけど」
「それは、当然そうです。だからこそ、そうした迷いやすい子羊たちのために、わたしたち巫女や神官が存在しているという、神の摂理というのはそういうことなんですから」
「……………」
にっこりと、なんの汚れもない微笑をミュシアに向けられると、シンクノアとしてもそれ以上、彼女と神学的論議を続けようとは思わなかった。というより、何か意地の悪い議論を吹っかけようなど、普通の人間であればおそらく、誰も思いつかなかったに違いない。
(でもまあ、その点センルはな……自分でも気づいてないんだろうけど、ミュシアのことを<神の代理人>に見立ててるところがあるんだろうな。パンピーが祈っても、滅多に願いどおりになることはないのに、姫巫女には自身の意志を啓示し、恵み深く扱って助けようとするっていう、その部分がいささか不満なわけだ。いわば、<神の意志の代理執行人>である姫巫女のために、その忠実な下僕の地位に留まるしかない自分に対して、強いフラストレーションを感じるというか……)
シンクノアは、続き部屋となっている寝室のドアを眺め、窓敷居に腰かけた格好のまま、軽く溜息を着いた。<金の雄獅子亭>の部屋の作りは大体、ヤースヤナ・ホテルと同じだった。暖炉の前には向かい合わせのソファとテーブルがあり、その下には毛織物の絨毯が敷かれている。バルコニーはないが、今シンクノアがそうしているように、広い窓敷居があるので、外の大通りの様子は大体のところ見渡せる。
居間も隣の寝室も、ヤースヤナ・ホテルのように豪華な調度品類に囲まれているわけではないにしても、その分宿賃も安くて南京虫がベッドで添い寝するわけでもない――となれば、中級クラスのまあまあな旅籠だったといえるだろう(そしてこれは、シンクノアの基準によれば、すでに相当上等クラスの寝床でもある)。
王都カーディルにある、ヤースヤナ・ホテルへ初めて宿泊した時、センルがミュシアに寝室の鍵を手渡していたことを、シンクノアは今にしてまったく別の意味で思い返していた。あの時、センルには確かに、ミュシアのことを恋愛対象として見るなど、ありえもしないというふうにしか思えてなかったに違いない。
(けど、今は……)シンクノアは前髪をかきあげると、再度溜息を着いた。(もしセンルが本気で、<神>の意志に叛き、<神>が姫巫女を通して成し遂げようと思っている計画を頓挫させたいと思ったら――実際ある意味、簡単だっていうことだ。姫巫女をただの女にして、自分のものにしてしまえば、それで事足りる。本人はそういう意味で言ったんじゃないんだろうけど、「ぐうの音も出ないほど言い負かしてやる」っていうのは、言い換えれば、「自分がその気になれば、おまえのような小娘など、思いどおりにどうとでも出来る」って、センルはそう言ってるも同然なんだよな)
シンクノアはちらとミュシアのことを振り返ると、彼女が炒り麦を食べる姿を見て、少しばかり意地の悪い魔導士の肩を持ちたくなった。炒り麦というのは、生麦を鍋で炒った携帯用の食料だったが、彼女がそうしたものをちまちま食べて食事を終わらせようとするのを見るたびに――シンクノアは自分が豚の丸焼きを食べることに強い罪悪感を覚えるというより、良心に小さな針をちくりと刺されるような思いを味わった。
もちろん、ミュシア自身に悪気があるわけではなく、むしろ彼女はセンルや自分がたらふく食べることを望んでいるらしいということも、シンクノアにはよくわかっている。けれど、ミュシアが自分に何かの罰でも与えるように、あまりものを摂らないのを見るたびに、センルがだんだんイライラして議論を吹っかけはじめる気持ちが、シンクノアには理解できるようになっていた。
(まあ、簡単に言ってしまえば、もう少し世俗の力に負けて、薄汚れちまったほうが、人間生きやすくなるってことなんだけど……<姫巫女>っていうのはだからこそ、<姫巫女>っていう存在たりえるっていうことでもあるんだろうし)
「ミュシア、今日の夕食はニワトリのシチューとフルメンティにでもしようと思ってるけど、他に何かリクエストとかないか?」
「いえ、わたしは特に……ただ、センルさんのために、ロクムをいくつか買ってくるのはどうでしょうか?大通りの菓子店で売っているのを、ちらと見かけたものですから」
ロクムというのは、砂糖に澱粉とナッツを加えてつくられる菓子で、アーモンドやココナッツの産地として名高い、ロンディーガ生まれの有名なお菓子だった。このリムレアという町は、エシュタリオン街道を北西へ向かえば聖都ルシアスへ、南へ下ればロンディーガの砂漠へ出るという、言うなれば文明の十字路とも呼べる重要な町である。
ゆえに、センルがもしロンディーガ王国へ本気で戻りたいというのであれば――ここから南へ進路をとれば良いということでもあったろう。
「そうだな。ハーフエルフっていうのは、虫歯にならないのかどうか知らないけど、センルの奴、やたら甘いものが好きだもんな」
そう言って、シンクノアは窓敷居から下り、ミュシアのために紅茶を淹れてやることにした。
「いつもありがとうございます、シンクノア」
「いや、べつにどーってこともないけどさ、こんくらい」
シンクノアは自分の冷めたティーカップを取り上げると、それを啜りながらこう思う。
(自分は冷たい茶を飲んでも、相手には熱いお茶を、あるいは自分にはまずいものをあてがっても、相手には美味しい食事を与える……つーような関係が自然と成り立ってるってことが、俺たちの仲がうまくいってる理由なんですかね)
「どうかしましたか、シンクノア?」
長椅子の背中に片腕をかけ、もう一方の手では紅茶のカップを持つシンクノアに対し、ミュシアが微かに笑いかける。
「いや、べつになんでもねーけど」
と、笑いながら、シンクノアも炒り麦を少しばかり食べた。センルの財布にすっかり頼りきるようになってからは、随分豪勢な食生活が続いているが、シンクノアにとって以前は、こうした炒り麦、あるいはレンズ豆に少しばかりありつけるだけでも――十分に恵まれていると思わねばならない時代が長かったのだ。
そしてシンクノアは、いつものとおり、言葉数は少なくとも、互いに互いの存在を理解しあえているという喜びに近い感情をミュシアに対して感じる。これを一種の<癒し>というべきなのか、<和み>と呼ぶべきなのかは、シンクノア自身にもわからない。ただ、彼にとってミュシアというのは、守ってやりたい可愛い妹、あるいは魂の友のような存在なのであって、恋人という感じでは決してなかった。
(センルにとってもこの子はたぶん、少し前までは間違いなくそういう感じだったんだろうな。けど、それがちょっとしたことから恋愛感情になる分岐点っていうのがあって……以来、センルの頭の中じゃあ常にT字路にぶち当たってる感じなのかもな。右、姫巫女殿をハーフエルフとして騎士の如く守りとおし、歴史に名を残すという道、左、十六歳の年若い娘を、ただ自分のものだけにして、守りとおすという道……)
「そーいやさ、ミュシア。ミュシアの誕生日って十三月の最後の日なんだろ?このままいくと、年末年始を俺らはエシュタリオン街道のどっかにある宿場町で過ごすってことになりそうだけど……誕生日プレゼントとして欲しいものとか、何かないか?」
「いえ、別にこれといって特には……」
と言いかけて、ミュシアはティーカップをソーサーに戻すと、目の前の旅の仲間のことを、じっと見つめ返した。
「どーした、ミュシア?」
「あの、出来ればなんですけど……わたしの誕生日には、わたしや他の人々のために、お祈りをしてください。短い時間で構いません。これからわたしたちの聖竜の秘宝探索行がうまくいくことや、ナザレン施療院の人々が癒されることとか……他にも、なんでもいいです。それがわたしにとっての、一番の誕生日プレゼントですから」
「……………」
シンクノアは少しの間黙りこんでから、「わーったよ」と、軽い調子で答える。
「でも、センルに今と同じことを聞かれたら、祈ってくださいなんて言っちゃ絶対駄目だぜ?そんなこと言ったらセンル先生、こめかみの血管から血が吹きだすぞってくらい、怒り狂うかもしんねーから。それよりもっとこう……即物的なお願いのほうがいいと思うな。たとえば、螺鈿細工の筆入れが欲しいとか、鼈甲の櫛が欲しいとか、なんかそんな話」
「べつに、高価な筆入れや櫛などは、わたしには必要ありませんし……」
「んーと、だからさあ、センルが最近やたら怒りっぽいのは、ようするにミュシアちゃんが自分に素直に甘えてくれないからなわけ。男ってのは単純な生き物だから、ちょっと上目遣いに頼みごととかされるのに弱いわけよ。ま、そんなわけだから、もしセンルに欲しいものはないかって聞かれた場合に備えて――なんか適当にそれっぽいものでも考えておいたほうがいいかもな」
「えっと……」
よくわからない、というように首を傾げるミュシアに対し、(やれやれ)とシンクノアは溜息を着きたくなった。
(まったく、同情するぜ、センル先生。よくもまあ好きこのんで、こんな茨の道を……まあ、そのくらいハードルが高くなければ、そもそも恋なんてしようと思わないもんなのかな、ハーフエルフっていうのは)
錫メッキの鉢の中から、ロンディーガ産のバナナを取りあげると、シンクノアは皮を剥いてそれを食べた。シンクノアはミュシアとたった今した約束を、もちろん守るつもりでいた――けれど、神を呪って当然の身であるマゴクの自分が、存外あっさり<姫巫女>という存在を受け容れているのに対し、生まれつきあらゆる資質に恵まれたハーフエルフのほうが、むしろあらゆる文句を神に並べ立てている現況については、いささか奇異なものを感じなくもない。
(まあ、こいつも宗教教育の賜物ってやつかな。俺も自分の国を出てわかったことだけど……イツファロってのは、たぶん五王国の中で、一番目か二番目くらいに信仰心の厚い国民性を持ってるんだよな。そんで、一番信仰心の低いのがロンディーガ、その次が魔法技術の発達したカルディナル王国ってとこか。これから向かうミッテルレガントは、諸王国が聖都に侵入する入口に位置してるから、西の防衛を固めるために、「姫巫女の御身をお守りするため」っていうお題目を何千年も唱えてきたようなお国柄ってわけだ。センルの話によれば、あの<神葉樹の枝>さえあれば、大抵の病気は治っちまうらしいから、その点は心配いらないにしても……)
「<姫巫女>というのはもしかしたら、台風の目なのかもしれんな」と、そんなふうにセンルが洩らしていたのを思いだしながら、シンクノアはナイフで林檎の皮を剥きはじめた。他でもない<姫巫女>殿に栄養のあるものを食してもらうためである。
ここまで来る間に通った宿場町にあった、孤児院や救貧院といった場所へ、ミュシアは必ず訪れては<神葉樹の葉>の威力を確かめていた。いや、こうした物言いは自分やセンルのものであって、ミュシアはただ「神の御心に従ってその行為をなした」ということを、シンクノアは理解しているつもりではある。
(そしてこのまま、エシュタリオン街道沿いに<癒しの奇跡>のようなものが起き続けたとすれば、一体どんなことになるか……)
シンクノアは木皿の上に林檎を並べると、それをミュシアに勧めることにした。
「いつもありがとうございます、シンクノア」
「いえ、どういたしまして、お嬢さん」
もぐもぐと小さな口で、リスが反芻でもするようにミュシアが林檎を齧る姿を見ながら――(ここでもし、言葉以上の礼が欲しいって俺が言ったらどーなんのかな)と、シンクノアは苦笑とともに想像する。
自分にしてみたところで、イツファロ王国を出たのちの、艱難辛苦の七年という生活がなかったら、せいぜいが「その程度」の人間でしかなかったろうと、シンクノアは思わないでもない。そしてそうしたことを含め、聖書の言葉にもあるとおり、<神の言葉と計画は、完璧にして純粋>であることを、少しばかり認めないわけにいかなかった。
(もっとも、そのことが何より気に入らねーっていうセンルの気持ちも、俺にはすんごくよくわかっちゃったりするんだけどな)
そんなことを思いながら、シンクノアは今度は、シェイリーラというロンディーガのある限定された地域にしか生らない、白桃に似た果物の皮を剥きはじめる。
この美味なる果実を得るために、戦争すら起きたというくらいだから、目が覚めるほどに美味しいのかと思いきや――果実自体には、期待したほどの甘味がないことに、大抵の人は驚くに違いない。だが、ワインやシャンパンといった酒と組み合わせると、この白い果肉が舌の上でなんともいえない味わいを増すのである。
もちろん、ミュシアは巫女であり、彼女が<姫巫女>としての生涯をまっとうする以上、ミュシアが律法で禁じられている酒の味を知ることは決してないだろう。そして、センルがその誘惑の果実の味を彼女に教えてやりたいと思っていることに対し――シンクノアはなんともいえない物思いに耽りながら、シェイリーラの実に齧りついたのだった。
2
(ここは、一体どこだ……?)
リムレアにふたつある、町の大通りのひとつを南下していくと、遠くに砂煙の舞う砂漠の光景が見えはじめるようになる。センルは当然道に迷ったというわけではなく、自分の仮想敵である<神>に一通りの文句を並べているうちに、いつの間にか町外れまで来てしまっていたのだった。
『ディアトレドはわたしより、センルさんに懐いているみたいですから……もしセンルさんがミッテルレガント以外の場所へ行かれるのだとしても、そのままお連れくださって構いません』
センルはミュシアのその言葉を思いだすと、再びカッと怒りが身内に湧き上がるのを感じた。もちろん、自分がそんなことをするはずがないと、ミュシア自身もよくわかっていての発言ではあったろう。だが、そう思えばこそ、センルは二百何十歳も年下の小娘に、自分がいいようにされているように感じて――余計に腹が立つのであった。
とはいえ、町外れの街道の端へ辿り着くまでの間、このセンルの腹立ちが二度ほど収まった瞬間がある。エシュタリオン街道沿いの宿場町というのは、規模は違えど、大抵が大体似たような作りをしている。リムレアにある、もう一本の大通りをそのまま西へ突き進むと、おそらくあと十日ののちには、カルディナル王国とミッテルレガントを隔てる国境、オレガント峠を越えることになるだろう。
その峠越えがすむと、また宿場町の様子は若干雰囲気を変えるのだが――町は、レガント人に特有の、ある種の几帳面な趣きを添えるようになる――ここはまだカルディナル王国領であり、町の作りは碁盤の目のようなきっちりとした区画整理によって整えられてはいない。
三十キロと間をおかずに並ぶ、こうした宿場町に必ずあるのは、まずは当然のことながら旅籠屋、またそのすぐそばには大抵、軽食屋が並んでいる。他に、町の大通りにあるのは理髪店や雑貨屋、織物商、染物屋、鍛冶屋、靴職人や革なめし職人の店などだった。八百屋や肉屋、魚屋といった食料品店もあるが、こちらは行商人の立てる市に付属していて、朝早くに開き、品物がなくなり次第閉まってしまうことが多い。
あとは、その町、あるいは近郊にある町や村の特産品を扱う店が並んでいるといった具合だろうか。そして、ここリムレアはなんといっても煉瓦の町として有名な場所だった。町の中心には赤い煉瓦屋根の工場が何十となく建ち並び、窯の上げる煙が冬の寒空に向かってほぼ一日中たなびいていた。
リムレアという町の歴史は古く、エシュタリオン街道に敷かれている石畳や通りを分ける煉瓦の多くが、ここから産する煉瓦で賄われたと言われている。煉瓦工場を運営していくには当然、おそろしく膨大な木材が必要となるわけだが、今センルのいる、樹木がまばらに生えた地域も、その昔は緑なす大きな森だったらしい。
(まあ、歴史の長い時の流れの中で、ゆっくりとロンディーガの砂漠に飲みこまれつつあるといったところかな……)
カルディナル王国とロンディーガ王国の国境は漠然としており、アクラヴィム砂漠のはじまる地点あたりからが、ロンディーガの領地ということになるわけだが――近年、この砂漠が徐々にカルディナル王国の緑の大地を侵食するようになり、ロンディーガの領土が少しずつ広がりを見せはじめていることから、カルディナル王国の魔導士たちが砂漠を緑地化する呪文の開発に取り組んでいるらしい。だが、芳しい成果が上がったという報告を、センルはいまだ耳にしてはいない。
(なんにしても、町をぶらぶらしているうちに、あの小娘に対する苛立ちも少しは納まったし……そろそろ戻るとするか)
センルはディアトレドの首を軽く叩くと、彼に方向転換させて、元来た道を戻っていくことにした。センルの鞍袋の中には今、精緻な細工の漆塗りの箱がしまいこまれており、また他にターコイズブルーの大きな宝石が中央に嵌まった、銀細工の額飾りがしまってある。
ここ、リムレアは職人の町でもあり、漆塗りの技術や、金細工の技術が発達しているだけでなく、陶器の名匠が数多く住まう場所としても有名であった。センルは町の中央通りに並ぶ店で、そうした名工の品を順に見ていき、随分欲しいものがたくさんあったのだが――結局のところ、このふたつの品のみを購入することにしたのだった。
(ミュシアがもし「普通の娘」であったなら)と、その時にもセンルは思ったものだった。(ガラス細工の髪飾りのひとつでも、買っていってやるところなのだがな。だがあの娘は、そうしたものにはまるで興味がないようだから……)
センルは三百年生きているとはいえ、年若い娘の心理といったものに、さして詳しいというわけではない。それでも、「普通の娘」といったものは、自分の身を飾るものが好きだというくらいの、一般的知識ならばある。ミュシアがもし、本当はそうした品に心惹かれながらも、「律法によって禁じられているから」身を慎まなければならない……といった思考の持ち主なら、センルにも理解ができたろう。だが、彼には彼女の「そうしたことにまるで興味がない」という態度が、今ひとつよくわからないのだった。
(まあ、真鍮の櫛だのなんだの、あの娘が喜ばないものを買っても仕方がない。それより、この細長い大きな箱ならば、あの<神葉樹の枝>が収まってちょうどいいだろうし……あの娘の誕生日にでも、これはくれてやることにしよう)
それともうひとつ、ターコイズブルーの宝石が中央に嵌まった額飾りは、センルがディアトレドのために買ったものであった。次第に一角獣化しつつあるこの愛馬には、頭の真ん中に小さな角が生えてきていたが――この銀細工の額飾りは、それを隠すのにちょうどいい大きさをしていた。何より、宝石の中央が大きく窪んでいるので、今の状態の小さい角であれば、魔法なしでもこのサークレットで十分隠せそうだったのである。
(他にも、陶器で色々欲しいものはあったがな……まあ、そんな物を持って旅を続けるわけにもいかんし、とりあえず今は我慢するとしよう)
センルは町外れにある農家の脇に、鳩小屋があるのを目にすると、そこの主人に言って二羽ほど買いつけることにした。その鳩自身にも魔法をかけ、一羽はカルディナル王国の王都カーディルへ、もう一羽はロンディーガ王国の王都ロディーガへ向けて放つ。
鳩の細い足にはそれぞれ、小さな銀の書簡箱がくくりつけられており、その中には魔法によって文字を消された文書がそれぞれ、一通ずつしたためてあった。
その魔法文字を浮き上がらせる方法については、カルディナル王国のブリンク、エリメレクと、ロンディーガ王国の現国王、シグムント王しかわからぬことである。また、さらにミッテルレガント王国の第一王子にも、親切心からちょっとした密書を送る義務が、もしかしたらセンルにはあったのかもしれないが――彼はあえてその義務というのを怠ることにしていた。
ナザレン施療院ではおそらく、アスラン王子からの惜しみない支援を受けられるだろうことに対し、ミュシアがそうした王子の心遣いに感謝する場面などというのを、センルは想像してみたくもなかったという、そのせいだった。
3
センルが西から夕陽を背負うような形で<金の雄獅子亭>へ戻る帰り道――彼は、町の共用井戸で水汲みをしている女たちから、「そのうち煉瓦工場ではストライキが起きるだろう」という、不穏な噂を耳にした。
「いくらなんでも、十六時間働きっぱなしってのはねえ」
「うちの旦那もそれで、体を壊しちまってさあ。働けなくなった途端にお払い箱で、共用住宅からも追いだされちまった。一日中、ふいごを吹いたりなんだり、あんなのは普通の人間がまともに暮らせる環境なんかじゃないよ」
女たちのそうした噂話を耳にした時、センルの胸の内にまず浮かんだのは、なるべく早くこの町を後にしなければならないということだった。煉瓦工場では、軽く五~六百人の人間がそれぞれの持ち場で作業しているということだったし、そこでストライキが起きるとなれば、当然それは暴動ということになるだろう。そんな危険な場所に<姫巫女>――ミュシアのことを置いておくわけにはいかないと思ったからである。
(まあ、あの娘はそんなふうには考えないのだろうがな)と、センルは苦笑とともに考える。(労働環境を改善するために、監督官と話しあいをとかなんとか、そんなことを言いだすに違いない。ここリムレアの町の領主は確か、ごうつくなことで有名なクレイトン卿だったかな……領主自身が治めている町は、ここから三百エリオンほども離れているし、煉瓦工たちが決起して、監督官を血祭りに上げたところで――クレイトン卿のお膝元から鎮圧のための軍隊が派遣されてきて終わりっていうところだ。今の我々に、そんなくだらんことにかかずりあっている暇は……)
ない、と思いかけるのと同時、センルはこう考えもした。ミュシアが以前、姫巫女というのは目の前にいる苦しんでいる人のためにこそ働くべきだ……といった主旨のことを言っていたのを思いだしたのである。その論理でいくと、ナザレン施療院で苦しんでいる人々を待たせることと、過酷な労働条件の下で働く人々、どちらがより優先されるべきなのか、ミュシアの姫巫女としての意見を聞いてみたいような気がしたのである。
それからセンルはちょっとした好奇心から、煉瓦工場に付属している治療院のような場所へ赴くことにした。ミュシアがその場所を訪れる前に、先にそこを視察しておきたいような気がしたのである。その結果いかんによって、ミュシアのことを早くこの町から連れだすべきか否か、その判定をしようと考えてのことだった。
ところが、センルはそこで実に意外な光景を目にすることになる――というのは、人々が劣悪な環境下で働かされているというからには、治療院のほうも、不衛生極まりない、しみったれた建物の中に、まるで物のように患者が並べられているといった光景をセンルは想像していたからである。だが、そこは建物も立派なら、ベッドで横になる患者たちも、見るからこざっぱりとして清潔で、何より本人たちが満足げな様子だった。
「……………」
センルがあまりの意外さに、言葉を失っていると、アーチ型に煉瓦を積んだ建物の入口から、子供が何人か飛びだしてくる。
「うわっ!この白馬かっけえ!!」
「ねえ、お兄ちゃん、この馬名前なんてえの!?」
(脳味噌の足りない、クソガキどもが)と思いつつ、センルは下馬すると、鼻水を垂らした子供に忍耐強くこう答えてやった。
「この馬の名前はディアトレドだ。ところで、坊やたち。ここの治療院の管理責任者はどこにいる?」
楡の棒切れを手にしていた七歳くらいの子が、しきりに首を捻って答える。
「かんり、せきにん……?ねえ、兄ちゃん、それどういう意味!?」
センルは、他の年長らしき子たちが、自分の言った言葉の意味を説明してくれないかと期待してみたが――その場にいた六人の子どものうち、センルの言った「管理責任者」の意味を理解した子はひとりもいなかった。
「ようするに、この治療院で一番偉い人ってことだ」
「そんなら知ってる!!」男の子としか思えない顔立ちの、スカートをはいた子が、息せき切って答えた。「きっと、ターナおばさんのことだよ!!」
その女の子は、見たこともない綺麗な男の役に立てたことが嬉しくて、にこにこと顔をほころばせて笑っていた。ところが、すぐ横にいたハシバミ色の髪と瞳の少年が、彼女の頭を殴りつけたため――彼女はすぐに「うわーん!」と泣きだしてしまう。
(これだから、ガキは嫌いなんだ……)
センルはそう思いながらも、その五歳くらいの女の子を抱きあげて、建物の中を案内してもらうことにした。あとからぞろぞろと五人の子供がセンルの後ろに付き従う。
もちろん、センルにはわかっていた――ハシバミ色の瞳の少年は、おそらく自分こそが女の子の答えた言葉を言いたかったのだ。にも関わらず、先を越されたため、彼は突発的に彼女のことを殴ってしまったのだろう。
「んっとね、そっちの階段を上にあがってくと、ターナおばさんとマーラのお部屋があるの。オーガスおじさんは、最近具合が大分良くなってるけど……でもやっぱり、あんまりよくないかな。いつも「けほっ、けほっ!」って変な咳をするのよ。だから最近、えっと、かくりなんとか……」
「隔離病棟だよ」と、ハシバミ色の瞳の少年が答える。「うちの親父も今、そこにいるんだ。あれになったら一生誰も治らないって、みんな言ってる」
炭に汚れて黒い肌をした女の子が、センルの腕の中でまた泣きはじめた――まるで似ていないので気づかなかったが、ハシバミ色の髪の少年とこの女の子とは、どうやら兄妹なのらしい。
「案内してくれて、ありがとう。感謝する」
センルがまるで大人に対するように礼を述べると、子供たちは「わーっ!!」と叫び、今度はそれぞれの方向へ散っていった。
(まったく、なんなんだ)と、センルは思い、子供たちが廊下の柱の陰などから、なおもこちらの様子を窺う姿を見て、軽く溜息を着く。
(こういう場所へはやはり、シンクノアを連れてくるのだったな。あいつは、子供の扱いがうまいから……)
後悔しても今さら遅いと知りつつ、重厚なオークの扉をセンルはノックした。治療院の建物自体が立派なのは、煉瓦で出来ていることからして、当然のことと納得もしよう。だが、ここまでやってくるまでの間、どこの町にあった救貧院とも、この場所は赴きを異にしているとセンルは感じていた。一階の広い空間には、等間隔を置いて作りのしっかりとしたベッドが並び、プライバシーを守るためのカーテンすらきちんと引いてあった。
その他、琺瑯作りの洗面器や患者たちの着ている清潔な衣服など、ちらほらと目に入ってきたものすべてが、真新しいか、あるいは普通では考えられないほど、若干高価な品が使われていたといっていい。
(まったく、これまで我々が見てきたしみったれた救貧院や孤児院とは、雲泥の差だな)
センルはそんなことを思いつつ、奥の部屋からここの治療院の責任者が出てくるのを待った。そのターナという名の女性が、どういう女性なのか興味があったし、多額の資金を持った後援者が後ろについているかどうかについても、知っておきたいと思っていた。
(その答えいかんによって、ストライキの風向きも変わるだろうからな)
「はいはい、ちょいと待っておくれよ」
ドアの向こうから、若干がさつな感じの返事が返って来、センルは相手に対して過剰な期待をするのはよそうとふと思った。ミュシアのような考え方の持ち主というのは、地上に極めて稀なのであって、他の人間にも同じ資質を求めるのは、あまりに愚かというものだったからだ。
「あ、お母さん。今わたしが開けますわ」
何か書類の山のようなものがバサーッと落ちる音がしたのち、少しばかり優雅な声色の娘が、そう答えるのと同時――センルの前でドアが開いた。
「えっと、あの……ごめんなさい。どちら様でしたかしら?」
マーラは結婚しており、夫もいる身だったが、目の前の美丈夫に見ほれるあまり、顔を真っ赤にして、そう聞くのがやっとだった。
廊下の柱の陰のほうから、「マーラってば、案の定慌ててやがら!」といったような、小声の野次が飛ぶ。
「こらっ!!あんたたち、そろそろおうちにお帰んなさいっ!!」
途端、廊下のあちこちから、ぴゅーっと子供の影が現れ、一目散に階段を駆け下りていく音が聞こえる。
「まったくもう、あの子たちったら……あ、ごめんなさい。お見苦しいところをお見せしてしまって」
「いえ。子供というのはあのくらい叱ってやるのが、ちょうどいいものです」
(あら、声までわたし好み……)なんていうことをマーラが思っていると、部屋の奥のほうから「ウォッホン!!」と、白々しいような咳が二度繰り返される。
「そのお客さんには、さっさと中へ入ってもらいなさい、マーラ。で、一体クレイトン卿は次はどんな嫌がらせをわたしたちに用意してるんだろうね?美形の若い男を送りつけて、今度は監督官の妻のひとりを誘惑しようっていう腹かね?」
「お母さんたらっ!!」
マーラが真っ赤になって母親を諌めようとした。彼女はとっくに三十路を過ぎていたが、そばかす顔に垂れ目をしたマーラは、実際の年齢――三十六歳――より、ずっと若々しく見えた。髪はくせのある赤毛で、目尻の垂れた優しげな瞳の色は鳶色だった。
一方、彼女の母親のターナは、豊かな栗毛の髪をひっつめた髪型をしており、その昔は美人だったのだろうが、生活の苦労が顔に皺を刻むことで、徐々にその容色が衰えていったのだろうといったような顔立ちの女である。
このふたりは血の繋がった実の母子であったが、一見したところ、容姿も性格もあまり似ていないように、センルには感じられていた。
「私は、クレイトン卿とはまるで無縁のものですよ」
センルは濃紺のマントを脱ぐと、まるで自分は潔白であることを証明するように、その下の白いローブ姿を見せた。襟元を飾る、木の葉の形の銀のブローチや、宝石のついた帯留め、よくなめした革のブーツなどを見ても、彼が間違いなく富裕階級の人間であることがわかる。
「ただの通りすがりの旅の者にすぎませんが……ここの治療院の前を通りかかって、ふと不思議に思ったんです。大抵の町の救貧院のような場所は――うらぶれていて、奇妙な異臭を放ち、そこに長くいると健康な者まで病気になりそうな、そんな雰囲気を漂わせているものです。しかしながら、あなたが運営しているこの場所はまるで違うようにお見受けしました。そしてその理由が何故なのかを知りたかったんです……小耳に挟んだところによると、煉瓦工場では近く、ストライキが行われるそうですね。ということは、クレイトン卿と戦って勝てる目算が、労働者側にあると見ていいということですか?」
「さあ、どうだか」と、ターナは鼻を鳴らして答えた。彼女はマホガニー製の机の前で、書類の山に囲まれ、今にも窒息しそうだという顔をしている。
「旅の人ってことは、煉瓦作りの工程なんかを知ってるかどうかわからないけどね――煉瓦作りってのは、なかなかの重労働なんだよ。煉瓦に適した土をレムリア山の麓を流れる大河を渡って掘り出してさ、それをここまで運んで水にしめらせ、砂や切り藁なんかを入れて、型に入れたもんを窯で焼くわけだけど……最近、稼動効率が悪いとかなんとかいう理由で、第七工場と第八工場が閉鎖になった。そこに勤めてた工夫は、全員がクビさ。工場をクビになると当然、共用住居からも追っ払われる。でね、閉鎖になった第七工場と第八工場の窯を、うちの娘の旦那が買いとって、使わせてもらうことにしたんだよ。解雇になった人間たちは全員、再雇用してもらえただけじゃなく――一日に十六時間働かされるなんていう、馬鹿げた労働条件からも解放されることになった。病気になれば当然、ここの治療院で手厚く介護してもらえるし、ひとつの工場内で一夜にして天国と地獄が出現したってわけさね……ところが、嫌ったらしい工場長のオレインって奴が、自分の治める煉瓦工場の危機ってわけで、クレイトン卿に泣きついた。そこでどんな悪知恵を吹きこまれたか知らないけど、以来第七工場と第八工場では、流行り病いが一気に広がってね。証拠はなくても、あたしたちにはわかってる。この病原菌のもともとのものは、オレインの配下がばらまいたものに違いないってことがね」
「なるほど……それで、あなたは書類の山に埋もれて、このことを裁判にして勝つにはどうしたらいいかと頭を悩ませていたということですか?ですが、老婆心から言わせてもらうとするなら、ここの領地裁判の最高決定権を有しているのは、クレイトン卿その人ですよ。そういう意味では、裁判沙汰にしても、意味などまるでない……」
ターナは、眼鏡をかけて書類を読んでいた目を、長椅子に腰かけている若い男のほうへ向けた。暗くなってきたので、マーラがランプに火を燈す準備をはじめている。
「確かにそのとおりさね。けど、あたしが書類の山に囲まれてるのは、そんな裁判が理由じゃないんだよ。娘の旦那のオーガスが、第七工場と第八工場を不法に占拠したってことで逆に訴えられちまってね。他にも、流行り病いを発生させた管理不行き届きの罪とかなんとか……このまま黙ってたら、オーガスは冷たい牢屋の中で、病気で死んじまうことになるだろう。そうしないためにはどうしたらいいかってことを、あたしたちは寝ないで調べてるのさ」
「そうですか。では、クレイトン卿より上の人間――たとえば、カルディナル王国の国王から、このことに関して彼に厳命のようなものが下されたとすれば、一連の騒ぎも収束するということですね?」
「それは、そうだけど……」
この時になって初めて、ターナも娘のマーラも、今自分たちの目の前にいる男が何者なのかについて、ハッと思いを馳せた。確かに、旅の流れ者にしては、身なりが立派すぎるとはいえ、カルディナル王国の王宮、あるいは王庁舎に出入りできる人間となると――貴族か相当に身分の高い魔導士のいずれかに違いなかった。
「わかりました。そのように、カルディナル王国の王には……いえ、私の直接の知り合いは、カルディナル王国のブリンクですがね。彼に少しばかり口を利いてもらうということにします。それでは」
来た時と同じように、センルが風のようにドアをすり抜けて出ていこうとするのを、マーラが必死になって止めた。ターナもまた、椅子から立ち上がり、書類の山を踏み分けるようにしてこちらへやって来る。
「ほ、本当に夫のオーガスは、助かるんでしょうかっ!?」
「名前も存知あげませんが、あなた様はわたくしどもの命の恩人ですっ。せめても今夜は、うちへ来て食事をしていってくださいませっ!!」
(やれやれ。話はすでについたというのに、鬱陶しいな)
そう思いながらも、センルにはふたりの婦人の気持ちがわからないでもなかった。そこで、自分には他に連れがいるから、明日の夜にでもあらためて夕食に招待してもらいたいと申し出ることにする。
それでもターナは、旅籠から出て、今晩のうちにでも屋敷へ泊まりにこいと、しつこく食い下がった。まるでこの場でセンルのことを逃がしたら、幸運の神が逃げていくとでもいうように、彼のマントの裾をなかなか離そうとしない。
センルにしても、彼女の気持ちがわかるだけに、自分が必ず約束を履行するということを、何度も繰り返し言って聞かせなくてはならなかった。
「いえね、以前にもまったく似たことがあったんですよ……その娘は夜に、まばゆく光る輝きに照らされながら、うちにやって来たんです。その頃わたしは、最低な貧乏生活を送っていて、そこから抜けだす術もありませんでした。落ち穂拾いをしてどうにかこうにか自分の口だけを養うといったような具合で……今にして思うと、あの娘は神の使いだったんでしょうねえ。二日くらい世話をしてやったというそれだけなのに、あくる朝、わたしが目を覚ましたら、信じられない量の金貨が、テーブルの上に置いてあって……周囲の森を探しても、その娘の姿が見当たらないことがわかると、わたしはすぐ山の中の掘っ立て小屋を整理して、娘のいる煉瓦町へ向かうことにしたんです。義理の息子のオーガスに、工場を買わせた金も、元はその娘がわたしに置いていったものでした。でも、事態が複雑な雲行きになっていくにつれて、わたしは不信心にも最近、こう思いはじめていたんです。そもそもそんな大金がなければ、娘も義理の息子も、こんなに苦しまなくてすんだのかもしれないって……」
「お母さん、そのことはもう……」
目の前で泣き崩れる母親のことを、娘のマーラが受けとめる。
「お母さんのお金でわたしたち、立派なお屋敷も建てられて、随分幸せになったわ。幸福はあざなえる縄の如しって言うでしょ。辛抱して待っていれば、ほら、今みたいにまた幸福の使者のような人が現れて、救ってくださるものなのよ。これもきっと、神さまの思し召しだわ」
「……………」
センルとしては、複雑な物思いにならざるを得なかったが、それ以上に今は、ターナの話してくれた身の上話に驚かされていた。何故といって、これによく似た話を、センルはミュシアの口から聞いたことがあったからだ。
『ルシア神殿から秘密の地下道を通って、自分のいる場所がどこなのかもわからず途方に暮れていた時――山の中で一軒の家を見つけて、そこに住んでいる人のお世話になりました。そこのおばあさんがとても親切にしてくださって……そのお礼に、背負い袋の中に入っていた金貨はすべて、そのおばあさんの家に置いてきました。あとは装身具や宝石類を売ったりしてどうにかやって来たんですけど、残金がとうとう1レーテルちょっとしかなくなった時に、センルさんとシンクノアに出会ったんです』
その話を聞いた時――(まったく、救いようのない馬鹿な娘だ)と、センルは口に出さないまでも、つくづくそう思ったものだった。大金が手に入ると人は変わるというのは、よく聞く言葉である。だが、このターナという女性は、自分が貧しさの極地にあったその経験を忘れず、かつての自分と同じ境遇にある人を助けるために、治療院の運営を思いついたに違いなかった。
(やれやれ。ぐうの音も出ないほど、黙らされたのは、実は私のほうか……)
ターナとマーラから、あまりにしつこく泊まっている宿の名を聞かれたために、センルは<金の雄獅子亭>の名を、ふたりに教えないわけにはいかなかった。そして旅籠へ戻る途中、南東の方角に蒼い尾を引く隕石がいくつも地上へ降り注ぐ姿を眺めながら――やはり自分は、神にとって都合のいい駒のような存在にすぎないのかと考える。
ターナとマーラに出会った瞬間、センルが彼女たちを助けようと思ったのには、理由がいくつかあった。何しろ、センルはすでに三百年も生きているため、人間を見る目にかけてはかなりのところ自信がある。その鑑識眼を通して見ても、ターナとマーラがともに善良な人間であり、さらにはその善良さゆえに困った事態に陥っているというのは、短い言葉の説明だけで、センルにもよく理解できた。また同時に、センルの気を惹いたことの内に、事態の複雑性といったことがあったかもしれない。つまり、一度は閉鎖した場所であったにせよ、同じ敷地内にある工場の工員に思い知らせるため、わざわざ病原菌を送りこむなどとは、普通は誰も考えつかないことであろう。つまりは、ずる賢くねじれた暗い心を持つ何者かが、そのようなことを思いついたということだ。センルには、そうした者を野放しにはしておけない気がした。戦争中、相手の敵地に病原菌の元となるものを送りこみ、剣の刃で死ぬより苦しい思いを敵陣の兵に味わわせたという話なら、センルも聞いたことがある……だが、それと同じように卑劣で汚いやり口に、センルとしては我慢がならなかったのだ。
(まあ、例の竜騎兵団と飛空艇に対抗できる手段を思いついた者には百万デナリオン――という触れが、カルディナル王国にはあったからな。その金の受け取りを拒否するかわりに、クレイトン卿に圧力をかけることくらい、カルディナル王国の現国王には大したことではないだろう。先ほど、エリメレク殿宛てに鳩を飛ばしてしまったばかりだから……今夜のうちにもまた密書をしたためて、明日の朝一番にでも、鷲かハヤブサ、あるいはノスリでも見つけて、その文書を送るということにするか)
センルは<金の雄獅子亭>に付属している馬小屋にディアトレドのことを入れると、彼に水と燕麦をたっぷり与えたあとで――二階の、自分の仮の住居へと上がっていった。<金の雄獅子亭>の一階はカウンター付きの居酒屋となっているので、楽の音とともに人々のがやがやいう陽気な笑い声が、階段をのぼるセンルの背中についてくる……これと似た光景をセンルは何度となく目にしてきた気がするし、<今日>という日があえて特別だとも思わない。
だが、その日はセンルにとって、確かに何かがいつもとは違っていた。夜の闇を照らす光が、なんとまばゆく光り輝き、美しく見えることだろう。そしてそれが何故なのかと、不思議に思いながら、部屋のドアを開けたところで――センルにはその理由が突然はっきりとわかった気がした。
「あ、おかえりなさい。センルさん」
昼間した、ちょっとした言い争いのことなど忘れているように、ミュシアが長椅子から振り返り、センルに向かって微笑む。ドアを開け、実際に彼女の姿を見る前までは、<姫巫女>を喜ばせるニュースを自分が持っているのを教えるのが――センルは少し癪なような気がしていた。
けれど今は、彼女がターナのことを聞いて喜ぶだろうことが、ただ純粋に嬉しい。シンクノアが夕食の仕度を整えるのを待つ間、センルは錫メッキの鉢からロクムをひとつ取って食べ、ミュシアに例の話を順を追って聞かせてやることにした。
「本当ですか、センルさん……!!」
嬉しさのあまりか、ミュシアは途中から、食事も喉を通らない様子だった。
「ああ。おまえがおばあさんという言い方をしていたから、てっきり私はしわくちゃの老婆だったのかと想像していたが……本人はターナおばさんと呼ばれていたぞ。だがまあ、ターナという名前と、おまえの話に符号する点から見て――おそらく同一人物と見て、間違いなかろう。あのあと彼女は、おまえが置いていった金で、娘と義理の息子がいる家に身を寄せて、一緒に暮らすことにしたそうだ。だがまあ、おまえの置いていった金は、天から降ってわいたも同然のものだから、せめても神が喜ぶようなことのために使おうと思ったんだろうな。それで、リムレア治療院をはじめたということだったが……あの場所には、ナザレン施療院でも役立てることの出来そうな工夫がいくつもあるように思った。ミュシア、おまえも一度、あのおばさんに会いがてら、見学――」
(してくるといい)と言いかけたセンルの言葉は、喉の奥にしまいこまれたままになった。何故といって、ミュシアが隣に座るセンルの首に抱きついてきたからだった。
「センルさん、ごめんなさいっ!!ここのところ、生意気なことばかり言って……センルさんはきちんと、わたしのことも色々考えてくださってたのに……」
「いや、べつに……」
(私はおまえのことなど)と言いかけて、やはりセンルにはその続きを言葉に出来なかった。そしてはっきりと自覚する。この娘にとって自分は、単に尊敬できる「父親」のような存在でしかないのではないかと……。
「おい、ミュシア。食事の途中でどこへ行くつもりだ?」
「すみません。あんまり嬉しくって、胸がいっぱいで……神さまにこのことを先にご報告しなくちゃと思って」
そう言い残して、ミュシアは隣の続き部屋となっている寝室に、ひとりで籠もってしまった。あとには、お玉で暖炉の中の鍋をかきまわす男と、呆然たる様子の魔導士がひとり残される。
「まったく、あの娘ときたら……」
「俺としても、食事はなるべく早く終えてほしーんですけどね。ここの暖炉は高さがあまりなくって、火が強すぎるっつーか。だからシチューが鍋にすぐひっついちまうんですわ」
「……シンクノア、今おまえ「ざまーみろ!」とか思ってるだろう?」
パンにシチューにフルメンティ、それにハーブソーセージという夕食を取りながら、シンクノアが芝居がかった様子で首を竦めてみせる。
「俺が?ざまーみろ?一体また何ゆえに?」
さっぱりわからない、というように、お玉を手にしたまま、シンクノアは両の手のひらを天に向けている。
「私が神に対し、一敗地にまみれているというだけでなく――その状況に満足すら見出しているらしい、ということに対してだ」
「まあ、そいつは確かにね~。けどまあ、俺の中の感覚としては「ざまーみろ!」っていう感じじゃないな。むしろこれで良かったっていうかさ。「めでたし、めでたし」みたいな、そんな感じ?」
「なんにしても、そのことは別として、他のことでは喜ぶといい。明日の夕食はターナとマーラの屋敷に招かれているからな。食事作りの労からは、とりあえず解放されるぞ」
「あ、そーなんスか。でも俺、前にも言ったかもしんねーけど、べつに食事作ったりするのが面倒だって思ったことは特にないんだぜ?なんでって、メシの種にありつけない日々っていうのが長く続いてくれちゃったお陰で、なんつーか、毎日普通にごはん食べられるってだけで、神さまに感謝っつーかな」
シンクノアがわざと、自分の気に障る物言いをしていると気づき、センルはあからさまにムッとした顔をしている。
「まあ、実際あの子は大したもんだと思うぜ、センル先生。あんたが出かけてから、隣の部屋に籠もって、四~五時間はお祈りなんていうのをしてたわけだし……センル、あんたならたぶん、「神が全知全能であるなら、おまえがわざわざ報告するまでもなく、すべてのことをすでに知っているだろう」なんて思うんだろうけど、その祈りの中には自分のことも含まれてるって、考えたことないか?つまりはさ、「どうか神さま、センルさんが戻ってきたら機嫌を直してくれてますように」とか、そういうこと」
「……………」
センルは内心、チッと舌打ちしたくなったが、シンクノアの作った鶏肉のシチューが美味しかったため、その味に免じて自分の怒りを抑えることにした。だが、大体のところ食事を終えたあとも、ミュシアが寝室から出てこなかったので――シンクノアがホテルの階下にある台所まで、鍋を洗いにいっている間、そっと彼女の部屋の様子を窺った。
祈りに没頭するあまり、自分の「ミュシア?」と名前を呼ぶ声が聴こえていないのかとセンルは思ったが、そのうちにある疑い――彼女が眠っているのではないか、との――がわいてきて、思いきってドアを開ける。
そこでは思ったとおり、ミュシアが手を組みあわせたまま、ベッドの端に半分体をもたせかけている姿があった。
「まったく、困った娘だ」
自分が体を持ち上げると、かえって目の覚める恐れがあるため、センルはミュシアに浮遊魔法をかけると、布団の上掛けを剥ぐ間、彼女のことを空中に浮かせておき、それからベッドの上へ、そっと静かにミュシアのことを横たえた。
あともう何日かで、十七歳になる娘のことを見下ろしながら、センルはふと不思議な物思いに囚われそうになる……それは、自分が十七歳くらいの頃には、一体どうしていたろうかということだった。もっとも、人間の時間に換算して、約八十年ほどの時期をセンルはエルフ界で過ごしているので、その頃の十七歳の自分というのは、まったく屈託のないものだったと、センルはそう述懐する。そのせいなのかどうか、ミュシアくらいの年齢の娘というのは、同じようになんの悩みもなく過ごすべきではないのかとの思いが、センルには強い。
噂によると、ここの煉瓦工場では、子供は六歳にもなれば、手にシャベルやつるはし、ハンマーなどを持って、レムリア山に粘土質の土を掘りに行かされるということだったが――その労働の賃金は、共用住居等の費用を差し引かれると、雀の涙程度しか残らないという話だった。センルが昼間出会った子供たちというのも、親が煉瓦工場で働き、また自分たちもその手伝いをしているといった具合なのだろうと、そうセンルは想像する。
(おまえがどんなに祈ったところで、この世の中から苦しみといったものが、人間の元から完全に去るということはないんだぞ……?)
ここのところは、特にこれといって大きな問題もなく時が過ぎているが、聖書に記されている千年前、あるいは三千年前の姫巫女の探索行を読む限り――再び何か大きな事件が起き、ミュシアが深く心を悩ませる結果になるだろうことが、センルにはわかっていた。
ゆえに、せめても休める時には休み、心を思いきり解放させるべきなのだ。自分にしても彼女に対し、無駄に突っかかったりすることなく、もっと優しく接してやるべきなのだろうとはセンル自身も思いはする。けれど……。
(何故なんだろうな。おまえと顔を合わせて話をしていると、どうしてもつい、<神>とやらを糾弾する方向へ話が向かってしまう。だが、おまえには理解できないだろう。おまえを苦しめるものがもし<神>本人であったとしたら――おまえの愛する神とやらを憎みたいと感じる私の気持ちなどは……)
センルはミュシアの額にかかる前髪を撫でて左右に分けると、そこにエルフとしての祝福を与えるために、そっと口接けた。<姫巫女>は神に捧げられた存在であり、どんな人間の男のものになることも決してない。そこにどこか歪んだ喜びを感じている自分がいることに、センルはとうの昔に気づいていた。